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福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】

「十字架につけられたキリスト」

2024.06.03 11:39
ガラテヤ人への手紙3章10-14節
10. 律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。11. 律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。12. 律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。13. キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。
14. それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

礼拝メッセージ

使徒信条シリーズ⑦

2024年6月2日

ガラテヤ人への手紙3章10-14節

「十字架につけられたキリスト」


 長野県の東部に佐久市という所があるのですが、そこの観光スポットのひとつに「ぴんころ地蔵」という、わりと新しく作られたお地蔵さんがあります。私はクリスチャンですから、見に行くことも拝むこともしませんでしたが、世の多くの人たちが、健康で長生き(ぴんぴん)したまま、寝込まず楽に大往生する(ころりと逝く)ことを、そのお地蔵さんに願い求めるのだそうです。長いこと寝たきりになって、自分にも家族にも負担をかけたくない。そんな思いが「ぴんころ地蔵」をはやらせているのかもしれません。

良い死に方をしたい。平安のうちにおだやかに笑顔で逝きたい。自分も周りの家族も「これまで十分よく生きた。良い人生だった」と納得して逝きたい。家族や周りの人たちに「おじいちゃん(おばあちゃん)は、本当に長生きしたね。天寿を全うしたね」と思われたい。そんな理想的な最期を誰しも期待するでしょう。静かに眠るように天国に行きたいと思います。

それとは反対に、のろわれたような死に方をすることを決して望みません。「あんな人、早く死んでほしい…。殺してしまいたい…」そう思われることは、恐ろしいことです。わら人形に名前を記されて、木に釘打たれるような恨まれ方はごめんです。

しかし聖書は驚くことを伝えます。私たちの救い主、神の子であるイエス様がのろわれた者として殺された…と。愛に満ちているイエス様がのろわれた死に方をなさった…と。長寿を全うし、静かでおだやかな最期とは、正反対の亡くなられ方でした。そこは布団の上でも、病室のベッドの上でもありませんでした。

使徒信条で私たちは「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、」と主の十字架の死を告白しています。今一度、十字架の重み・その意味を受け止めていきましょう。

教会がシンボルとして掲げている十字架。ちまたでも、ネックレスやお守りとして身に付けられていたり、車内の正面につるされていたりする十字架は、本来はローマ帝国の極刑(死刑)でした。しかも死刑囚をさらし者とする刑でした。十字架にかけられる者は、自分がこれからはりつけにされる重い十字架を背負わされ、罵声(ばせい)の中、エルサレムの町を引き回され、それから町の外、ゴルゴタの丘へと登らされます。裸にされ、地に横たえられた十字に組まれた木の上に寝かされ、押さえつけられて、手足を太い釘で木に打ち付けられます。大きなハンマーが振り下ろされた瞬間、悲鳴が丘にこだまします。そして十字架が地に立てられると、自分の身体の重みで手足が裂けるのです。激痛が走り、呼吸困難に陥り、長い苦しみの後、窒息や心不全を起こして死ぬのだそうです。十字架は想像を絶するむごたらしい苦し過ぎる死に方でした。

イエス様に従っていた者たちは、「離れたところに立ち、これらのことを見ていた」(ルカ23:49)のです。あまりにも辛すぎて、そばで見届けることができませんでした。イエス様を死に追いやった指導者たちだけでなく、隣にいた死刑囚も、さらに通りすがりの者たちまで、イエス様をばかにし、あざけり続けました。マルコの福音書15章29-32節

通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲(あざけ)って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。

十字架はローマ帝国が生み出した残酷な処刑の方法でしたが、ガラテヤ人への手紙3章13節にも言及されているように、旧約聖書の時代にも重罪人が処刑され、木にはりつけにされるという見せしめが行われていました。ガラテヤ3章13節で引用されているのは、旧約聖書・申命記の21章22、23節です。一節手前の21節から見ますと、

21. 町の人はみな彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。イスラエルはみな聞いて恐れるであろう。22. ある人に死刑に当たる罪過があって処刑され、あなたが彼を木にかける場合、23. その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる土地を汚してはならない。

旧約聖書の中で、特に律法で定められた極刑のほとんどが石打の刑でした。それは個人的に恨みを晴らすとか、仕返しをするというあだ討ちではなく、正式な公的裁判と判決を経て、社会や共同体が責任を持って、みなで重罪人を処刑するというあり方でした。ところが石で打たれ死んだ者の遺体を、見せしめのために木につるすということがあったようです。申命記のおきては、そういうむごたらしい見せしめをしても、その日のうちに木から降ろして、きちんと埋葬しなさいと定めています。のろわれたままで放置しておいてはいけない。人も神様も見るに忍びないような、さらされ方を、翌日までも持ち越してはいけないと命じていました。

