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① 日本人が知らない日本誕生の真相

2024.06.08 06:21

FacebookGHQ 焚書アーカイブス投稿記事   小野妹子って、なぜ「妹子」なの? 名前に隠された日本人のルーツ

歴史の授業で不思議に思ったことはありませんか? 小野妹子は、なぜ男なのに「子」がつくのだろうと。そもそも「子」という名前は、古代中国の思想家に付けられていました。

老子、孔子、孟子といった有名な思想家にも「子」がつき、それらの「子」は「先生」という意味の尊称であったようです。

その後、その使い方が日本にも入ってきました。

日本最初の遣隋使であった小野妹子をはじめ、蘇我馬子や、聖徳太子など、日本でも身分の高い男性に対して「子」が使われるようになったそうです。

平安時代に入ると、高貴で身分の高い女性にも「子」はつけられるようになり、紫式部・清少納言が仕えた一条天皇の中宮、彰子様や定子様も「子」が付けられています

そして現代でも、美智子様、雅子様、愛子様をはじめ、現代の皇室の女性の名前は、ほとんど「子」がついており、ひと世代前の皇室の女性をみても、「子」が付く名前がズラリと並んでいます。

世間では一時期、名前に「子」がついていないと、皇室には決して嫁げない…と噂されていたほどです。

この名前が大衆に広がりはじめたのは、日本が近代化に突入する明治以後。少しづつ女性の活躍が増え始めた大正に、皇室への憧れも相まって「〜〜子」がどんどん増えはじめます。

そして、大正10年(1921年)から昭和31年(1956年)まで、1位から10位の全てを「子」が付く名前が独占します。その期間、なんと36年。

西洋文化を取り入れ日本が急成長した激動の時代、女の子が誕生すると親はこぞって「〜〜子」と名付け、また当時の皇室に対する尊敬や熱狂ぶりも凄まじいものでした。

なぜ、これほど皇室という存在は熱気に包まれていたのでしょうか?

国の象徴だったからでしょうか?

神話にも登場する神聖な存在だからでしょうか?

教育や新聞で皇室の重要性が教えられていたからでしょうか?

これらも勿論あるのですが、じつは、2600年続く日本の皇室には、もっと大きな秘密が隠されているようなのです。戦前はその秘密を多くの日本人が当たり前に知っており、それゆえ皇室はずっと大切に守られてきたのです。

その皇室の秘密を知ると

なぜ日本は鎖国が明けてたった数十年で急成長を遂げ、アジアで唯一の先進国になれたのか

なぜ日本は武士道など、世界から見ても独特の精神性を持っているのか

なぜ戦後すぐの日本人は、見事な高度経済成長を遂げ『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という本が海外で出版されるほどの大躍進ができたのか

など、戦前戦後の日本人の強さの秘密も分かるのですが…

その秘密はGHQにとって、日本人に知られては非常に都合の悪いものだったようです。それがこの本を禁書処分することによって裏付けされていました。

幸いにも禁書処分を逃れた本が、コレクターや図書館によってわずかながら残っており、 75年ぶりに開封。

本に書かれた皇室の秘密を解き明かす動画をこの先のページで公開しています。

メールアドレスを登録するだけで、TVや新聞では触れることすらない(触れることができない)、ここだけの情報が詰まった動画をご覧いただけます。

その動画の内容は、今まであなたが信じてきた日本の常識を覆すものかもしれません。

いつまで公開できるかわかりませんので、少しでも気になるようでしたら、「詳しくはこちら」からご確認ください。


https://www.rekishijin.com/8723 【倭の五王って誰だ?~歴史を推理し遊んでみると、意外と真実が見える】より

中国の文献に現れない日本「謎の4世紀」

仁徳天皇陵とされる大仙古墳の展示模型/柏木宏之撮影

 古代日本列島には文字が無かったというのが定説です。

 ですから古代の日本の記録は残念ながら文字の国、中国の古文献にほんの少し触れられた内容に頼らざるを得ません。

 ところが倭国の情報は西暦300年代のおよそ100年間、中国の文献に現れません。だから「謎の4世紀」と呼ばれています。そして次の400年代初頭から再び倭国の情報が記載され始めます。

