古代史10 天武天皇は九州王の太皇弟だった
https://note.com/kirk/n/n136e76d639ab 【古代史10 天武天皇は九州王の太皇弟だった】より
丹波王国の続きになりますが、大化の改新の翌年646年に全国に評(こおり)を設置して大和王国が全国を統治するシステムを作り始めますが、これは間違いなく蘇我政権の規定路線です。現に当時の重鎮であった阿倍内麻呂が左大臣、蘇我倉山田石川麻呂が右大臣となっており排除された蝦夷と入鹿以外は政権の継続性が保たれています。革命政権だったらこんなにすぐに地方の管理体制である国造(豪族)による評の設置といった重大な制度変更などできる訳はありません。評の設置は伊勢神宮の皇太神宮儀式帳にも難波朝(孝徳天皇)、天下に評を立つと記しています。実際、因幡旧一宮の宇部神社にある伊福部系図に646年水依評を設置とあります。しかし同時にこの年に逢坂の関が出来ているのです。逢坂の関といえば近江から飛鳥への侵入を防ぐということです。これは明らかに蘇我一族・丹波王国の反撃を恐れたということになります。実はこのあと701年の大宝律令と共に鈴鹿の関、不破の関、愛発の関が作られますが、この時になると近江は守る側で伊勢や美濃・尾張や若狭・丹後からの侵入を防ぐ体制になります。この55年という期間は正に大和王国が大和王朝へと変っていく大変重要な期間と言えます。詳しくは次回に書いて意気込み。
さて難波宮に移って10年ほどで皇極大王、中大兄皇子、間人皇后ら一族が皆、孝徳大王を見放して飛鳥に戻ってしまいます。つまり蘇我路線を引き継いだ孝徳大王に周りは皆反対したということです。皇極大王は老骨に鞭打ち62歳で再度、斉明大王として即位します。これはどういうことでしょうか。全国支配のため、海に接する難波に進出したものの各地の国造たちの評判が良くなかったのかも知れません。日本書紀には斉明元年に高句麗、百済、新羅が朝貢し、蝦夷や隼人も帰属したとありますが、そんな都合のいい話などあるはずはありません。斉明大王は飛鳥で土木工事に大金をつぎ込み評判が悪かったともありますが、多分、飛鳥の防御体制を強化したのでしょう。斉明大王は661年67歳前後で逝去され、(この歳で九州朝倉宮で新羅との戦いに備えたとはとても思えませんが。)いよいよ中大兄皇子が即位するかと思いきや皇太子のまま、称制という摂政のような立場で政をしたと言います。663年の白村江の戦いのあと667年に近江に遷都し翌668年に即位したということです。42歳前後のことで大化の改新から23年がたっていました。ようやく禊が済んだということなのでしょうか。
私はここでまた、とんでもないことを推測します。天武天皇は中大兄皇子の弟ではなく、九州王国の太皇弟ではなかったかということです。私の推測は磐井の乱以降、九州王朝が皇太子を人質として大和王国に差し入れていたのではないかというものです。天智大王は斉明大王逝去の後も即位していませんが、663年白村江の戦いで完全に勢力を失った九州王朝に対して、遠慮することなく667年近江に宮を作ったのではないかと思います。そして翌年大和の王を宣言する訳です。彼が初めての大王家の天皇かも知れません。何故このような大胆な推測をするかというとこの期間にあまりに異常なことが多いからです。まず、中大兄皇子は皇太子であり天皇ではないのに、その時代に弟が太皇弟と呼ばれるはずがないのです。普通に読めば先代の天皇(舒明)の弟ですが、年齢があいません。天皇(皇極)の弟では年も違うしバックグラウンドも違い過ぎます。自然に考えれば522年から天皇制を採用している九州王朝の太皇弟ではないでしょうか。(日本書紀は645年に大化の年号を制定したとしていますが、本当に大和王国はこの時点では天皇制をとっていたかも怪しいところです。)