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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

フレデリック・ショパン、フレデリックのワルシャワ報告と密かに想う本命のひと、ただ一人のひとのために作品を書く、フレデリックの仮面とは…

2024.06.19 13:09

今後はワルシャワの大劇場でのコンサートの出演はしない意思をティトゥスに明したフレデリックだったが、それから1カ月後の5月、ポトゥジンの田舎に居るティティウスへワルシャワからフレデリックは長い書簡を送った。

「親愛なる友よ、

 フリッツがあなたの手紙にすぐに返事をしなかったことは、あなたには不快に思われたに違いない。今、私があなたにワルシャワの情報をお伝え出来ることは、マイル・ソンターグは、6月か、あるいは5月末には確実にワルシャワに到着するということです。

おそらく5月末には。さらに言えば、国会の会期中に、モストフスキ閣下の明確な命令により、マイルズ・ソンターグは、6月中、あるいはおそらく5月末にワルシャワに到着する予定です。」

フリッツとは、チェコ出身でウィーンに移り住み、貴族のクラリー家の家庭教師としてラジヴィウ兄弟のエドムント王子に仕えた後に王子の秘書兼図書館司書を勤めていた。この頃には作家として、詩や物語、演劇などを書いていた。本名は伏せフランツ・フォン・ブラウナウというペンネームで貴族を装って執筆活動をしていた。そのフリッツとティトゥスとフレデリックがなぜ知り合いなのか、ラジヴィウ邸宅にフレデリックが招かれた時に知り合ったと可能性がある。

フリッツはこの時33歳だ。フレデリックは20歳。フリッツからウィーンの貴族社会の様子をティトゥスを通じてフレデリックは情報を貰っていた。

フリッツはティトゥスからの手紙の内容に答える材料も考えもなかったため、ティトゥスが望むような返事が出来なかったのだ。

フレデリックは最新のワルシャワの音楽会の情報をティトゥスに伝えた。フレデリックは、最新のウィーンの情報が欲しいのだ…

「グラドコフスカとヴォルクさんは、それぞれペールの『アニェーゼ』、ヴォルクさんが『トルコ』でデビューする予定です。

このオペラの選曲をあなたはいかが思われますか?私は昨日ソリーヴァ夫人の夜会に行きました。

グラドコフスカが歌いました。グラドコフスカは、ソリーヴァ夫人が彼女のために特別に作曲し、オペラに挿入したアリアを歌いました。

このアリアは彼女の見せ場となるもので、実際、素晴らしいものがあります。

それから、

ヴォルクは『トルコ』を歌います。

ロッシーニの曲で、このオペラに出演した有名な歌手のために書かれたものです。

あなたもソンターグを聴くチャンスを逃すことはないでしょう!

彼女は今、ダンツィヒにいるそうですが、そこから私たちのワルシャワに来てくれることでしょう。」

歌手のソンターグ嬢は1830年のこの時24才

1826年にロッシーニの「セビリアの理髪師」のロジーナ役を歌い、高速のコロラトゥーラで大成功を収め、翌年1827年、パリのイタリア歌劇場と契約し、翌年1828年カルロ・ロッシ伯爵と結婚していた。その絶好調のゾンターグ夫人がワルシャワ劇場に登場するから

ティトゥスにワルシャワに出向き聴くように勧めたフレデリックだった。

「それから、プロイセン国王陛下のピアニストであるヴォーリッツァー氏は、この2週間ここに滞在している。この若者はなかなかいい演奏をします。

彼はユダヤ人なので、とても覚えが早いのです。

私たちに聴かせた数少ない曲も完璧に理解している。彼は私に会いに来たこともあります。

彼はまだ16歳の青年でモシェレスの『アレクサンダーの行進曲による変奏曲』は彼の得意とするところです。

私には彼が完璧に演奏しているように見えるのです。

彼は2度、公の場に登場し、そのたびにこの変奏曲を弾いています。

彼の演奏を聴けば、あなたもきっと満足するはずです。

しかし、彼は、まだ宮廷の称号を得るには

ほど遠いといえます。」

 プロイセン国王陛下のピアニストであるヴォーリッツァー少年は16歳で宮廷音楽家に任命されてはいるものの、その演奏は丸覚えで完璧ではあるが音楽に内容が全くなく表現に乏しいため、完璧ほどつまらないものはないとフレデリックは、ヴォーリッツァー少年は宮廷の称号にはふさわしくない人物とばっさりと切った。

