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2024.06.16 10:37

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◇「大率」「大夫」も周の制度

 『倭人伝』で邪馬壹国が設けたという制度のなかに「一大率(いっだいそつ)」がある。 周の制度に「大率(卒)」がある。天子直属の軍隊で、日本でいうなら近衛兵だ。周の制度 では「大率」は「兵車 350 乗、士卒二万六千二百五十人、勇士三千人」で組織されたとい う。

 この「大率」に邪馬壹国の「壹」、すなわち「一」をつけて、「卑弥呼直属の軍隊」を組織 したことが考えられる。

 「大夫」も周から呉に続く国家の制度にある。「大夫」は邪馬壹国以前の伊都(倭奴)国 時代からあったと記録されている。

 ニニギ一統が作ったという「伊都(倭奴)国政権」に参 加していた紀氏・卑弥呼勢力が影響を及ぼしたのかもしれない。もちろん卑弥呼政権でも上 級官僚をそう呼んでいたという。

◇吉野ケ里に「明堂」があった

 紀氏一族が菊池市の山門から北部九州に進出する途中に佐賀県神崎町がある。ここの吉 野ケ里遺跡に、周やその後の中国王朝が権威の象徴とした建築物「明堂(めいどう)」が造 られていた。

 遺跡内の「北内郭」がそれである(拙著『卑弥呼と神武が明かす古代』)。

 「明堂」は東西南北 4 本づつ、計 16 本の柱で造られ、出来上がった 9 室のそれぞれに祖 先を祭る部屋、太陽や月を祭る部屋、忠誠誓言室など国家の重要な 9 つの政治(まつりご と)を担わせた(『史記・封禅書第六』)。針きゅう診療の「ツボ」を表す「明堂」はここか らきている。

 「北内郭」の中心建物は「夏至の日の日の出」と「冬至の日の日の入り」場所を結ぶ線と、 南北の線の交点に、ぴたりと合わせ、柱 16 本で造られている(吉野ケ里遺跡整備調査報告 書)。

 周囲に馬蹄形の二重濠を巡らせて水を貯めるなど「明堂」の制にあっている。『晋書・ 武帝紀』に「南北の郊に合わせ『二至の祭り』をした」と記されている。遺跡の「北内郭」 と祭りの場であった「南内郭」のことであろう。

◇卑弥呼政権は幕府のような存在

 ちょっと注意しなくてはいけないのは、いわゆる「卑弥呼政権」は独立した国家ではなく、 事実上の支配者ではあったのだろうが、名目上の支配者、すなわち宗主国は相変わらず「伊 都(倭奴)国」であったらしいということだ。

 「一大率」など主要な組織は太宰府や吉野ケ里には置かれておらず、伊都(倭奴)国の都 である糸島市前原に拠点を置いていたと『倭人伝』は記している。

 卑弥呼が魏から下賜され た金印の国名も「邪馬壹国」でなく、「親魏倭王」、すなわち「倭(ヰ)国」と表記されてい る。

 卑弥呼らはいわば後の「幕府」のような存在であったろう。しかし魏国は、卑弥呼ら「紀 氏勢力」を独立した国家の如く描き、朝鮮半島からさらに海を越えた「へき地」から使いを 送って臣下の礼をとった卑弥呼らを「女王」と位置づけして、「こんなに遠い国からも挨拶 に来た」と、史書の中でも自らの国の威勢を示したかったのではないだろうか。

 「紀氏・卑 弥呼勢力」は一時的には強敵・熊曾於族の大国(狗奴国=コウドこく)の軍門に下ったとみ られ、卑弥呼時代はいったん壹與の時で終止符を打たれたと考えられる。

(3)熊曾於族

(引用:九州古代史研究会主宰 多元的古代会員 内倉武久氏プログ)

 「熊曾於(熊襲)」族は紀元前5~4世紀ごろ?から南九州一帯に勢力を張っていた巨大氏族の総称である。『日本書紀』が説く日本史の上では「どうしょうもない蛮族ども」という位置づけがされてきた。

 しかし実は全く違う。彼らは「紀氏」と同様、大陸からのボートピープル主体の人たちである。製鉄・製錬技術、武具の製作技術、馬の利用方法、造船技術など当時の最新のテクノロジーを身に着けて渡来してきていた人々なのである。渡来の時期は弥生時代前期から中期にかけてと思われる。

 なぜそれがわかるかというと、彼らがもっていた「犬祖伝説」や独特の墳墓の形に解明のかぎがある。先祖の一人はお姫様と結婚した飼い犬の「盤古」であったという氏族伝承をもつ。

 焼畑と、イノシシ、シカ猟が彼らの生業であったが、生きていくためにどうしても犬が必要であり、家族同様の伴侶であったからこのような伝説が生まれた。元来は中国大陸全域を支配していた現在の少数民族の多くと熊曾於族が同様の伝説をもっていた。

 「熊襲」は『日本書紀』の表記であるが、彼ら自身は自らのことを「熊曾於族(くまそお)」と自称していたらしい。「熊」には動物のクマのほか「輝かしい」という意味があるのである。「我々は輝かしい曾於(soo)族である」と誇っていたのだ。中国でも少数民族の総称を「sou」と呼んでいる。

 彼らの名前を今に伝える地名に「鹿児島県曽於市」があり、東側の宮崎県串間市からは日中を通じて最大級、最高級の権威の象徴である「玉璧(ぎょくへき)」(直径33・2センチ)が出土している。

 同じ形式の玉璧は広東省の南越王墓など中国大陸海岸部から多数出土している。 現在、中国山東省南部や江蘇省北部などからから彼らの墳墓である地下式横穴墓や地下式板積み墓と全く同じものが多数発掘されている。

002-4

 『日本書紀』はいわゆる「大和政権」が8世紀初めに日本の支配権を奪還した後に作った「史書」である(「大和」の本来の呼称は「ワ」か。「大」は美称)。であるから長年「大和(ワ)勢力」を押さえつけてきた熊曾於族や紀氏主体の九州倭(い)政権、そして「邪馬壹国」の存在をその「史書」から消し去り、「日本列島の政権は古来大和の政権しかなかった」というあり得ない話を作りあげた。歴史的「偽書」である。

 そして7世紀末から8世紀初めごろ、分裂した熊曾於族や紀氏の一部らを徹底的に殺戮(さつりく)し、あるいは徹底抗戦を貫いた「紀氏」を含む人々を賤民(せんみん)に落としたのである。

「不倶載天(ふぐさいてん)の敵」であるとして熊襲禹族を「狗人(いぬびと)」とか「隼人(はやひと)」と呼んで、あたかも「蛮族」であるかのごとく記述して報復したのである。

 熊曾於族の主な氏族にはわかっているだけで園、薗、日下部(草=くさかべ)、鴨(加茂)、内(うち=宇治)、葛木(かつらぎ)、曽我(そが=蘇我)、袁(えん)、牛氏らがいたと思われる。一字性の人々は後に上、下、村、海、田などをくっつけて二字姓にした。

