人麻呂、琵琶湖で何を偲ぶ?
http://www7.torichu.ne.jp/~landp21/may-28.html 【人麻呂、琵琶湖で何を偲ぶ?】より
近江の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに 古(いにしへ)思ほゆ (3-266)
前述した万葉集を紹介した書籍を読む中で、最大の疑問となったのは第2首の国見の歌でした。そして、もう一つの大きな疑問は、人麻呂の古(いにしへ)を偲ぶ歌でした。
通説では、人麻呂が、近江の海、つまり琵琶湖のほとりに佇んで、滅んだ近江大津宮を偲んでいたとされています。つまり、天智天皇が近江大津宮を造営するも、壬申の乱で大海人皇子、後の天武天皇に滅ぼされてしまいますが、そのおよそ15年後に人麻呂がその大津宮や天智天皇を偲んで詠ったというものです。
しかし、15年も経って後に偲ぶくらいですから、人麻呂と近江大津宮とかなり深い関係があってしかるべきですが、それは全く分からず、それどころか、人麻呂自身がどんな人物だったかも謎だとありました。 分からないことばかりのようですが、人麻呂と近江大津宮との関係も大津宮でどういった地位だったのかなど一切分からないとのことでした。
では、そんなに分からないことばかりなのに、どうして人麻呂がその大津宮を偲んでいたということだけは確かなのでしょう。
それに、10年一昔とは言うものの、この『古(いにしへ)思ほゆ』という表現が、そんなに近い過去だけを意味している表現には思えません。その地域やそこに暮らす人々を含め、もっと、何か歴史的な深い事情があるように思えるのですが、琵琶湖にそんなにさまざまな歴史が残されているとも思えません。
人麻呂は、その過去を思うと『心もしのに』、つまり、胸がしめつけられるほどに苦しくなると言っています。それほどまでに、悲痛な出来事や人麻呂の胸を締めつけるほどの歴史があったということになります。それが、壬申の乱だということになっています。
では、人麻呂がその近江大津宮とどういった関係があったかと言えば、何も分からないということです。どういうことなんでしょう。一体人麻呂は、琵琶湖でどんな古(いにしへ)を偲んでいたのでしょう。人麻呂とは、どんな人物なんでしょう。
第2首とともに、この第266首に対する数々の疑問も、私を古代史探索への道に引き込んでいきました。
http://www7.torichu.ne.jp/~landp21/may-29.html 【琵琶湖が海?】より
淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念
近江の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに 古(いにしへ)思ほゆ
では、原文も見てみましょう。
この歌のポイントは、『近江の海』、『千鳥』、『古(いにしへ)』にあります。
まず、人麻呂が佇んだとされる『近江の海』、これが琵琶湖だとされているのですが、琵琶湖は確かに大きいけれど、淡水湖であって決して海ではありません。
原文では、『淡海』となっています。淡水の海といった意味なのでしょうか。
次に『千鳥』ですが、『千鳥』は、潟、干潟などにいますが、琵琶湖にそういった場所があったのでしょうか。
当時の琵琶湖に千鳥がいたのかどうかは分かりませんが、生態系が大きく変わっていなければ今もいてもいいのですが、どうなのでしょう。
そして、『古(いにしへ)』ですが、人麻呂が、そんなに心が痛むほどの歴史が琵琶湖にあったのでしょうか。
これは、やはり現地に行かなければ、どうにも解決の糸口が見えてきません。
第2首の時に奈良へ行きましたが、その折に琵琶湖へも立ち寄りました。
まず、大津市の歴史博物館へ行き、琵琶湖の歴史を調べてみました。そうしますと、古代の頃に海とつながっていたようなこともなく、やはり淡水の湖でした。
その名称も気になるところでしたので、古代の名称についても学芸員の方に尋ねることにしました。琵琶湖という名称は、中世の頃に付けられていて、古代においては『淡海』、つまり『おうみ』と呼ばれていたと言われていました。その根拠は、万葉集にある歌ということのようです。
この人麻呂の歌も含めて、『淡海』が、『近江』である琵琶湖を意味していることから、そう呼ばれていたとのことです。
つまり、万葉集の『淡海』の解釈が、地名も含めて重要なカギを握っているようです。
その折に、近江大津宮についても聞いてみました。
