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消された和銅五年(七一二)の「九州王朝討伐戦」

2024.12.03 13:48

https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho176/kai17601.html 【消された和銅五年(七一二)の「九州王朝討伐戦」】より

川西市 正木裕

一、『旧唐書』に記す「王朝交代」

 『旧唐書』では、我が国には「倭国」と「日本国」の二国があったが、八世紀初頭に「倭国(九州王朝)」が「日本国(大和朝廷)」に併合されたと記し、これは我が国の「王朝交代」を示している(注1)。

 しかし、大和朝廷が編纂した『日本書紀』では、我が国は神武(神日本磐余彦)以来、一貫してヤマトの王家(『書紀』では天皇家)が統治してきたと記し、七世紀末の文武即位以降を記す『続日本紀』にも「王朝交代」を直接示す記事は無い。

 ただ、大和朝廷は七〇一年に律令を制定し、地方統治制度に「郡制」を創設、「大宝」年号を「建元」した。これに伴い、それ以前の「評制」が廃止され、約一八〇年続いてきた九州年号も、七〇〇年の大化六年を以て姿を消す(注2)。全国統治制度や年号制定は、その国の代表者(王朝)の専権であるところ、「評制」も「九州年号」も『書紀』には記されないことは、大和朝廷以前の王朝の存在を確実に示していると言えよう。

 本稿では、『続日本紀』に記す「隼人討伐」記事から、「王朝交代」の存在と、その経緯の一部を明らかにしていきたい。

二、隠された「隼人討伐戦」

1、『続日本紀』七一三年の「隼人討伐戦の恩賞授与」記事

 『続日本紀』(以下『続紀』)の和銅六年(七一三)七月記事に隼人討伐戦で功績を挙げた多数の将軍・兵士に恩賞が与えられた記事がある。

◆『続紀』和銅六年(七一三)秋七月丙寅(五日)、詔して曰はく、「授くるに勲級を以てするは、本、功有るに拠る。若し優異せずは、何を以てか勧獎すすめむ。今、隼はやひとの賊あたを討つ将軍、并せて士卒等、戦陣に功有る者一千二百八十余人に、並びに労に随ひて勲を授くべし」とのたまふ。

 そして、これに先立つ同年四月に、「隼人」の領域に大隅国が置かれている。

◆四月乙未(三日)、(略)日向国の肝坏きもつき、贈於そお、大隅、姶羅あひらの四郡を割きて、始めて大隅国を置く。

 大隅国は、「隼人」討伐戦の勝利後に、諸手続きを経て設置されたことは、後述(3、七一二年の「官軍雷撃、凶賊霧消」記事)の「蝦夷討伐戦とその後の『出羽国』設置の経緯」から見ても確実だ。従って大隅国設置が七一三年四月なら、討伐戦は七一二年中の出来事と考えられよう。ところが、「恩賞記事」はあっても、肝心の「隼人討伐戦」そのものの記事がない。これはまことに不自然なことといえる。

2、万葉歌に残る七一二年の隼人討伐戦

 ただ、『続紀』には記されないが、七一二年に隼人討伐戦が遂行されたことが、万葉歌でわかる。

 万葉二四五番ほかの長田王(注3)の一連の歌には、長田王が筑紫に派遣され、肥後水島に渡り薩摩の瀬戸を渡ったことが記されている。

◆長田王、筑紫に遣され水嶋に渡る時の歌二首

(二四五)聞きしごとまこと尊くくすしくも神さびをるかこれの水島。

 「水島」は、異論もあるが熊本県八代市の球磨川河口付近にある小島とされ、『書紀』には、景行天皇の九州一円巡行で立ち寄った際に、冷水が湧き景行に献上されたのがその名の由来と記す。『肥後国風土記』(逸文)に、「風土記云、球磨県 乾七里、海中有嶋 積可七十里 名曰水嶋 嶋出寒水 遂潮高下云々」