002-5

(引用:Wikipedia)

 熊曾於族の英雄は「武内宿祢(たけし・うちのすくね)」(通称名弥五郎どん=写真上 鹿児島県曽於市の丘に建つ)である。「神武天皇」と同様「列島で初めての天皇」と『古事記』に記される「崇神天皇」やその前の「開化天皇」は、彼の女兄弟と娘から生まれた、と同書は伝える。「武内の宿祢」については次項で詳しくお伝えしよう。

 熊曾於族は紀元前、九州に大国主の「大国」を造り支配していたが、伊都 (倭奴) 国を造ったニニギらに一旦、支配権を奪われた。その後九州政権の中枢で活躍。6世紀始めに継体天皇を生んで紀氏から支配権を取り返したと考えられる。

 しかし実は全く違う。彼らは「紀氏」と同様、大陸からのボートピープル主体の人たちである。製鉄・製錬技術、武具の製作技術、馬の利用方法、造船技術など当時の最新のテクノロジーを身に着けて引き続き渡来してきていた人々なのである。渡来の時期は,弥生時代前期から中期にかけてと思われる。

 なぜそれがわかるかというと、彼らがもっていた「犬祖伝説」や独特の墳墓の形に解明のかぎがある。先祖の一人はお姫様と結婚した飼い犬の「盤古」であったという氏族伝承をもつ。焼畑と、イノシシ、シカ猟が彼らの生業であったが、生きていくためにどうしても犬が必要であり、家族同様の伴侶であったからこのような伝説が生まれた。元来は中国大陸全域を支配していた現在の少数民族の多くと熊曾於族が同様の伝説をもっていた。

(4)天(海人)族

(引用:九州古代史研究会主宰 多元的古代会員 内倉武久氏プログ)

 「天氏」は、『古事記』『日本書紀』(記紀)がともに日本列島に誕生した「最初の政権」と位置づけしている政権の中心にいた大族である。「ニニギの命(みこと)」をその祖とする。大己貴(おおなむち)(=大国主)らの「大国」に国譲りを強制し、「出雲」に追いやって国を造った、という。であるから「最初の政権」かどうかはわからない。『古事記』は「大国」の存在を消すため、大国主が最初から出雲にいたかの如く記述しているが、もちろんウソである。

 ニニギ等の国は、邪馬壹国の女王・卑弥呼(ひみこ)(=「日の御子」か)のことを詳しく記した中国の史書『三国志・魏志』倭人(いじん)伝に「伊都(いど)国」と記された国である。他の史書では「倭奴(いど)国」とか「倭国」と記されている。福岡県怡土郡、今の糸島市前原にあった国で、AD57年、中国に使いを出し、漢から「漢委奴国王」の金印を受けた国である。

 金印を受けたのは「委奴(いど)国」でなく「奴(ナ)国」である、とするのは中国の歴史、言語についてほとんど知らないバカか、市民の負託を裏切り、いかさまの歴史を説こうとする連中である。漢音で「奴」は「ナ」でなく「ド、ト」であり、「戸、あるいは門」の意味である。

 彼らがどこから列島に渡来してきたかははっきりしない。江戸時代、日本各地の言い伝えを記録した「東日流(つがる)外三郡志」は「ニニギらは中国南方の寧波(ニンポウ)から来た」という言い伝えを記録している。この書は「『記紀』によるいかがわしい古代史」をあたかもまっとうなものとする学者たちによって「偽書である」という烙印(らくいん)を押された。が、とんでもない。すべての記述が間違いないとは言わないが、歴史の真相をえぐった貴重な史書の一つである。

 前項「神武天皇」でも少し述べたが、『記紀』は「天」と「海」が同じく「あま」と読むのを利用して「ニニギ」が「天から筑紫の日向の襲(曾於)の峰に降りてきた」とした。実際は黒潮を利用して薩摩半島南端の阿多に渡来してきた人々であることは疑えない。

 中国南方、ベトナム、ラオス、タイ北部のいわゆる少数民族の人々の生活ぶりはまさしく日本の基層の生活文化と全く同じである。顔つきもそっくりだ。海運の知識に長けた人々でもあった。熊曾於族と同様、漢民族の激しく容赦ない攻撃から逃れ、海に活路を求めた一部の人々だ。もちろん、当時の先進的なテクノロジーを身に着けていた人々である。

 天氏のほか主な氏族に阿曇(あずみ)、井(いぃ)、久米(=クメール?)、物部(ものべ)、額田(ぬかた)(=泥の鋳型)、難(ダン=団、壇、段とも)らがいたと思われる。

 天族も初期「九州倭(いぃ)政権」の柱であったことは7世紀初めの中国史書『隋書』の記載からもはっきりわかる。『隋書』は列島の大王の姓を「阿毎(あま)」と記録している。名前は「帯(たらし)彦、あるいは足(たりし)彦(多利思比孤)」という男王で、妻を「君(きみ・?弥)」、皇太子は「若美田振(わかみたふり?)(和歌弥多弗利)」(倭を俀、和を利と誤刻)であると記録。国の中心に阿蘇山があるとする。現在の福岡県京都郡みやこ町にいたらしい。 

 いかがわしい国史学者たちは市民が『書紀』や外国史書など読まないのをいいことに、「帯彦は聖徳太子のことだ」などと公言して、『記紀』が当時の天皇が女性の「豊のミケカシキヤ姫(推古)」であるとしているの利用し、ごまかし続けている。大和に阿蘇山はなく、聖徳太子が大王であったこともないし、「帯彦」などという名前をもっていたということもない。

 「うそをつくのもいいかげんにしろ」と言わなければならない。推古天皇(豊の御食炊屋姫)はもちろん当時の天皇ではなかった。「大和の大王」を天皇に仕立て上げたのだろう。

 九州倭(いぃ)政権は当時、日本列島の全域を支配し、朝鮮半島の百済、新羅を属国にしてその王族を人質にとっていた。朝鮮の史書『三国遺事』などにその悲劇が記されている。であるから、天子・タリシヒコは北方騎馬民族の鮮卑(せんぴ)族出身である「隋の王」とは対等であると考えていた。東アジアの盟主であるという建前をとっていた中国南朝の立場からすれば、「隋」も「倭」も異蛮の「北狄(ほくてき)」と「東夷(とうい)」である。同等の立場だ。

 それまで臣下の礼をとっていた南朝が滅びたので、九州倭政権のタリシヒコは「我こそは日本と朝鮮半島を支配する日出るところの天子である」と考え、「隋」の天子に「日没するところの天子」という書簡を送り付けたのである。