近江大津宮の発掘調査もその時には終わっていて、今は埋め戻されているということでした。
ただ、その場所は、史跡として残されているということだったので、その現地も見ることにしました。それらの調査結果や琵琶湖の歴史なども『大津市史』に詳しく掲載されているとのことでしたので、その市史を購入して、近江大津宮跡地へと向かいました。
http://www7.torichu.ne.jp/~landp21/may-30.html 【近江大津宮が引越し?】より
近江大津宮跡地は、琵琶湖の西側にあります。今は、市街地になってしまっていて、発掘調査も大変だったようです。その跡地に行きまして、まず思ったのは、どうしてその地に都を構えたのだろうということでした。湖東方面は広々と開けているのに、何故すぐに山が迫っている西側の狭い場所にわざわざ配置しなければいけなかったのでしょう。都ともなりますと、いわゆる大極殿だけでなく、数多くの建物が付随して建てられます。ちょっと、そういったことを考えますと、どうしても狭すぎやしないかと思ってしまいます。
そして、その現場へ行きますと、市街地の中に位置していて、すでに埋め戻されて整地され、公園といった状態でした。そこには、それらの調査をした時の写真などを表示した案内板が設置されていました。概略はおおよそ分かりますが、詳しくは、大津市史を見たほうが良さそうです。
そして、いよいよ琵琶湖へと向かいました。その近くには琵琶湖八景と言われる見晴らしが良くて、公園になっている所がありました。琵琶湖の眺めはなかなか良くて、いくつか映像も公開していますのでご覧ください。(映像)
琵琶湖の眺めもよろしいのですが、はたして千鳥はいるのか、あるいはいたような環境があったのかということも気になるところです。映像にもありますように、潟や干潟といった場所は見かけることはありませんでした。また、近くの方にお聞きしましたが、千鳥は見かけないとのことでした。鴨は、たくさんいたのですが、その鴨は京都から飛来しているそうです。鴨川というだけあって、そこからこの琵琶湖にやってきていました。夕方には、帰っていくとのことでした。遠いようでも、一山超えれば来れます。空には、信号も渋滞もありませんから、それこそひとっ飛びというところでしょう。鴨川から琵琶湖まで直線でおよそ10kmとしても、仮に時速40kmで飛んだとすれば15分ほどで着きます。
さて、鴨ではなく千鳥ですが、現在も見かけることはないようですが、古代にあってもはたして千鳥の生息するような環境だったかどうかは疑問のあるところです。
琵琶湖も見まして、その夜、大津市史に近江大津宮の調査がどのように書かれているのか読みますと、大変重要なことが分かりました。
当時、大きな建築物の柱や建材は、再利用することが結構あったと書かれていました。その地での利用が終了したとかで、移動したり、どこかで別の使われ方がされるなどといった時には、その建物を分解し、次の地で建て直すといったことが行われていたということです。
そして、その近江大津宮と見られる建物の跡地で発掘された柱の跡を調査したところ、間違いなく柱を移動させた形跡が残っていたというのです。ということは、近江大津宮の建物は、何処かへ移設されていたということになります。
これは、極めて重要な調査結果です。なぜならば、日本書紀によりますと、近江大津宮は、炎上したことになっているのです。しかし、その調査では、焼けたような痕跡は何処にもなく、柱はすべて綺麗に抜き取られ、何処かへ移設されたであろうという結果となっています。
そうなりますと、いったい壬申の乱で近江大津宮が焼き滅ぼされたという記述は何なのかということになります。そこにあった建築物は、近江大津宮の建物ではなかったのか、あるいは、近江大津宮はあったが壬申の乱で炎上していなかっただけなのか。また、近江大津宮も壬申の乱なるものもなかったのか。
実際の近江大津宮があったとされる遺跡からは、日本書紀の記述を裏付けるものは無かったということが明らかになったのです。人麻呂と近江大津宮との関連は全く分からない上に、近江大津宮すら本当にその地にあったのかどうかすら分からないといったことになってしまいました。
そうなりますと、人麻呂が琵琶湖のほとりで佇んで滅んだ近江大津宮を偲んでいたというのも、全く根拠がないことになります。人麻呂が琵琶湖で通説のような思いで、そこに佇んでいたという解釈は成り立ちません。全くの想像ということでしかありません。
ということは、ますます『淡海乃海』が、琵琶湖を意味しているのかどうかも疑問となってきます。