 それが「倭の五王」と呼ばれる「讃、珍(彌)、済、興、武」の五代の倭王情報です。

 当時は大和王権成立後ですから、倭王といえば大王(おおきみ)のことでしょう。

 しかしこんな名前の大王は皇統譜にはありません。中国国家に対して中国風に名乗ったのかもしれませんし、中国国家が名付けたのかもしれません。いったい誰のことなのか? 謎解きが始まります。時代から推理したり、記載された五王の関係から推理したりするのですが、何ともはっきりしないのです。

 5人目の「武」が雄略天皇であろうということはどの説もほぼ一致していますので、逆算すると⑤武=第21代雄略、④興=第20代安康、③済=第19代允恭と対照されますが、問題は珍と讃なのです。②珍(彌)は第18代反正か第16代仁徳、①讃は第17代履中か第16代仁徳か第15代応神かと、最大で候補者が3人もいるのです。

古代中国の王朝に承認されることを望んだ倭国王たち

26代継体天皇陵とされる今城塚古墳公園・形象埴輪/柏木宏之

 その推理も面白いのですが、それよりも重要なことはそれぞれの大王がなぜ中国に遣いを送ったのかということではないでしょうか。それは中国王朝に貢物を送り、朝鮮半島の経営権を求めていること、そのために肩書を受けようとしていること。

 当時の中国は世界最高水準の先進国家でしたから、倭国王は古代中国の王朝に臣従する形をとって承認されることを望んだのです。ですからその肩書の長い事!5人目の武に与えられた称号は「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」だそうです。

 謎の4世紀は、海外に遣いを送る余裕も無く内乱に明け暮れていたのか? 中国大陸も小国乱立の時代でしたから、倭国どころではなかったのか?

 5世紀になってようやく五王が中国国家に遣いを送って、その後ろ盾で朝鮮半島経営に乗り出そうとしたのでしょうか。

 もちろん8世紀の初めには『日本書紀』が完成し、伝承のような形で神話時代からが記されていますが、中国や朝鮮国家の古代史書と照合して考えないと正確なことがわかりません。専門用語で「史料批判」という難しい研究が必要になります。

 古代には何があったのでしょうね?皆さんも推理に参加して遊んでみてはいかがですか?


https://note.com/cozylaw/n/n54d498d2775a?magazine_key=m4365a478b837 【日本人が知らない日本誕生の真相② 倭と隋の微妙な頓智外交】より

遣隋使が倭王について語ったこと

教科書では厩戸皇子(聖徳太子)が摂政だったとされる西暦600年。倭王が中国を統一した隋の皇帝に使者を送りました。これを遣隋使と言います。

隋の皇帝が倭から来た使者に対し倭王の様子について尋ねたところ、使者はこんな説明をしたのだとか。

「倭王は、天が兄であり、日が弟です。まだ天が明けない時に出て、座禅しながら政(まつりごと)を聴きます。日が出れば、すぐに理務を停めて弟に委ねます。」

それを聞いた高祖は「それは甚だ不合理(あるいは不義理)であるから改めるよう」訓令した。以上、WIKI PEDIAより

さて。この意味がおわかりでしょうか?

<高祖>とは隋の皇帝ですが、不合理だから改めろと倭王に指示したそうです。何が不合理だったのでしょう。

座禅は体に悪いから椅子に座った方がいいよ。起床時間が早すぎるとみんなに迷惑じゃない?

