山本有三 著『もじと国民』
トンガ島の酋長は
文字というものを知ったときに
583時限目◎本
堀間ロクなな
山本有三は『もじと国民』(1946年)という文章を、いささか風変わりなエピソードから書き起こしている。
19世紀の初めごろだという。ヨーロッパの船が南太平洋で難破して、乗客と乗組員は命からがら近くのトンガ島に辿り着いた。かれらは救いを求める手紙を現地人に託して、もしどこかの船がやってきたらこれを渡してほしいと依頼したところ、相手は文字というものを知らないためにまるで要領を得なかった。そこで、文字とは声が届かない距離でも自分の言葉を伝えることができるものだと説明して、それを実地に示すため、酋長に向かって何かしゃべるよう促し、その言葉を文字にしたためて離れた場所の者に届けて復唱させてみせた。酋長はただちに文字の効用を理解すると、それを自分と女たちだけに教えてほしいと告げた。なぜなら、女をひそかに呼び寄せるのには便利だが、他の男たちが文字を知ったらどんな企てをするかわかったものじゃないから、と――。
そして、著者は、この酋長をバカバカしいと笑うかもしれないけれど、実のところ、日本だって案外似たような状況なのではないか、と話を運んでいくのだ。
この山本の文章と出会ったのにはきっかけがある。わたしが住む地元の金融機関、多摩信用金庫が設立した「たましん地域文化財団」は年4回、『多摩のあゆみ』という雑誌を出して、毎号趣向を凝らした特集を組んでいる。今年(2024年)2月発行号では「多摩の作家と人間像」をテーマとし、このエリアと縁の深い太宰治、武者小路実篤、吉川英治、遠藤周作らが取り上げられたなかで、とくに興味を惹かれたのは「山本有三 作家以外の活動について」の記事だった。筆者は、三鷹市山本有三記念館学芸員の三浦穂高。
山本の名を聞いて、わたしが浮かぶのは小学生のときに読んだ『路傍の石』や『真実一路』くらいだったが、この記事によれば、かれはそうした名作を送りだした一方で、創作とは異なる分野で大きな足跡を残したという。戦前、明治大学文科専門部で文芸科長として独自のカリキュラムをつくって後進の指導に当たったり、子ども向けの教養叢書『日本少国民文庫』全16巻を編纂したり、自宅の応接間に「ミタカ少国民文庫」を設けて一般に開放したり……。こうした献身的な活動の過労によって、三度にわたり脳貧血に倒れ、眼疾から失明の危機に陥ったとか。
そんな山本にとって、日本が太平洋戦争に敗北したことは文化の敗北に他ならず、わが国の国語には多くの漢語漢字が含まれるために難解で、ある程度の知識人にとっては有用でも、広く一般国民の教養を向上させるうえには障壁となり、その結果、国力が十分発展しなかったことも無残な事態を招いた理由とされた。そこで、かれは戦後、ただちに「国民の国語運動連盟」を結成して新憲法の口語化を唱えるとともに、国語審議会委員として行政の場や、さらには参議院議員選挙に当選を果たして国政の場でも、先頭に立って国語改革に邁進していった。こうした奮闘ぶりを知って、わたしが『もじと国民』をひもといたのは、それが山本自身の手になるマニフェストに他ならないからだ。
ところが、せっかくの文章は新たな文化国家の建設に向けての提言の段になって、唐突に途切れてしまい、こんな言葉で結ばれる。
「これから国民のもじについて、具体的な論を進めてゆこうとしていたところ、突然、右の目の水晶体に、また内出血があったので、井上博士からの御注意により、残念ながら書き続けることができなくなりました。編集者にも、読者諸君にも申しわけありませんが、お許しください」
したがってマニフェストとしてはきわめて不完全なのだが、この文章は山本がみずからの心身を削り、満身創痍となって日本国民に送ったメッセージだったことにかけがえのない価値があるだろう。それにしても、とわたしは思う。戦前の日本においては極論すればかつてのトンガ島の酋長と同じように、国民同士の文字による意思疎通のあり方に差別を当たり前とする構図があったかもしれないが、21世紀を迎えた今日、ネット社会のもとでわれわれはスマホやパソコンを介して、だれしも分け隔てのない文字による意思疎通が実現した。じゃあ、だからといって日本は文化国家を誇れるだけの地位に就いたのかどうか? 天上からじっと見下ろしているはずの山本に見解を訊いてみたいものである。