ZIPANG-9 TOKIO 2020戦う文明から 助け合う文明へ 「発酵文明」の提唱 1 −1 【寄稿文】一舟・光秀
令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、能登半島地震で被害を受けた皆さまに、
心よりお見舞い申し上げます。(編集局)
「物質文明」から「心の文明へ」。それには物質と心を繋ぐ段階と媒体が必要である。
戦う文明から平和な心の文明への変貌に必要なキーワード。
それは「発酵文化」である
人の食から健康を、幸せ住環境を、そして人と人の心を繋ぐ、生物の暮らし、
さらに世界平和、地球環境の保全までに及ぶもの。海と森の列島は麗し。
この夕暮れの浜辺で 偶然 島崎藤村のヤシの実の歌を口ずさむ
民俗学者 柳田國男の 遥かな昔 南洋の人々の渡来の証拠
遥かなる南の島より 椰子の実一つ 黒潮に乗り流れ来たり 渥美半島の渚にて
日本は「発酵文化」の国であり、そして世界の平和と幸せに貢献できる国である。
「発酵」とは人に良ければ平和と幸せに。腐敗すると人の害になる、まるで政治のようなもの。
単に飲食ばかりではなく生活全般に、考え方にまでに及ぶ、目には見にくいが実に深い「旨み」のある存在。
伊勢神宮設立の元である元伊勢と言われる伊雑宮は、温暖な志摩半島に紀元前6世紀に鎮座する。海の幸と森と多くの縄文の遺跡に恵まれた心穏やかな志摩の地に。
森の中の蒼き池にも何か深い心が惹かれる。
古代より伝え実践し伝えてきた王や王朝は日本列島にだけ
物質文明を心の文明に導くには、有史以来世界の様々な民族の文化が、太陽の昇る東の果ての列島に渡来し作り上げた日本の文化。列島の風土と伝統により発酵され、他にないユニークな文化を創り上げてきた日本に。
紀元前15世紀〜紀元前7世紀頃までローマに滅ばされるまで地中海世界で活動したエジプト、イスラエル、ケルトの人々フェニキア人は、ローマに滅ばされ世界に散って行った。列島へも南から西から北から三々五々渡来した。鉄の武器と途中大陸の各地で文化を技術を得て渡来し、各地で王国をつくり攻防を繰り返したのち、列島の大和朝廷に集約されていった。
神武天皇が先住大和の大国主命を攻めた、神武天皇お船出の宮崎県美々津町には、皇紀2600年の大きなモニュメントと、家々にその船が郵便受けに飾られている。
美々津町の家々にその船の姿が郵便受けにある
古代の文明を今日まで代々伝え実践してきた王朝は日本にだけ
それは他国の文化をも、衣食住にも積極的に取り入れ、弥生時代から長い時間をかけ、農業や蚕業や食品に至る、優れた職人技を伝え、洗練させて来た。その過程こそ発酵文化であり、しかも朝廷の年中行事祭礼に、一貫して古代より伝え実践し伝えてきた王や王朝はない。式年遷宮は古代の洗練された様式と建築資材を次に活し、建築から工芸にいたる保存の見事な方式である。
その結果として芸術・デザイン・色彩も長時間をかけ改良を重ね、理想の最高の美は、金蘭豪華な他国の王たちの宮殿とは正反対の、自然と調和する質素・簡潔・抽象的哲学表現、作庭、茶室、侘び寂びの究極の人工美に至った。
世界の知識人は、西欧リアリズム、ロマンチシズムより、中世の日本の伝統芸術は西欧より4〜5百年進んでいると言った。
世界の平和と幸せに貢献する日本人の慈しみの心と技術の融合発酵が、未来の社会の希望になる。
物質文明の構造から脱皮し、心の文明に向かうワクチンは我が国の発酵文化とその心にある。
その過程に必要な事例
1 有史以来の英雄伝説から心の英雄へ 本物の英雄を静かに称えよう
世界は物質文明と心の文明の争いの坩堝と化した今、領土と欲望の暴力的な有史以来の英雄伝説から、心の文明の実現に戦った本物の英雄を静かに称える時である。
2 苦境にめげず世界のため、弱き者のために、勇気で示した本物の英雄を。
暴力や金の力ではなく、志しを貫いた日本人の心の手本となる英雄を。
3人の偉人 新渡戸稲造 緒方貞子 パッツイ・タケモト
多くの日本人が世界で、国や人のために尽くしていることは衆知の通りであるが、最近特に思う平和と幸せに尽くした心優しく力強い三人の「偉人」がいた。
武士道精神と優しい心で北欧での戦争を回避した新渡戸稲造氏。
世界の危険な紛争の現場に行き、難民から慕われる緒方貞子氏。
人種差別と女性の権利と教育に取り組んだパッツイ・タケモト氏。
新渡戸稲造氏は国際連盟次長で、日本が国際連盟脱退した難しい時期に、北欧の一触即発のオーランド紛争を見事に解決した。
緒方貞子氏は日本人初の国連難民高等弁務官、防弾チッキ着用で現地へ行く小さな巨人と言われ、世界の難民の母と慕われる。