更に、

「もう一人、フランス人のM.ブラントがいます。彼はコンサートを開こうと考えていたのですが、私に会いに来て、よく考えて気が変わったようです。」

フレデリックの才能の噂を聴いた音楽家がワルシャワのフレデリックにわざわざ会いに次次に我こそはと、やって来ていた。

フランス人のブラント氏は

自身のコンサートを開催したいから

フレデリックにも出演してほしいと頼んだのだが、フレデリックはブラント氏の開催するコンサートに出演する気が起きるはずもなく、断る理由にワルシャワ劇場の実態を話したため、ブラント氏は諦めてフランスにすごすごと帰ったのだ。

音楽家としてのフレデリックの自信が揺らぐことはなかったのたが、

「.... ... 私の旅がどうなるかはまだわからない。今年は外国に行く代わりに、ここで長居するつもりだ。

6月、7月と、まったく行く気がなくなるまで滞在するつもりだ。もちろん、暑いからだ。」外国へ行ったところで暑さからは免れられないとフレデリックは予想し、ワルシャワに夏の間も留まることを報告した。

「ウィーンでのイタリア・オペラは9月にしか始まらないと昨日ヘネベルク氏から聞きました。」

ヘネベルク氏はポーランド王国のオーストリア帝国領事館の参事官である。

「そのために、私は正しい流れに乗らなければならないのです。最初のアレグロは完成していますから、あとは心配はないと思います。

変奏曲はまだここで発表していません。」

フレデリックの作曲は順調に進んでいたが、ウィーンで演奏するにはまだ早いと伝えた。

「ハスリンガーがライプツィヒのイースターフェアに楽譜を持ってきてくれました。

私用でガリシアに行きました。マグヌスが、そこからウィーンに向かい、私に持ってきてくれるだろうと期待しているのです。」

「私の新しい協奏曲のアダージョはホ長調です。力強い効果を狙ったものではなく、むしろロマンスであり、穏やかで憂愁に満ちたものである。穏やかで哀愁を帯びたロマンスは、千の幸せな思い出を思い起こさせる場所をそっと眺めているような印象を与えます。

それは、美しい春の夜の月明かりに照らされた中で回想のようなものです。

伴奏は聞こえないように指示されている。つまり、ヴァイオリンは弦にフィットする櫛のようなもので、鼻にかかったような銀色の音を出すのです。

しかし、自分の知識に反して間違ったことを書くことを恥じる必要はないだろう。

このすべてにおいて、あなたは私が自分とは裏腹に間違ったことをする傾向があることに気づくだろう。

そうなのだ。そうなのだ。自分にもかかわらず、ある考えが私の頭の中に浮かんでくる。

そして、おそらくはまったく間違っているのだろうが、それを甘受することに喜びを感じるのだ。そうです。

あなたは私のことを理解してくれるでしょう。」

フレデリックの2作目のコンチェルトの2楽章

(コンチェルト1番の2楽章を指す。この光景は、意中の恋人コンスタンツァ・グワトコフスカとの思い出であると考えられる、ショパンの最初のコンチェルト、ピアノ協奏曲第2番ヘ短調作品21はデルフィナ・ポトツカ伯爵夫人に献呈されたが、これもまた、ラルゲットは「僕の理想のひと」であった恋人コンスタンツァ・グワトコフスカに密かに捧げていた

フレデリックであった。

この2作目のコンチェルトホ短調もまた、フレデリックの意に反して間違った形で

オーケストラが演奏するであろうとフレデリックは予想していた。誰にも自分の

意図が理解されないかもしれないが、

自分の表現はそう書かずにはいられないのだ、それを理解できる人はティトゥスだけであると話した。

「私はプルシャック夫人とともに、N.S少年の名付け親になりました。彼は私達の養子になりましたが、信じられないような綺麗な容姿なのです。」フレデリックはまだ20歳だったがプルシャック夫人がこの少年のパトロンとなり、フレデリックが名づけ親となった。

「それから、

今朝7時、マイル・デュポンが、スクロヅカ夫人の弟であるセコウスキー氏と結婚式を挙げた。ビクセル博士はご存知の通り63歳だが、亡き妻の姪である17歳の少女と結婚するのです。