とある。

◆(二四六)芦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ。

 「芦北の野坂の浦」は熊本県葦北郡芦北町田浦、または芦北町計石とされる。いずれも水島の南方だから、北に向けての航海で、薩摩からの帰路の歌となる。

「芦北の野坂の浦」 熊本県葦北郡芦北町田浦

◆(二四八)(又長田王作歌一首)隼人の薩摩の瀬戸を雲居なす遠くも我れは今日見つるかも。「薩摩の瀬戸」は阿久根市と長嶋町の間の「黒の瀬戸」とされ、海流の早いことで知られる。さらに、題詞で長田王が「伊勢斎宮へ派遣された時の歌」とされる、万葉八十一番以下の歌は、歌中の「山辺の御井」や「龍田山」の所在から、本来「薩摩派遣」の歌であり、それは七一二年のことだったのがわかる。

◆和銅五年壬子(七一二)四月長田王伊勢齋宮に遣しし時、山辺御井に作る歌。

(八十一)山辺の御井を見がてり神風の伊勢娘子をとめどもあひ見つるかも。

(八十二)うらさぶる心さまねし(*重なる、次々とうかぶ)ひさかたの天のしぐれの流らふ見れば。

(八十三)海の底沖つ白波龍田山いつか越えなむ妹があたり見む

 右二首今案ずるに御井にて作る所に似ず。若疑けだし當時誦われし古歌か。

 これらは、「題詞」では三重の伊勢神宮に行った時の歌の様に記されるが、左注にあるように「伊勢の御井」にはあわない。この点、万葉学者の中西進も次の様に述べている。

◆山の辺の御井は斎宮にあるのではない。御井を見ることを主とし、その上に伊勢少女に会ったという、ふしぎな一首である。古歌を口ずさんだか、それこそ九州派遣の折の歌か、である。もし後者なら、いかにも心細そうな口ぶりも理解できるし、上にあげた(*二四五~二四八の)九州の歌と脈絡がつき、歌の空虚感もよく理解できる。(中西進が語る「魅力の深層」)

 本居宣長が伊勢で「山辺の御井」を探したが、適切な所在が見つからなかったことは『玉勝間』からも読み取ることが出来、そうしたこともあり中西氏は「九州派遣の折の歌」との疑を抱いたのだと思われる。そもそも「龍田山」は大和平野の北西にあり、飛鳥・藤原から「三重の伊勢」に向かう方向と逆だ。しかも伊勢へは「陸路」で歌の内容と合わない。

 そして、筑紫怡土平野の西部の加布里湾かぶりわんには「伊勢(伊勢が浦・伊勢田など)」があり、高祖山山麓の神功が必勝祈願したという「染井の井戸」も名高い(注4)。水島・葦北・隼人瀬戸は有明海から不知火海に抜ける航路にあり、その途上に「龍田山(熊本市立田山・地名は龍田)」もある。つまり、長田王の一連の歌は、和銅五年(七一二)に筑紫に派遣され、怡土平野で必勝祈願を行った後、肥後から薩摩に隼人討伐に向かった際の歌だと考えられる。中西氏の疑いは正しかったのだ。

3、七一二年の「官軍雷撃、凶賊霧消」記事

 前述のとおり、七一二年の「隼人討伐戦の詳細」は、大和朝廷の史書『続日本紀』には記されない。その「かわり」に「官軍雷撃、凶賊霧消」・「蝦夷討伐」記事と出羽国設置の論奏が記されている。

◆『続紀』和銅五年(七一二)九月(略)己丑(二十三日)に、太政官議奏して曰さく、「国を建て疆さかひを辟ひらくことは、武功の貴ぶところなり。官を設け民を撫づることは、文教の崇ぶるところなり。其の北道の蝦狄、遠く阻険を憑たのみて、実に狂心を縦ひしきまにまにし、屡しばしば辺境を驚かす。官軍雷のごとくに撃ちしより、凶賊霧のごとくに消え、狄部晏然あんぜんにして、皇民擾わずらはしきことなし。誠に望まくは、便たよりに時機に乗り、遂に一国を置きて、式もちて司宰を樹たて、永く百姓を鎮めむことを」

