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近江朝興亡

2024.06.09 13:55

https://tizudesiru.exblog.jp/237962139/ 【近江の国より上り来る時に、宇治の川辺に至りて作る歌】とり

人麻呂は近江の国を過ぎる時、十分に近江朝を偲びました。その帰り道、宇治川の川辺に到りました。当然、見て来たばかりの淡海の風景がよみがえり、あの都があった近江から流れてきた川なのだと思ったのです。しばし川面を眺めて、近江朝の為に戦い死んでいった武人のことを偲んだのでしょうか。

264 もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも

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「近江の国より上り来る時に宇治の川辺に至りて作る歌一首」と書かれていますから、264の「もののふの」歌のみを指しているのは確かです。しかし、266番歌も人麻呂が近江朝を詠んだ歌です。なぜ、二首は離れているのでしょう。

264と266の二首は内容的にもつながっているように思うのですが、間に長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌が挟まれています。

なぜ、奥麻呂の歌がここに置かれたのか、今でこそ編集の意図が分かりませんが、平安時代までは特別の地位の人はわかっていたのかも知れません。

『新古今集』藤原定家の「駒止めて袖うち払うかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ」の有名な歌は、奥麻呂の歌を「本歌」として『本歌取り』したものです。定家はこの歌に心惹かれたのです。

その隣に人麻呂の秀歌があるのに、敢て奥麻呂の歌を本歌取りして「名句」にして見せたのでしょうか… 

わたしは「古今伝授」の当事者であった藤原定家は『奥麻呂の歌が人麻呂歌の間に置かれた意味を知っていた』のだと思います。奥麻呂は歌人として持統天皇のお気に入りでした。

持統四年の紀伊国行幸で「有間皇子の鎮魂の為に結松の歌」を見事に詠んだことで奥麻呂は持統帝に認められたのでした。大宝元年の紀伊国行幸では天皇の詔に応えて「見る人なしに」と還らぬ人を詠みました。だからこそ、持統天皇の最後の行幸にも従駕しています。誰もが奥麻呂を羨んだと思います。人麻呂の歌の間に奥麻呂の歌を置いたのは、その辺の暗示があるのかも知れません。

佐野の渡り・みわの崎は和歌山県新宮市とされていますから「紀伊国」行幸を引き出しますね。

万葉集の編者は、何を伝えたかったのでしょう。

平安時代になって、万葉集を編集させた高貴な人の意思がそこにはあるはずです。その人は「古今伝授」により人麻呂と持統天皇の秘められた愛を知っていたでしょう。その愛に奥麻呂が入ってきたのだと、それは紀伊国行幸の時からはじまったのだと、藤原定家は読み解いたのでしょうか。それで、本歌取りの「佐野のわたりの雪の夕暮れ」を読んだのでしょうね。「雪の野原のような現実の中で心やすめる処すら持たなかった」人麻呂の心情をせつせつと。

初期万葉集を編纂・編集したのは人麻呂だと、わたしは幾度も言いました。人麻呂が持統天皇の遺勅に応えて、文武天皇のために力を尽くしたのだと…。そして、万葉集は文武天皇亡き後、元明天皇に献上されたのですが、それは元明天皇を激怒させ人麻呂は断罪されました。その後、大伴氏に預けられた万葉集は、晩年罪を得た大伴家持の遺体と共に彷徨っていましたが、平城天皇によって召し上げられ編集の手が加えられて世に出たと、紹介してきたのでした。

その決定的な平安時代の編集「あることを分かりにくくするための編集」が、数多くの万葉集の謎を造り出したのだと思います。手が入れられたのは、ほとんどが人麻呂編纂の部分に対してでしょう。後期の家持関係の歌にはほとんど編集の手は入っていないと思います。

ですから、初期万葉集と後期万葉集では、内容も編集意図も微妙に違うのです。

そういう目で、人麻呂の歌を詠むと長忌寸奥麻呂の歌が置かれた意味も想像できると思うのです。

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266 淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば こころもしのに古おもほゆ

この歌は、直接的に近江朝を偲んでいます。鳥は霊魂を運ぶ、または亡き人の霊魂そのものと思われていた時代です。いにしえの都の址にたたずんで淡海を眺めている時、夕暮れの中に飛び交う鳥は大宮人のあまたの霊魂と思われたことでしょう。

鳥と化した数多の霊魂が飛び交う岸辺、そこで鳴く鳥は滅びた王朝の物語を語るのでしょうか。それを聞くと心はしおれてしまい、王朝のはかなさと天智天皇を思って人麻呂は立ち尽くしたのでした。

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何故に、ここまで人麻呂は近江朝を思うのか、不思議ですよね。

人麻呂が近江朝を詠む時、天智天皇の傍にそっと立っているのは持統天皇の思いだったのではないでしょうか。わたしにはそう思えます。

では、また。


https://blog.goo.ne.jp/kmomoji1010/e/5855b5c6a3ebea1713f2ebd431861aa3 【「柿本人麻呂の無常観(二)―「見れば悲しも」近江朝興亡」】より

 柿本人麻呂の生没年は不明である。低位の官人であったために正史にはその名が見えず、その事績については、万葉集の中の題詞・左注など手がかりとして推測するほかない。天武朝にはすでに宮廷歌人としての活動を開始していたと思われるが、作歌は持統朝(686‐697)に集中している。文武期まで活動していたと思われる。没年は、八世紀の初め、おそらく平城遷都直前であろう。

 古代最大の内戦、壬申の乱(672年)のとき、人麻呂が何歳であったかは推測の域を出ないし、そのときどこにいたかもわからない。近江京は、前代までの都に見られない大陸風の大殿、大宮が湖畔の高みに聳え立つ壮麗さであったと想像される。その都が大和からの遷都後わずか六年にして灰燼に帰した。この「水沫の如き興亡」(金井論文32頁)が少年あるいは青年詩人人麻呂に深刻な影響を与えなかったと考えるほうがむしろ不自然であろう。

 たとえ実際には目にすることがなかったとしても、長じてから身に付けた知識や周囲の人たちから得られた情報を基に、類稀な詩的感性・才能に恵まれた若き詩人人麻呂は、近江京の壮麗さを生き生きと想像し、それを詩的言語によって表現することができただろう。ところが、人麻呂が宮廷歌人として活躍した天武・持統朝には、近江京は荒廃にまかせ、その復興はありえず、死せる都であった。

 この廃都を人麻呂が訪れたのは持統朝初年の頃である。壬申の乱後わずか二十年足らずの間に壮麗だったはずの都の姿はそこに見る影もなく、かつてそこで綺羅びやか衣装を纏って行き交っていたであろう大宮人の姿はもはや幻影でしかない。「失われたものは再び帰らぬとの実感が、再生の象徴である春草の繁茂を見るにつけても深く刻みこまれる悲しさを人麻呂は歌っている」(金井論文同頁)。

 それは巻一・二九の長歌のことである。その最後の十数句を引いておく。

天皇の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる 

ももしきの 大宮所 見れば悲しも