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取り合わせ

2024.12.04 09:36

https://www.sakigake.jp/special/2020/haiku/article_40.jsp 【詩を生む「取り合わせ」】より

灰汁桶の雫やみけりきり〴〵す 凡兆

 凡兆は芭蕉の弟子で元禄時代に活躍。灰汁を採る桶の雫が止まった。きりぎりすが鳴いている。秋の夜の静けさが感じられます。灰汁の雫ときりぎりすとは特に関係はありません。関係のないものを並べることで詩情が生まれることがあります。このような作り方を、取り合わせといいます。

 百舌鳥なくや入日さし込女松原 凡兆

 鵙(もず)が鳴く。女松(アカマツ)の林に入日がさしこむ。景色(松)と音(鵙の声)を取り合わせたことで、日の暮の松原の様子が立体的に感じられます。

 郭公鳴や湖水のさゝにごり 丈草

 丈草も芭蕉の弟子。ホトトギスが鳴き、琵琶湖はうっすらと濁っている。微妙な季節感を漂わせた句で、前の句と同様、景色(湖の濁り)と音(ホトトギス)を取り合わせています。このように、取り合わせの発想を用いた句は、芭蕉の時代にも見られます。これに対し、一つのモノだけを詠んだ句を一物(いちぶつ)仕立てといいます。たとえば唐辛子だけを詠んだ 

 青くても有べき物を唐辛子 芭蕉

は典型的な一物の句です。一物と違い、取り合わせは二つの物事の組み合わせに変化がつけられるので、多様な作品を生みやすい手法です。今回は取り合わせに着目しながら、投稿句を見ていきたいと思います。

意外な出合いの妙を味わう

虫のこえサンドイッチの中はハム

 丹野千鶴さん(秋田市、高清水小2年)の作。コオロギなどの「虫のこえ」が秋の季語です。「虫のこえ」が聞こえることと、サンドイッチの中身がハムであることとは何の関係もありません。しかし両者を取り合わせたことで、秋の野原でピクニックを楽しんでいる場面が想像されます。

B面のごとくに生きて蜆汁

 結城啓至さん(神戸市、83歳)の作。レコードのB面は、A面に比べて目立たない曲であることが多い。そのB面のような控えめな生き方をして、つつましく蜆汁を食す。「B面」と「蜆汁」とは何の関係もありませんが、両者を取り合わせたことで、人生に対する作者の思いが伝わってきます。

連れ添ひて共に米寿や心太

 石橋喜一さん(横手市、89歳)の作。長年連れ添った夫婦が仲よく米寿を迎えて心太を食べる。ちょっとたよりない感じもする「心太」ですが、気負わず飄々(ひょうひょう)とした風趣を感じます。

句形をスッキリさせる

夏ラムネビー玉遠く君思う

 立石千洋さん(兵庫県芦屋市、58歳)の作。遠く君を思うこととラムネの玉を取り合わせました。ラムネは夏の季語ですから「夏」は略せます。「夏」の二音を削り、さらにビー玉をラムネ玉と言い換えると句形がスッキリします。

ラムネ玉はるかに君を思うなり

読者の想像に委ねる

木蓮や指輪を捨てて歩き出す

 和気月香さん(東京都世田谷区、56歳)の作。「指輪を捨てて歩き出す」とは、もしかすると、結婚指輪を打ち捨てて新たな人生を歩み始めるという意味でしょうか? このことと木蓮の花との関係は、理屈では理解できません。ただ、何やら作者の決意めいた思いが木蓮に託されている、ということは何となく察せられます。取り合わせの句をどう読み、どう味わうかについては、読者の想像に委ねられている部分が大きいのです。

https://www.kogumaza.jp/1408haikujihyuu.html 【取り合わせ】 より        

                              矢 本 大 雪

   一物仕立ての句であれば、句の内容に疑問は生じない。

    漂へる手袋のある運河かな         高野 素十

光景は、はっきりしている。ただ、ここにも手袋と運河という、二つを配列したい気分が残されている。運河に対して、魚や鳥などではなく、手袋はごみとしては想像できるが、やや異質である。むしろ、

