空っぽを満たす旅
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今日は太宰の桜桃忌。
投稿者のチョイスにセンスが滲みでています。m(__)m
半田 香苗
6月19日は「桜桃忌」ここまで振り切られると、読み手には むしろ活力とな・・正論もしくは説教を、得々と話す人が苦手です。
太宰治陰鬱録
近頃の僕の生活には、悲劇すらない。『正義と微笑』
昨年は、何も無かった。一昨年は、何も無かった。その前のとしも、何もなかった。『斜陽』
生活とはなんですか。わびしさを堪える事です。『かすかな声』
人並みの仕合わせは、むずかしい。『秋風記』
※参ったか^_^
https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/54170049 【太宰治、6月19日の「桜桃忌」が命日以上に有名な訳】より
入水は13日だが…元ネタ小説の『桜桃』を解説 三宅 香帆 : 文芸評論家
6月19日は「桜桃忌」と呼ばれている。桜桃とはさくらんぼのことなのだが、なぜこんなふうに呼ばれているかといえば、太宰治の好きな食べ物だったからだ。そう、6月19日は太宰治の墓前にさくらんぼが大量に供えられる日なのである。
実は太宰治の命日そのものは6月13日。入水したのは13日なのである。だが遺体が発見されたのが19日であり、太宰と親交のあった作家がこの日を「桜桃忌」と名付けたために、19日のほうが有名になったのだ。
太宰治にちなんで、今回は「桜桃忌」の元ネタとなった小説を読んでみよう。
短編小説『桜桃』は、こんな文章から始まる。もしかしたら『桜桃』を知らなくとも、冒頭のフレーズだけ聞いたことがある方もいるかもしれない。
子供より親が大事、と思いたい。
(太宰治『桜桃』「人間失格・桜桃」角川文庫、角川書店より引用)
なぜこんな文章を太宰は書いたのか? それはもちろん、実際は「子供より、親が大事」なんてことはなく、現実は「親よりも、子供が大事」に決まっているからである。少なくとも彼が生きていた時代は、そうだった。文章はこのように続く。
子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。少くとも、私の家庭においては、そうである。(中略)この親は、その家庭において、常に子供たちのご機嫌ばかり伺っている。子供、といっても、私のところの子供たちは、皆まだひどく幼い。長女は七歳、長男は四歳、次女は一歳である。それでも、既にそれぞれ、両親を圧倒し掛けている。父と母は、さながら子供たちの下男下女の趣きを呈しているのである。
(『桜桃』)
太宰の子どもたちはまだ幼かった。そしてこの小説に登場する子どもたちも幼い。しかし子育ては、決して容易ではなかった。太宰は子育てを、「子供たちの下男下女になること」と表現しているのだ。
下男下女とは、身分の高い人に雇われ、住み込み奉公する者のこと──いわば「お手伝いさん」のようなものである。子どもを育てそしてケアをすることは、子どもの下男下女になることである。そのような言葉を、太宰は晩年の短篇『桜桃』に書き記している。
そう、実は『桜桃』は、子育てに疲弊する夫婦の物語なのである。
幼い子どもたちを抱え、父は仕事をしなければいけないプレッシャーを感じ、母は家事を休むことができない疲労を感じている。その結果、夫婦げんかが勃発する。そして父は家庭から逃げるように、飲みに出かける──そんなストーリーが『桜桃』なのである。
なんとも現代にも通じるような、子育ての疲弊を父親目線から描いた小説。それが短編『桜桃』であり、そのような小説の書き出しが「子供より親が大事、と思いたい」であるのは……なかなか重たい事実だ。思いたいけど、そんなことは決して、ない。
現代よりも子育ては当然の義務だった時代
太宰の生きた時代は、現代よりもっと、子育ては当然の義務だと思われていた。しかも3人も育てるのも、当然である、と言われていた。そんな時代にあって、男性が「子育てってマジでつらい」「子育て中の夫婦げんかもマジでつらい」と吐露する小説を書いていたことに、私は些か驚いてしまう。
とはいえ、『桜桃』の語り手である父親は、決して良い父親だったわけではない。彼は「原稿仕事をするため」と飲みに出かけてしまうのだ。しかも、妻が「重態の妹のもとに行きたいから、子どもたちを見ていてほしい」と言うのに。