 こののぼせ上がった?考えがやがて九州倭(いぃ)政権の滅亡を招くことになる。「隋」を引き継いだ「唐」は「本当の天子はおれだ」と倭政権つぶしに取り掛かる。

 663年の朝鮮半島・白村江(はくすきのえ)の戦いはいわば日中の「関ヶ原の戦い」である。敗北した九州倭政権は莫大な国費と人的資源を失って衰退し、列島の支配権は裏で新羅や唐と結託していたらしい「大和(わ)の勢力」に取って代わられることになったのである。『(旧)唐書』はちゃんと九州政権を「倭(い)」、大和政権を「倭の別種・日本」と別建てにして記述している。

 熊曾於族と紀氏(卑弥呼)勢力は4世紀ごろ合体したことが先に記した「松の連系図」に記されている。紀氏の系図に熊曾於族の首長「厚鹿文(あつかや)」などの名前が入り込み、記されるようになるのだ。合体と離反を繰り返したらしい。天族政権は実質的には2~6世紀、熊曾於族と紀氏勢力に支配されていたのである。

3 景行天皇の伝承

(1)概要

(引用:Wikipedia)

 景行天皇(垂仁天皇17年 - 景行天皇60年)は日本の第12代天皇(在位:景行天皇元年 - 同60年)。日本武尊の父。実在したとすれば4世紀前半の大王と推定される。

1)略 歴

・垂仁天皇の第三皇子、母は日葉酢媛命。垂仁天皇37年1月1日に21歳で立太子。

・父帝が崩御した翌年に即位。即位2年、3月3日に播磨稲日大郎姫を皇后とした。皇后との間には大碓皇子、小碓尊らを得ている。

・即位4年、美濃国に行幸。八坂入媛命を妃として稚足彦尊(成務天皇)、五百城入彦皇子らを得た。

・即位12年、九州に親征して熊襲・土蜘蛛を征伐。即位27年、熊襲が再叛すると小碓尊を遣わして川上梟帥を討たせた。

・即位40年、前もって武内宿禰に視察させた東国の蝦夷平定を小碓尊改め日本武尊に命じた。3年後、日本武尊が帰国中に伊勢国能褒野で逝去。即位51年、8月4日に稚足彦尊を立太子。

・即位52年、5月4日の播磨稲日大郎姫の崩御に伴い7月7日に八坂入媛命を立后。即位53年から54年にかけて日本武尊の事績を確認するため東国巡幸。即位58年、近江国に行幸し高穴穂宮に滞在すること3年。即位60年、同地で崩御。

・在位した年代は4世紀前期から中期の大王と推定されるが、諸説ある。

2)名

・大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと) - 『日本書紀』、和風諡号

・大足彦尊(おおたらしひこのみこと) - 『日本書紀』

・大帯日子淤斯呂和氣天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと) - 『古事記』

・大足日足天皇(おおたらしひこのすめらみこと) - 常陸風土記

・大帯日子天皇(おおたらしひこのすめらみこと) - 播磨風土記

・大帯日古天皇(おおたらしひこのすめらみこと) - 播磨風土記

・大帯比古天皇(おおたらしひこのすめらみこと) - 播磨風土記

・漢風諡号である「景行天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。

(2)事績

(引用:Wikipedia)

1)美濃巡幸

・『日本書紀』によれば父帝が崩御した翌年の7月に即位。即位2年に播磨稲日大郎姫を立后。子には大碓皇子や小碓尊がいた。

・即位4年、美濃国に行幸。美人と名高い弟姫を妃にしようと泳宮に滞在した。しかし拒絶されたため、姉の八坂入媛命を妃とした。

・同じころ、美濃国造の姉妹が美人であると聞いて妃にしたいと思った。そこで大碓皇子を派遣したが、大碓皇子は姉妹の美しさのあまり使命を忘れて密通し役目を果たさなかった。天皇はこれを恨んだと言う。

・『古事記』には、さらにこの続きが記載されている。天皇は帰ってこない大碓皇子を呼び戻すため、小碓尊を遣わしてよく教え諭すよう命じた。

・しかし数日しても何も変わりがないため小碓尊に聞くと既に教え諭したという。どのように諭したのか聞くと厠に入るのを待ち伏せして打ちのめし、手足を引き千切って投げ捨てたという。

・「教え諭す」という言葉を「思い知らせる」、つまり処刑だと勘違いしたのである。小碓尊、のちの倭建命(ヤマトタケル)は恐れられ疎まれ、危険な遠征任務に送り出されるようになった。

・なおこれはあくまで『古事記』での話であり、『日本書紀』では大碓皇子の惨殺はない。日本武尊(ヤマトタケル)と天皇の仲も後述するよう良好である。

2)九州巡幸

・即位12年、熊襲(現在の南九州に居住したとされる)が背いたので征伐すべく8月に天皇自ら西下。

・9月、周防国の娑麼(さば、山口県防府市)に着くと神夏磯媛という女酋が投降してきた。神夏磯媛は鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折という賊に抵抗の意思があるので征伐するよう上奏した。そこでまず麻剥に赤い服や褌、様々な珍しいものを与え、他の三人も呼びよせたところをまとめて誅殺した。

・同月、筑紫(九州)に入り豊前国の長狹県に行宮(かりみや)を設けた。そこでここを京都郡(福岡県行橋市)と呼ぶ。

・10月、豊後国の碩田(おおきた、大分県大分市)に進むと速津媛という女酋が現れた。速津媛によると天皇に従う意思がない土蜘蛛がいて青、白、打猿、八田という。

・そこで進軍をやめて來田見邑に留まり群臣と土蜘蛛を討つ計画を立てた。まず特に勇猛な兵士を選んで椿の木槌を与え、石室の青と白を稲葉の川上に追い立てて賊軍を壊滅させた。

・椿の槌をつくった所を海石榴市(つばきち)といい、血が大量に流れた所を血田という。

・続いて打猿を討とうとしたところ、禰疑山(ねぎやま)で散々に射かけられてしまった。

・一旦退却して川のほとりで占いをし、兵を整えると再び進軍。八田を禰疑野(ねぎの)で破った。これを見た打猿は勝つ見込みがないと思い降服したが、天皇は許さず誅殺した。

・11月、熊襲国に入り行宮(かりみや)を設けた。これを高屋宮という。

・12月、熊襲梟帥(くまそたける)。を討つ計画を立てた。熊襲梟帥は強大で戦えばただでは済まないことがわかっていた。

・そこで熊襲梟帥の娘である市乾鹿文(いちふかや)と市鹿文(いちかや)の姉妹に贈り物をして妃にし、熊襲の拠点を聞きだした上で奇襲することになった。

・姉妹は策に嵌まり、姉の市乾鹿文は特に寵愛された。

・あるとき市乾鹿文は兵を一、二人連れて熊襲梟帥のところに戻った。そして父に酒を飲ませて泥酔させ兵に殺させた。そこまでは考えていなかった天皇は市乾鹿文の親不孝を咎めて誅殺し、妹は火国造に送り飛ばしてしまった。