パッツイ・タケモト氏は日系ハワイ3世、アジア人で初めての女性の下院議員、人種と女性の様々な問題の解決のため、多くの障害を乗り越え議員となり「タイトルナイン」法を実現した。未だ低い世界の女性の地位向上につながる。
英雄の概念を改めて考える
相変わらず人を殺す快感を、古代からの英雄伝説、国、民族、種の対立は絶えないが、勇壮で血湧き肉躍る面白さを抑える知性が進化し変化しなければ、永遠に殺人、大量殺人の戦争も終わらない。野蛮で幼稚のままの人間社会は続く。
平和を望むなら、アニメやゲーム、TVドラマなど相手を倒し傷つけ殺す場面は止めよう。メディアは同種の生物の人を殺す人のDNAを刺激するな。
発散スポーツなどで競うことはとても良い。人の持っている人間という同種の生物を殺し喰らうDNAは誰にでも潜んでいるが、それを抑え超えることが「心の文明」趣旨である。
一人でも殺人罪だが、多人数の戦争になると許される、この矛盾を変えて行こう。ひとの生きる目標、自己実現が欲望の原点にあることが間違いであることを悟ることが、AIの本当の使命だと誰もが思う時はいつか必ず来る。
世界の求める平和の理想の支配者・王は、
日本の天皇制であると最近言われている
一説では最近のユダヤの思想・理想の国を治める王は、権力と軍隊と一族の蓄財と贅沢三昧で、民衆を支配搾取する古来の王ではなく、日本の天皇制のように国民の心のシンボルとして崇敬されるあり方が国や民族の王の理想であると言う。
いや我が国でも熾烈な戦国の戦の中でも、信長と光秀が共に天下統一に邁進してきたが、最終的な理想の違いで決裂した。信長の天下布武は従来の覇王のあり方で朝廷を廃止し、無差別皆殺しの恐怖政治ではいつまでも下剋上は続き平和は実現しない。
誰が天下を取っても朝廷を奉る光秀の、麒麟が来る平和な世を願う二重構造思想は、ユダヤの新たな平和な世界の王のあり方の思想と似ている。
戦国時代ではそれはかなり未来的な国家の秩序を考えた思想であると言える。
平安鎌倉の武家政治が元で、天皇を崇拝する理由は、いずれの氏族も源平藤原などの天皇家の子孫あるいはそれに類する家柄であることが理由であり、一般国民もそれに倣って来たのであろう。
我が国では、時には覇者権力者に利用されることもあったが、それ等にも崇め奉られる位置付けであるが、生き物の常である群れを作り、種の繁栄と永続を本能的に行う過程で、今の世界の戦争や経済の競争紛争を、現在ではどう治められるのだろうか。人が霊長類を自負するならば、自然界の摂理を守れ。
「生きとし生きるもの みな幸せであれ」
そして「食物連鎖の持続的な程良い自然の摂理」を守れ。
思いは人それぞれ国も大同小異で、気候変動もあれど、平和で幸せの地球の生態系も、暫くは人も幸せな夢を見ることは出来そうだ。
現在世界は「物質文明」と「心の文明」をつなぐもの、その間に人の五感の生理的要素があり、その肉体を支える食・衣・住の環境であり、複雑で理屈や科学の手に負えない、人の心への期待の時であると思い始めた。その答えは「発酵文明」であると考える。
それは五感で感じる生理的 もっとも原初的な人の命と心である。目には見えない人の心身の世界をコントロールしている自然の力。
誰にでもある心と体の復元力回復力。ここに心の文明が明らかに見えてくる。
日本人が美しく見える人工物は白黒グレー自然素材色であり、心も同様である
デザイン・色彩には
「心の文明」へ向けて、関わる大切な発酵要素がある。
「環境と人」の調和である。
環境に関しては今まで述べてきたし、さらに具体案を提示していきたいと考えている。
近年DNAの研究成果で、日本列島人のDNAは周辺国や民族と比べ、かなり多くのDNAが混じり合う特殊な民族であるらしい。
藍染も発酵文化美の典型である、徳島の神山村の外国人のアートレジデンスでの雄大な藍染の発表作品
ところで日本人は単一民族だと主張する向きもある。それはおそらく日本的な文化の特殊性に、時には排他的になった民族性に起因すると思う。
しかし我々は周りを見渡しても顔貌は実に多様であり、鼻の形、瞼の形、肌の色、髪の毛の様子もかなりバリエーションがある。
筆者の五人兄弟姉妹も、姉妹は色白と褐色、目は単へと二重へ、兄弟も私は色黒、髪は天然ウエーブ、弟たちは色白、直毛である。
縄文時代の人々も南方から北から西から、それぞれの絶えず渡来混合してきたのであろうし、そして特に弥生期には船も発達し、太陽の昂るユーラシア大陸の東の果ての、行き止まりの太平洋の列島へは、何千何万とも言われる人々が、気候温暖、海の幸山の幸の風土に恵まれた理想の蓬莱の列島へ、稲作や、宗教や文字文化と共に渡来し、また500年も続いた中国大陸の春秋戦国の戦さから逃れ、高句麗、新羅、百済から半島経由での渡来はさぞかし多かったであろう。