日が出てから仕事やめてんじゃねえよ。そんなふうに「不合理」と思ったとしても、外交ルートではるばる倭国にその改善を促すなんてことはありえませんよね。

つまり、これは倭国がけしかけた謎々であり、皇帝にはこのナゾナゾの意味がわかったのだと思われます。

なぜなら、公式に「改善を訓令」するほどの重大事だと認識したのだから。

これは頓智(トンチ)みたいなもの。つまり、一休さんのごとく柔らかい頭で解釈した方が面白そうです。

聖徳太子 - Wikipedia  ja.wikipedia.org

倭王は天が兄で日が弟 「天」と「日」は何を意味しているのか。「日」は太陽のことでしょうね。では「天」とは何か。

「天」と「日」は別々の存在として扱われていますから、「天」は夜空を意味しているのでしょう。

「天が兄」で「日が弟」だと言うのだから、その中間にいるのが倭王だということです。

で、それは何を意味するのか。

https://www.youtube.com/watch?v=hJiH095uLi4

「明けの明星」 つまり「金星」ではないでしょうか。

夜が明けて太陽が出てくる前に金星は地平線から昇ってきます。つまり、金星は「天」と「日」の間にいます。

<倭王は金星である>と言いたいのだとしたら、それは何を意味するのでしょうか。

「天皇」「天下」とかいう言葉があるように、権力者にとって「天」は非常に重要な概念です。そして、「天」において一番偉い存在とは何か。

北極星ですね。夜空の星々は不動の北極星を中心に巡りますから、北極星は最高権力者である皇帝の象徴です。

しかし、金星は惑星ですから、ほかの星々とは違い、独自の軌道を巡ります。

しかも、金星は「明け方」と「宵(日没時)」に出現しますが、倭王は夜明けに太陽とともに出現するのだと主張しているので、「自分は日が昇るところ」にいるとも主張しています。

倭国の真意は つまり、倭国は<皇帝の支配する世界には属さないで、日が昇る東方世界で独自に行動します>と主張しているわけです。

「日が昇るところ」は「日のもと」であり、やがて「日本」へとつながってゆくでしょう。日本史上、いや日本人にとって、極めて重要な概念です。

これに対して皇帝が「問題だ」と思ったのです。倭王は皇帝の権威を尊重するにしても、その権威には服従しないで、東の方で自分なりにやっていきますと言っている。

隋帝国にとってこれは、世界の中心たる皇帝権力の否定であり、挑戦とも受け取れる重大な外交問題です。

ただしこれは、皇帝からの問いかけに倭王の使者が倭王の生活の様子について答えたにすぎません。

この使者は、あらかじめこう答えることを倭王から言い含められていたのでしょうか。それとも外交官としての独自の判断だったのでしょうか。

いずれにしても、倭国の外交姿勢を正式に語ってしまうと取り返しのつかない外交問題になりかねないので、あえて謎めいた表現にして皇帝の反応について様子をみたのです。実に巧妙な外交センスです。

これに対し皇帝が「改めろ」と抗議したことで、倭国は中国側の認識を探ることができました。やはり、東の果ての倭国でも、独自路線は危険な賭けなのです。

倭国は独自路線を模索中それで、皇帝の訓令に対して倭王はどう反応したか。

倭王はこんな手紙を皇帝に送りました。

日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無しや、云々

これをラップ調で現代語訳してみます。

オレ、東の天子。お前、西の天子。メール送るぜ、最近元気かい~♪

これを読んだ皇帝はどんな気分だったでしょう。私が皇帝だったら、こう思います。

「コイツ、いつかぶっ潰す。」

けんか腰のような気もしますし、それほどでもないのかもしれず、そのあたりは私にはよくわかりませんが、なんとなく強気です。

ともかく、倭国は中華帝国との外交にまだ不慣れで、国際的な立ち位置を模索中です。

日本人にいま知っておいてほしいこと

かつて倭国が統一された中華帝国と外交関係を持っていたのは邪馬台国の時代までで、その後、中国の政権は南北に分裂し、古墳時代の倭王は中国の南朝に朝貢していました。

朝貢相手として南朝を選んだ理由についてはいずれ触れますが、南朝と仲良くしていた倭国は北朝から見ればとりあえず敵です。

分裂している中国は倭国に侵略する可能性がないという意味で、倭国にとって脅威ではなかったので気軽に付き合えましたが、ついに統一されてしまい、その力が倭国にも及ぶ可能性が生じてきました。

