相馬遷子逝く
http://sekiryusha.blog28.fc2.com/blog-entry-16.html 【山河慟哭 -相馬遷子-】より
冬麗の微塵となりて去らんとす 相馬 遷子
相馬遷子が肝臓癌のため67年3か月の生涯を閉じたのは、昭和51年1月19日だった。
私は、50年11月30日(日)、入院中の佐久総合病院西病棟7階の病室に遷子を見舞った。面会謝絶の病室へよく通してくれたものだと思うが、入口には「面会謝絶」の札が掛かり、遷子はひとりベッドに横たわっていた。その日、国鉄の大規模なストライキのため、交通機関はほとんど麻痺状態だった。
カーテンの引きはらわれた大きな窓いっぱいに冬枯れの佐久平が広がっている。雪を冠った浅間山と銀色の帯を打ち延べたように光る千曲川。
衰弱の激しさは一目瞭然だった。逡巡する私を気遣うように、遷子はしずかに言う。
「昨日は福永耕二さんが来てくれました。佐久は、いまごろがいちばんいい季節です。佐久の冬景色を楽しんで帰ってください。角川源義さんとは、長い手紙の往復を三度やりとりして、和解しました」
遷子執筆の「現代俳句月評」の、歯に衣きせぬ源義批判の一文は、当時、俳壇の話題となった。遷子から「不都合ならば書き直してもよい」との電話をもらったが、原文どおり雑誌「俳句」に掲載した。遷子・源義のあいだに、批判と反発と、そして和解のあったことに私は安堵した。詳しい経緯は省くが、結果的には、遷子の厳格な批判精神と、これを是とする源義の寛容が印象づけられることとなった。
「このように黄疸が出ると、肝臓癌の末期症状なのです。自分では胃癌のことばかり心配していて、肝臓癌だったとは晴天の霹靂でした。取り返しのつかないことになりました」
遷子は昭和49年4月、胃癌の手術をうけている。開業医として多くの重症患者をみてきた遷子は、冷静に自らの病状を説明した。
「取り返しがつかない」という言葉がこんなに重く胸に響いたことはなかった。取り返しのつくことで思い煩う愚かさのくりかえしだったことを改めて思う。死という縮命以外に、取り返しのつかぬことなどないことを、遷子は教えてくれた。
まっしろに乾いた唇に湿らせた脱脂綿をあてながら、柔和な表情を崩さない。
「食欲のことを医学用語では食思というのですが、食思がなくなったときが人間の最期なのです。犬や猫も、最期には食べものを受けつけなくなる。いのちの最期はみな同じです」
句集『山河』(昭和51、東京美術)より。
梅雨深し余命は医書にあきらかに 遷 子
露燦と諸刃の剣の薬飲む
入院す霜のわが家を飽かず見て
冬青空母より先に逝かんとは
霜天や食絶ちて死すはいさぎよし
雪嶺よ日をもて測るわが生よ
死は深き睡りと思ふ夜木枯
病急激に悪化し、近き死を覚悟す
死の床に死病を学ぶ師走かな
わが山河いまひたすらに枯れゆくか
わが生死食思にかかる十二月
間近に迫った死への思いと、絶望の渕での精神的葛藤のなかで、自らの句境を深めていることに驚嘆するばかりだ。死を見つめつつも、無為と空費に終わってしまうのが病者のつねだろう。遷子の強靭な創作心は、精勤と自励とのたえざる句作体験の深化によってもたらされたものだ。
遷子第一句集『山国』(昭和31、近藤書店)を古書肆で入手したのは学生時代のこと。いまも愛蔵している。『雪嶺』(昭和44、竹頭社)は署名本をいただいた。「俳句」編集担当のころは、細字の万年筆で読後感を記したハガキをことあるごとにもらった。
積年の感謝の気持ちを述べて、後ろ髪引かれる思いで病室をあとにした。
1月22日、佐久市野沢の古刹、時宗の開祖一遍上人初開の道場・金台寺での葬儀の霊前には出来あがったばかりの『山河』が供えられていた。
寒気すさぶ浅間颪が本堂の板戸を鳴らし、遷子を悼む山河慟哭の声とも私にはきこえた。
『山河』あとがきの最後に、「種々啓発をうけた石田波郷氏の霊に心馳せつつ後記の言葉としたい。/昭和五十年一月」とあるのが、格別こころに沁みる。作品の評価や一身の去就に迷ったとき、亡き波郷に物問うこともあっただろう。遷子が貫いた凛乎たる文学精神は、心友との黙契でもあったように思われる。
最後に、句集『山国』より愛誦句を引く。
梅雨めくや人に真青き旅路あり 遷 子
山中に河原が白しほとゝぎす
あをあをと星が炎えたり鬼やらひ
高空は疾き風らしも花林檎
風に聞く雪解山河の慟哭を
入りし日が裏よりつゝむ雪の嶺
百舌鳴くや妻子に秘する一事なし
夕凍みに青ざめならぶ雪の嶺
明星の銀ひとつぶや寒夕焼
地のかぎり耕人耕馬放たれし
読みすすむにつれて、こころ澄みゆき、洗心浄化の境地にいる幸福感を味わう。自然諷詠と境涯性という永遠の課題の一つの到達が、遷子俳句の世界であったことを再確認するのである。