とまうす。奏するに可としたまふ。是に、始めて出羽国を置く。

 ここで「官軍雷のごとくに撃ちしにより、凶賊霧のごとくに消え」とあるが、「蝦夷討伐戦」が行われたのは三年も前の和銅二年(七〇九)だ。

◆『続紀』和銅二年(七〇九)三月(略)壬戌(六日)、陸奧、越後二国の蝦夷、野心ありて馴れ難く、屢しばしば良民を害す。是に、遣を使して遠江、駿河、甲斐、信濃、上野、越前、越中等の国を徵発す。左大辨正四位下巨勢朝臣麻呂を、陸奧鎮東将軍とす。民部大輔正五位下佐伯宿禰石湯を、征越後蝦夷将軍、內藏頭従五位下紀朝臣諸人を副将軍とす。両道より出て征伐す。因りて節刀に并せて軍令を授く。(*彼らは八月に討伐を終えて帰還し、九月に恩賞を授かっている)

 出羽国設置が七一二年のこととしても、今更「官軍雷撃、凶賊霧消」を強調するのは、「時機に乗る」記述とはいえない。そして、この記事は七〇九年の「蝦夷の討伐」の経緯・顛末を改めて想起させることになる。

 つまり、大和朝廷は、三年前(七〇九)の「蝦夷討伐」記事を、わざわざ七一二年に置き、同年の「隼人討伐」と「二重写し」にし、かつ「官軍雷撃、凶賊霧消」を強調して、言外に「隼人も蝦夷同様の、狂心をほしいままにし、良民を苦しめる凶賊」だと思わせたのだ。

4、『続紀』は「大隅国設置手続き」や「征隼人将軍等の名」を欠く

 また、「国郡の廃置」は公式令くしきりょう三項「論奏式」で太政官の論奏(「議奏」とも。太政官が発議・決定した事項に対して、天皇に裁可を求める際の書式)によるとされているが、「出羽国設置」にある論奏が「大隅国設置」にはない。

 さらに「蝦夷討伐」には将軍の名が記されているが、「隼人討伐」には記されず、恩賞を授かった者の名もない。

 こうした『続紀』のありようは、本来「隼人討伐」には大義がなく、正当な手続きも経ず、恩賞に名を記すのが「後ろめたい」ような戦いだったことを表しているのではないか。

5、不自然な「天下大赦」と諸国の税免除

 しかも和銅五年九月に「天下大赦」と諸国の税免除記事がある。その理由が「子年は稔がよくないのに、今年はよく稔った。しかも黒狐が献上されたのは上瑞で『王者の治、太平を致せば見る』からだ」というのだ。

◆和銅五年(七一二)九月己巳(三日)(略)又詔して曰はく「朕聞かく、旧老相伝へて云はく、『子の年は穀実みのり宜よからず』といふ」ときく。而るに天地祐を垂れて、今茲ここに大きに稔れり。古の賢王言ひしこと有り。「祥瑞の美も、豊年に加ふることなし」とのたまへり。況や復、伊賀国司阿直敬あじきらが献る黒狐は、上瑞に合へり。其の文に云はく、「王者の治、太平を致せば則ち見あらはる」といへり。衆庶とこの歓慶よろこびを共にせむことを思ふ。天下に大赦すべし。(略)また、天下の諸国の今年の田租・併せて大和・河内・山背の三国の調は並びに原免ゆるす」とのたまふ。

 「今茲に大きに稔れり(豊作)」とするが、直前八月庚子(三日)の条に「諸国の郡稲乏少ぐんたうばふせふにして、給ひ用ゐる日、廃闕を致すことあり」とある。「郡稲」は出挙用で、春なら種籾用だろうが、旧暦八月なら百姓の救済目的か、「利稲(利子)」返済が滞ることによる郡稲不足への対応と考えられ、いずれも「豊作」と矛盾する。