因幡の白兎の伝説もその一部であったろうし、埴輪にある大勢で漕ぐフェニキア船で、はるばる西方からインド洋、太平洋の黒潮で台湾沖縄九州へやって来て、奈良大和の先住大国主一族を紀伊半島の裏から攻め、やがて大和王朝を築いた神武一族もあった。
発酵展開した多様で豊かな日本の文字文化
そして縄文人は、渡来人の文化と人に馴染み新たな文化を創り上げてきた。
中国や西方の先進国文化を積極的に取り込み、奈良の都をはじめ、都市デザイン、律令、文字文化を上手く取り入れ改良し、かなり短期間に漢字の音訓読み、50音、ひらがな、フェニキア文字からカタカナを、その後もローマ字、アラビア数字、を全て用途や感情表現や気分によって、自由自在に文学、詩歌、公式文書に至るまで、視覚と聴覚、点字まで、子供から高齢者までが何の屈託もなく活用し尽くしている国や民族は他にないのでは。
また渡来し簡略化した漢字も原型を損なわず、すっきりと美しくデザインし、五感を駆使して日常の暮らしを営んでいる、このことを苦ともせず、過剰に意識もしていない発酵醸造列島人達である。
国中の古墳からは朝鮮半島の鉄の剣武器鎧が発掘されたり、平和であったろう縄文時代から好戦的な大和民族に変貌し、海外まで侵攻する日本国の今に至った。
ただ近隣と友好的であった平和な徳川期と、縦割りと意固地な、明治からの軍国主義期の悪弊も経験し、敗戦で平和国家になるべく概ね平和ボケで、人口減と超高齢化現象で衰退成熟にも、ビジョンをもてない認知症進行国の日本である。筆者もその年齢状態に達し自分のことのような気がする。
「発酵」は心の文明の元である
ところで何故に好戦的な弥生人は、次の奈良平安の和歌集に見られるような「もののあはれ」、人と自然を愛する和の繊細な文化が生まれて来たのだろうか。
例えば「五七五 七七」の韻を踏む優雅な和歌連歌は、戦国の文武両道の明智光秀のような武将に、たったの「五七五 」に雄大な宇宙・天の川や、水の音を表現した芭蕉のような日本人。その「五七五 七七」の韻の原点は何処にありやと考えあぐんでいた時、古代ユダヤにありと、ユダヤ研究デザイナー宮崎一郎氏から知った。ますます数千年の心の文明の原点は発酵にあると信じた。
万葉の歌人柿本人麻呂を尊敬し光秀が捧げた人麿神社と手植えの楓は明智城址にある
渡来部族間の権力闘争はあったにしろ、国内の戦国期の混乱と、豊臣の半島侵略の失敗と、明治から昭和にかけてのアジア全土に侵略し敗退した好戦的素質と、その間に260年の平和と幸せ文明の徳川期の2面性を持っている列島日本人である。
総合的視座を養って来た聖徳太子と徳川幕府の政策
現在特に評価したいのは、西欧が植民地支配で世界を席巻していた時代に、北米の南半分と南米大陸全てを一気に支配したスペイン・ポルトガルの支配の執拗な脅威にあって、無事にうまく植民地化から逃れた徳川幕府の賢い指導者たちの総合的視座を養って来た世界政策の先見性に興味がある。それにしても太平洋戦争の愚は悔しくも悲しい。
この事実を踏まえても日本人は、国際的に平和を進める資質がある思う。
それは世界的に知られる新渡戸稲造氏と緒方貞子氏然り、さらにアメリカの女性の解放等に大いなる努力で「タイトルナイン」法を勇敢に戦い実現し、記念クォーター硬貨にもなった日系3世の故パツィ・タケモト・ミンク下院議員のことなど、偉大な個人の業績が想い浮かぶ。
また先般の愛子親王のご発言のお姿にも、何故か和の平和的な共感を持たれた国民も多くあるのではないかと思う。
古来に海外の文明を積極的に取り入れ、和の国のビジョンの基礎を進めた推古天皇と聖徳太子、さらに天智天皇と三人の賢明な女帝の治世は、後の安定した朝廷の基礎となり、シンボルとしての広大な伊勢神宮の形成と、今や世界の国家や民族の平和の象徴としてのまとめ役の手本と言われる「平和国家」日本国のシンボルである「天皇制」が話題にのぼる。
王が、大統領が首相が将軍が、何れの覇者が現れても、変わらず静かに崇敬される中心である。今まさに平和を願い世界の国のまとめ役の新たな役割が必要な時である。
ほかにも日本には本当の意味で優れた女性は古来から今も、多くの女性の存在は平和と幸せに必要な存在である。すでにアジアでも何処の国でも上層部指導者は女性が当たり前である。今後ますます賢い女性の登用が待たれる。
人が微笑む 「心の文明」へ向けて、いま一つ課題がある。
