苺
https://note-mitaskuras.tohogas.co.jp/n/ncebfa3d11244 【摘みたて苺のあの味を、パンと一緒に頬張る夏】より
俳句と暮らす vol.17
スーパーに初物のいちごが並びはじめるのは、毎年12月ごろ。その頃から、いちご狩りのシーズンも始まります。
凍てついた真冬の空気にいちごの明るさがまぶしくて、「もうそんな季節かぁ」と感じさせてくれますよね。
12月から初物のいちごが出回る現代では「いちごの旬は冬から春あたりでしょ?」と思われがちですが、実は「苺」は、夏の季語なんです。
本来、いちごは初夏のもの
今ではハウスで栽培されるいちごですが、露地のいちごは、だんだんと暖かくなってくる5月から6月にかけて、ゆっくりと熟していきます。
季語を集めた「歳時記」には、いちごは初夏の季語として収録されています。
この小さないちごは、私の祖母が畑で育ててくれて、今年5月下旬に収穫したもの。
市場にはなかなか出回らない珍しい双子いちごだったので、記念に撮りました。
甘酸っぱくて、なんだか懐かしい味。
派手な甘さはありませんが、とてもおいしかったです。
いちごは漢字で「苺」のほか、俳句では「覆盆子」と書くこともあります。
「苺摘」「苺畑」「苺狩」なども同じく初夏の季語。
ちなみに、「苺ミルク」が夏の季語として収録されている歳時記も多いです。
牛乳に完熟いちごを入れてつぶしながら飲む苺ミルクは、かつては初夏だけの楽しみだったんですね。
いちご狩り園が手がける、シーズンオフの味
さて今回は、夏の季語「いちご」を求めて、いちご狩り園を訪ねます。
12月から5月にかけてオープンし、たくさんの人で賑わういちご狩り園。
冬の日照量が多い愛知県はいちごの温室栽培がさかんで、いちご園もたくさんあるんです。
とは言え、もう6月下旬。
どのいちご狩り園も、シーズンオフです。
でも、今回ご紹介する「大府南いちごファーム」では、ファームで採れたいちごのおいしさを違うかたちで一年中お届けする、ある商品が大人気なんです。
オーナーこだわりの「わたしのいちご」
愛知県大府市にある、老若男女から人気のいちご園「大府南いちごファーム」。
緑豊かな大府の街を抜けると、小さな丘と三角屋根の“いちごハウス”が出現します。
ハウスの扉を開けると、甘酸っぱくてフレッシュな完熟いちごの爽やかな香りが、やさしく鼻をかすめます。
いちご一粒一粒を繊細な霧で包み込むようなミストシャワーが降るいちごハウスの中は、暖かいのに涼しげで、とても気持ちの良い空間です。
今回は大府南いちごファームのオーナー夫妻、大嶋 厚徳さんと優子さんに、オリジナル商品「わたしのいちごバター」についてのお話をお聞きします。
6次産業化を手がける大嶋さん夫妻がつくる「わたしのいちごバター」。
クラウドファンディングで話題になり、さらにテレビでも紹介されたことで人気は全国区へ。
現在はオンラインストアで入手することができます。
完熟いちごが主役の、贅沢いちごバター
摘みたての完熟いちごを贅沢に使用した「わたしのいちごバター」は、国産100%のバターのリッチな味わいやコクを感じられる、“バター感”の強い印象ながら、ホイップバターのようなふんわりとした口当たりです。
そこに、完熟いちごの果実感や繊細な香りがさらに引き立ちます。
「ジャムのような風味のものではなく、バターらしさのある、一度食べたら忘れられないような“本物のいちごバター”がつくりたい、と思って開発しました。いちごのことをよく知る私たちならできるかな、と」と大嶋さん。
その言葉の通り、「わたしのいちごバター」は生のいちごを思わせるジューシーさ、生クリームのような口溶けの良さで、なんだか新しいスイーツのような特別な存在感です。
