② 日本人が知らない日本誕生の真相
https://note.com/cozylaw/n/n35a30ee1092c?magazine_key=m4365a478b837 【日本人が知らない日本誕生の真相④ 仏教による中央集権化戦略】より
倭王の課題は地方氏族の統合
倭国では様々の氏族が割拠し、それらの氏族を緩やかに束ねる王が列島各地に存在しており、それらの王たちの盟主である「やまと王」が畿内におりました。
私のイメージでは天下統一後の豊臣政権に近いかと思います。
5世紀の雄略天皇の頃が、倭国の拡張主義の限界に達した時代です。
この天皇のあと、倭国王権は内向きになっていき、6世紀に継体天皇が出現する頃には半島での直接統治の情熱をほぼ失ってしまったようです。
7世紀になると、隋帝国に対抗して倭国の政治体制をより強固にする必要から、地方政権や氏族から権力を奪って倭王権が直接統治する必要に迫られました。
そんな時期に日本書紀で厩戸皇子と呼ばれている「やまと」の王族が倭国連合の指導層に登場しました。
彼が推古女帝の摂政であったのか、倭王だったのはわかりません。実質的には蘇我馬子が政治を主導していた可能性が高いと思われます。
この列島では、古来から各地の氏族が各々祀る神々がいて、いつ頃からか、祖先を大切な神として崇めるようになりました。
祖先を崇めることは、祖先から受け継いだ地位や伝統を持続させる欲求と裏腹です。
祖先を祀る最大の祭祀場所が古墳だと考えていますがどうでしょう。
古墳時代ですから、地方民は地方権力の象徴である古墳を毎日眺めながら生活しています。
古墳 - Wikipedia ja.wikipedia.org
古墳システムの解消
古墳時代では、倭王の古墳が最も大きく、倭王以外の権力者の古墳の大きさもその地位の高さに応じて決まるという仕組みがあり、権力者たちは古墳の形や大きさによって自身の権力を誇示していました。
江戸時代の大名がおおむね保有石高に相応した規模の城を築城することで大名としての地位を誇示していたのと似たようなものでしょう。
なお、古墳の大きさは5世紀前半ごろが最も大きく、この頃は吉備(岡山県)でも巨大古墳が造られました。地方にも有力な王権が存在していたのです。
その後は全体的に古墳が徐々に小さくなっていきました。
国内の国土開発がピークを迎え、半島への軍拡も限界が見えてきたことで、量より質を重視する傾向が強まっていったのではないかと思います。
バブル崩壊後の虚無感のようなものが5世紀末には漂い出していたような気もします。
それでも、古墳の存在感は倭王権が地方権力を統合するうえでは邪魔な存在となります。
民が日々見ている風景の中に常に古墳がある状態では、彼らにとっての主人は古墳の主、またはその子孫です。
地方民にとっての倭王は外国の偉い人であって、そんな倭王に従おうという気分にはなれません。かといって、古墳をなくすこともできません。
仏教による新たな支配秩序
少しずつでもいいから穏やかに倭王の偉大さを地方に浸透させたい。
そんなとき、東アジアで広まりつつあった仏教を倭王が率先して広めたらどうなるでしょう。
仏をこの世界における唯一絶対の存在としてしまえば、地方の神や祖先神を仏より格下の存在にすることができ、同時に倭王が仏教の擁護者として最上位の立場を確立できます。
そのためには圧倒的にきらびやかな寺院を立てて、その迫力を見せつけるのが一番です。
倭王権は7世紀が近づくと、四天王寺など地方豪族が真似できない、きらびやかな巨大寺院を建設しました。
五重塔の荘厳さと建築技術とその社会的機能に比べ、古墳は大きいだけで野暮でなんの役にも立ちません。
神より仏にすがる方がより現実的で利便性も高いしかっこいい。そんな価値観が社会全体に広がってゆきました。
仏教は半島に近い九州からではなく、倭王権の中枢である畿内を中心として普及してゆきました。
和宗総本山 四天王寺 - 日本仏法最初の官寺
聖徳太子が建立した、日本仏法最初の官寺。宗派のこだわらない和宗総本山です。
寺院の社会的機能とは?