 黒狐がもたらす「王者治、致太平」が具体的に何をさすのか不明確だし、「子年うんぬん」は大規模な特赦の根拠としては薄弱としか言いようがない。「天下大赦」と諸国の税免除の「真の理由」は、「隼人=九州王朝(注5)を滅ぼした事」だったが「カット」されたと考えられる。このことは、後述の様に大宝二年(七〇二)の隼人討伐後に「天下大赦」が記されていることからも明らかだ。

三、大義なき隼人(九州王朝)討伐

1、『書紀』大化二年の皇太子奏請条

 それでは、『続日本紀』はなぜ隼人(九州王朝)討伐の経緯を、このように隠さねばならなかったのか。

 先に「大義なき戦い」と述べたが、『書紀』大化二年(六四六)三月壬午(二〇日)の改新詔に「皇太子(中大兄とされる)が天皇(孝徳とされる)に自らの膨大な資産を献上した記事」(皇太子奏請条とされる)がある。

◆(前文)「昔在むかしの天皇等の世には、天下を混まろかし斉にとしめて治めたまふ。今に及逮およびては、分れ離れて業を失う。国の業を謂ふ。天皇我が皇、万民を牧やしなふべき運みよに属あたりて、天も人も合応こたへて、厥その政惟新これなり。是の故に、慶び尊びて、頂に戴きて伏奏かしこまりまうす。

①(下問)現為明神御八嶋国天皇かきつみかみとやしまぐににしらすすめらみこと、臣(*皇太子)に問ひて曰はく、「其れ群もろもろの臣・連及伴造・国造の所有たもてる、昔在むかしの天皇の日に置ける子代入部、皇子等の私に有てる御名入部、皇祖大兄の御名入部彦人大兄を謂ふ。及び其の屯倉、猶古代むかしの如くにして、置かむや不いなや」。(「昔の天皇が認めた、皇族や臣下の部民〈私有民〉やその経営のための所領をそのままにしていいか?」)。

②(奉答)臣、即ち恭みて詔する所を承りて、奉答而曰さく、「天に双ふたつの日無し。国に二ふたりの王無し。是の故に、天下を兼并かねあはせて、万民を使ひたまふべきところは、唯天皇ならくのみ。別に入部及び所封よさせる民を以て、仕丁に簡えらび充てむこと、前の処分ことわりに従はむ。自余これより以外ほかは、私に駈役つかはむことを恐る。故、入部五百二十四口屯倉一百八十一所を献る」とまうす。

 「現為明神御八嶋国天皇」という呼称が「七世紀前半に使われていた蓋然性は乏しい」とされるが(注6)、もしこの記事が六四六年ならば天皇は「孝徳」で、皇太子は「中大兄(天智)」となる。

 しかし、入部が「仕丁」の意味なら、五十戸(若しくは「三十戸」)で一人の出仕だから、五百二十四口は約二万五千戸分だ。また、『古事記』『書紀』中に出現する具体名の記された「屯倉」は約六十箇所だから、屯倉一百八十一所は事実上全国規模にあたる。そして、その領域を中央政権が「直接支配」していなければ「献上(事実上接収)」できないのは自明だ。中央政権による地方の直接支配制度が「評制」であり、その時期は『常陸国風土記』などから六四九年ごろであることが明らかになっている。それ以前の六四六年に、これを中大兄が所有し献上することが可能だとは考え難いし、そもそも「皇太子が天皇に献上する」意味が不明だ。

 もしこの記事が九州年号「大化二年(六九六)」から移されたなら「天皇」は持統、「皇太子」は高市皇子だ。そして、「昔の天皇」は評制を敷き全国統治をしていた「九州王朝の天皇」となる。