・翌年夏に熊襲平定は完了し、その地の美人の御刀媛を妃として豊国別皇子を得た。日向国造の祖である。

・高屋宮に留まること六年経った即位17年、子湯県の丹裳小野で朝日を見てこの国を「日向」と名付けた。そして野原の岩の上に立ち、都を思って思邦歌(くにしびのうた)を詠んだ。

*愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も

*倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし(『日本書紀』歌謡三一)

*命の全けむ人は 畳薦(たたみこも) 平群の山の 白橿が枝を 髻華(うず)に挿せ この子

・即位18年、3月に都へ向け出立。夷守(宮崎県小林市)で諸縣君の泉媛の歓待を受けた。熊県(熊本県球磨郡)に進み、首長である熊津彦兄弟の兄を従わせ弟を誅殺した。

・葦北(同葦北郡)、火国(熊本県)、高来県(長崎県諫早市)を経て玉杵名邑(熊本県玉名市)で津頰という土蜘蛛を誅殺。さらに阿蘇国(熊本県阿蘇郡)、御木(福岡県大牟田市)、的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)へと至った。道中では地名由来説話が多く残されている。

・即位19年、9月に還御。なお『古事記』に九州巡幸は一切記されていない。

3)日本武尊の活躍

・即位27年8月、熊襲が再叛。10月に小碓尊に命じて熊襲を征討させる。小碓尊は首長の川上梟帥を謀殺して日本武尊の名を得る。翌年に復命。

・即位40年8月、大碓皇子に東国の蝦夷を平定するよう命じる。先立つ即位25年7月から27年2月、武内宿禰に北陸・東方諸国を視察させて豊かな土地を発見したからであった。しかし大碓皇子は危険な任務を拒否し美濃国に封じられた。

・結局、日本武尊が東征に向かうこととなり、途中の伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣を授かった。

・陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定。日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と結婚。その後近江国に出向くが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調になる。

・日本武尊はそのまま伊勢国に入るが能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり崩御、白鳥陵に葬られた。出発から三年後のことである。

・天皇は日本武尊の死を深く嘆き悲しんだ。即位53年、日本武尊を追慕して東国巡幸に出る。まず伊勢に入り東海を巡って10月に上総国に到着、12月に東国から戻って伊勢に滞在、翌年9月に纒向宮に帰った。

・そのさらに翌年の即位55年、叔父である豊城命の子の彦狭島王を東山道十五国の都督とした。しかし任地に向かう途上、春日の穴咋村で亡くなってしまった。そこで翌年に改めて彦狹嶋王の子の御諸別王を派遣した。

・即位58年に近江国に行幸。志賀高穴穂宮に滞在すること3年。即位60年11月、崩御。

(3)系譜

(引用:Wikipedia)

豊城入彦命

[毛野氏族]

10 崇神天皇

11 垂仁天皇

12 景行天皇

日本武尊

14 仲哀天皇

倭姫命

13 成務天皇

 彦坐王

丹波道主命

 山代之大

筒木真若王

迦邇米雷王

 息長宿禰王

神功皇后

(仲哀皇后)

15 応神天皇

16 仁徳天皇

17 履中天皇

市辺押磐皇子

飯豊青皇女

18 反正天皇

24 仁賢天皇

手白香皇女

(継体皇后)

菟道稚郎子皇子

23 顕宗天皇

25 武烈天皇

19 允恭天皇

木梨軽皇子

20 安康天皇

21 雄略天皇

22 清寧天皇

春日大娘皇女

(仁賢皇后)

稚野毛

二派皇子

 意富富杼王

 乎非王

彦主人王

26 継体天皇

忍坂大中姫

(允恭皇后)

(4)后妃・皇子女

(引用:Wikipedia)

●皇后(前):播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ) - 若建吉備津日子女

・櫛角別王(くしつのわけのみこ)

・大碓皇子(おおうすのみこ) - 身毛津君(牟宜都国造)等祖

・小碓尊(おうすのみこと、日本武尊) - 仲哀天皇父

●皇后(後):八坂入媛命(やさかいりびめのみこと) - 八坂入彦命女

・稚足彦尊(わかたらしひこのみこと、成務天皇)

・五百城入彦皇子(いおきいりびこのみこ)

・忍之別皇子(おしのわけのみこ、押別命)

・稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)

・大酢別皇子(おおすわけのみこ)

・渟熨斗皇女(ぬのしのひめみこ、沼代郎女)

・五百城入姫皇女(いおきいりびめのひめみこ)

・香依姫皇女(かごよりひめのひめみこ)

・五十狭城入彦皇子(いさきいりびこのみこ、気入彦命?) - 御使連祖

・吉備兄彦皇子(きびのえひこのみこ)

・高城入姫皇女(たかぎいりびめのひめみこ)

・弟姫皇女(おとひめのひめみこ)

●妃:水歯郎媛(みずはのいらつめ) - 磐衝別命女、石城別王妹

・五百野皇女(いおののひめみこ、久須姫命) - 伊勢斎宮

●妃:五十河媛(いかわひめ)

・神櫛皇子(かむくしのみこ) - 讃岐公(讃岐国造)・酒部公祖

・稲背入彦皇子(いなせいりびこのみこ) - 佐伯直・播磨直(播磨国造)祖

●妃:高田媛(たかだひめ) - 阿部氏阿部木事女

・武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ) - 伊予御村別・和気公等祖

●妃:日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)

・日向襲津彦皇子(ひむかのそつびこのみこ)

●妃:襲武媛(そのたけひめ)

・国乳別皇子(くにちわけのみこ)

・国背別皇子(くにせわけのみこ、宮道別皇子)

・豊戸別皇子(とよとわけのみこ)

●妃:日向御刀媛(ひむかのみはかしびめ)

・豊国別皇子(とよくにわけのみこ) - 日向国造祖

●妃:伊那毘若郎女(いなびのわかいらつめ) - 若建吉備津日子女、播磨稲日大郎姫妹

・真若王(まわかのみこ、真稚彦命)

・彦人大兄命(ひこひとおおえのみこと)

●妃:五十琴姫命(いごとひめのみこと) - 物部胆咋宿禰女

・五十功彦命(いごとひこのみこと) - 伊勢刑部君、三川三保君祖

●(以下は母不詳、多くは『先代旧事本紀』に拠る)

・若木之入日子王(わかきのいりひこのみこ) - 五十狭城入彦皇子と同一人か

・銀王(しろがねのみこ、女性)

・稚屋彦命(わかやひこのみこと)

・天帯根命(あまたらしねのみこと)

・武国皇別命(たけくにこうわけのみこ) - 武国凝別命と同一人か

・大曽色別命(おおそしこわけのみこと)

・石社別命(いわこそわけのみこと)

・武押別命(たけおしわけのみこと)- 忍之別命と同一人か

・豊門別命(とよとわけのみこと) - 豊戸別皇子と同一人、三嶋水間君、庵智首、壮子首、粟首、筑紫火別君祖

・不知来入彦命(いさくいりひこのみこと) - 五十狭城入彦皇子と同一人

・曽能目別命(そのめわけのみこと)

