「江戸名所四日めぐり」⑨東コース 深川・五百羅漢寺・亀戸天神
永代橋は江戸の頃、日本橋川河口の北側(日本IBМ側)に架けられていた。深川の人間たちは、この橋を渡って小網町、日本橋へと足を運んでいた。本日「四日めぐり」最終コースは、この橋を渡って東詰から、現代の永代通りを東へ進むと「深川八幡」の一ノ鳥居が見えてくる。深川は江戸初期、小名木川造成工事に伴ない深川八郎右衛門によって埋め立てられた土地である。永代島と呼ばれた江戸湾の砂洲は、明暦大火後に永代橋が創架され、それ以降急速に発展拡大してきた町で、元禄年間(1688~1703)本所と共に江戸の町に繰り込まれた。深川一帯の産土神である「深川(富岡)八幡宮」と、その西に「永代寺」が、長盛上人によって寛永4年(1627)創建された。赤坂山王、神田明神と共に江戸三大祭と呼ばれる祭礼は3年に1度、「神輿の深川、山車の神田、だたっ広いが山王様」と云われるように、真夏の昼間、水を掛け合いながら神輿が揉まれたので、裸祭、水かけ祭の異名をとった。元禄時代、一ノ鳥居近くに住まい、そこで生涯を閉じた紀文が奉納した八幡、神明、春日造の三基の神輿は、関東大震災で焼失、現在境内に鎮座しているのは、某運送会社から寄贈による宝石をちりばめた華麗な神輿である。また「大日本沿海興地全図」を完成させた伊能忠敬は、近くの深川黒江町に住んでいた。測量の旅に出る前には必ず深川八幡に参拝したと云われる。江戸時代の永代寺は当初深川八幡の別当を務め、成田不動の出開帳を開いていた。成田のお不動明王を江戸で参拝できるとあって評判をよび、出開帳は毎年続いた。明治29年、永代寺の塔頭・吉祥院が、新永代寺と改められ成田不動を分祀、成田出張所を経て東京別院から、深川不動堂が再スタートを切った。毎年花の季節になると庭園が江戸っ子たちに開放された。それは「山開」と云われ「新吉原の夜桜」と比較された。かっては低湿地帯の寒村であった深川は、次第に八幡様の門前町を形成、その周辺は新吉原、品川宿に匹敵する花街となっていった。境内には「二軒茶屋」も開店、川を渡って粋人が訪れたが、庶民の好物は何と言っても、アサリをザクザクと煮込んだ深川丼、現在でも深川不動は毎月1,15、28日が縁日で、参詣客で賑わう。
葛西用水から分水された「亀有用水」は、深川一帯では満潮時になると塩水が混じるため飲料水に向かず、灌漑用水として使われていた。このため深川の住民たちの飲料水は。玉川上水の余水吐きである、江戸城辰口で樽に汲まれた水が大川を渡って、深川まで売りにきていた。2樽で4文(1文≒¥25)也。「水売り」商人の舟は大川から仙台堀川に入り「海辺橋」辺りで荷を上げて売り歩いた。このため海辺橋辺りを「水場」と称した。元禄期、ここに芭蕉の門弟杉山杉風の別荘「採茶庵」があった。別荘と言っても日本橋魚河岸小田原町で営む魚を、養殖している小屋を改造したものである。ここに芭蕉翁はしばしば訪れ「古池や 蛙飛び込む 水の音」と詠み、この庵から曽良と共に「おくのほそ道」に旅立っていった。元禄7年(1694)9月、大坂の門人宅で食事に招かれた芭蕉は急に体調を崩し、10月12日、51歳の生涯を閉じてしまった。臨終をみとった医者は、大坂の医師斯波一有、一有は芭蕉の弟子であり、女流俳人であった園如の夫でもあった。園女は夫の死後、江戸へ下り渡会(わたらい)を名乗り、深川八幡宮の前で眼科医を開業した。しばらくして八幡宮に36本の桜を贈植した。この桜たちは「三十六歌仙桜」と呼ばれ、長く深川を訪れた江戸っ子たちに愛され続けた。芭蕉の死後から32年後の享保11年(1726)他界、「雄松院」に葬られた。深川にはこの他にも有名人の墓が多い。4代家綱は乳母三沢局が他界すると、深川円珠院を「浄心寺」と改め、局の霊を弔った。この寺には洲崎弁天で働く遊女たちの供養塔も建てられている。また、木場近代美術館近くの「雲光院」には、家康の側室でもあり外交官でもあった阿茶局や、元吉原を開いた庄司甚右ヱ門が眠っている。
