「江戸名所四日めぐり」⑧東コース㋑両国橋・永代橋・佃島
馬喰町公事宿から本町通りをそのまま辿れば浅草御門から「日光道中」となる。今日「四日めぐり」第4日目はコースを東へとり、「初音の馬場」があった辺りから現在の靖国通りを広小路から「両国橋」へ向かう。明暦3年(1657)に発生、都市火災では世界でも類のない大被害をもたらした「明暦の大火」によって、江戸の町は約6~7割が焦土と化し、10万7千余の犠牲者を出した。この犠牲者たちは、火事そのものよりも、府内から逃げてきた避難者が隅田川を渡る橋が無く、船も出払っていた。江戸の初期、幕府は政策により、はるか上流の「千住大橋」しか架けていなかったため多くは水死、また正月18日に発生したため江戸の町は真冬の極寒であった。寒さからくる凍死、飢えからくる餓死でその被害は拡大していった。幕府はこれを強く受け止め、千住大橋に次ぐ第2の大橋の架橋を決定した。徳川の幕藩体制を守る「武断政治」から、民衆と共に徳川の政治体制を維持する「文治政治」へと施政方針を大きく舵をきった。江戸城本丸天守閣の再建を中止、被災した市民に炊き出しを行い、見舞金を配った。この救済策の中心となったのは、3代家光の異母弟、保科正之である。
これを踏まえて、幕府は火事や地震から江戸の市民を守るため、インフラの整備に務めた。御三家を始め大名屋敷を江戸城から遠ざけ、神社仏閣の郊外移転、元吉原の浅草田圃への移転など、江戸市内の有効的土地利用の拡大を図った。併せて、被災時の混雑緩和を目的として、道路幅の拡大、広小路、日除け地の整備、防火、消防設備の充実にも力を入れた。上野、浅草と並ぶ「両国広小路」は、両国橋の西端、東端に整備された。明和、安永年間(1658~61)頃から見世物小屋、芝居小屋、水茶屋、船宿などが集まり出して、一大歓楽街と成長していった。「川遊び」は万治年間(1658~61)ころから始まり、狭い九尺二間のスイートホームから抜け出した、江戸っ子たちに加え武士階級も、両国橋は勿論、屋形船、屋根船、緒牙舟に、その間を商いするウロウロ舟まで加わって、川を埋めるほどの賑わいをみせた。「川凬を 売り物にする 江戸の夏」であった。享保18年(1733)8代吉宗は、前年飢餓とコレラの大流行で沢山の犠牲者が出たことから、悪疫退散のための水神祭を行った。水難者の供養と、疫病で亡くなった人たちへの慰霊、法会「川施餓鬼」である。これを契機に毎年旧暦5月28日から8月28日までの3ヶ月間「両国川開き」が始まった。両国橋を中心に上流は綾瀬川辺りから、下流は佃島、御浜御殿辺りまで、茶屋などの夜間営業が許され、これに合わせて上げられた花火が、現代も隅田川花火大会として続く「両国花火」の始まりである。上流は玉屋下流は鍵屋が担当、この金銭的負担は船宿8割、料理茶屋が2割であった。初日は対岸の辰巳芸者が踏ん張りをみせ、地元の柳橋の芸妓衆は江戸っ子の気風をみせゆるりと花火を楽しんだ。「吹けよ川凬 あがれよすだれ なかの小唄の 顔見たや」江戸っ子たちの本心が詠まれた。
両国橋の創架年次には二説ある。徳川実記による万治2年(1650)説と、後年の公文書による寛文元年(1661)説である。これは仮橋と本橋を混同したためと思われている。幕府はこの橋の名称を「大橋」とした。しかしこの橋を行き来する江戸っ子たちは、「武蔵の国と下総の国を結んでいるんじゃ、両国橋じゃねえの」ということで、幕府も庶民の意見を尊重して、元禄6年(1639)下流に「新大橋」が創架されたことを契機に、正式に両国橋と呼称する事にした。「橋杭で 国と国とを 縫い合わせ」。この決定から約50年弱後の貞享3年(1686)幕府は両国橋の架橋により、本所、深川地域の都市化が進行、その結果による人口増加により、下総葛飾郡の一角まで(現在の江戸川)を武蔵の国に移管した。このため両国橋の地域的立場は、武蔵の国に存在する一国橋となったというオチまでつく。こうした歴史的背景をもつ両国橋は長さ164,5m、幅24mの木橋、当初は現在の位置より約50m下流、「回向院」の正門を結び、府内からの参詣口になっていた。明暦の大火で犠牲になった10万余人のうちの無縁仏約2万人余は、当初本所牛島新田に埋葬されていたが、諸宗山無縁寺、阿弥陀如来を本尊とする回向院に埋葬された。その後は浅間山大噴火による「天明の大飢饉」、「安政の大地震」など、大地震、大水害などの災害時による無縁仏を回向、仏たちを極楽浄土へ導いた。知名人では山東京伝、加藤千蔭、ねずみ小僧の墓もある。回向院は両国広小路に至近なため、境内では諸国寺院の出開帳や勧進相撲も開かれ、年間を通して賑わいをみせた。
