柿本人麻呂と和気清麻呂
https://iwatomura.exblog.jp/33334613/ 【柿本人麻呂と和気清麻呂】より
双系相続は天皇・皇后双方が皇族であることが求められる。柿本人麻呂は文武天皇の妻が一般人の宮子であることで文武天皇即位に反対して粛清された。和気清麻呂は孝謙天皇が一般人の道鏡と結婚して道鏡を天皇にすることに反対して英雄になった。2つを分けたもの、単純である。持統天皇は反対にかかわらず文武天皇即位を強行した。孝謙天皇は反対を受け入れ道鏡を天皇にしなかった。強行し、習慣を破り反対者を粛清した方が評判がよい、歴史評価はフェアにやってほしい。
https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12830770679.html 【「いろは歌」と「即身成仏」の謎 その12】より
「和気清麻呂」(わけのきよまろ)は天平5年(733年)、備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)に生まれた、奈良時代末期から平安初期にかけての貴族である。天平宝字8年(764年)に発生した「藤原仲麻呂の乱」では孝謙上皇側に参加、天平神護元年(765年)正月に乱での功労により勲六等の叙勲を受け、3月には藤野別真人から吉備藤野和気真人に改姓している。
この「真人」(まひと)は、天皇から氏族に対して授けられた姓(カバネ)の一つで、天武天皇13年(684年)に制定された八色の姓で最高位に位置づけられている。真人賜姓は天武天皇が構想する皇親政治の一翼を担うもので、対象となったのは、確かな事実で過去の天皇の子孫であった氏族である。氏を持たず王を名乗るが、代を隔てて皇位継承の圏外にあるような皇族と、真人はしばしば同列におかれた。天武天皇の治世を通じ、真人の氏は、朝臣・宿禰の諸氏より冠位が高かったのである。
「天皇」の称号が道教の「天皇大帝」に由来するという説とともに、この「真人」も道教由来のものとする説がある。老荘思想・道教において人間の理想像とされる存在や仙人の別称として用いられる言葉である。また秦の始皇帝が自らを称する時に使う「朕」(ちん)に代わる一人称として、真理を悟ったとして「真人」を使用している。八色の姓のなかでは道師も道教の神学用語と重なっており、また天武天皇の諡(おくりな)である「瀛真人」(おきのまひと)は道教の神学では「瀛州」(えいしゅう)という海中の神山に住む仙人の高級者を意味する。
始皇帝=「真人」
「瀛州」とは秦の始皇帝が言う「日本」の呼び名であり、「瀛」(えい)とは始皇帝の姓である。「瀛政・嬴政」のどちらでも始皇帝の名。つまり、天武天皇は「始皇帝の末裔」としての諡を送られたということである。さらに和気清麻呂が「和気真人」を名乗れたのは、天皇の末裔だったからであり、武内宿禰の末裔だったからでもある。なぜなら、武内宿禰とは第26代「継体天皇」でもあるからだ。
◆秦氏の預言者「和気清麻呂」と「猪」
「宇佐八幡宮ご神託事件」の際、「道鏡を皇位につければ國平らかにならん」とされた八幡神の神託の真偽を確かめに宇佐神宮へ行くよう命じられた和気清麻呂は、「皇室の血筋でない道鏡は掃(ハラ)い除くべし」とする宇佐神宮の神託を持ち帰って朝廷に直奏。怒かった道鏡は清麻呂を大隈(鹿児島)に追放し、追っ手を出した。
清麻呂は、道鏡の追っ手に足の腱を切られ、立つことすらできなくなったが、皇室を守った八幡神に感謝するため、宇佐八幡へ立ち寄ることする。そして、一行が豊前国(福岡県東部)に至ると、天地雷鳴が轟きどこからか三百頭もの猪(いのしし)が現れる。猪たちは清麻呂の輿(こし)の周りを囲み、道鏡の刺客たちから守りながら、十里(40キロ)の道のりを案内。清麻呂が宇佐八幡での参拝を終えると、猪たちはどこかへと消え去り、不思議なことに、清麻呂の足は回復し、再び歩けるようになっていたという。以後、和気清麻呂を祀る神社の「神使」(しんし)、「御先」(みさき)が「猪」となった。
和気清麻呂を守護する三百頭の猪