深川八幡宮から少し東へ行くと「三十三間堂」がある。京都東山にある蓮華王院本堂を真似て、南北66間、東西4間、本尊は千手観音である。寛永年間(1624~43年)に浅草に建立されたが、火事にあい元禄14年(1701)八幡宮の東に再建された。弓矢の腕を競う武士や町民たちが33間先の的を狙った。この「通し矢」を競う三十三間堂は現在なく、八幡裏の数矢小学校がその名を留めている。更にその東の海辺には洲崎弁財天が祀られていた。洲崎は江戸の海に突き出ていた為、潮干狩りなど江戸っ子たちの行楽地になっていたが、寛政3年(1791)大型台風による高潮に襲われ壊滅状態となった。このため幕府はこの辺り一帯を空き地として、住民の居住を禁止した。洲崎弁天の北は「本木場」である。深川佐賀町にあったものを「元木場」という。元禄12年(1699)築地町と呼ばれていた約9万坪の土地を、材木商15人に払い下げ「深川木場」と名付けた。材木商たちは貯木と運搬に効率的な材木置場を造り、火事の際仙台堀を使って組木(現在のプレハブ)された材木は、焼け出された江戸の街に搬送され、その日のうちに組み立てれられた。このシステムはは先の大戦まで続けられたという。深川木場は現在、下町のオアシスとして広大な都立木場公園となっている。因みに仙台堀川は、隅田川よりに奥州仙台城主伊達家の下屋敷があったことによる。
木場通りを10丁(1丁≒109m)ほど北に進むと「小名木川・猿江橋」、この橋を渡って東へ20丁余り進むと「五百羅漢寺」。江戸時代になって中国から伝えられた禅宗の一派黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院で、当初、本所五ッ目(江戸川区大島3丁目)にあった。「安政の大地震=安政2年(1855」で本所に移転、更に明治43年、現在地の目黒不動隣に移転して来た。現在の寺院は昭和13年、新橋で金春芸者をしていたお鯉が出家した安藤妙照尼が入山、創り上げたものである。釈迦如来の弟子羅漢像は、五百羅漢寺を開基した松雲元慶によって刻み上げられ当初530体あった。豊前国(大分県)中津本耶馬渓町の羅漢像を見て発願したという松雲は鉄眼道光の師事、10数年かけて刻まれた大群像である。高さ3尺内外の寄木造りの羅漢像は、それぞれ表情や姿勢が異なり妙に人間臭く、参詣の詣でる人々にとって身近な縁者を連想させた。この羅漢像を祀る三匝堂(さざゐ堂、江戸っ子たちは「さざえ」と発音できず「さざゐ」と発音した)は、享保11年(1726)に建立された螺旋構造で、上りと下りの通路が交差せずに一方通行の栄螺の貝のような螺旋状で、三層の繋ぎ目には見晴らし台が設けられていた。ヨーロッパのキリスト教寺院にもこの形式は見られる。更に北西に進むと「亀戸天神」。正保3年(1643)筑紫の太宰府天満宮を勧請したことから東宰府の異称がある。菅原道真ゆかりの「飛梅」の枝で天神像を刻み、亀戸村にあった祠に祀ったのが始まりとされる。飛梅とは、道真が筑紫に左遷されたとき、道真に愛された梅が、彼を慕って一夜にして関門海峡を渡り、筑紫に飛んできた伝説の梅ある。また、境内の太鼓橋から眺める藤の花に、江戸っ子たちは「京の雅」をその色と香りに感じた。
天神様の裏手が「亀戸梅屋敷」。江戸の行楽ガイドブック「江戸名所花暦」には、「本所亀戸天満宮より3丁ほど東のかた、清香庵喜右衛門が庭中に臥龍梅と唱うる名木あり」と、この庵を梅の名所第1番に挙げている。清香庵(現在の江東区亀戸3丁目付近)には、約3600坪の庭園に300本の梅が梅が植えられていた。中でも群をぬいていたのが高さ1丈≒3m程の「臥龍梅」で、幹はかなり太く、枝ぶりっは天を舞い地を這う如くで、まるで伝説の生き物、龍が地を這っているようであったという。清香庵は安政の大地震で倒壊、臥龍梅も明治43年の大水の塩害で枯れ死してしまった。「白雲の 竜をつつむや 梅の花」嵐雪。梅や藤の花に堪能した後は業平の名物しじみ汁、今は船橋屋のくず餅が有名である。ここから江戸へ戻るには真っ直ぐ西へ足を運ぶと、幕府の御竹蔵(現在の国技館や江戸東京博物館辺り)。ここを大川を南下れば両国橋、馬喰町の公事宿はすぐである。「江戸名所四日めぐり」了
次回<江戸瓦版>は、茅場町草市と山王神社の御旅所 を送ります。お楽しみにです。