彼は妻に「誰か子守を手伝ってくれる人はいないか」と言うのだが、そんな人もいなかった。
「誰か、ひとを雇いなさい」と、ひとりごとみたいに、わずかに主張してみた次第なのだ。
母も、いったい、無口なほうである。しかし、言うことに、いつも、つめたい自信を持っていた。(この母に限らず、どこの女も、たいていそんなものであるが)
「でも、なかなか、来てくれるひともありませんから」
「捜せば、きっと見つかりますよ。来てくれるひとが無いんじゃ無い、いてくれるひとが無いんじゃないかな?」
「私が、ひとを使うのが下手だとおっしゃるのですか?」
「そんな、……」
父はまた黙した。じつは、そう思っていたのだ。しかし、黙した。
ああ、誰かひとり、雇ってくれたらいい。母が末の子を背負って、用足しに外に出かけると、父はあとの二人の子の世話を見なければならぬ。そうして、来客が毎日、きまって十人くらいずつある。
(『桜桃』/太字は原文ママ)
……なんとも、読んでいて胸が痛くなる描写である。妻目線に立てば、「人に頼むんじゃなくて、お前が子を見てろよ!」と腹を立てるところ。しかし夫目線に立てば、「家にいたら仕事の来客もやってくるし、原稿をしながら2人も子どもを世話できないよ!」という本音もうかがえる。夫婦2人での、3人の子育ては、今も昔も大変なのだ。
子育てを手伝ってくれる人もいない。夫婦げんかだらけの日々。しかし仕事の来客はやってくる。そして彼は「もう、仕事どころではない。自殺の事ばかり考えている」ようになってしまい、逃げるように酒を飲みに行ってしまうのだった。
ラストシーン、妻と子を家に置いてやってきた飲み屋で、さくらんぼが出てくる。
桜桃が出た。
私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾りのように見えるだろう。
しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。
(『桜桃』)
「さくらんぼ」といえば、この時代のぜいたくな果物の代表だった。しかしそんなさくらんぼを、彼は「まずそうに食べては種を吐く」。それは妻と子を置いてきた罪悪感とともに食べる味だったのだ。
太宰の小説の胸に迫る描写
『桜桃』は、もちろんあらすじだけ読めば、クズ男の話だ。育児を放棄し、酒に逃げる男の物語である。しかし一方で、このさくらんぼを食べる描写を読むと、あらすじ以上に胸に迫るものがある。
毎年、桜桃忌には、法要が行われている三鷹市の禅林寺でさくらんぼが供えられる。そのさくらんぼは、想像以上に苦く、小説のなかで描かれていた。まさに家族を蔑ろにしながら小説を書き続けた彼の人生の象徴だったのである。
太宰の代表作『斜陽』において、「自分の幸福も光栄も、生きているうちには決して無い」という文章がつづられている。
「死ぬ気で飲んでいるんだ。生きているのが、悲しくて仕様が無いんだよ。わびしさだの、淋しさだの、そんなゆとりのあるものでなくて、悲しいんだ。陰気くさい、嘆きの溜息が四方の壁から聞えている時、自分たちだけの幸福なんてある筈は無いじゃないか。自分の幸福も光栄も、生きているうちには決して無いとわかった時、ひとは、どんな気持になるものかね。努力。そんなものは、ただ、飢餓の野獣の餌食になるだけだ。みじめな人が多すぎるよ。キザかね」
(太宰治『斜陽』新潮文庫、新潮社)
今も昔も、太宰の文章に熱狂する若者がいる。生きているのが、悲しくて仕様がない、という言葉だけが救ってくれるものがある。だから今年も、太宰の墓前には、たくさんのさくらんぼが供えられるのだろう。
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たまに聖地や神秘的な場所に行ってもそこにいる人たちの
顔を見ると気づくことがあります あぁみんな「今」にいないなぁと 本当に見事なくらい
誰もここにいません やっぱり ほとんどの人が 頭の中の 声に気を取られて いるんですね それなら近所の公園で 静かに座っている方が よっぽどいい
もう一つ感じるのは 人と会って 話していながら 本当に人と話して いる人はとても
少ないという事 みんな自分の事でいっぱいです
だからいつも疲れるんです だからいつも満たされないんです 何をしても 誰と会っても
いつも虚しさだけが残るのは 相手もあなたも そこにいないから^ ^それなら 無理に話さずに 二人で黙って 時を過ごす方が よっぽどいい
僕は人と話していない 時間の方が好きです
