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どんな句会に参加するか

2024.06.16 05:18

https://note.com/nag1aky/n/ndd0836a7e92e 【俳句:どんな句会に参加するか】より

リアル参加型が主流だった句会も、ネットでさまざまな形態や参加型のものが出てきて、身近にリアル句会がない場合も参加しやすくなったり、作品発表の機会や俳句との出会いを広げたと思います。

特にここ数年の疫禍、俳句制作を途切れず続けることができたのもネットを主流とした句会のおかげ。有難いことです😊

そして、昨年くらいから私の周囲では再びリアル句会の再開が増えてきた感じがします。

私自身もネット句会を継続しつつ、リアル参加も再開するようになってきました。

そこで今回、リアル・ネットにかかわらず「どんな句会に参加したいと思うか」をつらつら書いてみようと思います。

現在、句会に参加している方、これから句会へ参加してみたい方の参考になれば幸いです。

リアル句会の良さ、ネット句会(夏雲句会)のよさ

はじめに、私が思う両者の良さです。

なお、ネット句会については参加経験が多い

「夏雲システムによる句会(夏雲句会)」に限定して書きます。

【リアル句会】

非言語的コミュニケーションから学ぶことができる

句会は基本的に言語的コミュニケーションですが、リアル句会だと「非言語的コミュニケーション」からも学べる良さがあると思います。

非言語的コミュニケーションとは、言葉以外の手段によるコミュニケーション。相槌やうなずき、表情や仕草などが該当します。

リアル句会だと俳句に対する選評を生で聞くことができますが、これはZOOM句会でも同じと思います。ただ、リアル句会だとその場で全体がいっぺんに見えるので、句評以外の周囲の反応、すなわちどのコメントをメモしているかやどの場面で歳時記をめくっているか、またどんな句評に対して他者の表情が変わるか……などを一度に体験することができます。

そういう「言葉以外の反応」を客観的に感じることが、実は意外に自分の俳句制作や句評の栄養になったりします。

後は、「俳句を投句したら、その後で修正できない」点でしょうか。

短時間で17音と季語を選択・確定させる力は確実に上がると思います。

【ネット句会(夏雲句会)】

作品や句評を何度もみてじっくり学ぶことができる

ネット句会の一番の良さは、作品や句評を何度もみてじっくり学ぶことができる「再現性」だと思います。

特に夏雲句会だと、句会が終わっても作品・句評ともにいつまでも残っているので、自分や他者の作品の分析に最適です。

一歩ずつ力をつけたい場合は有効な句会ではないでしょうか。

あとはリアルと違い、一度投句しても締切までは何度も修正できる点です。推敲することで句をブラッシュアップでき、それも気づきにつながります。

気軽にいつでも参加できる

そして、先に書きましたが身近にリアル句会がない場合や仕事や生活の事情で外出しての句会参加が難しい場合などでも、柔軟な参加が可能な点。

今の時代に合っていて、私などは本当に夏雲句会には助けられています😊

また、俳句に興味がある経験の浅い方も気軽に参加できるなど、句会参加のハードルを下げた点や機会を増やした点も本当に素晴らしいと思います。

参加するなら、どんな句会がよい?

最後に、個人的に思う「どんな句会に参加したいか」です。

主にリアル句会での経験を基に挙げます。

①どんな作品が出ているか

作品の質が高いこと、魅力的な作品が揃っていることはもちろんですが、私の場合「どんな切り口の作品が出ているか」が参加を決める大きなポイントにはなります。

ザックリ分けると、私の場合は以下の2タイプの作品が出ている句会です。

・個性的な発想の作品

・オーソドックスかつ伝統的な手法による作品

前者では自分にない視点や言葉を知ることができ、想像力を自由に開放できるので重宝しています。

一方、後者は私にはない文法等の技術や言葉遣い、型の生かし方を学ぶことができ、勉強と情報取得の大事な機会として参加しています。

ベクトルが違う句会に出ることで、自分の作品や表現の幅を増やしていきたいと思っています。

②誰が参加しているか

「句会(句座)は人なり」、参加するたびに思います。

人柄も大事ですが、句会ですので同時に下記も私にとっては大事です。

それは「目標とする人」。主に下記2タイプとなります。

・自分が好きな(タイプや発想の)作品を作る人

・自分の作品を「選んで(評価して)ほしい」人

前者は、目標の人の作品を目にすることで自分の作品や表現を豊かにしたい、また参考にしたいという思いがあります。

後者は、鑑賞眼のある信頼できる人。

そういう力のある人がいる句会か。

いる句会なら、「この人に見てほしい」「この人はこの作品をどう評してくれるか」という腕試しのような感覚が毎回あり、やる気も自ずと湧いてきます。

簡単にいうと、「憧れの人」がいる句会に参加する。

結構効果的と思います、上達にも表現にも。

③どんな雰囲気か

風通しのよいコミュニケーションが可能な集まりか、

句会ではその点も重要です。

よい意見はもちろん、採らない人の反対意見や「ここはこうしたら」という改善案も口にできる。

そして、反対意見等が出ても険悪にならず和やかなムードのまま句会が進行する(これがなかなか難しいことも(^^;)。

句会は選び合うので、ある意味静かな格闘のような側面がある。

そして、プライドがぶつかり合う。

リアル句会だと選ばれた時や最高得点になった時の喜びも応えられませんが、無点で終ったり自分の俳句作品に対して否定的な意見を言われた時は何とも言えない苦い感情に襲われることもあります。