2、「高市皇子」は九州王朝系の皇子

 高市皇子は、母が宗像の君徳善の娘尼子姫で、九州王朝の血を継いでいる。皇子は「壬申の乱」の際に、美濃国の兵三千人・尾張の兵二万人など、計二万数千の兵を掌握・指揮した。これは「白村江の戦」と同規模であり、白村江を遂行した権力(九州王朝)による動員と考えられえよう。そして、戦犯の懲罰や論功行賞も高市皇子が行っている。つまり、高市皇子は、「九州王朝側の最高司令官」として壬申の乱に勝利したことになる。

 従って、皇太子奏請が九州年号大化二年(六九六)であれば、持統の問いに、高市皇子は九州王朝の血統を代表して、「我が国の支配者はヤマトの天皇一人なので前の処分(一定の範囲)以外は所有しない。そのため部民五百二十四人、屯倉一百八十一か所を献上する」と答えたことになる。

 つまり『書紀』大化二年(六四六)の皇太子奏請条は、九州年号大化二年(六九六)の、倭国(九州王朝)からヤマトの天皇家(『旧唐書』にいう「日本国」)の持統への、「天皇家(日本国)の一元統治を認め、人民・資産の天皇家への移譲を承諾する」意思表示、つまり「禅譲の意思表示」だと考えられよう。

 そして移譲するのは「前の処分以外」とあるから、倭国(九州王朝)には一定の領地・支配権が承認されたことになる。いわば「本領安堵の沙汰」で、具体的には本拠たる西海道・九州がそれにあたる可能性が高い。

 これを証するように、飛鳥・藤原木簡から七〇〇年以前は西海道諸国から飛鳥へは税・物資や仕丁は送られていないことが明らかになっている(注7)。

3、破られた「禅譲の約束」

 ところが、大和朝廷は、「舌の根も乾かない」七〇〇年には肥後・薩摩に律令を施行しようとして、薩末比売(注8)らの抵抗をうける。

◆文武四年(七〇〇)六月庚辰(三日)薩末比売、久売くめ、波豆はず、衣評督衣君県えのこほりのかみ、助督すけ衣君弖自美てじみ、又肝衝難波きもつきのなにわ、肥人くまひと等を從へ、兵(*武器)を持して覓国使くにまぎのつかひ刑部真木等を剽劫おびやかす。是に於て竺志惣領に勅して犯を決罰す。

 「律令施行」が大和朝廷の徴税権実行を含むのは当然で、そうであれば「前の処分以外」との約束が破られたことになる。そうであれば薩末比売らの抵抗も首肯できる。さらに律令施行後の七〇二年には薩摩を「化を隔て、命に逆う」賊として武力討伐し、全国に律令を頒布している。

◆大宝二年(七〇二)三月(略)甲午(二十七日)信濃国、梓弓一千廿張を献る。以て大宰府に充つ。丁酉(三十日)大宰府に、専に所部の国の掾じょう已下と郡司等とを銓擬することを聴す。(略)七月(略)乙未(三十日)始めて律を講く。是の日、天下の罪人を赦す。八月丙甲(一日)薩摩・多褹たね、化を隔て、命に逆ふ。是に於いて、兵を発し征討し、遂に戸を校しらべ、吏を置く。(略)九月(略)戊寅(十四日)(略)薩摩の隼人を討ちし軍士に、勲を授くること各差有り。(略)丁亥(二十三日)、天下に大赦す。(略)十月(略)丁酉(三日)是より先、薩摩の隼人を征する時、大宰の所部の神九処を祷のみ祈るに、実に神威に頼りて遂に荒ぶる賊を平げき。ここに幣帛を奉りて、其の祷いのりを賽さいす。唱更の国司等今の薩摩国なり。言さく、「国内の要害の地に柵を建てて、戍まもりを置きて守らむ」とまうす。許す。諸神を鎮め祭る。参河国に幸せむとしたまふ為なり。(略)戊申(十四日)律令を天下の諸国に頒ち下す。

