はじめての対馬
https://www.tsushima-net.org/guide 【About Tsushima はじめての対馬】より
NHK「ブラタモリ」「日本最強の城スペシャル」でも取り上げられた国境の島
九州と朝鮮半島の狭間にある国境の島、対馬は約9割が山林部で多くの絶景ポイントがあり、深い青と緑の、他にはない荘厳な景色は一度訪れたら忘れられません。最強の城にも選ばれた美しい石垣の城壁を持つ金田城や歴史的建造物、透明度の高い海や多数の入江を持つ海洋地形、ブラタモリでも話題になった地層、食通を魅了する食材など、知れば知るほどさらに深掘りしたくなる歴史、自然、食マニアの探究心をくすぐる島です。
対馬(つしま)は、九州と韓国の間の対馬海峡に浮かぶ島で、長崎県に属しています。博多港(はかたこう。福岡県)までは航路で132キロ、韓国までは直線距離で49.5キロに位置し、「国境の島」と呼ばれています。
南北82キロ・東西18キロ、面積は約708平方キロ(属島ふくむ)で、沖縄本島と北方四島を除けば、佐渡島・奄美大島に次ぐ大きさです。平成16年に島内の旧6町が合併し、長崎県下の市町村では最大の面積をもつ「対馬市」になりました。
自然 荒々しさと美しさの二面性
東西を対馬海流が流れ、平地が少なく、島土の約89%が山地であり、各地に原生林が残されています。島の中央にはリアス海岸・浅茅(あそう)湾が広がり、海岸線の総延長は915キロに及びます。地質は大部分が堆積岩で、表土は薄く、ごつごつとした岩肌が海に沈みこむ荒々しい風景があちこちで見られます。
歴史・文化 日本の外交史の縮図 古代
浅茅湾(あそうわん)
島全体が岩がちであり、耕地が乏しいという地理的条件のため、古代より九州本土と朝鮮半島を結ぶ海上交通に活路を見出してきました。対馬最古の越高(こしたか)遺跡(紀元前6800年頃)からは九州と朝鮮半島の遺物が同時に出土し、当時から九州と朝鮮半島の間で人と物の交流・交易があったことを示しています。
日本誕生
西の漕手(にしのこいで)[対馬市美津島町小船越]
古代より続く人の流れと、大陸文化を摂取するための使節の派遣などにより、金属器・漢字・仏教・政治制度などさまざまな大陸文化が対馬・壱岐を経由して日本に流れこみました。対馬・壱岐はいわば、日本が誕生する際の「へその緒」としての役割を果たしました。
国家間の緊張
古代山城・金田城(かねだじょう・かなたのき)[対馬市美津島町黒瀬]
7世紀の白村江の戦いによりほぼ国境が確定し、日本・新羅・唐という国家が成立したことにより、「国境の島」は常に国家間の緊張関係の最前線にさらされることになりました。その一方で、鎌倉時代から江戸幕末まで宗家(そうけ)が対馬を統治し、また戦国時代から現代まで戦場にならなかったため、全島に豊富な歴史・民俗資料が温存されており、日本や朝鮮半島の歴史を知る巨大なタイムカプセル・データベースとなっています。
余談ですが、2019年放送のNHK「あなたも絶対行きたくなる!日本『最強の城』スペシャル」第4弾にて、歴史的価値や絶景が認められ、金田城が最強の城に選出されました。
朝鮮外交の拠点 対馬藩主宗家菩提寺・万松院(ばんしょういん)[対馬市厳原町西里]
江戸時代を通じて対馬藩は幕府から対朝鮮外交を一任され、朝鮮半島に10万坪(長崎出島の25倍)の外交通商施設「倭館」(わかん)を運営し、対馬藩士400~500人が滞在していました。また、朝鮮王朝から江戸幕府に派遣される国家使節団「朝鮮通信使」の接遇・先導・護衛を務めるなど、独自の外交機能を発揮しました。
戦争と平和 姫神山砲台跡[対馬市美津島町緒方]
日露戦争の最終局面、日本海海戦(Battle of Tsushima)では、対馬沖で日本帝国海軍とロシアバルチック艦隊の間で激しい戦闘が繰り広げられました。海戦は日本の一方的な勝利に終わり、ロシアの被害は甚大で、対馬に流れ着いた敗残兵も多かったのですが、島民の手厚い看護により健康を回復し、やがて帰国しました。その後も、第2次大戦、朝鮮戦争など大きな戦争が起きるたびに、対馬は大きな影響を受け続けてきました。
動植物 対馬の稀有な生態系
サル・クマ・キツネ・タヌキ・ウサギ・リスといった本土の普通種が1匹も生息せず、代わりにツシマヤマネコ、ツシマテン、アキマドボタルなどの大陸系生物が分布するなど、独特の生態系が築かれています。その特異な生態系により、白嶽などの山岳、鰐浦ヒトツバタゴ自生地などが国の天然記念物に指定されており、また島の多くの部分が壱岐対馬国定公園に指定されています。
植物も同様に、独特な生態系を築いています。対馬固有(世界で対馬だけ)の植物は、シマトウヒレンやツシマギボウシなど意外と少ないのですが、対馬にはその地理的条件により多くの大陸系植物が自生しています。また、大陸と対馬には分布するが日本本土には分布しない植物や、日本本土と対馬には分布するが大陸には分布しない植物などがあり、生物分布の陸橋の島の様相を呈しています。
体験 肌で感じる自然と歴史
白嶽や龍良山での原始林トレッキング、浅茅湾や対馬海峡でのマリンレジャー (釣り・シーカヤック・SUP・スキューバーダイビング)など、対馬の雄大な自然を全身で感じられるアクティビティが人気を博しています。
また、対馬の歴史やアクティビティを楽しく案内してくれる各種ガイドが活動しており、多くの方にご利用いただいています。
対馬では、この素晴らしい自然や重厚な歴史を活かした観光を進めています。
食・特産品 本物の食材
対馬は山地が多く、陸上交通が不便であったため、島への伝来物が何百年もそのまま保存されている場合があります。その代表が対州そば。そばは縄文後期に日本に移入されたと考えられ、全国的に品種改良が進みましたが、対馬では縄文後期の原種そば(対州そば)を今でも味わうことができます。また、昔ながらの養蜂法が今も行われており、濃厚で香り高いニホンミツバチ(和峰)のハチミツを楽しむことができます。
山が深く、四方を海に囲まれている対馬は、自然が生み出す本物の食材に出逢うことができる島でもあるのです。
https://www.tanpaku.jp/ikijima/tyuusei.html 【壱岐は古代から中世日本の歴史舞台になった島です・・大和朝廷、古事記、延喜式内社】より
壱岐と大和朝廷のかかわり
■神様が降り立った国造りの島「オノゴロ島」は壱岐?