寺院には様々なメリットがあります。一つは「読み書き文化」の普及です。
経典を読むには漢字、つまり外国語の学習が必要ですが、この時代の倭人の多くは漢字をよく知りません。
しかし、寺院では経典を、つまり外国語を教えてくれるわけです。
寺院に行けば経典を通じて読み書きができるようになり、国際感覚も身につき、異言語コミュニケーション能力も高まります。
倭国の文書も漢字で表記されますから、漢字の読み書きができるようになった人材は優秀な役人として倭王からヘッドハンティングされ、出世の道が開かれます。
明治時代に英語やフランス語を学んだ渋沢栄一みたいな人が政府高官になったのと同じで、低い身分の出身でも、寺院で最先端の知識を身に着けると、倭王権に属する役人として自然とエラくなります。
こうして6世紀の倭王権は何世代かに渡って、紆余曲折はありながらも半島国家から仏僧を招聘し、経典を輸入し、寺院を作らせるなどして徐々に仏教の普及を推進しました。
伝統と血統で地位を受け継いできた氏族たちにとって、この変化はその地位を脅かすことになりますから、負けじと子弟を寺院に派遣して勉強させ、そこで倭王を中心とする新国家主義の思想を学ばされることになります。
こうして仏教の普及を通じて新しい秩序が生まれてゆきました。
外交権を独占して仏教導入を推進する倭王と、倭王を補佐する優秀な官僚集団が形成され、倭王権は氏族権力に対して徐々に優位に立ってゆきます。
仏教の擁護者とされる厩戸皇子は、新しい倭国の象徴として若い官僚群の希望の星に見えたかもしれません。
仏教公伝 - Wikipedia ja.wikipedia.org
蘇我氏の台頭
7世紀初頭には、倭王権を国家元首とした国家制度の整備が推進され、憲法が作られました。
氏族という集団ではなく個人を評価する冠位十二階という人事評価制度も生まれました。
こうなると、優秀な人材ほど地方政府よりも倭国政権のために働くという気運が広がります。
ここに至る過程では蘇我氏が急速に台頭していました。蘇我氏こそ仏教の先駆者であり、新しい中央集権国家体制の脚本家でもありました。
そして厩戸皇子は蘇我氏の血を受け、蘇我氏に支持されていました。
しかし、仏教が普及する過程では、この変化に反発する勢力もありました。
その筆頭が物部氏です。物部氏は饒速日(ニギハヤヒ)という祖先神を持ち、倭王権が「やまと」にやってくる前の時代に「やまとの王家」だったかもしれないほどの古い伝統と格式を持った氏族です。
物部氏 - Wikipedia ja.wikipedia.org
行政トップが真の権力者になる時代
物部氏もさすがに時代の流れ、つまり仏教を土台とした新国家主義を否定しようとまでは思わなかったでしょう。
しかし、その機運に乗じて倭国を事実上乗っ取るかのような勢いを示す蘇我氏に対して警戒感を抱きました。
新しい倭王権というのは、優秀な役人が法にもとづいて国家を運営する体制です。
これは中華王朝の律令制をもとにイメージされた国家体制でしょう。
倭王は神聖権力として君臨し、倭王を補佐する行政組織が国家を運営する。その行政組織のトップは事実上、倭王以上の権力を持ちえます。
その行政トップの地位を蘇我氏に取られたら、物部氏などの古い氏族は地位と栄光を奪われ、蘇我氏を上司として仰ぎみる立場に転げ落ちてしまいます。
古い氏族達にとっては、どうせ頭を下げるなら、相手は蘇我氏より物部氏であった方が自尊心が傷つかずに済むでしょう。
物部氏はとても興味深い氏族なので、次回に詳しく触れたいと思います。
https://note.com/cozylaw/n/nc0794dfbcfc3?magazine_key=m4365a478b837 【日本人が知らない日本誕生の真相⑤ 恐怖の戦闘氏族物部氏】より
吉備王の反乱
倭人がまだ飽きもせず列島中で古墳づくりに汗を流していた西暦460年頃、吉備の国の王が新羅と通じて反乱を起こしたと聞いて、雄略天皇は兵士30人を送って吉備王の一族を皆殺しにしたと日本書紀にあります。