でもそんな 時間を共有できる人は 少ないので 一人でいることが 一番好きな時間です
昔は自分といること が落ち着かなくて それをごまかすために たくさんの人に会って
いたように思います 今は会いたいと 思う人もずいぶんと 少なくなりました
それに人と会って話したいのは こんな話しだけだし^ ^ 益々、一人の時間が心地いいんです もっと言えば 瞑想している時間だけが 本当に生きていると 感じるくらいです😊
そこに「自分」がいない時だけ今を生きることが出来るからです
そんな時間が人生に増えてくるほど安心が溢れて来るようになりました 安らぎに必要な人も物もありません それはずっと あなたの中にあるからです
静かに目を閉じて 心に耳を澄ますと それと出会う ことが出来ます
みんな ごちゃごちゃと 頭の中で話し過ぎるのです それに気づいて ください そうすれば 全ての聖典は必要が なくなります 聖典はその 静けさをただ指し示していただけだとわかるからです
何よりも 価値のある真実は すでに あなたの中にあります
こんな雨の日は 静かに雨音に耳を 澄ませてみてください あなたが 本当のあなたに
出会えますように😊 らぶ💓
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「無言館」運営の危機が言われていたけれど(=´∀`)人(´∀`=)
*
「樹木希林さんが突然訪ねてきて…」戦死した若者の絵を遺す「無言館」共同館主に内田也哉子が就任した縁
2024年6月14日、内田也哉子さんが戦没画学生慰霊美術館「無言館」の共同館主に就任することが発表されました。そのきっかけの一つとなった、無言館の創設者であり館主の窪島誠一郎さんとの対話を公開します。
※本稿は内田也哉子さんの著書『BLANK PAGE 空っぽを満たす旅』からの抜粋です。
◆◆◆
戦死した画学生の作品を遺す美術館
内田 戦争について今一度見つめ直したいと思い、久しぶりに無言館をお訪ねしました。初めて来たとき、まるでスイスの山奥に数百年もたたずむ小さな教会のようだなぁと思ったのですが、そのたたずまいも、静謐で温かな空気も少しも変わっていません。木の扉を開けると、日中戦争と太平洋戦争で亡くなった画学生たちの遺した絵画や彫像、遺品となった絵の道具、戦地からのハガキなどが展示されている。正式な名称は戦没画学生慰霊美術館「無言館」。創設者であり館長である窪島さんが名付けたのですね。
窪島 ここにある絵は無言だけど見る人に多くを語りかける。訪れた人は絵を前に誰もが無言になる。──というのは後から考えた理屈で、実はふと思いついたに過ぎないんです。でも、我ながらよくぞいい名前を思いついたものと、自惚れているんですけどね。
内田 窪島さんが私財を投じて1997年に建設。その前に信濃デッサン館という美術館も建てています。
窪島 自分で集めた絵が溢れ出したので、それらを収めるために建てたのです。
内田 比較的マイナーな画家の絵ばかり集めていたそうですが、それはなぜですか。
窪島 よく「絵がわかる」というでしょ。でも僕はそもそも「絵がわかる・わからない」というのがわからない。ただ、魅かれる絵がある。その絵を描いた人がどういう人で、どんな思いで、どんな生き方をしていたのかということに魅かれるんです。だから例えば、1919年にスペイン風邪で22歳で死んだ村山槐多、同じく20歳で死んだ関根正二、脳腫瘍で30歳で死んだ野田英夫のように、思いを遺して早世した画家の絵には特に魅かれます。これは無言館にも通じます。志半ばで死んだ、無名の“画家未満”の若者の絵に強く魅かれるんです。
内田 窪島さんは、生まれた3週間後が真珠湾攻撃だったそうですね。よく「無言館は反戦や平和を訴えるために建てたのではない」と発言され、自伝的小説『流木記』には「画家には二つの命がある。一つはナマ身の命、もう一つは作品にこめられた命」と書かれています。つまり作品がこの世からなくならない限り画家は死んでいない。だから、あまりにも若くして戦火に散った画学生たちの「もう一つの命」を守るために建てたのですね。
窪島 自らも東京美術学校(現・東京藝術大学)を繰り上げ卒業させられて召集され、戦地から復員された、現在101歳で現役の洋画家である野見山暁治さん(2023年6月に逝去)が、「このまま戦死した画友たちの絵が霧散してしまうのが口惜しい」とぽつりとおっしゃったのを聞いたのがきっかけでした。まもなく戦後50年を迎える頃のことで、今から収集して保管すれば、散逸を防ぐのにまだ間に合うんじゃないかと思いました。