そんないちごバターのクリームをたっぷり挟んだ、「わたしのいちごバターサンド」も人気です。
出荷できるようないちごを贅沢に使用
ファームで育てた2品種のいちご、「章姫(あきひめ)」と「よつぼし」を完熟の状態で収穫し、たっぷり使っていちごバターをつくります。
てっきり、出荷できないようなB品を使っているのかと思ったら…。
「それが、出荷できるようないちごばかりなんです。
業者さんにも『これ加工するの?このまま売れるのに…』って、いつも言われます(笑)。
自分が食べておいしいものしか、つくりたくないんですよね。
そのまま食べられるような品質のいちごで加工品を作ったら、絶対おいしいに決まってるじゃないですか!」(大嶋厚徳さん・優子さん)
色・艶・かたち、申し分ないいちごをたっぷり使用
常温保存ではなく冷蔵保存必須で、賞味期限も短めの「わたしのいちごバター」ですが、そこには「自分が食べて、本当においしい!と思えるものしかつくりたくない」という、オーナー夫妻の強い想いが詰まっていました。
売上のことだけを考えれば、出荷コストをおさえるために「常温保存可」を条件にした商品開発をしたり、数ある方法を駆使して賞味期限を延ばしたり…という調整もできる世の中ですが、「それより何より、おいしいいちごバターを届けたい」というオーナーの“いちご愛”が最優先。だからこんなにおいしいんだなあ、と納得です。
私はトーストより生のパンにつける方が好きです
ジューシーないちごを「いちごバター」で楽しむ夏
冒頭で少し触れた、私の祖母の畑には、毎夏いちごがたくさん実ります。
全体的に小粒で、虫に食われて穴があいているのもあり、いびつな形をしたいちごたち。
でもとても愛おしい存在。
虫食いいちごを嫌がる幼い私に「虫さんが選んで食べたってことは、おいしい印だよ!」と、今は亡き祖父に教えてもらったことも思い出します。
幼い頃、いちごが実ると妹と一緒に畑へ行って「いちご狩りだ!」と、摘んでは食べ、モグモグしながらまた摘んで…と畑のいちご摘みを楽しんでいた記憶もあり、私の思い出の中のいちごは、やっぱり夏なんですよね。
でも今は、いちごの旬が冬〜春にずれて、夏に手軽にいちごを手に入れることが難しくなりました。
そんな夏の食卓に、まさにフレッシュないちごを届けてくれたのが、この「わたしのいちごバター」。
瓶の中からそっとすくって、パンやクラッカーにのせたり、シンプルなシフォンケーキを焼いて、添えて食べたり。
まるで生のいちごを頬張っているようにジューシーで、濃厚なのに甘酸っぱくて。
どんな加工品よりも、“いちごらしさ”をダイレクトに感じる、そんな味わいです。
夏、いちごの旬だからこそ楽しみたい、いちごバター。
果実の恵みたっぷりのこの味が、すっかりわたしのお気に入りになりました。
暮らしの一句
ふわふわのバタに苺の粒のおと 麻衣子
【季語解説】苺(夏)
苺は、初夏(5月頃)の季語。
「覆盆子」とも書きます。苺摘、苺畑、苺狩なども季語です。
苺のあの可愛らしさにも通じる、健康的で、若々しいイメージを含んでいる明るい季語だと思います。
ちなみに俳句では、バターのことを「バタ」と表現した名句がいくつかあります。
なんだかおしゃれな食卓をイメージしたくなる表現だなあとずっと憧れていて、今回のいちごバターにぴったりだな、と。そのままバタと苺で一句、つくってみました。
https://longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20040509,20090724,20130705&tit=%E4%95&tit2=%8BG%8C%EA%82%AA%E4%95%82%CC 【季語が苺の句】より