では、『淡海』が近江、つまり琵琶湖を意味する根拠とされている万葉集の歌をもう少し調べてみることにしましょう。
http://www7.torichu.ne.jp/~landp21/may-31.html 【琵琶湖に鯨がいた?】より
鯨魚(いさな)取り 近江の海を 沖放けて 漕ぎ来る船 辺付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥(は)ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 夫(つま)の 思ふ鳥立つ(2-253)
鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来船 邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 嬬之 念鳥立
『淡海』を詠っている歌を調べていますと、何と鯨魚(いさな)漁に出かけるといった歌がありました。『鯨魚』とは、文字通りまさしく鯨です。通説で言われるところの『近江の海』、つまり琵琶湖には鯨がいたのです。
とんでもありません、そんなことはあり得ません。淡水の琵琶湖に、鯨は、過去から現在に至るまで存在しておりません。
『淡海』が『近江』、つまり琵琶湖を意味しているというのは、万葉集の歌が根拠となっていました。『淡海』が『近江』だとする通説の立場で解釈しますと、琵琶湖には鯨が生息していたことになってしまいます。琵琶湖にいなくても、琵琶湖が海につながっていたのであれば鯨漁に出航していたことは可能です。ところが、琵琶湖は、全く海につながっておりません。
『淡海』が『近江』、琵琶湖であるというのも『みなし解釈』の一つであったようです。実際は、『淡海』は琵琶湖ではなかった、しかし、一連の『みなし解釈』をする中で、『淡海』は琵琶湖だと解釈されたと考えられます。
このように、『淡海』が近江・『琵琶湖』だという通説の解釈は、その根拠とされていた万葉集そのものによって、『淡海』は琵琶湖ではないことが明らかになりました。
したがいまして、それは必然的に人麻呂が古(いにしえ)を偲んでいた場所は、琵琶湖ではなかったということになります。
では、人麻呂が偲んだ場所である『淡海乃海』とは、何処の海だったのでしょう。
湖を海に見立てて詠ったといった解釈は、もはや成り立たなくなりました。
http://www7.torichu.ne.jp/~landp21/may-32.html 【人麻呂の古(いにしへ)とは?】より
第2首の通説の解釈に対する疑問もそうでしたが、そういった解釈は成立しないということが分かっても、ではそれらの歌が何処で何を詠ったものかは、容易には理解できませんでした。前述しましたが、それらの疑問の根幹を成す古代における都を、一素人が見出すことは到底できるものではないとあきらめかけてもいましたが、中国の史書を調べる中で、出雲が都だったというところに行き着くことができました。それによって、今までよく分からなかったことが、次々と解明できていき、同時にこの歌も、それらの認識の到達によって次第に紐解かれていきました。
この列島における古代の都は出雲でしたが、その都は663年の白村江の戦いの直後に唐王朝の手によって滅ぼされてしまいました。
人麻呂は、その出雲王朝と大きな関わりがありました。『万葉集に詠われた吉野を探る 4』でご紹介した第1巻第36首の歌は、人麻呂の作品です。つまり、出雲王朝が健在だった頃に、人麻呂はその都の地に居たことになります。
そして、その興亡を人麻呂は自らの目で見てきていたのです。
出雲の地にあった美しい吉野に高く聳え立っていた超高層の神殿、そこに高く光り輝く国家的象徴であった『天』、『天照』、などの大きく栄えていた頃の出雲王朝を称える歌を人麻呂が残しています。
その一方で、出雲王朝が滅ぼされていく無残な姿をも見ていました。
それを人麻呂は目にしていたと思われる歌が残されています。
人麻呂の、まだ幼き頃の、鮮烈に残る記憶ではなかったかと思われます。
東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ(1-48)
東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
近年は、原文の『炎』を『かぎろひ』と読ませていますが、以前は『けぶり』だったようです。