敵側であった北朝によって統一された中華帝国に対し、倭国はどう向き合うべきか。

選択肢はいくつもありますが、この課題が倭国の政治情勢に混乱をもたらし、その未来を左右することになるでしょう。

その「未来」には今我々が生きている現代の日本も含まれています。

日本人である皆さんには、今こそ「日本」の意味を知っておいてほしいと思ってこれを書いています。なぜなら、日本誕生当時と似たような状況が今起きつつあるからです。

今の中国も南北に分裂していますが、それが統一されたらどうなるか。

とにかく、私は謎の多い7世紀について時間をかけて語ってゆきます。


https://note.com/cozylaw/n/n6df7972ee7e3 【日本人が知らない日本誕生の真相③ 7世紀初頭の倭国の国際情勢】より

やまとが生き残るには

倭国の政治体制

ここで厩戸皇子(聖徳太子)がいた頃の倭国が置かれた環境を眺めてみましょう。

倭国は半世紀前の「磐井の乱」の後は騒乱も少なく、倭王権の影響力は東北地方南部から九州にまで及んでいました。

ヤマト王権 - Wikipedia  ja.wikipedia.org

当時の倭王の権力は江戸時代の幕藩体制における徳川将軍家のような立場であったと想像しています。

現在の奈良県は「やまと」という王国の中枢であった場所であり、これに京都府、大阪府を足した、いわゆる「畿内」と呼ばれる地域は、徳川時代における「関八州(関東地方)」のようなもので、倭王権に直属する部族がたくさん居住していたと思われます。

ほかの地域には小さな独立国がたくさんあり、それらの国の王(きみ)は「やまと」の王に属していました。

「やまと王」は服属する諸国の連合体を代表する大王(おおきみ)として諸外国と外交していました。「諸外国」とは主に南北の中国王朝、朝鮮半島の3つの国、つまり北部の高句麗、南部の百済と新羅です。

百済・新羅・高句麗と倭王の関係

半島の覇権を争う三国はそれぞれ倭国を味方につけようと必死で、倭国も半島南部に領地みたいな場所を持っていました。

その一部を百済に譲渡したり、新羅の侵略を受けたりといったことがあって、欽明天皇の時代には半島にもっていた権益のほとんどすべてを手放してしまったようです。これがいわゆる「任那」です。

三国時代 (朝鮮半島) - Wikipedia  ja.wikipedia.org

欽明天皇(厩戸皇子の祖父)は任那(半島東南部)を再興するよう遺言して亡くなったとの記録があります。

任那を奪った新羅は基本的に倭国にとって敵性国家でしたが、新羅はさまざまな外交努力で倭国との戦争を回避するよう努めていました。

百済は4世紀からすでに倭国とは友好関係にあり、かなり親密な付き合いがありました。

北方の高句麗は倭国連合と境界を接していませんが、半島南部の覇権を巡って4世紀以降、倭国と軍事衝突したことがありました。

一方、6世紀以降の倭国は半島に軍事介入する意欲を徐々に失っていったようです。

複雑な半島情勢に翻弄されて国力を疲弊するより、半島諸国とは一定の距離を置いて、列島内の開発と安定に力を注いだ方がよいという考えに変わっていったのでしょう。

隋 - Wikipedia  ja.wikipedia.org

隋による中華の統一

西暦589年、東アジアの情勢を一変させる事件が起きました。中国の北半分を支配していた「隋」という国によって、南半分を占める陳という国が滅ぼされ、隋が久しぶりに中華を統一したのです。

歴代中華王朝は統一によって余力ができると領土拡張戦争を始めます。

朝鮮半島も前漢の時代には楽浪郡、玄菟郡、臨屯郡、真番郡という直轄領が設置されていましたから、統一後の隋が領土奪還を名分として半島に勢力を拡大する可能性が高まります。