・十市入彦命(とおちいりびこのみこと)

・襲小橋別命(そのおはしわけのみこと) - 菟田小橋別祖

・色己焦別命(しここりわけのみこと)

・息長彦人大兄水城命(おきながのひこひとおおえのみずきのみこと) - 彦人大兄命と同一人か、庵智白幣造祖

・熊忍津彦命(くまのおしつひこのみこと) - 日向穴穂別祖

・武弟別命(たけおとわけのみこと) - 立知備別祖

・櫛見皇命(くしみみこのみこと) - 讃岐国造祖

・草木命(くさきのみこと) - 日向君祖

・稚根子皇子命(わかねこのみこのみこと) - 稚倭根子皇子と同一人か

・兄彦命(えひこのみこと) - 大分穴穂御埼別、海部直、三野之宇泥須別祖先

・宮道別命(みやぢわけのみこと) - 国背別皇子と同一人

・手事別命(たごとわけのみこと)

・大我門別命(おおあれとわけのみこと)

・三川宿禰命(みかわのすくねのみこと)

・豊手別命(とよてわけのみこと)

・倭宿禰命(やまとのすくねのみこと) - 三川大伴部直祖

・豊津彦命(とよつひこのみこと)

・弟別命(おとわけのみこと) - 牟宜都君祖

・大焦別命(おおこりわけのみこと)

『古事記』によれば記録に残っている御子が21人、残らなかった御子が59人、合計80人の御子がいたことになっている。

(5)年 譜

(引用:Wikipedia)

『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである。(抄)

・垂仁天皇17年:誕生

・垂仁天皇37年:1月1日、皇太子に立てられる

・景行天皇元年:7月、即位

・景行天皇2年:3月、播磨稲日大郎姫を立后

・景行天皇4年:〔2月〕美濃国に行幸。泳宮(岐阜県可児市)に滞在。〔11月〕纒向日代宮に遷都

景行天皇12年:〔7月〕熊襲が背き朝貢せず〔8月〕筑紫に親征開始〔9月〕周防国佐波郡で四人の首長を征伐、豊前国京都郡へ〔10月〕豊後国の來田見邑で土蜘蛛征伐〔11月〕日向国へ。仮宮として高屋宮を造営〔12月〕熊襲梟師を征伐

・景行天皇13年:5月、襲国平定

・景行天皇17年:御刀媛を娶る。子孫は日向国造となる〔3月〕襲国を日向国と名付け、思邦歌を歌う

・景行天皇18年:〔3月〕夷守(宮崎県小林市)へ〔4月〕熊縣(熊本県人吉市)で弟熊を征伐、葦北(熊本県水俣市)へ〔5月〕八代県(熊本県八代市)の豊村へ。国を火国と名付ける。

・6月、高来県(長崎県島原市)、玉杵名邑(熊本県玉名市)を経て阿蘇国へ〔7月〕筑紫後国の御木(福岡県大牟田市)、八女県(福岡県八女市)へ〔8月〕的邑(福岡県うきは市)へ

・景行天皇19年:9月、帰国

・景行天皇20年:2月、五百野皇女に天照大神を祀らせる

・景行天皇27年:〔8月〕熊襲が再叛〔10月〕小碓尊が熊襲征伐に出発〔12月〕小碓尊が熊襲の川上梟師を暗殺、以後日本武尊と名乗る

・景行天皇28年:2月、日本武尊が帰国

・景行天皇40年:〔7月〕大碓皇子に東国遠征を命じるが拒絶、代わりに美濃に封じる〔10月〕日本武尊が東国遠征に出発

・景行天皇43年:日本武尊が帰国中に伊勢国能褒野で病没、白鳥陵に葬り武部(たけるべ)を定める

・景行天皇53年:〔8月〕日本武尊を追慕し東国巡幸。伊勢国を経て東国へ〔10月〕上総国の淡水門へ

〔12月〕伊勢の綺宮へ戻る

・景行天皇54年:9月、帰国

・景行天皇58年:2月、近江国に行幸。志賀高穴穂宮に滞在すること3年

・景行天皇60年:11月、崩御。享年は106歳(『古事記』では137歳)

・成務天皇2年:11月、山邊道上陵に葬られた

4 九州王朝の筑後遷宮

(玉垂命と九州王朝の都)

Webサイト抜粋(古賀達也氏著)http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai4/tikugoko.html

(1)玉垂命と九州王朝の都

 事の発端は、昨年末、古田先生からいただいた電話だった。「万葉集に、九州王朝の都が水沼(現、三瀦郡)にあったとされる歌があるが、その中心地点が判らない」と先生は言われた。 その万葉集の歌とは「大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都となしつ」(4261、読み人知らず)だ。

 ちょうど正月休みに帰省する予定だったので、調査を約束した。久留米市の実家に帰ると、父の太宰管内志を借りて三瀦(みずま)郡を調べてみた。

○御船山玉垂宮 高良玉垂大菩薩御薨御者自端正元年己酉

○大善寺 大善寺は玉垂宮に仕る坊中一山の惣名なり、古ノ座主職東林坊絶て其跡に天皇屋敷と名付けて聊残れり

 玉垂大菩薩の没年が九州年号の端正元年(『二中歴』では端政、西暦589年)と記されていた。ここの玉垂宮とは正月の火祭(鬼夜)で有名な大善寺玉垂宮のことだ。しかも、座主がいた坊跡を天皇屋敷と言い伝えている。玉垂命とは倭国王、九州王朝の天子だったのだ。端政元年に没したとあれば、『隋書』で有名な俀王多利思北孤の前代に当たる可能性が高い。

○高三瀦廟院 三瀦郡高三瀦ノ地に廟院あり(略)玉垂命の榮域とし石を刻て墓標とす(略)鳥居に高良廟とあり

 なんと玉垂命の御廟までがあるという。こうなると現地調査が必要だ。父の運転する車に乗り、三瀦の大善寺に急いだ。玉垂命は九州王朝の天子だったという仮説を父に説明すると、父は「大善寺の神様は女の神様と聞いているが」と不審そうだった。

 年末の大善寺は正月の行事、火祭の準備で忙しそうだった。火祭保存会会長光山利雄氏の説明によれば、玉垂命が端正元年(589年)に没したという記録は、大善寺玉垂宮所蔵の掛軸(玉垂宮縁起、建徳元年銘《1370》、国指定重要文化財)に記されているそうだ。

 いただいた由緒書によれば玉垂命は仁徳55年(367)にこの地に来て、同56年(368)に賊徒「肥前国水上の桜桃沈輪(ゆすらちんりん)」を退治。同57年(369)にこの地(高村、大善寺の古名)に御宮を造営し筑紫を治め、同78年(390)この地で没したとあり、先の端正元年に没した玉垂命とは別人のようだ(『吉山旧記』による)。とすれば、「玉垂命」とは天子の称号であり、ある時期の九州王朝の歴代倭王を意味することとなろう。その中に女性がいてもおかしくはない(『筑後国神名帳』には玉垂媛神とある)。