吉備は倭国連合のなかでも最有力の国で、江戸時代における加賀前田家みたいな存在です。
吉備は岡山県あたりですが、瀬戸内海の大国が外国と手を組んで反乱を起こせば倭国は大混乱です。
造山古墳
「造山古墳」の情報は「岡山観光WEB」で。全国第4位の規模をも持つ、5世紀前半の前方後円墳です。全長約350m、後円部径約
www.okayama-kanko.jp
普通、こういうときは大軍を繰り出して城攻めするんじゃないかと思うんですが、たった30人で一国の支配者を一族ごと皆殺しって。。。
このとき吉備に派遣された30人が物部氏なのです。
モノってなんだろう
「モノの部(べ)」の「モノ」はどんな意味でしょう。
「武士や兵士」を「もののふ」というのは「もののべ」が由来だと思うのです。
「物々しい」という形容詞には「堂々としている。重々しい。大げさな。」という意味がありますが、これは重武装している様子が語源だと思われます。
「モノおじしない」と言えば、「怖いものにおそれない」という意味ですし、「もののけ」と言えば「おそろしいもの」の「け(気)」という意味です。
このように「もの」は日本語の深層に根付いている言葉ですが、「モノ」はもともと「武具」を意味しているのではないか。
「部(べ)」とは、ある特殊な仕事を担当する集団を意味します。現代でも野球部とか人事部といった使われ方をしますが、「モノの部」だったら「武具を専門的に扱う集団」となるでしょう。
物部氏は要するに、武具を使う人たち、すなわち戦闘のプロ集団として世間で認められた氏族ということです。
30人で吉備王一族を殲滅
当時すでに倭国は半島で高句麗の騎馬軍と万単位の戦力で戦った実績があるのですから、吉備に大軍を派遣することもできたはずです。
しかし、吉備王は「やまと王」と親戚関係でもあり、政治的にも強い結びつきがありました。もし大軍を動員して戦争となれば、犠牲者も多くなるし、恨みも残るでしょう。
戦争をしないで反乱軍の首脳を直撃できれば、いいに越したことはないのですが、それができるとは普通は思いませんよね。
反乱を起こしたのですから、吉備王の住居は武装した兵士によって日夜厳重に警戒されていたはずです。
物部の兵士はそこにわずか30人で押し入って吉備王一族を全滅させる実力があったのです。最新の武器とその使い方を日夜研究し訓練を積んでいたのでしょう。
忍者のようにこっそりと襲撃したのか、それとも「物々しく」堂々と正面から攻撃したのか。
派遣された30人という数にはなにか合理的な意味がありそうです。
僕の想像では、堂々と正面から仕掛けたと思います。
内通者がいて、船一隻で夜間に乗り込んだら、結構いけるかなと。
石上神宮 - Wikipedia ja.wikipedia.org
最強戦闘部隊
初代神武天皇が東征のときに持っていたとされる布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)という剣が、なんと今でも天理市の石上神宮に祀られていますが、この神社は物部氏が管理した大和朝廷の武器庫でした。
倭王直属の特殊戦闘部隊であった物部氏は、九州で起きた磐井の乱や半島出兵に際しても倭軍の統率者として数万の軍勢を指揮することがありました。
現代で言うなら米国におけるCIAか海兵隊みたいな存在でしょうか。
徳川将軍家における井伊家のように見られていたかもしれません。おそらく倭国全体に物部氏の出先機関があって、情報収集と分析も行っていたでしょう。
だからこそ倭王権を支える最重要勢力として「大連(おおむらじ)」の筆頭たる地位を聖徳太子の時代でも保持していたのです。
古い氏族の希望の星
戦闘のプロ集団としての重責を担い、古い伝統と格式を保持して倭王を補佐してきた物部氏が、仏教文化の担い手として台頭する新興の蘇我氏と対立するのは自然な成り行きです。