隋の拡大を恐れる高句麗は、背後にある百済と新羅を抑え込むために倭国と仲良くしておきたいでしょう。

百済と新羅も生き残りのために倭国を利用しようとします。倭国王家の周辺には各国のスパイが暗躍し、様々な陰謀を働かせていたはずです。

倭国政権の内部では、親百済派、親新羅派、親中国派、中立派などが入り混じって複雑な権力抗争が展開されていたと想像します。

これが厩戸皇子が二十歳になった頃の国際情勢でした。

倭国独自の政治体制を隋に認めてほしい

高句麗が隋に滅ぼされたら、その次は百済と新羅が併合され、その次は倭国連合が危ない。

倭王が隋に恭順したら、倭王は倭国連合の盟主としての地位を維持できるだろうか。

これが倭王にとって最大の外交課題でした。この課題に取り組むにあたって最初にやるべきこと。それは隋政権の実態をよく知ることです。

だから、隋に使者を派遣して外交関係を持とうとします。そして、倭国連合体制をそのまま認めてもらえるかどうかを探ることになります。

倭王としては、隋の覇権に挑戦も邪魔だてもする意思がないことを隋の皇帝に信じてほしいのです。

その代わりに、この東方の島国の政治体制を現状維持で皇帝に認めてほしい。

隋の皇帝がそれを認め、倭国王の地位を保証してくれるかどうかはわかりません。

もし仮に「保証する」という言質を取ったとしても、あとで手のひらをかえされる可能性はあります。

隋が高句麗を滅ぼそうとするのなら、倭国を滅ぼそうとする可能性も否定できません。

中華王朝に服従したら倭国連合の未来はどうなるのか。滅ぼされて直轄支配を受けるのか、多少の自治は認められても収奪を受けるのか、形式的に服従さえすれば実質の現状維持を認めてくれるのか。

これががわからないということが倭王権にとっての悩みですから、できることなら中華と深く関わらないで、孤立主義を選びたくなります。

日本はまだ存在していない

隋と倭国では国力だけでなく文明のレベルが違いすぎます。

圧倒的な軍事力で半島が中国化されたら、「やまと」に属する小国家群は中国になびき、「やまと」は畿内地方の小国の地位に転落するかもしれませんし、悪くすると滅ぼされます。

当時の日本列島にはいろいろな言語を話す種族が雑居していて、まだ「日本人」が成立していません。

倭人は半島各地にも散在しているし、百済政府には倭系官僚とでも言えそうな集団がいたようですし、中国人、百済人、新羅人なども列島内に散在していたでしょう。

この時代は現代人がイメージするような国家的領域は定まっていないのです。倭王の覇権が半島に及ぶことも、逆に九州から撤退することも、当時の人たちの意識ではありえたと思います。

そういう感覚で地図を眺めないと、この時代の真相に迫れなくなってしまうでしょう。

隋軍の列島侵攻の可能性

この時代のほんの百年前には倭王自身が中華皇帝から将軍の称号などをもらって喜んでいました。

そうすることで倭国内での権力を安定化する効果が見込まれたのでしょうが、それほどの権威が中華王朝にはあったし、一方で倭王権の地位はそれほど不安定でもあったのです。

隋軍が列島に侵攻するなどということはありえない。と倭王は考えていたでしょうか。

当時の人々は正確な地図を持たないし、中華王朝の実力も自国の国力も数値的な把握はできません。

しかし、遣隋使からの報告で中華文明とのレベルの違いも、人口や軍事技術もお話にならない格差であることも想像できていたはずです。

少なくとも、かつて倭軍は対馬海峡を越えて半島に数万の軍勢を派遣した実績があります。倭軍にできたことが隋軍にできないとは言えないでしょう。

つまり、半島を制圧した隋軍が九州へ、そして畿内に侵攻する可能性は、当時の倭王にとって現実的な脅威であったと思うのです。

やまとが生き残るには

隋が倭国に進攻しようとしたとき、倭国連合の分裂を阻止するにはどうすべきか。

隋の属国となるのでなければ、隋に対抗できる強力な国家を作って軍事的に防衛するしかないでしょう。

それは、倭国連合の結束をより強固にすることであり、最終的には権力を倭王(やまと王)に集中させることです。

ならば、どうやって地方の小国や特権勢力を倭王の直接管理下に置くか。

これは明治維新における廃藩置県と同じで、特権を廃止し、軍事統率権や税の徴収権を地方政権から奪おうという企みですから、当然反発が予想されるし、失敗すると自滅の恐れがあります。

倭王権はこの課題をどのように乗り越えようとしたのでしょう。