 大善寺から少し離れた高三瀦の廟院にも行ってみた。それは小さな塚で、おそらくは仁徳55年に来たと言う初代玉垂命の墓ではあるまいか。この塚からは弥生時代の細型銅剣が出土しており、このことを裏づける。廟の横には月読神社があった。月読神を「たかがみ」とし、九州王朝の祖神と幻視した室伏氏の仮説(『伊勢神宮の向こう側』)は当を得ていたようである(同様の指摘は灰塚照明氏からもなされていた)。

 天孫降臨以来、糸島博多湾岸に都を置いていた九州王朝が、4世紀になって三瀦に都を移したのは、朝鮮半島の強敵高句麗との激突と無関係ではあるまい。この点、古田氏の指摘した通りだ。天然の大濠筑後川。その南岸の地、三瀦は北からの脅威には強い場所だからだ。従来、三瀦は地方豪族水沼の君の地とされていたが、どうやら水沼の君とは九州王朝王族であったようだ。そしてこの地は四世紀から七世紀にかけての九州王朝の都が置かれていたことになる。万葉集の歌「水鳥のすだく水沼を都となしつ」はリアルだった(同歌の「発見」は高田かつ子さん、福永晋三・伸子御夫妻)。

 そうすると、同地にある古墳(御塚、権現塚)も九州王朝天子の古墳としなければならないが、5世紀後半から6世紀前半にかけてのものとされ、筑紫の君磐井の墓、岩戸山古墳の円筒埴輪との類似性 からも同一勢力の古墳と見て問題無い。更に、大正元年に破壊された三瀦の銚子塚古墳は御塚(帆立貝式前方後円墳、全長123m以上)、権現塚(円墳、全長150m以上)の両古墳よりも大規模な前方後円墳だったが、これも九州王朝の天子にふさわしい規模だ。

 こうして見ると、今まで岩戸山古墳以外は不明とされていた九州王朝倭国王墓の候補が三つ増えたことになる。これら古墳の他、都にふさわしい遺構として、高良山麓からわが国最古の「曲水の宴」遺構が発見されている。 筑後川南岸の都三瀦と筑前太宰府との関係は複雑だが、今後明らかにされるであろう。また、高良山玉垂宮との関連も別に詳述したい。

(2)高良玉垂命と七支刀

 古田武彦氏は『失われた九州王朝』において、邪馬壹国の卑弥呼・壱與と倭の五王(讃・珍・済・興・武)との間に在位した九州王朝の王の一人として、石上神社(奈良県天理市)に伝わる七支刀銘文中に見える「倭王旨」を指摘された(旨は中国風一字名称)。七支刀の銘文によれば、この刀は泰和四年(東晋の年号、西暦369年)に造られ、百済王から倭王旨に贈られたものだ。

 そうすると、先に報告した玉垂命(初代)が水沼に都を置いた年(仁徳57年・西暦369年)と七支刀が造られた年が一致し、その倭王旨は初代玉垂命と同一人物ということになるのだ。従って百済は九州王朝の遷都(恐らく博多湾岸から水沼へ)を祝って七支刀を贈ったのではあるまいか。高良玉垂命と七支刀の関係については古田氏が既に示唆されていたところでもある(『古代史60の証言』)。

 この時期、九州王朝は新羅と交戦状態にあり、新羅の軍隊に糸島博多湾岸まで何度も攻め込まれているという伝承が現地寺社縁起などに多数記されている。もちろん、朝鮮半島においても倭国百済同盟軍と新羅は激突していたに違いない。

 そういう戦時下において、九州王朝は都を筑後川南岸の水沼に移転せざるを得なかったのであり、百済王もそれを祝って同盟国倭国に七支刀を贈ったのだ。そう理解した時、七支刀銘文中の「百練鋼の七支刀を造る、生(すす)んで百兵を辟(しりぞ)く」という文が単なる吉祥句に留まらず、戦時下での生々しいリアリティーを帯びていたことがわかるのである。

 玉垂宮史料によれば、初代玉垂命は仁徳78年(390)に没しているので、倭の五王最初の讃の直前の倭王に相当するようだ。『宋書』によれば倭王讃の朝貢記事は永初2年(421)であり、『梁書』には「晋安帝の時、倭王賛有り」とあって、東晋の安帝(在位396~418)の頃には即位していたと見られることも、この考えを支持する。

 さらに現地(高良山)記録にもこのことと一致する記事がある。『高良社大祝旧記抜書』(元禄15年成立)によれば、玉垂命には九人の皇子がおり、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続いているとある。

 この記事の示すところは、玉垂命の次男が跡目を継ぎ、その子孫が累代相続しているということだが、玉垂命(初代)を倭王旨とすれば、その後を継いだ長男は倭王讃となり、讃の後を継いだのが弟の珍とする『宋書』の記事「讃死して弟珍立つ」と一致するのだ。

 すなわち、玉垂命(旨)の長男斯礼賀志命が讃、その弟朝日豊盛命が珍で、珍の子孫がその後の倭王を継いでいったと考えられる。この理解が正しいとすると、倭の五王こそ歴代の玉垂命とも考えられるのである。

 この仮説によれば、倭王旨の倭風名や倭の五王中、讃と珍の倭風名が判明する。さらに推測すれば、三瀦地方の古墳群(御塚・権現塚・銚子塚)が倭の五王の墳墓である可能性も濃厚である。

〔高良玉垂命と九人の皇子(九躰皇子)〕

 高良玉垂命(初代)ーー斯礼賀志命(しれかし)→隈氏(大善寺玉垂宮神職)へ続く

 物部保連(やすつら)   |ーー朝日豊盛命(あさひとよもり) → 草壁(稲員)氏へ続く

            |ーー暮日豊盛命(ゆうひとよもり)

            |ーー渕志命(ふちし)

            |ーー渓上命(たにがみ)

            |ーー那男美命(なをみ)

           |ーー坂本命(さかもと)

            |ーー安志奇命(あしき)

           |ーー安楽應寳秘命(あらをほひめ)

               ※読みは「草壁氏系図(松延本)」によった。

 さて、今回報告した論証は、現地伝承(玉垂宮関連史料)、万葉集(水鳥のすだく水沼を都となしつ)、『宋書』『梁書』(倭の五王記事)、金石文(七支刀)のそれぞれの一致という非常に恵まれた証拠群の上に成立している。そして本論証の成立は、玉垂命の末裔である稲員家系図の分析というテーマへ筆者を誘う。同系図を倭の五王以後の九州王朝王統譜と考えざるを得ないからである。

 ちなみに、松延清晴氏によれば、同系図には筑紫の君磐井は中国風一字名称「賢」と記されているそうである。

 なお最後に若干の残された問題を指摘しておきたい。それは、倭王旨は女性ではなかったかというテーマだ。その理由の一つは七支刀記事が『日本書紀』では神功皇后紀(神功52年・252)に入れられていることだ。