元禄15年(1702)12月15日未明、見事亡き殿の無念を晴らした、元播州赤穂浅野家の家臣内蔵助以下47士は、本所吉良邸から回向院で態勢を整えようとして寺に掛け合ったが、回向院側は寺法を盾に入山を認めなかった。幕府の感情を考え、無用な衝突を避けた結果であった。内蔵助はひとまず両国橋東詰で上杉家の対応を見極めていたが、それもなしと見定め、「一ツ目通り」を南下、深川萬年橋から永代橋へ凱旋した。現在東詰南側には大高源吾と宝井其角其角との出会いを記念して「日の恩や 忽ち砕く 厚氷」の句碑が建つ。公事宿の江戸めぐりもこのコースを踏む。因みに一ツ目とは、3代家光は容態を鍼で緩解させたくれた杉山検校に「何か欲しいものは」と問うた。検校は「せめてひとつ目を」と答えた。家光は目の代りに隅田川沿いに屋敷を与えたという。隅田川沿いの一ツ目通りから始まり、二ツ目、三ツ目(木場)、四ツ目(錦糸町)と、江戸城に並行して幹線道路が敷かれている。またこれに併せて、深川地域の掘割も縦横に掘りめぐらされ、江戸城に対して縦に結ばれている掘割には「北十間川」「堅川」「仙台堀」「小名木川」など、併行に結ばれているのは「大横川」「横十間川」などがある。両国橋から南下した「新大橋」近くは、幕府直轄の「御船蔵」、3代家光の時代は将軍家御座船「安宅丸」が係留されていたが、維持費の経費がかさむため解体され、現在ではその碑だけが残る。「蓑虫の 音を聞きに来よ 草の庵」と詠まれた芭蕉庵を後にすると、小名木川第一橋梁「深川萬年橋」。この橋を葛飾北斎は「富嶽三十六景 深川万年橋下」で、欄干の向こうに富士を入れ、歌川広重は「名所江戸百景 深川萬年橋」で、手桶に吊るされた亀に富士を望かせている。深川萬年橋北詰西側から眺める「清洲橋」は下流の「永代橋」の男性的フォルムに比べると女性的それをしている。斜め後方からの景観は隅田川随一と云われる。ドイツライン川に架かる橋をモデルとし、名称は対岸中洲と地元清澄白河から一字を充て命名された。四十七士が甘酒をふるまわれた乳熊屋は、永代橋手前、ここの主は源吾の俳句仲間であり、其角の弟子でもあった。本懐を果たした赤穂浪士たちは永代橋を渡たり、鉄砲洲にあった元上屋敷に挨拶して、高輪泉岳寺に凱旋した。
元禄11年(1698)創架の永代橋は、5代綱吉の永遠の治世を願って名づけられたとも云われ、江戸府内では、両国橋、新大橋に次ぐ3番目の橋、この後「吾嬬橋」が続き江戸四橋となる。「江戸名所図会」には「長さおよそ百十間≒198m、幅三間一尺五寸、永代島に架するゆえに名とす。諸国への廻船、湊の要津たる故に、橋上至って高し」とあり、橋げたの高さは千石船の帆柱が全部たたまなくてもいいように、大潮の川面から約3丈余≒10m、現在の3階建てに匹敵する高さであった。ために橋の中央に立つと、視界は四方に広がり、北に筑波山、東南方向は房総の海が広がり、西南25里には霊峰不二が聳えていた。文化4年(1807)永代橋は、深川よりの手前で橋桁が崩れ一部崩落、沢山の犠牲者を出すという惨劇が発生した。この事件の原因は深川八幡の祭りで、折からの悪天候が続きにしびれをきらした江戸っ子たちが、天気の回復を待って一気に橋を渡り始めたのが主原因とされているが、創架の際、上野寛永寺根本中堂の余材を使用したからとも、その後のメンテナンスに怠りがあったためとも伝えられた。いつの時代も天災の他に、人災はついて回った。「永代と呼ばれし 橋は落ちにけり 今日は祭礼、明日は葬礼」と落首された。
また、橋上からは正保元年(1644)、摂津国西成郡佃村の漁民たちによって、14年かけて漁の合間をぬって、大川の川砂と「しがらみ」を持って築島された「佃島」が手に取るように眺められた。「しがらみ」とは、竹と木を交互に編み、川との仕切り部分となる網の内側に、蛎殻を砕いた粉と川砂を混ぜて塗り込める。そうすることによって盛った土砂の崩れ落ちるのを防ぎ、水分を含んだ川砂がそのフィルターを通して自然に濾過され、島側の土地は乾燥されていくというものだが、しがらみについていえば、「江戸の男と女のしがらみ」について云えば、現在でもそうだがこんなに優れた機能を果たしていない。どちらかというと相変わらず情に絆されている。それはそれで他人様の関することではないし、それもまた江戸時代らしくて良しである。佃島は「江戸の図に 点をうったる 佃島」と詠まれるように、名目でも100間四方の隅田川砂洲に浮かんだ、不如帰がひと声鳴く間に通り過ぎてしまうほどの小さな人工の島であったが、白魚と佃煮と藤の花は群を抜いていた。ここ佃島と川を挟んだ対岸新川の間は、江戸随一の「江戸湊」であった。上方からの「下り酒」などが千石船に載せられて、築地本願寺の大伽藍を目印に、江戸の海から入津して来た。江戸湊の碑がある隅田川テラスに立つと、隅田川=大川の所以が頷ける。 次回東コースは、御不動さまから深川八幡の祭り、五百羅漢と、深川飯など江戸の好物も探ります。
「江戸純情派 チーム江戸」しのつかでした。次回もお楽しみにです。