蘇我氏が歴史に登場するのは蘇我馬子の父である蘇我稲目からで、それ以前のことはいろいろな説がありますがよくわかりません。
いち早く仏教を取り入れ、倭国に普及させる役割を担いましたが、その過程でしばしば古い支配層から反感を買いました。
こういう場合、新興勢力としては一気に頂点に登り詰めて、反対勢力を圧倒しようという気分になるものです。
物部氏は蘇我氏の対抗馬に祭り上げられたのかもしれません。
古い氏族たちにとって、わけのわからん成り上がり者に服従するよりも、長年ともに倭国を支えてきた物部氏に頭を下げる方がまだ納得できるので、どうせなら物部氏を支援したいと思う氏族が多かったと想像します。
そして物部氏が蘇我氏と激突する丁未の乱が起こります。
このとき厩戸皇子は14歳。
戦闘のプロである物部軍に対し蘇我氏が苦戦するこの戦いで、少年厩戸皇子も参加していました。丁未の乱にいたる背景に迫ります。
https://note.com/cozylaw/n/n9ba7abd820fa?magazine_key=m4365a478b837 【日本人が知らない日本誕生の真相⑥ スパイファミリーを巡る倭国・百済・新羅の熾烈なスパイゲーム】より
倭系百済官僚日羅
6世紀末、日羅という人物が登場します。
その父は肥後国の葦北(現在の葦北郡と八代市)の国造で刑部靭部阿利斯登(おさかべゆげいべのありしと)と言います。
刑部(おさかべ)と靭部(ゆげいべ)はそれぞれ氏族としての役割を示していますが、軍事的な性格が強い氏族だと想像されます。
「アリシト」は地方の首長を意味する用語で、個人名ではないものと思われます。
537年、新羅が任那に侵攻したとき、倭国がこれに対抗して大伴金村の指揮下で派遣軍を編成しましたが、この任那派遣軍に葦北のアリシトは従軍したようです。
こういう場合、倭軍は百済軍との共同作戦を取り、長期にわたって現地に駐屯します。
このとき、葦北のアリシトは派遣先で百済の有力者との間に一子を設け、その子が百済の高官となって、日本書紀では日羅という名前で記録されました。
この名前、本当か?という気がしますが、それはあとで触れるとして、このように倭人の血を引きながら百済王に仕える役人になった者を学術的には「倭系百済官僚」とも言うそうです。
倭国王による日羅召喚要請
583年、敏達天皇は新羅に占領されている任那を奪還することを考え、百済政府の中でも知恵と勇気があると言われる日羅を呼び出して、外交政策について質問しようと考えました。
しかし、百済王はなかなかそれに応じません。
そこで倭王は吉備海部直羽島(きびのあまべのあたいはしま)という者を百済に派遣しました。
羽島はひそかに日羅の家の門まで行くと、中から日羅の妻が表れて韓語(おそらくは百済語)で「あなたの根を私の根のうちに入れよ」と言って家の中に戻ったので、羽島はそのあとをついてゆくと、そこに日羅が表れ、手を取って座席へ案内しました。
日羅は
「百済王は私が倭王の元へ行ったら二度と返ってこないのではないかと疑っているから私を倭国へ行かせたくないのです。倭王の命令を強い口調で伝えないと私を出国させてくれませんよ。」
と羽島に助言しました。
その後、百済王は羽島からの要求に従い、日羅のほか、恩卒、徳爾、余怒、奇奴知、参官、舵取徳卒次干徳、水夫らの随員をつけて日羅の出国を認めました。
これら随員の呼び名は個人名ではなく役職であろうと思われます。
倭国内で暗殺さる
来日した日羅一行は河内国渋川郡跡部郷あたりに滞在し、その後、倭国政庁に呼ばれ、半島政策に関して倭国首脳らから意見を求められました。
このときの倭国側首脳は、阿部目大臣、物部贄子連(守屋弟)、大伴糠手子連(大伴金村の子)でした。
そのときに日羅がこんな発言をしたと日本書紀は記録します。
「天皇が天下を治める政治は必ず人民を養うことであり、にわかに兵を興して民力を失い滅ぼすようなことをすべきではありません。
今、国政を議る人は、上から下まで皆富みさかえ、足らないところのないように努め、このようにすること三年。