さらにイエス様が体験された「のろわれた死に方」とは、十字架のむごたらしく、痛々しく、恥ずかしい苦しみだけではありません。死の直前のイエス様の雄たけびに表されています。

そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコ15:34)

罪の全くないお方が罪そのものとして、父なる神様から罰せられ、のろわれ、見捨てられるという耐えがたい恐怖・孤独・苦悩をイエス様は体験されたのです。それこそ神にのろわれた十字架の死でした。

先ほど交読した申命記28章のみことばにあったように、聖書では「祝福」の対義語として「のろい」が語られています。神様が私たちに与えてくださる「祝福」とは、この世での繁栄・健康・長寿・平和という面を超えて、愛に満ちておられる神様がいつも共にいてくださるということです。ですから、反対の意味の「のろい」は、神様が自分から遠くに行ってしまっている、神様から自分が引き離されていることです。

今、通読している出エジプト記の中でも、モーセが悲痛な訴えを神様にしていますよね。禁じられている偶像=金の子牛の像を造ってしまい、みなで拝み、不道徳な行為にふけっているイスラエルの民に対して、神様は激怒され、「もうお前たちとは一緒に行かない。自分たちだけで勝手に行け」と見離そうとされます。モーセは必死に神様に取りなします。

モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。(出エジプト記33:15)

主なる神様が共におられないとしたら、たとえ自分たちだけで約束の地を獲得したとしても、それはむなしいです。神様に見捨てられ、のろわれた状態です。神様、私たちと一緒にいてください。一緒に約束の地に向かってくださいと懇願するのです。

永遠に一体であり、共にあり続け、愛し愛され、祝福し祝福され続けるはずの父と子が、のろい・のろわれるという恐ろしい状況に置かれました。それがイエス様の十字架でした。

聖なる正しい神様のいましめ・おきてに背いてしまう罪人の私たちです。本来は私たちが負わなければならない神様からののろいでした。見捨てられるべきは、さばかれるべきは、罰せられるべきは私たち自身でした。すばらしい神のいましめ、律法を与えられていながら、それを破り続け・背き続けている私たちです。どんなに聖く正しく生きようとしても、どこまでも不完全な私たちです。与えられたルールが完璧であればあるほど、すばらしければすばらしいほど、それを守れない私たちの罪があらわになるのです。律法ののろいとは、そういうことではないでしょうか。

ガラテヤ3章10,11節
律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。

本来は私たちが受けるべきのろいをすべてイエス様は引き受けてくださって、私たちの罪をすべて背負ってくださって、身代わりに主イエス様は、あの十字架でのろわれた者(父なる神から罰せられ、見捨てられた者)として処刑されたのです。

私たちが滅びること、のろわれたままでいることを良しとはなさらず、何とかして救い出したい、祝福を注ぎたいと、切望しておられる神様のたぎるような思い・深い愛と憐れみのゆえでした。

ガラテヤ3章13,14節
キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

  私たちののろいを全部代わりに引き受けて、主イエス様は十字架でいのちをささげてくださいました。私たちの代わりにのろわれたものとなって、主は死なれました。

このイエス様の十字架の愛と赦しを信じるときに、受け入れ、いただくときに、私たちはのろいから祝福の関係へと確実に移されるのです。神様との関係が途絶えていた(死んでいた)のろいの状態から、何があっても神様の愛から引き離されることがないという(生きている)祝福のうちに入れて頂くのです。

聖書は、この救いを信じ受け入れなさい。今が恵みの時なのだからと語っています。

神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(Ⅱコリント 6:2)

これから聖餐式にあずかります。神の御子イエス様が、私にかかっていたのろいを、全部ご自身で引き受けてくださって、十字架で私の代わりに父なる神にのろわれた者として罰せられ、いのちをささげてくださったことを覚えましょう。

残酷で、痛々しく、悲惨な十字架ですが、そこに神様の壮絶なご愛とあわれみが現れていることを信じ、受けとめていきましょう。十字架がどれほど大きなものであるのか。どれほど慰めに満ちたものであるかを確認し、受け取ってまいりましょう。

祈ります。