樹木希林が突然現れ「会いたかったのよ、あなたに」
内田 画学生たちの遺した絵の収集に、3年半かけて全国を行脚されました。
窪島 最初は野見山先生と一緒に訪ね歩きました。当時、先生は72歳、僕が51歳。後半は僕ひとりで。ご遺族から絵を預かるだけでなく、画学生の思い出話を伺うんです。出征の朝、「あと5分」「あと10分」とキャンバスに向かい続けた人、誰にも告げずにひとりで出征した人……涙なしでは聞けないエピソードが山のように集まりました。
内田 窪島さんの執念ともいえる取材力ですね。今日は無言館でイベントがあって大勢の方が集っていました。窪島さんは御年80歳。拝見していると、同年代ぐらいの方から話しかけられると話があまり続かない。でも、若い人とは同じぐらいのテンションとノリでポンポンポンとお話が弾んでいました。その差がとても興味深いです。
窪島 若者というのは、まず予定調和しないでしょう。「いやー、いいお話でした」とか、そういうのがない。でも年を取るほど言うんです。年を取るということは、たいていの人は一つずつ何かを着込んでいくんですけれど、僕の場合は脱いで裸になっていくような感覚があるんですよね。裸になっていく人のほうが話が弾みます。あなたの母上もそういう人でしたね。
内田 はい、何もかも開けっ広げで、誰かに対してじゃなく、自分に対してのプライドの所在がはっきりしてましたね。母との付き合いはどのように始まったのですか。
窪島 2015年のこと、彼女が突然、やってきたんです。一目見れば樹木希林さんだというのはわかった。
その大女優さんが
「会いたかったのよ、あなたに」
と言うものだから、びっくりしちゃった。児童文学作家の灰谷健次郎さんから、しょっちゅう僕のことを聞かされていましたって。
内田 灰谷さんとは、母は自称“がん友だち”だったから。
窪島 僕は無謀にもその場で「無言館では毎年4月29日に新成人たちが、彼らと同世代である戦没画学生の絵を前に決意を新たにするという『成人式』を開催しています。来年のゲストとして来てくれませんか」と頼んだんです。後日、希林さんの直筆で「引き受けさせていただきます」と書かれたハガキが届いた。ろくに式の説明もしていないのに。
さらに金沢での表彰式の帰りに、打ち合わせのために上田に寄ってくれるという。「でも、有名人をどこへお連れしたらいいものか」と迷っていたら、「一番いいのは駅の待合室よ。サインを求められても写真を撮られても、ちょっと我慢していればみんな次の列車に乗って行っちゃうから」とおっしゃった。
そして当日、駅で待っていると、当然グリーン車から降りてくるものと思っていたら、自由席からトコトコ歩いてきた。それで、「8000円浮いた」って自慢げに言うんです。
内田 主催者側がグリーン車を取ってくれたのに、払い戻したんですね。母がやりそうなことです。
窪島 すばらしい。僕は惚れちゃいましたよ。待合室ではなく、その8000円で2人でウナギを食べに行った。なんて楽しい食事だったんだろうと思い出します。印象に残っているのは、「私ね、あなたみたいなワイルドには慣れてるのよ」だって。
内田 はい、ものすごくワイルドなロックンローラーが近くに1人いましたから。
窪島 也哉子さんのご主人の本木雅弘さんのことは、「彼が来たことによって、ようやく内田家を立て直すことができたのよ」って感謝されていましたよ。
内田 そんなこと言っていましたか。
敬愛する作家が実の父だと36歳で知った
窪島 成人式当日は、いつもはゲストが帰るとホッとするんですよ。筑紫哲也さんとか菅原文太さんとか山田洋次さんに来てもらったときは、お見送りしてやっと肩の荷が下りたものです。でも、希林さんが帰ったときは寂しくてね。ちょっとがっかりしていたら、電話がかかってきた。「まだいるのよ、近くに」って。
うれしくて、すっ飛んで行って、別所温泉の旅館のレストランで4時間以上、お酒のんで話しました。ご自分ががんの塊だということをおっしゃっていて、僕もくも膜下出血で倒れた直後だったから、テーマは「死」でしたね。思えば、亡くなる2年前のことでした。
そのご縁で、今年の成人式は也哉子さんに来てもらい、新成人ひとりひとりに手紙を書いてもらったんですが、普通に家でフラフラしてる奥さんだと思っていたら、大間違いだった。