現代の殺風景な現代物質文明の暮らし環境の改善に、人間活動の大半を担う視覚機能の、デザイン・色彩の役割である。環境は人をつくるという。短い生命の、人それぞれの幸せへの想いを、きっとどこかの誰かの心にも響く環境づくりを。
次回に続く・・・
【寄稿文】 一舟・光秀(林 英光)
環境ディレクター
愛知県立芸術大学名誉教授
東京藝術大学卒業
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
発行元責任者 鎹八咫烏(ZIPANG TOKIO 2020 編集局)
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
水窪石 怒りの呪文が刻まれた縄文のペトログリフ
信州諏訪大社にはユダヤとの関連性が指摘されているそうですが、イスラエルと隣接したレバノンを拠点に地中海沿岸に勢力を広げたフェニキア人もまた遠州へ来ていた痕跡が残されています。
水窪石は昭和35年に水窪町の水窪遺跡(縄文時代の遺跡)から出土している。石には記号とも文字とも判別が付かない模様が刻まれている。
同年に静岡県立天竜林業高校の池本教諭が水窪石に関する調査を発表したらしいが、神代文字の刻まれた縄文時代のペトログリフとして多くの研究者が解読を試みたが結論は未だ出ていないようだ。
最近では「古代フェニキア文字」が刻まれているという説が有力のようで、「バルーツ(女神)ガシヤン(男神)に奉る」と書かれているのだという。バルーツとは、フェニキア民俗のいたシリアの自然神バアルの女性形だと云う。然し、水窪民俗資料館では更に詳しい解読文が水窪石のレプリカに添えて展示されている。
塞の神、境界の神といえば、岐神(八衢比古神)、二俣神クナトである。
クナト大神威様は、本来の出雲の最高神であるとする説がある。 「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味で、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神であると云われる。
岐神の祀られている場所では何故か、本来一本の幹で真っ直ぐ伸びるはずの杉が、八衢(やちまた)に幹分れし、何らかの強大な力でねじ曲げられたように生えている。※レバノン杉
出雲族の最高神であるとされるクナトは、アマルナ革命を行ない唯一神アテン神信仰を広めたエジプトのファラオ「イクナートン」(=アクエンアテン、アメンホテプ四世B.C.1362~1333頃)を指し、出雲族の起源をモーゼに従ってエジプトを出たアテン神信者とする説もあるようで、出雲=諏訪=ユダヤ説と共に一部にマニアックな研究者がいるようです。
(イクナートンを信奉する人々は、エジプトを追われイスラエルに逃れ、彼らは「失われた十支族」の一つで、日本に来てクナトを信奉する出雲族となり、応神天皇に滅ぼされて天竜川を遡り諏訪へ逃げ込んだ。)
古代フェニキア人が天竜区へ来ていた?
よく云われる諏訪と出雲、邪馬台国、ユダヤとの関係を結ぶミッシングリンクは天竜区にある?
ユダヤと諏訪、フェニキアと水窪、ミシャグジと天竜川、クナトと二俣。
地元の研究者曰く「秋葉信仰の謎を解く鍵かもしれない。」
※レバノン杉
天竜に生えている杉?レバノン杉はスギ科に近縁だがマツの一種で、八衢に幹分かれしているものが多い。フェニキア人はシリア、パレスチナ、イスラエル周辺を根拠地に地中海沿岸へ進出した海洋民族である。 レバノン杉を使って舟を作ったという。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「初夢 秋葉信仰の源流は縄文時代より?」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3467792
群馬県高崎市 世界記憶遺産「上野三碑」
上野三碑(左から順番に、「山上碑」「多胡碑」「金井沢碑」)
日本列島東部の古代上野国[こうずけのくに](現在の群馬県[ぐんまけん])に存在する三つの石碑「上野三碑[こうずけさんぴ]」は、日本に18例しか現存しない古代(7~11世紀)の石碑のなかで最古の石碑群であり、大切に守られてきました。
それらは、山上碑[やまのうえひ](681年)、多胡碑[たごひ](711年頃)、金井沢碑[かないざわひ](726年)と呼ばれています。三碑の記録形態は、上野国に住み着いた朝鮮半島からの渡来人がもたらしたもので、かれらとの密接な交流の中で、当時の都(飛鳥、奈良)から遠く離れた地元の人々によって文字で刻まれたものです。