その『かぎろひ』とはいったいどういった現象なのだろうといった研究もされているようですが、原文では、普通に『炎』ですから、何か『かぎろひ』といった特別の状態を詠ってなどいません。江戸時代に賀茂真淵が『かぎろひ』と解釈したようですが、その『かぎろひ』という現象を研究しても、そこからは何も解明されません。まったく無意味なことだと言わざるを得ません。これも、一連の『見なし解釈』でしょう。『炎』を、殊更何か違った現象のように描いているようですが、どうして『かぎろひ』でなければいけないのでしょう。
さて、この歌を人麻呂がどういった思いで詠ったのかですが、東の方向に『炎』が立っている所が見え、そして一方、月は西へ傾いていったと詠っています。ということは、まず昼間ではないことは明らかです。そして、『月西渡』ということは、そこにはある一定の時間が経過していることも分かります。南に見えていた月が、今は西に傾いているということは、その月は、上弦の月に近かったと考えられます。
また、そこには、決して楽しい思いが込められているようには感じられません。月が沈むように、何かが沈んでいくことをそこにダブらせているようです。
そして、東の方向には、あちこちから火の手が上がっていたのでしょう。人麻呂は、緊張しながら、あるいは震撼としながらその『炎』を見ていたのでしょうか。迫り来る恐怖感を詠っているようにもとれます。それも、夜更けから深夜にかけて炎があちこちで立ち昇るといったことですから、それはただならぬ事態を意味しています。
出雲王朝と大きな関わりのあった人麻呂がそこまでの大事件に遭遇しているとすれば、その出来事は、出雲王朝が唐王朝によって攻撃された時の事ことだと考えられます。
それは、白村江の戦いの直後、つまり663年秋、おそらく9月頃からこの列島は攻撃され出雲には10月頃やってきたと考えられます。それも、旧暦の10月10日だったのかもしれません。その前日は、半月、上弦の月で、その翌日となります。日没の頃に南に月が出ていますが、夜半になりますと月は西へ傾きます。その日、出雲は、唐王朝の軍勢の攻撃にさらされていたのでしょう。その戦乱の中に、人麻呂もいたと思われます。しかし、戦死は当然ながらしていません。さらに、戦闘している状況でもないようです。つまり、人麻呂は、戦士でもなければそういった年齢にも達していなかったと考えられます。
おそらく、人麻呂は、出雲王朝の言ってみれば『皇太子』的存在で、その時、出雲大社の地にあった超高層の神殿の上にいたのでしょう。その下では、多くの兵士たちが守っていたと思われます。
つまり、この歌が詠われたのは、その神殿の上だと考えられます。
その神殿から、人麻呂は、西は海ですから、東の方向に広がるいわゆる国原で、建物に火がつけられあちこちで大きな炎が燃え上がるのを見ていたのでしょう。この列島の都、『やまと』の炎上です。
また、その方向には、出雲国庁跡があります。そこは、当時の都の中枢でもありました。今で言えば、永田町でしょうか。そこの地名が『大庭』というのもその名残かもしれません。この時に、その出雲国庁跡にあった建物も焼き討ちされたと考えられます。その場所から発掘された柱には、焼けた痕跡が残されています。つまり、隋書でも記されていましたが、『天を以って兄と為し、日を以って弟と為す』と出雲王朝の使者がその国家形態を述べています。『天』は国家的象徴で、『日』は、実質的支配者です。今で言えば、天皇と総理大臣といったような関係でしょうか。
その『天』がいたのが出雲大社の地で、『日』である実質的支配者の大国主命がいたのが出雲国庁跡地にあった大宮処です。
この戦乱で、実質的支配者であった『日』の勢力が、殲滅されてしまいました。
しかし、『天』は、後の支配のために残されています。ですから、人麻呂は殺害されることなく『生かされた』のです。
その時に殺戮されたのが、実質的支配者『日』である『大国主命』で、10月10日が、その命日として、今にまで伝えられています。しかし、今の出雲にそういった認識は残されていませんが、『神在祭』の前日、旧暦の10月10日の夜に稲佐浜で行われる『神迎えの神事』は、それを伝えていると考えられます。その殺戮現場は、当時の海岸に位置する『奉納山』のふもとにある『仮宮』の地でしょう。
このことは、記紀にも残されています。武甕槌神(たけみかづちのかみ)が、今の稲佐浜で大国主命に『国譲り』を迫り、大国主命は、自らの支配する国を『献上』したとされています。つまり、侵略者に都合よく献上されたと描かれていますが、実際は、殺戮の限りがつくされています。それは、中国に残されている資治通鑑などの史書にも描かれています。