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内田 そう、基本的にはフラフラしているだけです(笑)。
窪島 いやいや、この雑誌のエッセイの連載だけでも文章のセンスのよさ、モノの見方が独特であることがわかるし、『SWITCHインタビュー』(Eテレ)で吉田カバンの創業者の息子さんと対談しているのを観ても、大したもんだなあと認識を新たにしたんです。
内田 吉田カバンといえば、窪島さんはご愛用ですよね。
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窪島 このトートバッグがそうです。持ち手の部分だけ直したけど。
内田 以前、お電話で、実のお父様の水上勉さんから唯一もらったものが吉田カバンのバッグだと伺いました。
窪島 そう、ほかには何ももらわなかったけど、カバンは2つもらいました。実際に水上先生が使っていたんですよ。小説を執筆するための資料を詰め込んで、ものすごく重そうだったので僕が持ってあげたこともあります。
内田 お父様のことを「水上先生」と呼ばれるんですね。お父様ご本人に対してもそう呼んだのですか。
窪島 だって初めて会ったのは、僕が36歳のときですから。もう「お父さん」と呼べる歳ではなかったし、僕自身、代表作の『飢餓海峡』に登場する岬を見に北海道まで行くほど、昔からの水上ファンでしたからね。
内田 まさか自分の好きな作家が父親だとは。自分を育てたご両親が養父母だと知らず、でも13歳ぐらいのときに親と似ていないことや血液型が親子としてはおかしいことに気がついたんですよね。
そして実の父、母を探し始め、36歳のときに水上さんにたどり着いた。驚いたことに、お互いに世田谷の成城に住んでいたんですね。最初に父子が対面したときはどういう空気感だったんですか。
窪島 先生の軽井沢の別荘で2人きりでした。先生は当時58歳。僕を一目見て、自分の息子だとわかったそうです。自分の書いたもので何が好きかと聞かれ、僕は『飢餓海峡』や『越前竹人形』ではなく、『蓑笠の人』という、誰も読まないような短編を挙げた。これがまた泣かせてね。「あれを読んでいてくれたか」と。
内田 窪島さん、天性の人たらしですね(笑)。
窪島 うれしかったし、父親を大好きになったけど、もし、探し当てた父親が普通の市井の人だったらもっと生きやすかっただろうなとも想像します。
私たちが再会したことは、父親が有名人であったために大ニュースになったんです。1977年のことですが、父のスキャンダルとして報じるメディアもありました。父は戦時中に僕の母と同棲して僕を授かるのですが、生活苦から僕を手放し、僕は子どもがいない靴屋夫婦の実子として育てられたんです。
僕が実の親を探し歩いた日々のことは、その後、NHKの連続ドラマにまでなったから、世間の僕を見る目は違ってきました。どんなに夭折した画家の発掘に努め、その評伝や研究書を書いても、「戦後三十数年を経て有名作家との再会を果たした奇跡の子」というのが僕に貼られたレッテルになってしまいました。
それはあなたにもついて回りますよね。誰もが知っている一流の女優の娘だということが。でも、あなたの場合は恨みもしないし、ごく自然に、素直に生きている。母上の教育も本当に上手だったんだなと思います。
寂しさは宝。寂しくなければ仕事なんてしない
内田 窪島さんはもっと葛藤がありましたか。
窪島 葛藤といえばかっこいいけれど、ひねくれていましたね。水上先生を敬愛していながらも、故郷の福井につくった文学館の館長になってくれと言われれば断る。彼の文学世界を愛してはいたけど、そこに近づくなんていうのは嫌でした。
内田 私も葛藤はあります。母が亡くなってから、彼女の遺した数々の言葉のインパクトがいまだにあって、そこに私はたたずんでいるという感じです。もちろん母とは関係ないところで生きてみたいという思いもあります。でも、一度どっぷり母や父との関係と向き合ってみる機会にするしかない、一度突き抜けてみようと思っています。その先に何が見えるのかに想いを馳せながら。
窪島 それは大テーマですね。僕もどんなものを書いても、水上勉を通り抜けるわけにはいかないんです。養父は靴職人でしたから、僕は36歳までは靴屋の子、36歳以降は作家の子になった。そういう体験をした人はそんなにいないわけだから、自分を一つのモルモットにして、何か普遍的なものを書く。それはやらなければいけないことだと思っています。