山上碑は日本語の語順で漢字を並べた最古級の歴史資料です。多胡碑は、18世紀以来、中国の「書」の手本となってきました。金井沢碑は、この地での仏教の広がりを刻んでいます。これらの三碑は、東アジアにおける文化交流の実像を示す極めて重要な歴史資料です。
三碑に刻まれた内容は、中国を起源とする政治制度、漢字文化、インドを起源とする仏教が、ユーラシア東端の地である日本に到達しただけでなく、さらに遠く離れた東部の上野国に多数の渡来人の移動とともに伝来し、地元の人々に受容され、広まっていったことを証明しています。
このように三碑は、歴史的、文化的、社会的、政治的に、「世界の記憶」にふさわしい希有な価値を有するものです。
山上碑は飛鳥時代の681年に建てられたもので、完全な形で残っているものとしては日本最古の石碑です。
自然石をあまり加工しないで使っており、朝鮮半島の新羅[しらぎ]の石碑(6世紀)に類似しています。
碑文には、放光寺[ほうこうじ]の長利[ちょうり]という名の僧が母のために石碑を建てたことと、長利の母方、父方双方の系譜が記されています。
長利の母である黒売刀自[くろめとじ]は、ヤマト政権の直轄地である佐野三家[さののみやけ](屯倉[みやけ])の管理者であった健守命[たけもりのみこと]の子孫で、父である大児臣[おおごのおみ]は、赤城山南麓の豪族とみられる新川臣[にっかわのおみ]の子孫です。
前橋市総社町にある山王廃寺[さんのうはいじ]から「放光寺」の文字を刻んだ瓦が出土しているため、長利が勤めた放光寺は山王廃寺であると推定されています。
放光寺が東国有数の大寺院であったことや、仏教が当時の先進的な思想であったことから、長利はかなりの知識人であったと思われます。
こうしたことから、長利は母である黒売刀自を供養するとともに、上野国の有力豪族の子孫であり、大寺院の僧でもある自らの存在を後世に伝えるために碑を建てたと考えられます。
碑文は、すべて漢字で書かれていますが、日本語の語順で読むことができます。
現在につながる日本独自の漢字の使用法が確認できる非常に貴重な史料です。 このように、山上碑からは、ユーラシア大陸から伝わった漢字文化と仏教信仰が日本の古代社会に根付いていく様子をうかがい知ることができます。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「世界記憶遺産認定 上野三碑[こうずけさんぴ]高崎市」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3190309
森の賢者「大主(ウフシュ)ガジュマル」
森の賢者との遭遇は、一瞬、思わず息を呑む…静寂の後、感嘆の声が上がる。
ガンガラーの谷は、数十万年前までは鍾乳洞だった場所が崩れてできた、豊かな自然が残る亜熱帯の森。約1万8000年前に生きていた「港川人」の居住区としての可能性も高く、今も発掘調査が行われ、「自然」や「命」に思いを巡らせながら体感していただくことをコンセプトにしています。谷の広さは約14500坪、歩行距離は約1㎞。足を踏み入れて初めて分かる、広大な太古の世界が広がっています。
ガンガラーの谷の遺跡発掘調査
港川人とは、沖縄県南部の石灰岩採石場で1970年に化石人骨として発見された人類です。
発見された4体の内、港川人1号と言われる1体は、人骨は頭の先から足の先まで骨が揃い、保存状態が非常によく、現代の私たちに多くのことを教えてくれています。
彼らは、約2万年前に実際にこの地に生きていた、旧石器時代の人類。
身長はおおよそ150cm前後で、現代人に比べると小柄です。その骨格から、森の中を歩き回りながら狩猟採集の生活をしていたであろうと推測されています。
現在判明している最古の人類は、アフリカ中部で発見された約700万年前のチャド猿人。
その後、様々な人類が誕生しては消滅していきました。そして、私たちホモ・サピエンスは、今からおよそ20万年ほど前にアフリカで誕生し、その後、今から約6万年前に我々の祖先はアフリカを飛び出し、世界中へと旅立っていったと言われています。
では、私たちの祖先はどのような経路で日本に辿り着いたのでしょうか。
港川人の発見は、日本人のルーツを握る重要な手がかりとなっています。
この地沖縄で暮らしていた港川人が、海を越え日本本土に渡り、日本人の祖先となった可能性があります。
遠くアフリカから沖縄にたどり着いた先人たちは、この地沖縄を飛び出し、また北へと向かう旅を続けたのではないでしょうか?