当時の実質的支配者であった大国主命は、『天』の守護の為に出雲大社の地にいたのでしょう。しかし、唐王朝の手の者によって殺害されてしまいました。
この戦いの折りに、彼らの象徴であった銅剣などが秘かに埋められたのが、荒神谷遺跡だと考えられます。そこから発掘された銅剣などの数は、当時の出雲の神社の数にほぼ匹敵します。
そして、その大国主命を偲んで毎年、全国の神社にいた『神』が、出雲にやって来ることになったの
でしょう。それゆえ、全国では『神無月』、出雲では『神有月』と言われています。そして、その神々が集合するのは、『奉納山』のふもとの『仮宮』です。大国主命やその家臣たちの殺戮された場所で、冥福を祈るという行為なのでしょう。
しかし、そういった認識は現在の出雲にはありません。そういった認識すら残すことが許されなかったのでしょう。
これらのことから、この第48首は、西暦663年10月10日(旧暦)に詠まれた、この列島の都『やまと』が陥落した時の歌だと考えられます。(新暦では、663年11月18日に相当します)
『月西渡』には、この列島が西国『唐』の手によって征服されたことを意味しているように思えます。
そして、人麻呂が後年『古(いにしへ)思ほゆ』と偲んだその対象は、この滅ぼされた出雲王朝のことだという認識に至りました。
http://www7.torichu.ne.jp/~landp21/may-33.html 【『淡海乃海』は宍道湖だった】より
人麻呂が偲んでいたのは、唐王朝に滅ぼされた出雲王朝だということになりますと、その場所はもちろん琵琶湖などであろうはずもなく、出雲の地ということになります。
そして、『淡海の海』に該当する所は、必然的に今の宍道湖ということになります。
島根半島は、古代にあっては島でしたが、その時期には本州と繋がっていて、宍道湖が誕生していました。宍道湖は塩分が薄く、まさしく『淡い海』で、当時、千鳥がいたという歌も残されています。
意宇の海の 河原の千鳥 汝が鳴けば 我が佐保川の 思ほゆらくに(3-371)
『意宇の海』とは、今の中海の辺りに相当します。出雲の勢力にとっては、聖地とも言える熊野山(今の天狗山)を源流とする意宇川が、熊野大社や出雲国庁跡、つまり当時の大宮処の側を流れ、『淡海の海』の東に注いでいて、その河口周辺の海を言います。
その辺りに、千鳥がいたと詠われていました。
斐伊川から流れ出る膨大な量の土砂は、本州と『あきづ島』をつなげ、島根半島を形成することにより宍道湖が誕生しました。今も、斐伊川の河流域には土砂があふれています。
つまり、当時の宍道湖畔は、あちこちに砂洲が広く存在していました。そこに千鳥が、餌を求めてやって来ていたのでしょう。現松江市の宍道湖畔には、『千鳥』という字名もあります。そこには、『千鳥公園』があり、宍道湖の綺麗な眺めを一望できます。今も、宍道湖では千鳥の姿を見ることができます。宍道湖の夕日を眺める名所となっている『袖師が浦』のあたりの岸辺では、餌をついばんだり、『チチッ、チチッ』と鳴きながら飛び回る千鳥の姿があります。
第266首の歌は、人麻呂が、滅ぼされた出雲王朝を偲んで、宍道湖の辺に佇んで千鳥の声を聞きながら詠ったであろうという解釈に至りました。
それは、出雲王朝の滅亡という大きな悲劇に遭遇した人麻呂の苦悩が背景にあったのです。
宍道湖の夕日は、今も変わることなく綺麗です。人麻呂は、その宍道湖の夕日を眺めながら、出雲王朝の栄えていた頃や滅亡の悲劇、あるいは、その中で亡くなったり、遠く逃亡していった人たちに思いを馳せながら偲んでいたのでしょう。
従いまして、『淡海乃海』は、宍道湖だったということになります。宍道湖は、海にも繋がっていますから、鯨漁にも出かけることができます。
これで、第266首の疑問は解消しましたが、その認識に到達しますと、そこからまた新たな認識への飛躍へと繋がっていくことになります。
さて、第266首の解釈に基づきますと、人麻呂は、出雲の地に身を置いていたということになります。そうなりますと、人麻呂が古(いにしへ)を詠った歌が、その1首だけということはないでしょう。おそらく、他にも詠っているはずです。
では、探してみましょう。
http://www7.torichu.ne.jp/~landp21/may-34.html 【人麻呂の古を偲ぶ歌】より
人麻呂は、晩年、久しぶりに『やまと』の地に帰り来て、滅ぼされた都のあまりにも荒れ果てた様子を見て、嘆きの中でいくつかの歌を残していました。