食料兵力を充たし、人民が喜んで使われ、水火も辞せず、上下一つになって、国の禍を憂えるようにします。
そのあとで多くの船舶をつくり、港ごとにつらねおき、隣国の使者に見せて恐れの心をおこさせ、有能な人材を百済に遣わして、その国王をお召しになるとよいでしょう。
もし来なかったら、その大佐平(高官)か王子らを来させましょう。そうすればおのずと天皇の命に服する気持ちが生ずるでしょう。そのあとで任那の復興に協力的でない百済の罪を問われるのがよいでしょう。」
「百済人は謀略をもって<船三百隻の人間が筑紫に居住したいと願っています>というでしょう。
もし本当にそうしたら、許す真似をするとよいでしょう。
百済がそこで国を造ろうと思うなら、きっとまず女、子供を船に乗せてくるでしょう。
これに対して、壱岐対馬に多くの伏兵をおき、やってくるのを待って殺すべきです。逆に欺かれないように用心して、すべての要害には城砦を築きましょう。」
日羅の発言は当然ながら百済政府にとって許されない裏切りでした。
そして、百済政府の随員であった徳爾と余奴という者らが難波に滞在中の日羅を付け狙い、ついに暗殺されました。
その遺体は物部贄子と大伴糠手子により小郡の西畔丘にとりあえず埋葬されました。
倭国内で繰り広げられるスパイゲーム
日羅は倭王に属する有力豪族の子であり、百済政府の官僚とは言え、倭国と百済との仲介役的な存在だったと思われます。
彼は百済政府の外交機密に関わっていたのですが、百済を裏切って倭国に外交機密を漏らしたから暗殺されたという話になっています。
百済王は裏切りを心配して「余計なことを言うなよ」と脅していたのでしょうか。
そのことを日羅の妻も知っていて、「あなたの根を私の根のうちに入れよ」と言ったのでしょうか。
これはつまり、日羅は「ひそかに倭国に亡命したい」と願っていたという意味なのか。それを察して百済王は百済の随員たちに日羅を監視させていたのか。
日羅は倭国滞在中、甲冑を身に着け、馬にのって滞在先から倭国の政庁に向かい、甲冑を脱いでから発言しました。すでに暗殺を恐れていたのです。
倭国高官との会話の最中だけ甲冑を脱いでいたのは、百済の随員はその場にいない状態で、日羅は倭国政府の高官と密談をしたということかもしれません。
しかし、日羅の発言は百済の随員たちの耳に入りました。そして、その発言から裏切りが明確になったので、彼らは暗殺したのです。
百済の軍事機密が日羅を通じて倭国首脳に漏洩し、その外交機密情報が倭国首脳部から百済の随員に漏洩した結果、日羅が倭国内で暗殺された。かなり異常な事件です。
百済による九州侵略計画
日羅は倭国首脳への発言のなかでこう言っています。
「百済人は謀略をもって<船三百隻の人間が筑紫に居住したい>と願いでます。そうしたら倭王はそれを許すふりをしてください。
百済が九州に国を作ろうとすれば、船に女や子供を乗せてくるでしょう。これに対して壱岐、対馬に多くの伏兵を置き、彼らがやってくるのを待って殺すのです。
この策に気がつかれないないように用心して、すべての要害に城砦を築いてください。」
なんと、百済政府が百済人を九州に移住させて乗っ取ろうと考えていたというのです。
船一隻に50人のれるとすれば15000人。そして倭王は倭軍に命じてこの集団を壱岐と対馬で襲撃し、皆殺しにするという作戦なのです。
日羅は息を引き取る間際に「これは新羅の仕業ではない」と言ったと日本書紀に記録されます。
日羅は妻子を同行していましたが、倭国政府は変事を防止するため、日羅の妻子たちを石川の百済村に、同行していた水夫たちを石川の大伴村に隔離して住まわせました。
水夫たちが日羅の妻子を襲撃する可能性があったのです。
暗殺犯の末路
暗殺犯は倭国政府に逮捕され、百済政府の命令で暗殺したことを自供しました。
暗殺犯らは身柄拘束後、葦北から呼ばれた日羅の一族に身柄を引き渡され、彼らによって殺害されたあと弥売島というところに捨てられました。弥売島がどこであるかはわかりません。