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~ 生命の神秘をたどる旅とは ~「 あなたはもう行きましたか ⁉ 今、世界が注目する ガンガラーの谷へ」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6373788
「和多都美(わたつみ)神社」
古事記に登場する海神の娘・豊玉姫(とよたまひめ)を祭る海宮で、古くから竜宮伝説が残されています。拝殿正面の5つの鳥居のうち2つは海中にそびえ、潮の干満によりその様相を変え、遠く神話の時代を偲ばせる神秘的な雰囲気を漂わせます。裏参道を少し歩くと古代の祭祀跡・磐座(いわくら)があり、隠れたパワースポットとなっています。
古代の港・西漕手(にしのこいで)
「日本誕生」古代より続く人の流れと、大陸文化を摂取するための使節の派遣などにより、金属器・漢字・仏教・政治制度などさまざまな大陸文化が対馬・壱岐を経由して日本に流れこみました。対馬・壱岐はいわば、日本が誕生する際の「へその緒」としての役割を果たしました。
(写真: 古代の港・西漕手(にしのこいで) 対馬市美津島町小船越)
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
「対馬」シリーズは、「西 護氏」の寄稿文も含め20話余りになります。
ZIPANG TOKIO 2020「日本の原風景 対馬の歴史~初めて訪ねた人にさえ懐かしさを感じさせる、その人情と風景とは~(第一話)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3172259
伊勢神宮社殿の建築
正宮は正殿を中心にして、瑞垣(みずがき)・内玉垣(うちたまがき)・外玉垣(とのたまがき)・板垣(いたがき)の四重の垣根がめぐらされ、その建築様式は、唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)と呼ばれます。唯一神明造は、日本古来の建築様式を伝え、ヒノキの素木(しらき)を用い、切妻(きりつま)、平入(ひらいり)の高床式の穀倉(こくそう)の形式から宮殿形式に発展したものです。屋根は萱葺(かやぶき)、柱は掘立(ほったて)など、その姿は簡素にして直線的で、素木の美しさを最も輝かせる建築様式と言えます。
唯一神明造りの特徴について
1.ヒノキの素木造りであること
2.丸柱の掘立式で礎石を使用しないこと
3.切妻・平入の高床式で棟木(むなぎ)の両端を支える 棟持柱(むなもちばしら)があること
4.萱葺の屋根の上には鰹木(かつおぎ)が置かれていること
5.千木は屋根の搏風(はふ)が伸びた形状であること
内宮と外宮の違いについて
神宮の社殿の中でも両正宮の正殿は、その規模が格別に大きいことや、外に高欄(こうらん)※が廻らされ居玉(すえだま)※が飾られていることなど、別宮以下の社殿とは特徴が異なります。また内宮と外宮の正宮は、殿舎の配置、構造など、ほとんど変わりませんが、細部には相違点があります。
※高欄(こうらん) 建物の外縁などに縦横に材をわたした、人の墜落を防ぐ手すりです。
※居玉(すえだま) 内宮(ないくう)と外宮(げくうの)正殿(しょうでん)の高欄(こうらん)に取り付けられた玉。青、黄、赤、白、黒と5色があります。
「内宮」「外宮」の相違点
内宮の正殿の構造は京呂組(きょうろぐみ)、外宮は 折置組(おりおきぐみ)。
内宮の正殿の鰹木は 10本(偶数)、外宮は 9本(奇数)。
内宮の千木は 内削(うちそぎ )、外宮は外削(そとそぎ)。
内宮の東・西宝殿は正殿後方の左右、外宮は正殿前方の左右。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~平成最後のお伊勢参り~「『平成』から次の時代へ 感謝と祈りのお伊勢参は 『常若』の精神に通ずる!」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5673545
池袋で絵巻物が躍りだす!華やかな衣裳、雅な音楽、躍動的な舞が織り成す大田楽がまちゆく人を絵巻の世界へ誘う野外パフォーマンス。
池袋の街を舞台に、120名を超える田楽法師たちが、いにしえの旋律にのって軽やかに舞い躍る「大田楽 いけぶくろ絵巻」。
伊雑宮
伊雑宮 御田植祭 磯部の御神田(おみた)
志摩市磯部の伊雑宮に隣接する御神田です。 毎年6月24日(6月月次祭当日)に行われる御田植式は、とても雅な神事で、「磯部の御神田」の名で国の重要無形民俗文化財に登録され、日本三大田植祭の一つとされます。
稲作の平穏と豊穣を祈って「田の神」を祭る稲作儀礼として、また農村の慰安や娯楽として一大行事であり、楽しみでもありました。日本全国の農地は減少しましたが農耕民族として各地で大切に伝統が守られています。また時代とともに農業のあり方も変わろうとしています・・・
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~大田楽 いけぶくろ絵巻~「今宵は~舞い遊ばん、躍り狂はん!~」 & 伊雑宮(伊勢・志摩)始め各地の御田植祭
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5009463
二つの『元伊勢』さま
⚫倭笠縫邑とは
次に「倭笠縫邑)(やまとかさぬいむら)とはなんの意味を表すのでしょうか?
―・ー「笠縫邑(かさぬいむら、かさぬいのむら)」とは、崇神天皇6年に、宮中に奉祀していた天照大神を移し、その皇女、豊鍬入姫命に託して祀らせた場所。同時に宮中を出された。他方の倭大国魂神は皇女渟名城入媛命に託して、後に大和神社に祀ったとされる―・ー
その時、豊鍬入姫命は天皇の証し(八咫鏡と草薙の剣)を持ち、鎮座されるべき御神座所を求めながら、各地における様子を検討されたのでしよう。しかし。当時の人々の寿命は短く、崇神天皇の直系となる代々の皇女に、バトンタッチされながら、その後90年ほど候補地を転々とされ、最後に垂仁天皇26年(657年)の第四皇女、倭姫によって伊勢の五十鈴川の磯城の厳橿之本に神籬(ひもろぎ)を立てられ御鎮まりになられたそうです。これが伊勢神宮の斎宮創祀とされる所以だそうです。
この間、巡られた仮の鎮座地、
比定地については、檜原神社(桜井市三輪)を筆頭に多神社(磯城郡 田原本町多)、笠縫神社(磯城郡田原本町秦荘、秦楽寺境内南東隅)、笠山荒神社(桜井市笠)、多神社摂社の姫皇子神社、志貴御県坐神社(桜井市金屋)、小夫天神社(桜井市小夫)、穴師坐兵主神社(桜井市穴師)、飛鳥坐神社(高市郡明日香村飛鳥)、長谷山口坐神社(桜井市初瀬手力雄)等々 でした―・ー
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E7%B8%AB%E9%82%91
と、まあ何と沢山でてくること!