魏志倭人伝の「一大国」以降、壱岐の名前はしばらく登場しませんが、大和朝廷が奈良に興って再び壱岐が頻繁に登場します。
古事記・日本書紀、中学校の歴史の時間に出てくる超有名な古文書です。
細かい記述は本をお読みいただくとして、古事記の国造り物語は面白いですね。
天上の神の使いで イザナギ・イザナミ神が降りてきて海を噛み混ぜて日本の国を作った。はじめに・・・
ここで大八島が順番に出てきますが 壱岐の国だけ特別な呼称「天比登都柱」 と書かれています。
天に届く一本柱の島といえば、神が降り立った「オノゴロ島」でしょ。
つまりは神が降り立ち国造りを始めたのは壱岐島ってことになりますよね。
■玄界灘の小さな島に延喜式内社が24社もある!?
神社について少し本をよんでみると延喜式内社というのが出てきます。
Wikipediaによると式内社は、延喜式が成立した10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社で、その選定の背景には政治色が強くみえる。当時すでに存在したが延喜式神名帳に記載がない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社(熊野那智大社など)、また、神仏習合により仏を祀る寺となった神社、僧侶が管理した神社(石清水八幡宮など)、正式な社殿がなかった神社などが含まれる。 となっています。つまりは大和朝廷が保護する対象とした神社ですね。
実は九州には式内社が107社あるんですがそのうちおよそ半分の53社が壱岐と対馬対馬の1/3程度の大きさしかない壱岐に24社もあるんです。
中国圏、関西圏に多くの式内社がありますが面積に対する神社数では壱岐の密度が高すぎますね。
こんな小さな島になぜ式内社が24社も あるんでしょう。
■代々壱岐の祀りにかかわる家系が大和朝廷にかかわっていた
壱岐の島に興った海大国は強大な国家邪馬台国となって東に進んでいきます。
途中進路にあたる諸国を平定し従属させながらやがて奈良の地へ。そして大和朝廷へとなりますが政治は祀り・占いによって動いてきました。
その中心部に、海大国の 祀り・占いに代々かかわってきた占部、卜部、壱岐 を名乗る一族がいたようです。
延喜式内社選定にあたり、彼らの思いはご先祖様の地壱岐の神社をあれもこれも外せないとして、24社もの式内社になりました。
■元祖月読神社と元祖住吉神社
壱岐の島に式内社が24で密度高いでしょうと書きましたが、式内社以外の神社以外にも たくさんありましてその数1000社以上とも言われます。
まさに神社密度日本一の島です。
試しにgoogleなんかで壱岐の地図を開いて 、任意の地点をズームアップしてみてください。「●×神社」というのがやたらと多いのがお気づきになると思います。
神代の話にかかわる神社が多いのですが、中でも、国内月読神社 の元宮となる月読みさんが壱岐にあります。
アマテラスさんのすぐ下の弟さんで、豊穣・生産を司る神様なんですがアマテラスさんは超主流派で神道の本流になっていますが月読みさんはアマテラスさんの陰に隠れてしまってますね。
京都松尾大社の月読みさん、伊勢神宮の月読みさんもみんなもともとは壱岐の月読さんが元祖。
それで壱岐の月読神社は神道発祥の神社と言われています。ただ、初めて訪れた方はあまりの質素さに驚かれるかも知れません。
もう一つの元祖は住吉神社。こちらは神功皇后伝説に書かれています。朝鮮出兵から壱岐に戻った神功皇后が戦勝のお礼にと住吉三神をまつった神社を海の近くに建てました。これが日本で最初の住吉神社と言われます。ところがその後、住吉三神が夢枕に立って、波の音がしないところにしてくれ、と言ったとか。そこで改めて、壱岐の中央部に神社を移したそうです。これが現在の壱岐の住吉神社です。
神社はたいてい山の上か道路より高い場所にあるものですが、壱岐の住吉神社はっ国道横の灯篭から参道をずっと下った先にあります。
海の神様が波の音がしないところに移りたいということ、本殿・拝殿は道路よりずっと低い位置なんておもしろいですね。
まだ豆腐の話は出てきません
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魏志倭人伝「一大國」の壱岐はこんな島です