 一応、『日本書紀』編纂時に百済系史書にあった七支刀記事を単純に干支二巡繰り上げた結果ということも考えられるが、七支刀贈呈時の倭王が女性であったため、『三国志』倭人伝中の卑弥呼・壱與の記事と同様の手口で神功皇后紀に入れられたのではないかという可能性もあるのだ。

 そして何よりも、現地伝承に見える「高良の神は玉垂姫」という記録の存在も無視できない。『筑後国神名帳』の「玉垂姫神」以外にも、太宰管内志に紹介された『袖下抄』に「高良山と申す處に玉垂の姫はますなり」という記事もあるからだ。

 一方、糸島博多湾岸での新羅との戦いに活躍する「大帯比賣(おおたらしひめ)」伝承(神功皇后<おきながたらしひめ>のこととして記録されているものが多い)も、この玉垂命(倭王旨)の事績としての再検討が必要のように思われる。現時点での断定は避けるが、検討されるべき仮説ではあるまいか。

 以上、本稿は4世紀末から6世紀にかけての倭国王都が筑後地方に存在し、倭の五王は歴代玉垂命としてその地に君臨したというテーマを明らかにし得たと思われるのである。

(3)高良玉垂命の末喬 抄

 このように稲員家は時々の権力者からも崇敬を得ていたことが、同家文書の内容からもうかがいとれるのだが、なによりも注目すべきは、同家が高良大社の重器「三種の神宝」の出納職であったことだ。

 天皇家のシンボルである三種の神宝を持つ家柄こそ、九州王朝の末裔にふさわしい。同時に高良大社が三種の神宝を持つ社格であることは重要だ。伊勢神宮や熱田神宮でさえ三種の神宝すべてを持っているとは聞いたことがない。

 しかも高良大社では三種の神宝を隠し持っているわけではない。御神幸祭ではその行列中に堂々と並んでいるのである。天皇家以外で三種の神宝をシンボルとして堂々と祭っている神社があれば教えてほしいものである。

 この地が九州王朝の王都であった証拠が高良大社文書『高良記』(中世末期成立)に記されていた。

「大并(高良大菩薩)、クタラヲ、メシクスルカウ人トウクタラ氏ニ、犬ノ面ヲキセ、犬ノ スカタヲツクツテ、三ノカラクニノ皇ハ、日本ノ犬トナツテ、本朝ノ御門ヲ マフリタテマツルヨシ、毎年正月十五日ニ是ヲツトム、犬ノマイ 今ニタエス、年中行事六十余ケトノ其一ナリ」<()内は古賀注>

 ここで記されていることは、百済からの降人の頭、百済氏が犬の面をつけて正月十五日に犬の舞を日本国の朝廷の守りとなって舞う行事が今も高良大社で続いているということだが、初代高良玉垂命がこの地に都をおいた時期、四世紀末から五世紀初頭にかけて百済王族が捕虜となっていることを示している。

 これに対応する記事が朝鮮半島側の史書『三国史記』百済本紀に見える。

「王、倭国と好(よしみ)を結び、太子腆支(てんし)を以て質と為す。」(第三、阿莘王六年<三九七>五月条)

「腆支王。<或は直支と云う。>・・・阿莘の在位第三年の年に立ちて太子と為る。六年、出でて倭国に質す。」(第三、腆支王即位前紀)  

 『三国史記』のこの記事によれば、397年に百済の太子で後に百済王となった腆支が倭国へ人質となって来ていたのだ。この397年という年は、初代玉垂命が没した三九〇年の後であることから、倭王讃の時代となろう。

 『日本書紀』応神八年三月条に百済記からの引用として、百済王子直支の来朝のことが見えるが、書紀本文には『高良記』のような具体的な記事はない。すなわち、百済王子が人質として来た倭国とは、近畿天皇家ではなく、九州王朝の都、三瀦あるいは高良山だったのである。

 百済国王子による正月の犬の舞は、いわゆる獅子舞のルーツではないかと想像するのだが、 七支刀だけではなく王子までも人質に差し出さねばならなかったことを考えると、当時の百済と倭国の力関係がよく示された記事と思われる。

 この後(402)、新羅も倭国に王子(未斯欣)を人質に出していることを考えると、東アジアの軍事バランスが倭国優位となっていたのであろうが、倭の五王が中国への上表文にて、たびたび朝鮮半島(百済など)の支配権を認めることを要請しているのも、こうした力関係を背景にしていたのではあるまいか。

 このような東アジアの国家間の力関係をリアルに表していた伝承が、百済王子による犬の舞だったのであるが、現地伝承として、あるいは現地行事として伝存していた高良大社にはやはり九州王朝の天子が君臨していたのである。

 もう少し正確に言えば、現高良大社は上宮にあたり、実際の政治は三瀦の大善寺玉垂宮付近で行われていたと思われる。いずれも現在の久留米市内である。大善寺坊跡が「天皇屋敷」と呼ばれていたことは既に紹介した通りだ(古田史学会報24号)。

 さて、最後に玉垂命の末裔についてもう一つ判明したことを報告して本稿を締めくくろう。初代玉垂命には九人の皇子がいたことは前号にて報告したが、次男朝日豊盛命の子孫が高良山を居所として累代続き(稲員家もその子孫)、長男の斯礼賀志命は朝廷に臣として仕えたとされているのだが、その朝廷が太宰府なのかどうか、今一つ判らなかった。それがようやく判明した。高良大社発行『高良玉垂宮神秘書同紙背』所収の大善寺玉垂宮の解説に次の通り記されていた。

 「神職の隈氏は旧玉垂宮大祝(大善寺玉垂宮の方。古賀注)。大友氏治下では高一揆衆であった。高良大菩薩の正統を継いで第一王子斯礼賀志命神の末孫であるという。」

 玉垂命の長男、斯礼賀志命の末裔が、三瀦の大善寺玉垂宮大祝職であった隈氏ということであれば、斯礼賀志命が行った朝廷とは当時の王都、三瀦だったのだ。すなわち、長男は都の三瀦で政治を行い、次男の家系は上宮(高良山)で神事を司ったのではあるまいか。

 これは九州王朝の特徴的な政治形態、兄弟統治の現れと見なしうるであろう。こうして、わたしの玉垂命探究はいよいよ倭の五王から筑紫の君磐井、そして輝ける天子、多利思北孤へと向かわざるを得なくなったようである。

(4)多利思北孤の都

 『太宰管内志』に玉垂命が大善寺玉垂宮で端正元年(589)に没したことが記されているが、この玉垂命は多利思北孤の前代(父か母)に相当すると思われる。そうすると、多利思北孤が居した都、『隋書』俀国伝によれば「邪靡堆」はこの三瀦の地であろうか。