その中の一部をご紹介いたします。
天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分り 分りし時に 天照らす 日女の命 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて 神下し いませまつりし 高照らす 日の皇子は 飛鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして すめろきの 敷きます国と 天の原 岩戸を開き 神上り 上りいましぬ 我が大君 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の 満しけむと 天の下 食す国 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずも (2-167)
ひさかたの 天見るごとく 仰ぎ見し 皇子の御門の
荒れまく惜(を)しも(2-168)
出雲の地にあったこの列島の都『やまと』の歴史を振り返り、その古(いにしへ)より栄えた姿を偲んでいます。
そして、そこにいた大宮人たちは、今は何処へ行ってしまったのか、その消息すら分からないと嘆いてもいます。
その反歌でも、久しぶりに見る御門(みかど)は荒れてしまい、口惜しい思いをしています。
出雲の地に栄えた都『やまと』の荒廃した姿に、人麻呂はその悲しみを隠せなかったのでしょう。
ひさかたの 天の香具山 この夕(ゆふへ) 霞たなびく 春立つらしも (10-1812)
人麻呂は、久しぶりに見る『天の香具山』、今の奉納山を眺めてもいたようです。
はたして、その上にまで登ったのかどうかまでは、この歌からは分かりませんが、当時は相当な高齢に達していたと思われますから、おそらく下から眺めただけではないでしょうか。
『ひさかたの 天の香具山』とありますから、あるいは、久しぶりに登ったという思いも込められているとも言えます。
はたして、どうだったのでしょう。
やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 敷きいます 大殿の上に ひさかたの 天伝ひ来る 雪じもの 行き通ひつつ いや常世(とこよ)まで (3-261)
高照らす 我が日の皇子の いましせば 島の御門は 荒れずあらましを (2-173)
人麻呂は、この列島の国家的象徴である『日の皇子』は、いつの世までも輝き続けるものだと、その栄華を後々の世にまで伝えようと詠っています。
ところが、その都『やまと』は滅ぼされ、『日の皇子』も都から消されてしまいました。
その『日の皇子』が、いつまでも高い所から、つまり超高層の神殿に君臨していたら、この島の御門は、荒れるようなことにはならなかったのにと、出雲王朝の滅亡を嘆いています。
高照らす 我が日の皇子の 万代(よろづよ)に 国知らさまし 嶋の宮はも(2-171)
しかし、人麻呂は、その都であった『やまと』は滅ぼされてしまい今や荒れてしまっているが、高所に光り輝いていた『日の皇子』の歴史、すなわち『やまと』の国や、『あきづ島』にあった宮を万世、後々の世まで伝え残していかなければいけないと詠っています。
これは、人麻呂のある一つの動機、あるいは決意といったものを述べているようです。この列島の都だった『やまと』、その栄華盛衰を後々にまで伝えていこうと、相当な決意を詠っています。それまでの歌からも伺えますが、この歌からは、特にそれを強く感じます。
つまり、これこそが、『万葉集』編纂の動機だと考えられます。出雲王朝に伝わる歌の数々、そして、何よりも都だった『やまと』の姿を残そうとしたのではないでしょうか。
そこには、人麻呂自身がその人生の中で体験したことや、この列島の各地の姿もちりばめられています。
つまり、万葉集の編纂者の立場にあったのは、人麻呂自身ではなかったかと思われます。ですから、万葉集の基本的視点は、人麻呂の視点で貫かれているように感じます。
そして、人麻呂が出雲の地に帰り来て、その荒れ果てた『やまと』の姿を見た直後に、『伝え残さなければいけない』という大きな衝動が、人麻呂の中に生まれたのではないでしょうか。
その後、人麻呂は、出雲の地で万葉集の編纂の作業に取り掛かったのではないかと推察されます。万世(よろずよ)に伝え残そうと、万葉集を造りつつ、最後の最後まで、命のある限り、人麻呂は詠い続けたと考えられます。