    甘草の芽のとびとびのひとならび      高野 素十

この句のほうが一物仕立ての句として、より明確であろう。では、最初の手袋の句は、取り合わせと言えるのか。それはちがう。

    ひるがほに電流かよひゐはせぬか     三橋 鷹女

    炎天を行くやうしろは死者ばかり       石塚 友二

    巻尺を伸ばしてゆけば源五郎        波多野爽波

これらの句のように、異物感を伴う二つのものが一句の中に配列されていることを、取り合わせと言いたい。ではなぜこのような技法が生まれるのか。それは俳句が十七音という、強烈に短い形であることに原因している。一物仕立ての句だけでは、内容も世界もどこか窮屈になりかねない。「ひるがほ」と「電流」を取り合わせることで、より「ひるがほ」が生き生きとしてきはしないか。「炎天」は、いかにも「死者」の長い列を想像させる。それは戦後の「戦死者」をも想像させるが、炎天の持つ、異様な暑さにだらだらと並ぶ生者も、死者と変わらなく見えることもあるだろう。「巻尺」と「源五郎」に至っては、驚くしかない。しかも、不思議な得力を伴っている。これら二つの、一見無縁なものを配列することで、句の中に不思議な作用が生じる。まず簡単に読み下せなくなる。つっかえるのである。謎が生まれる。これがポイントになる。のびのびとおだやかな一物仕立ての句は、確かに俳句の基本ではあろうが、読み終えて何事も起こらないことも多い。ところが異物同士がぶつかり合う取り合わせでは、作者ですら意図しなかった感慨が起こりうるのだ。

ひるがほに電流を感じたのは作者の感受性であろう。それを言われて、思わず納得させられるのが凡人の哀しさではあるが、なるほどそう感じてもよいのだと、また気づかせられるのも句作に携わる者の嬉しさかもしれない。炎天の死者に至っては、自分もそう感じていたことを再確認させられ、巻尺を伸ばして何かに突き当たることをこの句で教えられる。もっともこれらの句は、少し極端に異物感を露わにし過ぎたかもしれない。

  秋風や模様のちがふ皿二つ         原  石鼎

  凩やからまはりする水車            中川 宗淵

このような取り合わせがわかりやすい例として挙げられよう。秋風と皿、凩と水車のよう

に、どちらも光景とものの関係。背景も物体も互いの存在を補完し合っている。一方が他方の背景と化し、互いの存在を際立てている。秋風の中に置かれたからこそ、模様の違う皿二枚が際立つのだが、むしろ皿が秋風をより目立たせているともいえる。凩と水車の関係においても同じことがいえよう。二つの句のもの同士の関係は、互いに引き立て役としてわかりやすいのだ。

    しぐるるや駅に西口東口            安住  敦

    かもめ来よ天金の書をひらくたび       三橋 敏雄

    高波の夜目にも見ゆる心太          川崎 展宏

取り合わせは、モノとモノ、モノとコト、あるいはモノと想いなどが考えられるが、多くは二

つの言葉が互いに触媒として作用しあう関係にある。時雨れている街と、駅の西口東口。駅の出口が二つあることは単なる事実でしかない。ところが街が時雨れることによって、その事実に不思議な哀しさや、儚さのようなものま付与してしまう。また駅に西口と東口があることが、時雨を必然的に呼んだかのような錯覚まで起こさせる。かもめと天金の書に至っては、その関係はもっと密になり、必然としか思えなくなる。少なくとも、作者の中ではそう思わせるだけの理由がある。かもめと天金の書は、互いを触発し合い密接な関係を作り上げていく。それはまさに詩魂というべきであろう。かもめを思っていれば、詩人の前には天金の書が現れ、天金の書をひらくたびにかもめは飛び来る。何故かもめでなければならないのか。何故天金の書なのかは、愚問であろう。先に掲げた句でも、ひるがほと電流は、作者の中では緊密に結びついている。ただし、それを追体験するには、多少その句に深く入り込まなければならないだろう。

しかも、書かれてしまえば、十分な説得力をもって我々に迫ってくることがある。だからこそ取り合わせの成功例として存在するのだ。言葉同士が触媒として機能するゆえ、二つの言葉の間に物語が生まれる。時間が生じる。見えない縁が、二つの言葉を行き来し始める。だからこそ取り合わせは難しい。適当に言葉を連ねれば成立するわけではない。

作者の詩魂が試されるのである。巻尺と源五郎などは、我々の推理の範疇をはるかに飛び越えた取り合わせであり、そこがくすぐられるからこそ、説得力を持つ句になっている。

取り合わせは、一句一章では伝えきれない何かを句の中にもたらす。言葉が本来の意味のほかに、二つがぶつかり合うことで、ささやかな化学反応を引き起こすからである。

その化学反応がより規模を大きくしたものが、モンタージュであろう。モンタージュは取り合わせの延長上の、より意識的な手法であろう。次回はそれを検証してみたい。

https://gokoo.main.jp/001/?p=7409 【〈俳句の相談〉一物仕立てか、取り合わせか】より

【相談】

一物仕立と取合せとのどちらに属する句か? はっきりしない領域があるように思えます。たとえば次のような句です。

①本降りとなつてをりけり昼寝覚 黛 執

②遠山に日の当りたる枯野かな  高浜虚子

③かなしみはしんじつ白し夕遍路 野見山朱鳥

これらの句は一物仕立てか取り合わせか、どう考えたらいいでしょうか。

【回答】

すべての俳句は一物仕立てと取り合わせのどちらかに分類されます。それは内容と形によって次の4つに分けられます。

*一物仕立て

(A)1つのことを1本で詠んでいる句(句中に切れはない、典型的な一物仕立て)