次に天武天皇が天智天皇の娘を4人ももらい、藤原鎌足の娘も2人もらっていることです。これはありえないというほど異常です。それも生年がわかっている持統天皇でも645年生まれなので残りの女性たちもこの前後の生まれでしょう。15歳くらいで嫁いたとしても660年以降の嫁入りということになり白村江の戦いのあたりです。これはどう見ても他家との政略結婚としか思えません。鎌足の娘も2人も嫁入りしているので益々怪しいです。天皇は九州王朝にあり天武天皇こそ貴種だったのではないでしょうか。白村江の戦いの前に斉明大王と太田皇女が九州で亡くなっていますが、中大兄皇子は何をしていたのでしょうか。次に天智天皇の即位までだいぶ時間がかかった上に近江に行ってから即位しているのです。そしてその4年後には死亡し、翌年の壬申の乱で息子の大友皇子も殺されます。これは天智天皇が天皇家を勝手に名乗るという反乱に対し、天武天皇が美濃や尾張方面と語らい、親子共々征伐したと見る方が自然だと思っています。では本当に九州王朝は存在していたということについて次に書きたいと思います。
まずは消された九州王国で触れた九州年号について再び話をしたいと思います。九州年号は522年に始まり、700年で終わります。宇佐神宮に残る書に継体の壬寅(522年)を善記元年としたものがあるそうです。英彦神社の言い伝えの中では継体辛亥(531年)を教到元年としているのです。神戸・明用寺では541年を明要元年としたものがあり、愛媛の長福寺本の中には文武天皇の話が大化5年(699年)として出て来るようです。全国にあるものを全て抹消することは出来なかったということだと思います。それから「旧唐書」では日本の条と倭国の条は別になっているのです。この時点までは倭国が存在していると唐は思っていたということです。「新唐書」では日本に一本化されているので大和王朝の努力が日本書紀によって功を奏したのでしょう。
さて大和王国を支配することになった天武天皇は九州王朝では太皇弟のままでしたが、九州年号では684年に朱雀という年号になっています。私の推測ではこの時に九州王朝の王は死亡し、天武天皇が両王国の長、即ち大和王朝の実質的な唯一の王になったのではないかと思います。天武天皇は外様であり、地元の豪族を信用しなかったのか大臣を一人も置かず直接政務を行ったといいます。(因みに675年に肉食禁止令を出したそうです。これがいつ廃止になったのかは解りませんが。)681年には律令の制定を計画、草壁皇子(持統天皇の子)を皇太子に立てます。しかし2年後の686年に病気で天武天皇は逝去されますが、殯の続く中、草壁皇太子は天皇になれないまま3年後に死亡します。この間に実力者の大津皇子は死刑になり、その他の皇子も天皇にはなれず持統天皇自らが即位し、朱鳥の年号となるのです。きっと豪族の間で色々な画策があったのではと推察されます。天武天皇は九州太宰府を模しながら、中国に負けない立派な坊条制の都市の建設を計画していました。その計画を持統天皇が引き継ぎ、飛鳥浄御原宮に住みながら藤原京(新益京)を完成させるのです。初めての本格的な首都が出来たことになります。しかしこの時期に持統天皇はまだまだ実力がなく旧勢力とは一線を画す藤原不比等の力を借りたことは間違いないと思います。そして持統天皇は草壁皇子のなき今、孫の文武天皇による名実ともに初めての大和王朝を望んでいたと思います。そしてもう一つの遺言とも言える律令を完成させます。浄御原令であり、大宝律令です。ただ、天武天皇が指示したという公的な史書は完成したのかどうか解りません。彼は多分、九州王朝から続く倭王朝の歴史を残したかったのだと思いますが、大和の豪族たちがそれを許すはずもなく、完成したとしても日の目を見ることはなかったと思います。しかし間違いなく後に捏造される日本書紀の作成には大変参考にはなったはずです。