特に「リアル=ライブ」なので、感情的に不安定な時に参加すると気持ちのアップダウンをもろに感じて厳しい時も……

今より若かった頃、仕事などで忙しく感情的にキツイ経験をしたくないときは私も句会に出なかった時があります。

そうやって心を守っていたというか。

それはそれで一つのやり方なので、よかったのかな。

(句会でネガティブなことを言われたりして、俳句を止めた人もこれまでたくさんいたから……)

★  ★  ★  ★  ★

自分に合った句会を見つけて

俳句を始めた頃はよくわからないので、誘われるまま様々な句会に出ていました。でも、だんだん「自分に合った句会は、どんなタイプなのか」がわかるようになり、自然と数も減って今の句会に落ち着いています。

また参加するだけではなく、自分の経験を基にした句会を運営しています。

私の出ている某句会では自分の俳句のみならず、他者の俳句に対しても選んだ・選ばないを問わず、アイデアを出し合って「皆で作品をよくしていく」という雰囲気が自然と生まれています。

自分の句会もそういう空気や時間、場にできればと願っています。


https://note.com/nag1aky/n/n4cd2d6985870 【結社の句会は、社会人になってからの「学校」だった】より

「その人にとって適した出会い方であるか」

数年前、所属結社誌の企画で現代俳句新人賞受賞者による鼎談が行われ参加した。

その冒頭で「俳句を始めたきっかけ」を聞かれたのだが、私以外の人たちはネットやメールなどの通信媒体により句会へ参加したと回答した。

一方、私が始めた約二十年前(鼎談当時から起算)はネットやメールはまだごく一部の人しか使っておらず、ようやくPCが一般企業に導入され始めた頃。

だから、句会の参加方法は人づてや電話での問い合わせがほとんどで、リアル以外の句会方法は「ファックス」が主流。

つまり「句会はリアルで行ってこそ参加できるもの」という考えが基本だった。

そんな俳歴の私だから、ほかの人たちの回答からは「俳句はネットを通じて手軽に気軽に

 参加できる一表現手段」に今やなったんだなということが妙にくっきり伝わってきた。

と同時に、句会や俳句結社という存在に対する印象に距離や温度差があるのは時代背景も一因だなと感じた。

いつ、どこで、どんな出会い方をするか。それは俳句に限らず、すべてにおいてその人のその後に深く影響を与える。

そして「その人にとって適した出会い方であるか」が特に重要なのではないか。

「句会はリング、そして学校」

(ここからの句会は主に「結社の句会」を指します)

その意味で「リアル句会への参加が主流」というアナログな方法は、私には適した出会い方だった。そう思う主な理由は二つ。

「いろいろな大人がいた」こと、そして「若かった」ことだ。

大学を卒業して一年ほどで結社に入り句会へぽつんぽつんと参加しはじめた。

そこは職業も年齢もさまざまな大人たちが17音という短い言葉について丁々発止で

真剣かつ楽しげに意見を闘わせる「リング」だった。

その場は、社会人になりたての私にはさまざまな意見や表現、そして大人を見て触れて知る「学校」として映った。

何よりも先生をはじめ、そこにいる大人たちは会社の大人とは全然違って見えた。

今なら会社の大人だって面白い人がいっぱいいることを知ってる。

でも、当時の私は会社(組織)が怖くていつも緊張してた。大人を敬遠してた。

もちろん句会も会社とは別の怖さがあって緊張しながら末席にいてほとんど何も発言できなかったけど評を聞いてるだけで作品を見てるだけでいつも新しい景色の中を歩いているようだった。

そして、知らないうちにいつも笑ってた。「この人たちのリングに私も入りたい。 そして私もいつか作品を取り上げて もらえるようになりたい」幾度も湧いてきた熱い気持ち。

世間知らずの、でもまだ柔らかかった心は自分を表現する場と手段に飢えていたのだろう。

多くの刺激と情熱を栄養として私は17音に言葉を載せ始めた。

「ここだから今も俳句を続けていられる」今は私も句会でデカい口を叩いてて(^^;

また年若い仲間たちができてたまにお話を聞いたり、作品を見せてもらってます。

「大人」を見上げ憧れてる立場から少しずつ変わってきたようです。

実際に参加して俳句と人の息吹を毎回感じていたあの頃。

優しく温かく接してくださった先生との初対面。その記憶が今も大切で幸せなものとしてあるから私はずっと同じ結社にいるのだろう。

そして多分、私は所属結社以外では俳句を始めてもすぐに辞めてたと思う。

多分、表現手段をフラメンコに切り替えて踊りまくってとっくに挫折してたろう。

多様性を歓迎する先生だから、結社だから、俳句を続けられているのだ。

あの頃も今も。

コロナでリアル句会への参加が依然と厳しい状況だが、少しずついろいろな方法が出てきている。殊にZOOMを使ったハイブリッドな試みなど「リアルで会えずとも顔を見て句会ができる」ネット環境と技術の進歩に新しい「出会い」や「参加」の可能性を思う。今後は出会いや参加の定義も変わっていくのかもしれない。

でもどんな時、どんな形でも「その人にとって適した 俳句や句会との出会い方」があるはず。

私にとって結社の句会が人や表現の多様性を教えてくれる「学校」だったようにこれから出会う人はそこに何を見、また思うのだろうか。そしてどんな表現が出てくるのだろうか。