日羅はその後、日羅の一族の手で九州の葦北で埋葬されました。日羅はもともとから葦北の一族と密接な結びつきがあったと思われます。
なお、暗殺犯に指示をした百済政府の役人は二人いて、二人とも逃走に成功し、そのうちの一人が乗った船は対馬海峡で強風のため沈没したとのことです。
この事件には謎がある
しかし、どうもこの事件は腑に落ちないことがたくさんあります。
百済王が日羅の裏切りを恐れていたのなら、日羅を百済国内で暗殺すればよいのです。
そもそも、百済が九州に侵攻するなどといったことがありえたでしょうか。
百済は新羅と敵対関係にあるのに、新羅の存在を無視して同盟国である倭国に戦争をしかけたら、喜ぶのは間違いなく新羅です。
というのもこの話の発端は、敏達天皇が新羅に軍事侵攻しようと考え、日羅ならそのためによいアドバイスをくれるであろう。
つまり日羅は新羅侵攻に前向きな人物であると倭王は考えていたわけです。
ならば百済王は何を恐れ、日羅はなぜ、百済にとって不利なことを倭国で発言したのか。
日羅という名前
日羅という名前も不思議です。姓が「日」で名が「羅」。それはないでしょう。
これは日本書紀編纂者が作った名だと思います。日本の「日」と新羅の「羅」をくっつけただけ。
もちろん、敏達天皇の時代に「日本」は存在しません。
では、日羅という名にはどんな意味があるのか。素直に考えれば、日本と新羅に関係しているという人という意味でしょう。
日本書紀は日羅が新羅のスパイであったと言いたいのでしょうか。だとすれば、日羅が百済を裏切るのも当然ということになります。しかし、なにか引っかかります。
新羅政府の立場から考えると
日羅は新羅侵攻計画に前向きで、知恵と勇気もあって、倭王からも信頼されていたのですから、日羅が倭国に行けばどうなるか。
倭と百済の連合軍が新羅に攻め込んでくるのです。それを阻止しようとすれば新羅はどうするか。
日羅を暗殺すればよいのです。どうやって?
日羅が百済の九州侵攻計画を倭王に通報したというニセ情報を倭国内にバラまいたうえで、新羅のスパイが百済の随員をそそのかして日羅を暗殺させ、それを百済政府の仕業だったことにする。
こうして倭国と百済はギクシャクして新羅侵攻計画は頓挫する。
新羅にとって完璧なストーリーです。
百済王は、日羅が倭国で暗殺される、又は陰謀に巻き込まれることを心配していたから、倭国に送りたくなかったのではないか。
しかし、倭王があまりに強く要請するので、仕方なく警護役を随伴して出国させてみたら、その警護役が新羅の陰謀にはまって日羅を暗殺してしまいましたと。
こうして新羅侵攻計画は消えてしまいましたが、倭国と百済がこのあと不和になったという話が日本書紀に出てきません。
書紀編纂者が日羅に言わせたかったこと
うがった見方をすると、日羅はもともと新羅に通じていた可能性も浮かんできます。
しかし、日羅の真の目的が新羅の国益のためだったかどうか。倭国が半島に出兵すれば半島南部が戦場になり、倭人も韓人にもたくさんの犠牲者がでますし、社会は疲弊します。
戦争を回避したいという単純な思いで日羅は行動したかもしれません。優秀な外交官なら、内心は戦争回避を目指していても、駆け引きとして好戦的なイメージを世間に印象づけることはありえます。
平和を願いながら好戦的人物だと誤解された結果の悲劇だったとしたら。
「これは新羅の仕業ではない」
という言葉には、
<倭国は新羅と戦争をしてはならない。防衛に徹するべきだ。>
という意味が込められているかもしれません。
日羅が倭国に伝えた百済による九州侵攻計画という幻も、倭国の対百済政策についての進言も要するに、
倭国は国を安定させてその国力を見せつければいいのだ
九州防衛にだけ専念すればいいのだ
と言う意味ではあっても、半島情勢に軍事介入せよとは言っていないのです。