苺ジャム男子はこれを食ふ可らず
竹下しづの女
季語は「苺」。春の季語と思っている人も多いだろうが、また実際に春先から出回るが、本来の苺の旬は夏だ。冬苺を除いて、野生のものはすべて夏に熟成する。詠まれたのは、昭和十年代初期と思われる。日中戦争が拡大しつつあった時期であり、軍国日本が大いに称揚された世相下であった。すなわち、日本男子たるものは軟弱であってはならぬと戒められた時代の句だ。「苺ジャム」のように甘くてべとべとしたものを好むようでは、ロクな男にはならないぞ。そう作者は警告しているわけだが、夫が急逝したために、女手ひとつで二男三女を育て上げた作者の気概は、おそらく一般男子に向いていたのではなく、息子たちにこそ向けられていたのだろう。この姿勢を「軍国の母」の一典型と見るのはみやすいが、当時の世相の中で、息子たちが人並み以上の立派な日本男子になってほしいと鼓舞する気持ちには、打たれるものがある。何かにつけて、父親がいないせいだと後ろ指などさされたくはない。そのためには、日頃の立居振る舞いから衣食住生活にいたるまで、おさおさ怠りのないようにと、母は二人を叱咤するのである。愚かだと、誰がこの明治の母を嗤えるだろうか。それはそれとして、総じて男は辛党であり女は甘党であるという迷信が、いまだに生きつづけているというのも不思議な話だ。男がひとりで甘味屋に入ると怪訝な顔をされるし、女ひとりが居酒屋で一杯やるのには勇気がいりそうだ。私自身は辛党に分類されるはずだけれど、甘いものが嫌いなわけじゃない。大学に入ったころ保田與重郎の息子と友だちになり、かの日本浪漫派の主軸邸で汁粉食い大会をやらかしたことを思い出した。しかし、以後はだんだんと世間体をはばかりはじめて、いつしか諾々と迷信に従ってしまった結果の辛党であるようだ。この主体性無き姿勢をこそ、私の常識では軟弱と言うしかないのだが。『女流俳句集成』(1999)所載。(清水哲男)
投票の帰りの見切苺買ふ
岸田稚魚
見切苺は言葉の発見。この発見で一句の核は決まる。あとは演出だ。誰かが見切苺をどうするのか。あるいは見切苺自体がどうにかなるのか。主客を決め、場面を設定する。投票を用いたために、見切苺は社会的な寓意を持つに至る。熟し過ぎたかすでに腐敗も始まっているか。結局は食えずに無駄になるかもしれないけれど、それでも俺はあの候補に投票したぞという喩が生じるのである。寓意は最初から意図されると、実るほど頭を垂れる稲穂かなのように実際の稲穂の描写とは離れてまったくの箴言、標語のようになる。この句、庶民の生活の一コマを描写したあとで、じわっと寓意を感じる。その「間」が大切。『負け犬』(1957)所収。(今井 聖)
本を買い苺の箱と重ねもつ
田川飛旅子
ああこれぞ「写生」だ。苺の必然性を問題にすると苺は苺らしくあらねばならず、この句の場合だと苺の箱の大きさが本の大きさとちょうど合っているというような議論になる。あるいは赤い色が鮮烈だとか。みんな後講釈に思える。箱の大きさが本と重ねもつことができる大きさでそれが即ち季語であれば御の字ということになる。たとえば苺の箱の代りに玩具の箱だと大きさもぴったり、韻律もぴったり、子供へ買ったという生活感も出るが、季語になりませんからな。俳句にはなりませんな。ということになる。どこかおかしいような気がする。季語が季節感のために必要ならそもそも冬でもスーパーで売っている苺は季節感を持つのか。苺は夏が旬だとしてもなぜそんなことが絶対的教条になるのか。写生というのは目の前のものをよくみて写すことだ。今を切り取ることだ。田川さんはそういうところを攻めた俳人。この句にもそんな主張がアイロニーのように込められている。『花文字』(1955)所収。(今井 聖)