「天照大神」の御神霊はその後90年ほど諸処を転々とし、垂仁天皇26年(657年)の第四皇女、倭姫命によって最後に伊勢の五十鈴川の上流にて御鎮まりになられ、これが伊勢神宮の創祀と云われる所以なのだそうてす。
⚫二つのパワースポット
この言葉は最近とみに流行していて、それに伴ってランキングでも競争があるようです。本サイトの中で競争あるとすれば、はて?何処でしようか? 勿論それは、丹後一宮の真名井神社の元伊勢であり、もう一つが大和一宮の摂社檜原神社の元伊勢であります。元伊勢同士の一騎討ちみたいですね?
籠神社 奥宮「真名井神社」
例えば宗教も例外ではなく、その思想やそれに付随する全てのソフトからハードまでの事象が含まれます。前述の「元伊勢」の言葉も、そこを通過した古神道が、天の橋立に根付いた海部族の『籠神社』でした。件の「元伊勢」とは『籠神社』の奥宮「真名井神社」のことだったのです。
大神神社 檜原神社(ひばらじんじゃ)
祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)社祭日 8月28日
この地は、崇神天皇の御代、宮中よりはじめて、天照大御神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託されてお遷しになり、「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立て、お祀りされた「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」であります。
大御神のご遷幸の後も、その御蹟を尊崇し、檜原神社として、引き続きお祀りし、「元伊勢(もといせ)」と今に伝えられています。 境内には、昭和61年11月5日、豊鍬入姫命を祀る豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)が鎮斎されました。
万葉集等に「三輪の檜原」と数多く詠まれ、山の辺の道の歌枕ともなり、西につづく檜原台地は、大和国中を一望する絶好の地であります。
この「倭笠縫邑」のパワースポットとして人気の高い檜原神社の御神体は実はこの三鳥居の中にはありません。それは丹後の真名井神社と同じく、山中にある磐座であり、三つ鳥居の中には虚空が広がるばかり、不可視の限りなく大きな何かが漂っているだけなのです。
これに対する籠神社の奥の院、真名井神社のエリアも、只ならぬ気配が立ち昇っているらしく評判のパワースポットだとされています。そして何れも「元伊勢」と呼ばれており、我が秘宝こそと名乗りを上げているのですね〜
でも、結果的に伊勢神宮では内宮、外宮に別れますが、何れにも鎮座されているから、二つとも正解だといえましょう。
内宮に祀られた元伊勢は皇大神宮の天照大神の御神坐となり、外宮には籠神社御祭神の豊受大神が御奉斎されました。尤もこちらは後から雄略天皇の代になってからですが…それにしても崇神天皇は国津神系へのご配慮は大変なもの。やはり、歴代天皇の中でもそこまで見通せる特別に傑出した方だったのでしょうか。
どちらのエネルギーも負けず劣らずで、やはり土地のもつ、磁力と歴史の積み重ね、そして人々の尊崇する祈りのパワーや念力と言うものが、積み重なると更に土地の磁力を育てると申しますから、誰もそれを立証することは不可能というものです。それにしても、日本の神様は何と人間的で平和な存在でありましょうか。人間だけですね〜それを利用して損得を争うのは…
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「二つの『元伊勢』さま 【 寄稿文 】まんだら塾長 日原もとこ」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3430816
「北海道・北東北の縄文遺跡群」青森県 三内丸山遺跡
北海道、青森県、岩手県及び秋田県は、世界自然遺産「白神山地」や「知床」など、 美しい自然が今なお色濃く残る、緑豊かなところです。
北海道・北東北の縄文遺跡群は、この豊かな自然の恵みを受けながら 1万年以上にわたり採集・漁労・狩猟により定住した 縄文時代の人々の生活と精神文化を今に伝える貴重な文化遺産です。
日本の宝を世界の宝に、そして過去から受け継いだ宝を未来へつなげるため、 北海道・北東北の縄文遺跡群は世界文化遺産登録を目指し取り組みを進めています。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-5 TOKIO 2020「北海道・北東北の縄文遺跡群」のイコモス勧告「世界文化遺産登録」について(Ⅰ)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/17925180
国立アイヌ民族博物館
※本イメージ図は、設計段階における案であり、変更の可能性があります。
日本国内には、東京、京都、福岡などに全部で7館の国立博物館があります。 国立アイヌ民族博物館は、北海道では初めて作られる最北の国立博物館です。
国立アイヌ民族博物館では、伝統的なアイヌ文化を一面的に展示するわけではありません。現代に息づく多様なアイヌ文化とそれに関わる人々をさまざまな視点から紹介します。北海道から世界へアイヌ文化を発信し、未来のアイヌ文化の創造に寄与します。