例:行春を近江の人とおしみける(芭蕉)

(B)1つのことを2つに分けて詠んでいる句(句中に形だけの切れがある、一物仕立ての変型)

例:朝がほや/一輪深き淵の色(蕪村)

*取り合わせ

(C)2つのことを2つに分けて詠んでいる句(句中に切れがある、典型的な取り合わせ)

例:降る雪や/明治は遠くなりにけり(中村草田男)

(D)2つのことを1つにつないで詠んでいる句(句中に隠れた切れがある、取り合わせの変型)

例:六月の雨さだめなき/火桶かな(石田波郷)

この4つについては旧著『一億人の俳句入門』(講談社)、『一億人の「切れ」入門』(角川書店)にも書きました。このことをしっかり頭に叩きこんでいないから、『俳句』8月号のような混乱が起こるのです。

よく問題になるのは(B)と(D)です。(B)は一物仕立てなのですが、句中に形だけの切れがあるので取り合わせのようにみえます。逆に(D)は取り合わせなのですが、句中の切れが隠れているので一物仕立てのようにみえます。要は句の形に惑わされず、内容をよくみよということです。

一物仕立てか取り合わせか、はっきりしない句の例としてあげておられる①と③は(B)一物仕立てです。①は昼寝が覚めたら雨が本降りになっていたということです。③の「かなしみ」は遍路の白装束のことです。

一方、②は(D)取り合わせの句です。この句、遠山に日が当たっていて、あたりいちめんが枯野であるというのです。「遠山に日の当たりたる」のあとに切れが隠れています。

ここで虚子の枯野の句についていっておくと、取り合わせでることを明確にするためには下五には日の当たる、当たらないに関わりのないものがこなければなりません。虚子の句では枯野という日の当たりうるものを置いたために、遠山にも枯野にも日が当たっているような曖昧さが生じます。この句は名句といわれていますが、取り合わせの句としては不完全な句です。

例にあげた波郷の句は「雨さだめなき」と火桶がかかわらないので取り合わせであることがすぐわかります。芭蕉の「さまざまの事思おも出す/桜かな」も同じです。

このよう に一物仕立てと取り合わせの区別がわかっていないと、道しるべもなく歩いているようなもので、第一に俳句の鑑賞ができません。それはそのまま、俳句が詠めないということです。

https://blog.goo.ne.jp/19310601/e/4a927783e14f1766f6682628630ee812 【映画と俳句   遅足】より

俳句の基本的な方法は2つ。一物仕立てと取り合わせ。

 いきながら一つに凍る海鼠かな

 菊の香やならには古き仏たち

いずれも芭蕉の句で、海鼠の句が一物仕立て、菊の香が取り合わせ。

俳句の命である発見という点についていえば、一物仕立ては、詠まれたことに発見があり、

取り合わせは、取り合わせることによって発見が生まれることでしょうか。    

ソ連映画の巨匠・エイゼンシュタインは、制作技法としてモンタージュ理論を唱えたことで有名です。モンタージュ理論とは、映画のカットとカットを組み合わせることによって新しい意味や美を作り出す技法のことで、代表作に、ロシア革命を題材にした戦艦ポチョムキンがあります。彼は日本文化にも関心を持っていました。

俳句からモンタージュ技法を学んだと言われています。

彼がモンタージュ的な俳句としたのは

 かれ枝に烏のとまりけり秋の暮  芭蕉

 名月や畳の上に松の影      其角

 夕風や水青鷺の脛をうつ     蕪村

 明け方や城をとりまく鴨の声   許六

いずれも取り合わせの句です。    

かれ枝に烏のとまりけり秋の暮  芭蕉

この句の読み方。

① 枯れ枝に烏が止まっているのを見て、秋の暮れだなあと思った。

② 秋の夕暮れ。気が付いてみると、枯れ枝に烏が止まっている。

どちらなんでしょうね?

① はズーム・バック ②はズーム・インの手法ですが。長谷川櫂さんの読みは、一億人の俳句入門(長谷川櫂)に。