 『隋書』俀国伝にはその都に至る行程が記されているが、従来、さまざまな地が比定されており、まだ結論が出ていないようである。記された位置や行程は次のようなものだ。

 (1) 俀国は百済新羅の東南にある。 (2) 百済を度り、竹島にゆく。 (3) 南、耽羅国を望み、都斯麻国を経て、はるかに大海中にある。  (4) また、東へ、一支国へ至る。 (5) また、竹斯国へ至る。 (6) また、東へ、秦王国へ至る。 (7) 十余国を経て、海岸に達す。

 行程記事はこれで終りである。この後、隋使の一行は郊労を受けて、都へ至ったと記されているので、(7)の十余国を経て海岸に達した地点が都の近郊と見なさざるを得ない。

 この行程記事で問題となるのが、方角が記されていない(5)と(7)だ。ただし、(5)については竹斯国が現地音の筑紫に対応していることは異論のないところであるから、一支国(壱岐)から東南、あるいは南方向と考えてよい。

 難解なのが(7)である。従来の論者は、この十余国を経て海岸に達すとあるのを、方角を東にとり、豊前海岸へもっていこうとするケースが少なくない。しかし、豊前海岸であれば、博多湾岸からずっと海沿いに行けるのであり、「海岸に達す」という表現にふさわしくない。

 (7)の行程に方角を補うのであれば、(1)にある「東南」という大方向をまず前提に考えるべきである。行程記事中、方角が記されているのは全て「東」であるから、大方向の「東南」を満足させるためには、方角が記されていないその他の行程記事は「南」と見なすべきではあるまいか。そうでなければ、東南方向へ進めないからだ。もちろん大方向での東南であるから、厳密に南でなくてもよい。

 このように理解すると、博多湾岸付近から一旦東へ秦王国(太宰府付近か)に至り、後は一路十余国を南に進むと、どこに達するであろうか。そう、三瀦の地だ。当時は有明海が三瀦まで入ってきており、まさに「海岸に達す」にふさわしい。この理解を支持するのは『隋書』

俀国伝の次のような記事である。

〇「その地勢は東が高く、西が低い。」三瀦はこの地勢にぴったりである。

〇「水が多く、陸が少ない。」有明海の干満の差は著しい。干潮時は一面泥海である。また、当時の筑後川の両岸は大湿地帯である。三瀦は有明海と筑後川に接しているので、この表現はまことにふさわしい。

〇「小さい環を鵜の首にかけ、水に入って魚を捕らえさせ、日に百余頭は得られる。」筑後川中流域(原鶴)では、今も鵜飼が行われている。

〇「阿蘇山あり。その石は故なくて火が起こり天に接す。」三瀦の近隣であるハ女の山からは阿蘇山の噴火の煙が見えるそうである(松延氏談)。

 このように、『隋書』に記された俀国の状況が、三瀦であればいずれもよく一致するのだ。玉垂命現地伝承と『隋書』俀国伝の記事とが、いずれも九州王朝の王宮が、この時代筑後三瀦にあったことを示していたのである。

 それでは、三瀦はいつまで九州王朝の都心であったのだろうか。わたしは、多利思北孤の時代に再度筑前太宰府に王宮を移したと考えている。理由は次の通りだ。

 筑後遷宮は新羅や高句麗の圧力のためであったことは既に述べてきた通りだが、多利思北孤の時代になって、九州王朝にとっての新たな脅威は南朝陳を滅ぼし、中国を統一した隋ではなかったか。隋は高句麗遠征を繰り返し、琉球へも侵略した。多利思北孤が派遣した使者は長安で琉球侵略の戦利品(布甲)を目撃している(『隋書』琉球伝)。

 当然、帰国した使者たちは多利思北孤にそのことを報告したはずである。琉球まで進んだ隋の軍隊が海流に乗り、有明海まで侵入することは容易だ。北からの脅威には強い筑後三瀦の地も、南からの侵入には極めて危険な位置なのだ。そのことに気づいた多利思北孤は、王宮を再び筑後川の北岸へ、太宰府の地へと移した。そのように思われるのである。

 また、太宰府にもその痕跡が残されている。現地にある字地名「紫辰殿」がそうだ。天子の宮殿を紫辰殿と称するようになったのは唐代であることから、唐代に九州王朝が太宰府を都としていた痕跡と思われるのである。日出ずる処の天子を自称した多利思北孤以後こそ、紫辰殿の名称がふさわしい。もっとも、厳密に考えるならば三瀦と太宰府双方が両都心として並存していた可能性も小さくないであろう。

 4世紀後半に王宮を博多湾岸から筑後三瀦へ遷し、玉垂命を名乗り、また七世紀初頭には筑前太宰府へ戻るという、壮大な九州王朝遷宮史の復原を本稿では試みてきた。この九州王朝の遷宮(都)というテーマについては、すでに『失われた九州王朝』で古田武彦氏が次のように指摘されていた。

 「九州王朝の都は、前二世紀より七世紀までの間、どのように移っていったのだろうか。少なくとも、一世紀志賀島の金印当時より三世紀邪馬壹国にいたるまでの間は、博多湾岸(太宰府付近をふくむ)に都があった。五世紀末には、太宰府南方の基肄城(きいじょう)辺りを中心としていた時期があったように思われる。〔中略〕 そのあと、六世紀初頭の磐井は筑後のハ女市に近い、岩戸山古墳の近傍に都していたことは、よく知られている。〔中略〕

 けれども、『博多湾岸 ーー 基肄城 ーー 筑後」(ただし『博多湾岸』には基肄城をもふくむ)という単線的な移行を想定すべきではない。なぜなら、のちの近畿天皇家の場合をモデルとして見ればわかるように、奈良県内の各地に都を転々とし、時には滋賀県(大津)、大阪府(難波)と、広域に都を遷しているからである。

 その点、九州王朝も、筑紫(筑前・筑後)を中心として、時には九州全域が遷都の対象として可能性をもっていた、といわねばならぬ。」(古田武彦『失われた九州王朝』「第五章 九州王朝の領域と消滅」、朝日文庫)

 おそるべき先見性ではあるまいか。氏は四半世紀も前に本稿の帰結を予見されていたのであった。そして、氏の視線の先には豊前・豊後にまたがる「京都郡」、宮崎の「都城」や熊本の地がある。これらの地名が九州王朝とどのような関係があるのか、心ときめく未来のテーマである。

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 古賀達也氏之説を紹介しましたが、私も同氏の説に妥当性があり、九州に王朝に相当する権力構造があり、北部九州の古代遺跡・神社伝承や魏志倭人伝等の記述と整合が取れる部分があるように思います。

 ただ、私の素人的な感想では、同氏が未来のテーマとされた「京都郡」と「都城」の地名が、九州王朝説とどのような関係があるのかに寄りますが、前述した神一行氏の「崇神天皇と三王朝交替の謎」で推定される王朝交代が行われたとすれば、現代皇室の万世一系とは齟齬しないようにも思われます。