 これは、大和朝廷は隼人=前王朝の倭国(九州王朝)を討伐して、始めて「全国に律令を頒布」することが出来たことを示している。全国にはまだ多数の倭国(九州王朝)の権威に従う勢力が存在したのだ。

 そして、彼らを従わせるために大和朝廷は「飴と鞭」を用意した。そのことが「天下大赦」と、九州王朝の勢力外の諸国にたいする「調」軽減措置に現れている。

◆『続日本紀』慶雲二年(七〇五)冬十月壬申(二十六日)に、詔して、使を五道に遣して山陽西海道を除く、高年と老疾と鰥寡惸獨くわんくわけいどくとを賑恤しんじゅつし、并せて當年の調の半を免す。

 全国的に税の軽減が実施される中で、「山陽西海道」諸国には恩恵は与えられなかった。服従する国・勢力には飴を与え、不服従勢力には与えない、そして、不服従勢力の拠り所とする九州王朝の本拠には弾圧を加えた。ただ「柵を建てて護る」とは「封じ込め」であり、「大長」年号は七一二年まで続くから、九州王朝の残存勢力の抵抗はなお続いたと考えられる。

4、隠された「大義なき倭国(九州王朝)討伐」

 そうした中、和銅六年(七一三)には、「一千二百八十余人に勲功を与える」ような、徹底的な武力弾圧を行うことになる。

 和銅五年(七一二)の「官軍雷撃、凶賊霧消」論奏は、本来蝦夷討伐と出羽国設置のみならず、同年に遂行された隼人=九州王朝討伐と、その後の大隅国設置をも含んだ論奏だったと考えられる。しかし、それは「禅譲時の旧領安堵の約束」を無視する「大義なき蛮行」であり、決して誇れるものではなかった。そこで 『続日本紀』には討伐戦の詳細を記さず、蛮行を行ったものの名もカットし、約束に反し西海道に手続きを無視して「大隅国」を設置した経緯も記さなかったのだと考えられる(注9)。

 そして、「大義なき倭国(九州王朝)討伐」を、蝦夷同様の「狂心を縦にする凶賊隼人の討伐」としたのだ。

(注1)『旧唐書』に記す「王朝交代」の概要は以下の通り。

①『倭国伝』倭国は古の「倭奴国」なり。京師(*長安)を去ること一萬四千里、新羅の東南大海の中に在り、山島に依りて居す。東西五月行、南北三月行。世々中国と通ず。(略)四面小島。五十余国、皆付属す。其の王、姓は阿每氏、一大率を置き、諸国を検察し、皆これを畏附す。十二等有る官を設く。

倭国は、紀元五十七年に漢の光武帝から金印を下賜された「倭奴国王」以降、『三国志』に記す三世紀の俾弥呼・壹與、『宋書』等に記す「倭の五王」、『隋書』に「阿蘇山下の天子」として描かれる「阿毎多利思北孤」と続き、歴代中国王朝から我が国の代表者とされてきた「大国」だとする。倭奴国王も多利思北孤も九州の王だから、倭国とは古田武彦氏のいう九州王朝を指すことになる。

②『日本国伝』日本国は、倭国の別種なり。その国、日の辺に在るが故に、日本を以って名と為す。あるいは曰く、倭国自らその名の雅びならざるを悪み、改めて日本と為す、と。あるいは云う、日本はもと小国にして倭国の地を併せたり、と。 その人朝に入る者、多くは自ら大なるをおごり、実を以って対せず、故に中国はこれを疑ふ。また云う、その国界は東西南北各数千里西界と南界は大海にいたり、東界と北界には大山ありて限りとなす。山外はすなわち毛人の国なり。

 一方『日本国』はもと小国だったが、倭国を併合したとする。そして七〇三年に「日本国」の使者粟田真人が唐(当時は「周」)の武則天から冠位を授かっており、粟田真人は大和朝廷が派遣した使者だから、日本国とは大和朝廷をさすことになる。