博物館の理念
国立アイヌ民族博物館は、日本の先住民族であるアイヌの尊厳を尊重し、 国内外にアイヌの歴史・文化等に関する正しい認識と理解を促進するとともに、 新たなアイヌ文化の創造及び発展に寄与する。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020~国立アイヌ民族博物館誕生~ 速報「アイヌ文化を守る!2020年4月24日 北海道白老郡白老町~白老ポロト湖畔に国立民族共生象徴空間オープン~!(前編)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5412815
民族共生象徴空間『ウポポイ』
民族共生象徴空間とは
アイヌ文化復興等に関するナショナルセンターです。
「民族共生象徴空間」は、我が国の貴重な文化でありながら存続の危機にあるアイヌ文化を復興・発展させる拠点として、また、我が国が将来に向けて、先住民族の尊厳を尊重し差別のない多様で豊かな文化を持つ活力ある社会を築いていくための象徴という、重要な意義を有する国家的プロジェクトとして、2020年4月24日の一般公開に向けて、北海道白老郡白老町(しらおいぐんしらおいちょう)に整備を進めています。
アイヌ文化の復興等を促進するための主要施設として、 北日本初の国立博物館としてアイヌの歴史や文化を様々な視点からわかりやすく紹介する「国立アイヌ民族博物館」 アイヌの方々との対話や交流を通じてアイヌ文化を体感できる体験型フィールドミュージアムの「国立民族共生公園」 アイヌの方々による尊厳ある慰霊を実現するための「慰霊施設」 を整備するとともに、年間100万人の来場者を目指します。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~ 民族象徴空間の愛称は ~『ウポポイ』!! ~愛称・ロゴマークを決定~(後編)
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5420068
アイヌ伝統儀礼「 シンヌラッパ(先祖供養)」
が行われた際にふるまわれた「ハレの日」の料理を紹介します。
アイヌ伝統儀礼「 シンヌラッパ(先祖供養)」 場所:北海道大学遺跡保存庭園
主催:札幌アイヌ協会
古い時代、アイヌの人たちは、カムイモシリ(神々が住む世界)とアイヌモシリ(人間が住む世 界=現世)、ポクナシリ(死後に住む世界。地域によっていろいろな呼び方があります)と、三つ の世界があり、アイヌモシリで死んだ人はポクナシリにいき、そこでアイヌモシリと変わらぬ生活 をすると考えていました。
そうしたポクナシリで生活する人たち―特に親族に対して供物を送り、故人を偲ぶとともに、 現世の生活が何事もなく無事に暮らせるようにと、守ってくれることを願って行ったのが、先祖供養です。
シンヌラッパ(先祖供養)のお供え物
供物は「あの世の先祖の食べ物」で供物が多いほど先祖は喜ぶといわれています。 人々は神々に備えると同じように、先祖にも惜しみなく供物を捧げて食べ物を分かち合います。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020「アイヌ伝統料理『ハレの日』の料理を紹介します。」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5478587
阿寒湖の森ナイトウォーク『KAMUY LUMINA (カムイルミナ)』
THE STORY
アイヌの世界には、動物たちの魂を神の国へ送る、とても大切な儀礼や作法が存在します。
それをないがしろにし、動物を敬わなくなった人間たちにカムイは怒り、食料となるシカや魚を人間の世界に送ることをやめてしまいました。
そんな中、村の守り神であるフクロウは、人間たちにもう一度チャンスをあげたいと考えました。
人間たちのために、運命の鳥カケスとともに、カムイの世界へメッセージを届けにいくことにしたのです。
しかし、めんどうなことが一つだけありました。それは、カケスが森一番の美声の持ち主にもかかわらず、リズムをはずしてしまうということでした。みんなのサポートがなければ、カケスはリズムを刻み続けることができないのです。
阿寒湖の森に動物たちが戻ってきてくれることを願い。
カムイの世界への神秘の冒険がいま、はじまります。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 阿寒湖の森ナイトウォーク KAMUY LUMINA「 幻想的な夜の森を冒険しながら 『自然』と『アイヌ伝説』を体感する!」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6922301
阿寒湖温泉地区について火山・森・湖が織りなす豊かな原生的景観を有する「阿寒摩周国立公園」内に位置する阿寒湖温泉地区は、 北海道の先住民族であるアイヌの人々と日本人がともに暮らしてきた歴史があります。
同地区には現在も約120人が暮らす北海道最大規模のアイヌコタン(集落)があり、自然と共存してきたアイヌの人々の暮らしやそこから生まれた音楽や歌、踊りを継承するとともに、アイヌ文化を活かしたまちづくり、観光地づくりにも取り組んでいます。