宇佐八幡では、「八幡大神のご守護により数々の奇跡がおきた」と伝えている。この八幡神の守護による数々の奇跡なるものが、いったいどこまで本当の話かは分からないが、なにせ清麻呂は武内宿禰の末裔である。「宿禰」とは「璽=契約の聖櫃アーク」に触れることが許されたモーセの末裔を意味している。つまり、清麻呂は絶対神の預言者だったということである。
この奇跡の伝承に因んで、和気清麻呂を祀る「護王神社」や「和気神社」、「足立妙見神社」などには、霊猪(神使)として猪像が置かれており、また、清麻呂が京都の鎮護として、愛宕山に創設した「愛宕神社」の神使も猪とされる。猪は清麻呂の守り神であるとともに、清麻呂が皇室を守護したことで、猪は皇室を守護する神使としても崇敬されている。だからこそ清麻呂ゆかりの神社には、狛犬がわりに「狛いのしし」が鎮座しているのであり、天皇陛下を守るため〝文武二忠臣〟の和気清麻呂と楠木正成の像がまるで「狛犬」のごとく皇居に「結界」として置かれている。
「猪=皇室を守護する神使」と考えた場合、猪が死ぬことは「不吉の前兆」となる。2022年12月7日午前10時20分過ぎ、栃木県那須町那須岳にある「九尾の狐」が化けたとされる「殺生石」の周囲で、「猪」8頭が死んでいるのが発見された。和気清麻呂の守護獣「猪」が8頭も死んだのは不吉以外の何物でもない。さらに2022年3月5日には、「殺生石」自体が割れたことで、2022年は非常に不吉とされ、「猪」の死は尋常ではない予兆となった。
いずれも「猪」は「硫化水素」「亜硫酸ガス」を吸い込んだ結果とされるが、問題は「艮(丑寅)の金神」の寅年(2022年)の最後の月に事態が起き、それが8頭という韻を踏んでいた事である。なぜなら、8頭の「猪」は、8ツのハート型の「猪目」(いのめ)を示唆し、猪目が8ツで天皇家の「十六菊花紋」を暗示する為、8頭の猪の死は「魔除け」の「結界」を、天皇入れ替えで突破される事を示している。
猪目(ハート型)と「十六菊花紋」
これは呪詛として考えた場合、和気清麻呂の庇護を無くした天皇陛下の身の安全が「アメリカ大使館=極東CIA本部」によって非常に危険な状態に陥った事を示し、宇佐神宮での「道鏡事件」が再び現代でも起きることを警告しているということだ。「道鏡を天皇の位につければ、天下は太平になる」とした偽のご神託と同様に、実際にネット上には「天皇家は秋篠宮家に変えた方が日本は良くなる」「天皇家は朝鮮人だ」などとする風評が流されている。
こうした戯言が幅を利かすSNSの情報を鵜呑みにする危険な反日・日本人が増えている。もちろん、その後ろには世論を誘導しようとする「アメリカ大使館=極東CIA本部」がいる。安定的な皇位継承に関し、在日の岸田首相は2023年10月の所信表明演説で国会での「女性天皇・女系天皇論議」に対する積極的な議論を呼びかけ、自民党は総裁直轄の検討組織を新設。国会でも約2年間棚上げされていた論議が動き出した。
岸田総理は令和3年9月9日のツイッター(現X)で以下のように述べていた。
「皇室の歴史や伝統、そして国民の皇室に対する見方などを考えれば、女系天皇は考えるべきではありません。旧宮家の男系男子が皇籍に復帰する案も含め、女系天皇以外の方法で検討してまいります」
これだけを読むと「皇室は男系で、女系は考えない」ということだ。だが、2023年の12月現在、論調は変わってきている。最大の焦点は「男系男子」に限定した皇位継承を維持するか、改正して「女性・女系」天皇を認めるのか。本格論戦を前に「男系男子による継承は金科玉条なのか」とか、天皇家の長女・愛子さまは「男系女子」で、世論調査で軒並み8割前後の国民が女性天皇を支持・容認していても、「女性であるために天皇になれない」という論調を生み出している。完全にすり替えである。「女性差別だ」と言わんがばかりで、まるで国連が進めるLGBTQと同じ土俵に上げようようとしているのである。
愛子さま
愛子さま人気を逆手にとって、「”愛子天皇”は女系天皇を誕生させる可能性があるとして、拒もうとする人もいる」などと、まるで「愛子さまが可哀想」といった論調を生み出し始めているのである。神道学者で皇室研究家でもあり、「愛子さまを皇太子に」運動(主宰者・漫画家小林よしのり氏)のオピニオンリーダーの高森明勅氏は以下のように指摘している。