(注2)大宝建元は、『続日本紀』大宝元年(七〇一)三月甲午(二十一日)記事に「建元為大宝元年。始依新令改制官名・位号。」とある。

 「評制の廃止」が七〇一年であることは「庚子年(七〇〇)四月」の日付と「若佐国小丹生評」の記述がある木簡から確認される。また、九州年号の存在と消滅は『二中歴』の「年代歴」ほか多数の文献が示している。ただ、『伊予三島縁起』ほか一部の資料には、七〇四年~七一二年まで続く「大長」年号が記される。

①『伊予三島縁起』「天武天皇御宇大長九年壬子六月一日為東夷征」(内閣文庫番号 和三四七六九)。壬子は六五二年か七一二年で天武時代にない。「東征」は蝦夷討伐を指すところ、和銅五年(七一二)に北道の蝦狄討伐記事がある。従って、正しくは「元明天皇御宇大長九年壬子」であり、「文武大長」とあるのは、大長年号が建てられた大長元年(七〇四)が文武時代にあたる為と思われる。

②『八宗伝来集』「文武ノ時大長九年庚子倶舎宗広マル」(庚子は七〇〇年で文武四年。『伊予三島縁起』から「庚子」は「壬子」の誤写か)

(注3)長田王(~七三七年六月十八日。最終官位は散位正四位下)は和歌を詠む風流侍従の一人として知られるから、隼人討伐も誰かに随行し、その際に詠んだ歌だと推測される。航路は地図参照。

(注4)①【伊勢】「曲り田・伊勢ヶ浦の一部・大曲」 (糸島市水道事業及び下水道事業の設置等に関する旧条例)、「伊勢田(糸島市二丈福井)」 (糸島市防災行政無線局管理運用規程)

②【山辺の御井】『筑前国続風土記』巻之二十二怡土(貝原益軒、一七〇九年)によると、神功皇后が半島出征前に「三韓征伐」の必勝を祈願し、この井戸に鎧を沈めたところ、緋色に染まり勝利を告げた、そこで「染井の井戸」と称されるようになった。また、鎧をかけて干した松は「鎧懸の松」として伝承され、井戸で染まった幡を干した松も「旗染の松」として井戸背後の「染井山」山上にあったという。             

(注5)『書紀』『続紀』に記す「隼人」が、「九州南部の蛮族」でなく、九州王朝(あるいはその残存)の勢力であることは、西村秀己「隼人原郷」(古田史学会報一一五号。二〇一三年四月)に詳しい。

(注6)こうした見解は、たとえば山尾幸久「皇太子奏請文の内容」(『「大化改新」の資料批判』三一四頁。二〇〇六年塙書房。三一四頁)ほか多数見られる。

(注7)「評制時代の飛鳥・藤原地域出土荷札木簡において、確実に西海道諸国から送られたと言えるものは皆無であった。」「西海道では仕丁・衛士も向京しなかった。」(市大樹「飛鳥藤原木簡の研究」二〇一〇年塙書房。三九八頁)

(注8)薩摩『開聞古事縁起』では、薩摩で生まれた「大宮姫」が、近江宮で天智の皇后となったが、天智崩御に際し、大友皇子に追われ、大海人の支援を受け、薩摩に帰国。宮を造営し居したとする。この経緯は天智の皇后で、大海人が天智の後継天皇に推戴しようとした「倭姫王」と重なる。中国史書で「倭国」は金印を下賜された「倭奴国王以来の九州の国」とされるから、「倭姫王」は「倭国(九州王朝)の姫王」で、薩末比売は大宮姫=倭姫王の可能性が高いと考えられる。この点、「大宮姫と倭姫王・薩末比売」(『会誌二十二集「倭国古伝」』二〇一九年。明石書店)に詳しい。

(注9)ちなみに和銅五年(七一二)正月二十八日の太安萬侶の『古事記』献上も『続紀』からは完全に「カット」されている。このように記録としての価値を認められている『続紀』にも、大和朝廷の恣意的な編纂があることは歴然としている。

 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。