百済軍に備えて九州の軍備を整えることにしても、実際に百済軍が侵攻する心配はないのですし、万が一、中華帝国が九州に攻め込んでくる場合には役に立つのですから、日羅の進言は専守防衛を基本とする安全保障戦略として妥当なものなのです。
日羅事件の真相
今のところ、私はこう妄想します。
百済と倭国は新羅侵攻計画を企て、その連絡役として百済は日羅を派遣しましたが、日羅は両国首脳の意に反して
「新羅と戦争するより国内の安定に努めましょう」
と進言しました。
それは日羅が倭国と百済の国家的利益を冷静に分析した結論だったかもしれませんが、少なくとも倭国王(またはその背後にいる勢力)にとって日羅の発言は意に反するものでした。
そして、日羅が暗殺されたことで計画は立ち消えになってしまいました。
暗殺が百済によるものか、新羅によるものか、はたまた倭国の誰かによるものかわかりませんが、日羅にとっては、暗殺犯が新羅だとされると倭国と新羅の戦争になってしまうので、「新羅ではない」と言わなければならなったのではないか。
だとすると、暗殺犯は新羅侵攻計画の背後にいて、日羅を倭国に召喚しようとした勢力、つまり、大伴氏や物部氏ではないかと想像されます。
彼ら有力氏族の期待を裏切って日羅は戦争計画を否定してしまったので、百済の随員に指示して暗殺させ、下手人も始末して証拠も残らぬようにしたのです。
暗殺の実行を指示した百済の役人は逃げてしまっています。そして倭と百済はその後、何事もなかったかのようにふるまいました。
もちろんこの話は私の妄想であり、史実ではないでしょう。
ここで重要なことは、日本書紀編纂者がこの物語のために大量の文字数を費やしているということです。つまり、なにか重大なメッセージが込められているのです。
日本書紀の編纂当時に百済はすでに存在していませんが、日本と新羅は存在しています。そしてその時代にも日本はたびたび新羅征討を企てました。
日本書紀編纂者は日羅の言葉を借りて伝えたかったのかもしれません。
<日本は戦争をしてはらならない>と。
だから彼の名前を「日羅」としたのではないでしょうか。
日本と新羅の友好を願って。
古代史のスパイファミリー
倭国内部では半島政策を巡る複雑な対立抗争が起きていました。
日羅を召喚し、暗殺後に埋葬したのが物部氏と大伴氏です。
彼らは倭系百済官僚と密接な関係があったと想像します。葦北のアリシトはもともと大伴氏と強く結びついていました。
日羅の家を密かに訪問した吉備海部直羽島に日羅の妻が、
「あなたの根を私の根のうちに入れよ」
と言いました。
日羅のルーツは葦北のアリシトであり、おそらく彼らは大伴氏の系統です。
吉備海部直羽島のルーツはその名の通り「吉備氏」です。
「大伴も吉備も根は倭王を支える有力氏族ではないか。だから助け合おうよ。」
みたいな意味でしょうか。倭人の有力氏族は倭系百済官僚を通じて百済王国内に深く食い込み、百済、倭、両国の力で任那を復興することを夢見ていました。
任那復興は有力氏族達にとって既得権益の回復を意味します。
彼ら有力氏族達は血縁関係にある倭系百済官僚を使って勢力拡大に努めました。
日羅のような倭系百済官僚はほかにもたくさんいて、歴史の陰で暗躍し、重大な影響を与えた可能性があります。
一方では、半島情勢から距離を置き、国内を安定化しつつ、律令による中央集権化を推進しようとする勢力もありました。
この二つの勢力の対立は、やがて武力をもって解決する方向へ向かいます。
7世紀の倭国を見ていると、半島に軍事介入するかしないかがしばしば重大なテーマとなっていて、その背景では半島三国の外交政策が強く影響していたと思われます。
この当時の倭国と半島三国との間では激しいスパイゲームが展開し、命のやりとりをしていました。
日羅は自分が暗殺されることをむしろ望んでいた可能性もあります。
そうなれば戦争を回避でき、彼の提言も実現するのですから。ただし、「新羅の仕業ではない」と言っておく必要がありました。
日羅の家族は古代史のスパイファミリーだったのかもしれません。