「日本らしさを証明するのが、推古天皇(即位593年)から江戸時代まで10代8人の女性天皇(女帝)の存在だ。日本が位置する東アジアで女帝は推古天皇が初めてで、中国は則天武后(則天大聖皇帝、即位690年)ただ1人、朝鮮は新羅(しらぎ)の女王3人だったことと比べても、日本は女帝が多い。日本がもともと女性君主を排除する考えのない国であることは明らかです」
「皇室では同じ血を引く者同士の近親結婚が行われ、男系・女系、言い換えれば父方・母方の血筋がともに血統としての意味を持つ『双系』(双方)的な血統観があった。皇位継承が双系の考えに基づき、男性の血筋だけでなく、直系に近ければ女系がより重視された例もあり、女性の血統も『皇統(天皇の血筋)』として機能できたのが日本の伝統なのです」
さもありなんといった発言であるが、和気清麻呂は「皇室の血筋でない道鏡は掃(ハラ)い除くべし」とする宇佐神宮の神託を受けている。この国はメディアの風潮に法律が左右されてしまうお隣の国とは違うのである。さらに偽物が皇位に就こうとすれば、必ず皇祖神、八幡神の怒りを買うことになる。問題は、その首謀者たちはどうなるのか、ということだ。
◆皇位を狙った者たちのその後と「弓削氏」
和気清麻呂による八幡神のご神託によって、皇室は事なきを得た。一年後、称徳天皇の崩御によって光仁天皇が即位、天皇家は安泰となり、道鏡は「下野国」に流され、清麻呂は平城京に呼び戻されて、平安遷都などに尽力した。めでたしめでたし、と一般的には伝わっている。が、それはあくまでも「表の話」である。真実は別にある。なにせ、八幡神の偽のご神託を受けたとして皇位を狙った者たちは、誰も極刑にはなっていないのである!
弓削道鏡は「俗姓弓削連(ゆげのむらじ)、河内(かわち)の人なり」と『続日本紀』に伝えられているが、生年月日も親の名も不明なのである。大宰主神・中臣習宜阿曾麻呂と共に、道鏡を皇位に就けることが神意に適う旨の宇佐八幡宮の偽の神託を奏上し、朝廷を揺るがした「宇佐八幡宮神託事件」を引き起こした弓削道鏡の弟「浄人」(きよひと)とその子供たちは、後に流罪となり、許されて河内国若江(わかえ)郡に帰っている。そこが弓削氏の本貴地だったからである。皇位を奪おうとした大罪人であるにもかかわらず、「流罪」且つ放免されているのだ。
弓削神社(大阪府八尾市)
弓削浄人は、宝亀元年(770年)称徳天皇の崩御により道鏡と共に失脚、弓削姓(無姓)に戻された上、3人の子と共に土佐国への流罪となったのだが、桓武朝初頭の天応元年(781年)に赦免され、本国である河内国に戻ったが、再度平城京に入ることは許されなかったとなっている。都には上れないものの死罪にはなっていないのである。桓武天皇は、「怨霊」と「死の穢れ」を畏れて平安京遷都の3年前に「軍隊」を廃止、「死刑」も行わなかった天皇で、以降300年間、平安時代に死刑は行われていない。だが、事件はまだ平城京の奈良時代である。よって、死刑は行われていたのにである。
河内国若江郡には「弓削寺」や「弓削行宮」(あんぐう)があり、そこに称徳天皇(孝謙天皇と同じ)が行幸している。さらに『延喜式』の神名帳には同郡に弓削神社が二座あったと記されている。一座は南河内郡志紀(しき)村大字弓削、もう一座は若江郡曙川(あけかわ)村大字東弓削で、いずれも現在でいう八尾市内にある。この八尾市を中心に、河内一帯は物部氏の本貫地だった土地である。
『延喜式』神名帳に記された「河内国」の社名
物部氏の歴史が記された『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)によれば、「物部守屋大連公、弓削大連という」と記されている。蘇我氏との崇仏論争で戦って滅ぼされたことになっている物部氏も、かっては強大な「力」を保持していた。古代の「力」とは、一つは「神事」であり、もう一つが「兵事」(軍事力)である。物部氏は、神事を宰ると共に兵事にも関与しており、そこで「弓削」(ゆげ)と呼ばれる弓や矢をつくる部民を抱えていた。そして弓削部の住んでいた土地を弓削と名づけたのである。