 教会には物見草の人々でいっぱいです。若い少の子は人々に同情されるのは嫌だと思っているのです。

私はこの手紙を出したらすぐに彼女を見に行きます。モリオール嬢が彼女に付き添います。モリオール嬢は私の恋人と思われていることはあなたもご存知でしょう。

私はそれを認める覚悟ができています。私は従順でなければならないが、私自身の隠された感情の仮面を尊重しなければならないのです。

でも、私は

自分の悪いところを打ち明ける勇気がないときに、今のように自分を偽ることができるのです......。」

フレデリックの意中の人は歌姫のコンスタンツァアだった。しかし、フレデリックは

コンスタンツァアはロシアの士官とつきあっていたことに心が傷ついていた。その自分の感情を隠す隠れ蓑として、モリオール嬢にフレデリックは親切なふりをして近づき

コンスタンツァアが見ている前をモリオール嬢と仲良く二人で歩く姿をわざと見せつけたりしていた。

フレデリックはコンスタンツァアに

対して自分が悪いことをしていることが

後ろめたかった。コンスタンツァアがロシアの士官に靡いてるふりをしなくてならないのは理由があったからだ。

「今度こそ、私のコンサートにあなたに来てほしいのです。

2週間後の5月末に、自宅で第1楽章を試すつもりです。

そして、クーリエ紙で発表されたお祭りが始まる前に演奏できるように、6月の初めに演奏するつもりです。

あなたがいつワルシャワにいらっしゃるのか、手紙で知らせてください。

あなたがいらっしゃらないのに人前に出なければならないとしたら、最初のときよりももっと残念です。いいえ、あなたは私がどれほどあなたを愛しているかご存知ないでしょう。

でも、それを知ってほしいとずっと願ってきた。ああ、あなたの手を握りしめたい......!. . . あなたは私の惨めな人生の半分も想像できないでしょう。」

ティトゥスに自分は惨めな人生だと打ち明け、コンサートに来てほしいと懇願する

フレデリック、

 「プログラムの順番はまだ分からないので言えません。

タイヒマンを探してみよう。

彼は一人で登場するのを怖がるので、私の第2回演奏会ではグリックの『アルミーデ』から二重唱をメイヤー夫人と歌うことになっていました。

しかし、残念なことにシンマーマン夫人が前週にポロフスキーと歌ってしまったのです。

そのためクルピンスキーは、2人に同じ曲を歌わせたくなかったのです。

私はこんなにたくさん書いたのに、まだ書き続けたいのです。

あなたを楽しませるために新しいワルツを送ろうと思っています。

来週にはあなたに届くと思います。

私の両親と妹から、あなたへよろしく伝えてくださいとのことです。

ジウニーさんにもよろしくお伝えください。

F.ショパン」

フレデリックの長い長い書簡はどれだけ書いてもフレデリックの気持ちは収まらなかった。

フレデリックの作品、ロンド・ア・ラ・マズールヘ長調作品5は、1826年に作曲し、1828年の出版されワルシャワ総督コンスタンチン大公の養子の家庭教師であったモリオール伯爵の娘、アレクサンドリーヌ・ド・モリオール伯爵夫人に献呈された…。

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ヘンリエッタ・ソンタグ

(1806年1月3日 コブレンツフランス帝国

- 1854年6月17日日(49歳没)メキシコ)

本名ガートルード・ヴァルプルギス・

ソンタグ、

結婚後はヘンリエッタ・ロッシ伯爵夫人と

なる。ドイツのオペラ歌手ソプラノ歌手。甘美な音色の叙情的な表現と華麗な歌声で名声を博した。 1820年- 1854年に活躍した。


ラウエンシュタイン伯爵夫人ヘンリエット・ゲルトルード・ヴァルプルギス・ソンターグ1805年5月13日にコブレンツ(フランス帝国ライン=エ=モーゼル県)で生まれ1854年6月17日にメキシコで亡くなった。

フランス系ドイツ人の歌手。

ヘンリエッテ・ソンターグ

フランツ・クサーヴァー・シュテーバー

によるエッチング 1827年



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✳︎フリッツ

フランツ・クサーヴァー・フリッチュ、

1797 年10 月 6 日 ボヘミア地方ブラウナウ−1870 年8 月 17 日ウィーン) 

オーストリアの作家。

フリッチュはプラハ大学で法律を学んだ。

その後、彼はウィーンに行き、若きエドムント・フォン・クラリー=アルトライベン(1813年 - 1894年)の家庭教師として貴族のクラリー=アルトライベン家に雇われました。数年後に、彼は王子の秘書兼図書館司書に任命されました。

1825 年、フリッチュはテプリッツの温泉を訪れて作家のルートヴィヒ ・ティークに出会った。フリッチュはティークの作品の一部を舞台用に書き直しました。これらの委託作品に加えて、フリッチュは詩、物語、演劇などの独自の作品も制作した。文学活動の始まりを記念して、彼は「フランツ・フォン・ブラウナウ」というペンネームで執筆していた。

彼の最も成功した演劇は、1840 年 11 月 29 日にブルク劇場で初演された一幕物喜劇『ヤーデスト』でした。

フランツ・フリッチュの息子は風景画家メルヒオール・フリッチュ(1826年 - 1889年)でした。