無言館の成人式で也哉子さんが新成人たちに話をしている、その後ろ姿を見ていたら、也哉子さんは也哉子さんで、僕と同じぐらいの海の深さに生きている仲間だなと思ったんです。でも、80歳になったから偉そうに言わせてもらいますが、寂しさは宝だと思います。寂しくなければ仕事なんてしないんじゃないかな。
内田 仕事というのは「書く」ということですか。それともすべての仕事ですか。
窪島 何もかもですね。生きるためのことに一生懸命になるのは、ひとえに、1センチでも5ミリでも寂しさから離れたいというのがあるからではないでしょうか。寂しいということが仕事の原動力であると同時に、その跳ね返りとして、人に認めてもらいたい。よくやったと言われたい。無言館なんかまさしくそうでしょうね。
内田 どういうことですか、無言館がまさしくそうだというのは。
窪島 戦争で亡くなった画学生が気の毒だからだとか、あるいは将来の若い人たちに平和な世界が訪れますようにとか、そんな世のため人のためにやった覚えはないんですよね。
でも遺族を訪ねると、お寿司は取ってくれるわ、ビールの栓は抜いてくれるわ、大歓迎してくれるわけですよ。そうやってお借りしてきた大事な形見の絵を展示する美術館をつくったら、世間から「ご立派なことをなさって」と言われて、もう、うれしくてうれしくて。
内田 そのご自身や現象を客観的にとらえる目には唸らされます。無言館は、水上勉さんの援助は一切受けずに建設し、運営されてきたんですね。
窪島 1964年の東京オリンピックのときに、マラソンコースの沿道でおにぎりを売って大変もうけましてね、そのおにぎりを握ったのが今の奥さんなんです。バーの開店、支店の拡大……みるみる板垣退助(当時の100円札)が束になりました。
内田 喜怒哀楽をもじった「キッド・アイラック・ホール」もつくって、そこはライブハウスの先駆けになったそうですね。
窪島 当時、僕はサラリーマンもやっていて渋谷の生地屋に勤めていたんだけれど、月給が5000円でした。一方、おにぎりの売り上げだけで一日2万円。子どものころから絵を描くことや文章を書くことが好きで、文学を目指そうとか、画家になりたいとか思っていたのに、お金が入ってきたら稼ぐことのほうがおもしろくなってしまった。
内田 自分のストイックなものに対する情熱がお金の残酷さでパワーを失ったと思われますか。
窪島 でも、あの時間、あのお金がなければ、無言館を建てるなんてことはできなかったわけで、全部を否定するわけにはいかない。ただ、高度成長期の頃の日本人は、都合のいい記憶障害になっていましたね。沖縄では何十万の人、原爆では二十何万人、戦争で三百何十万人もの自国民が亡くなっているという意識は、少なくともおにぎりを売っている僕にはひとかけらもなかったです。ただひたすら板垣退助だけ見つめていた。
ウクライナの戦争を見てもつくづく思います。戦争がなければこの無言館はなかった。僕は本来あってはならない美術館をやっている。それは僕自身のたどった人生も同じような気がします。金儲けが悪いというわけではないけれど、もう少し次の時代がどうなるか、これだけ空気を汚して、これだけ気候変動を起こし、原発をつくっていいのか考えなければいけなかった。存在してはならない「無言館」が役に立つとすれば、今からでもそういうことを考えるきっかけをここで得てもらうことだと思います。
内田也哉子さん 窪島誠一郎さん「無言館」共同館主就任コメント
対話から2年経て、内田也哉子さんが窪島誠一郎さんとともに無言館の共同館主に。
内田也哉子さんコメント
無言館館主で、作家の窪島誠一郎さんとは『BLANK PAGE 空っぽを満たす旅』の対話を通して、芸術と共に生きるということ、そして、個人と社会にとっての真の平和について語らう貴重な機会を頂きました。
やがて窪島さんと交流を深める中で、無言館のバトンを共に未来へ繋ぐ走者の役割を拝命いたしました。
微力ながら精一杯、無言館という稀有な美術館の存在を多くの方々へ伝えていけるよう努めたいと思います。
戦争を知らない者として、この出会いから多くのことを学び、戦没画学生が遺してくれた素晴らしいアートを通し、それらを愛でることができる平和の今を皆さまとシェアできることを切に願っております。
窪島誠一郎さんコメント
内田也哉子さんの共同館主就任を心から歓迎します。
「無言館」27年の孤独な道に、大輪の花が舞い降りたようです。
私より三回りも若い也哉子さんの新しい力を得て、天上の戦没画学生たちもさぞ喜んでいることでしょう。