だが、気になるのは、物部氏はなんで「弓削」を名乗ったのかという点だ。中でも物部守屋は物部氏の筆頭である。『日本書紀』の巻二十「敏達天皇元年(五七二)四月是月」には、以下のように物部守屋の名前を記している。
「是月宮于百濟大井。以物部弓削守屋大連爲大連如故。以蘇我馬子宿禰爲大臣。」
「物部弓削守屋大連」(もののべのゆげのもりやのおほむらじ)と、「弓削」が入っている。本連載で前述したが、物部守屋は母姓を仮冒して「弓削大連」と称したとある。この「仮冒」(かぼう)とは、「 ① 他人の名をかたること。 偽称すること。 ② 似せてだますこと。」とある。なんで守屋が偽証する必要があるのか分からないが、以降、その守屋の子孫が「弓削氏」を称したという。孝謙上皇が天平宝字8年に出した宣命では、道鏡が先祖の「大臣」の地位を継ごうとしているから退けよとの藤原仲麻呂からの奏上があったと語られるが、この「大臣」は大連の地位にあった物部守屋を指すと考えられる。
物部守屋像
物部氏の本貫とされる八尾市には「由義寺」(ゆげでら)という寺があったと伝わっている。八尾出身の弓削道鏡と称徳天皇が造営に深く係わったとされる寺院で、道鏡の出身である弓削氏の氏寺であった「弓削寺」を769年の称徳天皇による「西京」の設置にあわせて、整備が進められ、改称されたものと考えられている。この「西京」とは、今でいう副都心ということである。都は奈良なのに、河内に副都心というのは少々遠い気がするが、道鏡を寵愛していた称徳天皇の命があったということであろう。
この「由義寺」は、『続日本紀』の770年の条に「詔(みことのり)して 由義寺の塔を造る諸司(しょし)の人及び雑工(ざふく)等九十五人に、労の軽重に随い、位階を加え賜う。」とあり、「由義寺」という名前の寺院があることが明らかになっている。また、天皇が塔の造営に携わった95人に功労に応じて位階を与えたことから、塔の造営が実際に進められていたことも分かっている。しかしながら、「由義寺」は『続日本紀』にも記載されていたにもかかわらず、その後の長い歴史に埋もれ、所在については不明だったため、「幻の寺」といわれるようになった。しかし、2022年7月、「弓削寺」とみられる遺構が発見されたのである。
弓削寺とみられる遺構
「由義寺」の遺構を調査していた大阪府八尾市は、遺構の下から、別の建物の土台部分にあたる基壇が見つかったと発表。「由義寺」の前身で、道鏡の氏寺「弓削寺」の遺構とみられ、既存の建物を解体・整地し、大規模な塔に建て替えた可能性があり、異例の建立過程が判明したとしている。称徳天皇はこの地に都を造ろうとしたとされ、道鏡の影響力の大きさをうかがわせる発見だ。
市によると、新たに見つかった基壇は東西約17メートルで、南北は不明。「由義寺」の基壇の下層にあり、造成は粘質土と砂質土を交互に重ねて固める「版築」(はんちく)という工法が用いられていたという。弓削寺の塔の可能性が高いが、それ以外の建物だったことも考えられる。(産経新聞)
称徳天皇は物部氏の本貫であるこの地に都を造ろうとした?「西京」とは副都心の意味ではなかったのか。既に「平城京」があるのにも関わらず、ここに遷都をしようとしていたのだろうか。にさらに調べると、八尾市の観光データベースには、以下のように書かれているのだ。
称徳天皇がこの地に行宮を造られるにあたり、信任の厚い道鏡は弓削宮(由義宮)の造営の許しを得た。
【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】
「八尾市教育委員会」が作った石板
「由義寺」ではなくて「弓削宮(由義宮)」の造営となっている。この「弓削宮(由義宮)」を調べると、以下のように書かれている。
「由義宮」(ゆげのみや、ゆげぐう)は、河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)にあったとされる離宮。平城京の西の都「西京」(にしのきょう)とされた。奈良時代の神護景雲3年(769年)から宝亀元年(770年)頃まで存続した。八尾市八尾木北にある由義神社の境内に「由義宮旧址」の石碑が建っているが、『続日本紀』などの史書には具体的な所在地は記されていない。2017年時点までの発掘調査では、由義神社から南へやや離れた場所にある東弓削遺跡が、弓削寺(由義寺)及びその近くに造営された由義宮の所在地であった可能性が有力視されている。
弓削寺(由義寺)と天皇が一時的に滞在する「行宮」(あんぐう)を「弓削宮(由義宮)」として建立しようとしていたのである。
由義神社
この辺の事情について、八尾市のホームページでは、以下のように説明している。
769年に起こった、道鏡を皇位につけようとした宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)神託(しんたく)事件が有名ですが、称徳天皇の道鏡に対する信頼は揺らぐことがありませんでした。なお、この事件の首謀者が誰なのかは諸説あります。 <中略> 道鏡を信頼する称徳天皇は、765年に初めて、弓削行宮(ゆげのあんぐう)(道鏡の故郷である弓削の地に設けられた仮御所)に5日間滞在して、その間に道鏡を太政大臣禅師に任命し、 <中略> また、769年に称徳天皇は「由義宮」として整備が進められていた当地に赴き23日間滞在しました。このとき、「由義宮」は平城京の副都として「西京」と位置づけられました。 <中略>そして、称徳天皇が最後に「由義宮」を訪れた770年の滞在は39日間にも及び、その間に西京を讃えて河内に住む6つの氏族の男女230人による華麗な歌垣(うたかき)(男女が歌を歌い合う遊び)が催されました。
さずが物部氏の本貫地だけある。天皇位を狙った道鏡のことを全く悪く書いていないのである(笑)。判官贔屓ってやつなのだろうか。読み方によっては、まるで称徳天皇の道鏡の愛の物語のようである。だが、問題は「皇位」を狙ったの道鏡に対する信頼は揺らぐことがなかったというのだ。皇位を狙った首謀者だったのなら、処刑にされてもおかしくないはずだ。だが、信頼が揺るがなかったというのはどういうことなのか。
称徳天皇(孝謙天皇)
八尾市は以下のように締めている。
称徳天皇は、770年の由義宮への訪問から平城京に戻ったその同じ年の8月に亡くなり、道鏡は下野薬師寺(栃木県下野市)の別当(長官)となり、2年後の772年に下野でこの世を去りました。
「西京」も造営から10ヶ月あまりで中止となり、称徳天皇が滞在した「由義宮」も現在その姿をみることはできませんが、今後の発掘調査でその姿の一端が明らかになるかもしれません。
道教は流罪になったのである。皇位を狙ったのにもかかわらず、処刑されていないのだ。道鏡は、称徳天皇の引立てにより、766年に宗教界の最高の位である「法王」となている。仏教の頂点にいた人物を簡単には処刑できなかったのだろうし、仏教における「殺傷の罪」を犯したくなかったのかもしれない。そして、都から最も遠い「下野国」へ流されたのである。
下野国
「下野国」(しもつけのくに)とは、現在の栃木県域を占めた旧国名である。 京からは「遠国」(おんごく)とされた。古代関東には「毛野(けの/けぬ)」および「那須(なす)」と呼ばれる政治勢力が存在し、前者が上下に二分されて「上毛野(かみつけの/かみつけぬ)」・「下毛野(しもつけの/しもつけぬ)」となったといわれ、『大宝律令』の制定にあたって、下毛野の領域に那須の領域(栃木県北東部)を合わせ、「下毛野国」(しもつけののくに/しもつけのくに)として上毛野国とともに令制国の1つに定められたとされる。その後、下毛野国・上毛野国の国名は「下野国」・「上野国」に改名された。
「下野国」の一宮は「宇都宮二荒山神社」(栃木県宇都宮市)と「日光二荒山神社」(栃木県日光市)なのである!そして、民間伝承ではこの「二荒山神社」の神職小野氏の祖である「小野猿丸」とは「猿丸大夫」とする説があり、春日氏を祖とする小野氏と同族なのが「柿本氏」なのである!さらに、二荒を「日光」にしたのは「見ざる言わざる聞かざる」の三猿を彫らせた「天海」であり、那須には「九尾の狐」がいたとされ、その「殺生石」の前では和気清麻呂の「神使」である「猪」が死んでいた・・・。ここで全てが繋がった。