永訣36年
寒晴れの佐久ぞ恋しき遷子の忌 赤榴子
雪嶺の光や風をつらぬきて 相馬遷子 新潟県・越後湯沢
https://weekly-haiku.blogspot.com/2018/12/19.html 【BLな俳句 第19回
関 悦史『ふらんす堂通信』第154号より転載】より
黄泉も又暖かならむ君ありて 能村登四郎『有為の山』
「相馬遷子逝く」の前書きを持つ四句のうちの一句目で、この「君」とは相馬遷子のこと。
相馬遷子は長野の医師で俳人。登四郎と同じく水原秋櫻子に師事した「馬酔木」同人で、石田波郷の「鶴」同人でもあった。〈冬麗の微塵となりて去らんとす〉が辞世の句として知られる。
この頃、登四郎自身も胃潰瘍で手術、入院しており、句集のなかではこの四句後に退院したらしい句〈人の世に戻りての息また白し〉が出てくる。遷子が死んだのが一九七六年一月十九日。登四郎が退院したのが二月なので、病床から詠まれた追悼句であったようだ。
相当に気がめいる状況での訃報だったことになるが、句の言葉は美しい。言葉にしていく際に、認識を変えていくことによってしか得られない豊かさを実現することが詩的言語の役割なので、この句もその一例であるといえる。
寒いさかりであるはずの一月に「冬麗の微塵」となって消えた遷子に寄り添うに、「黄泉も又暖かならむ」と暖かさをもってし、その理由が「君」がいるからだという。ただ故人を慰めているというよりは、もっと踏み込んで、登四郎自身も遷子のいる黄泉にいずれ行くであろうことを思い、そこでの清らかな再会を期待しているようである。
『蒼穹のファフナー』というアニメが十年以上前にあり、そこでは少年たちの肉体が結晶化し、砕け散って死ぬという特異な死に方のビジョンが示されていた。
遷子の「冬麗の微塵」や、それを介しての登四郎との想像上の再会のビジョンに少し通じるところがあるが、アニメ作品での破砕死が、とりかえしのつかない痛切な出来事の表象であったのに比べ、遷子の「冬麗の微塵」は浄化の色が濃い。その浄化され、消滅した遷子に、ふたたび人の身体のイメージを取り戻させるのが登四郎の句で、光そのものになりはてたような遷子に「君」として認知できるまとまりを与え、暖かい黄泉へと誘いこむ。かなり親密な、人臭い幸福さのイメージにまで引き戻されているあたり、残された登四郎側の、まだ整理がつききるには程遠い心情というふうにも取れる。
なお、この連作四句の二句目には〈死顔の紅顔信ず冬つばき〉という句が並ぶ。
「紅顔」といえばまず「美少年」に結びつく形容だが、実年齢がいくつであれ、登四郎にとって遷子は「紅顔」であった、というより「冬つばき」のような「紅顔」でなければならない存在だったのだろう。「信ず」の一語が、登四郎のそうした思いを担っている。
男壮りのすぎし気配の雲の峯 能村登四郎『冬の音楽』
「男壮りのすぎし」は自分のこととも、「雲の峯」のこととも取れる。
伝記的にはこの句が詠まれた一九七九年には登四郎は六八歳を迎えていることもあり、まずは前者と取りたくなる。盛んな雲の峯を見上げながら、自分にもかつてあのような時期があったと、やや淋しく懐かしんでいる自愛の風情となる。ただし、そう取った場合でも、ありきたりの回想や郷愁の句とはやや異なる。自分の体験ではなく、身体に執しているからであり、またその身体への顧慮も具体的な体の部分などではなくて、精気において捉えられているからである。
この場合、男壮りのすぎたらしい語り手の身体を、精気みなぎる雲の峯が圧倒するような力関係となる。BL用語でいえば「下剋上」風ということにもなる。
強いて性愛的なものに結びつけなくともよい、自分の身の衰えと自然の運行を取り合わせて対照させただけの句ではないかと取ることももちろんできるのだが、例えば芭蕉の〈この秋は何で年寄る雲に鳥〉が直截に「年寄る」という認識を詠んでいるのと見比べるとき、加齢からすらもまず「男壮り」なる語を引き出し、しかもそれがすぎたことすらも断定はせず「気配」なる語と結びつけてしまうあたり、登四郎句ならではの色気へと大きく重心が移っていることは隠しようもない事実なのだ。
衰えきっているわけではない。いまだ、さかりをすぎた「気配」のうちに留まる身体は「雲の峯」に迫られることで、まだふんだんに残る色香を引き出されもするのである。この「雲の峯」は芭蕉句の「雲に鳥」のような、老いをつきつける冷厳な自然の運行といったことには主眼がない。「男壮りのすぎ」た身体との間に照り、艶を組織するために現れているのである。まさに男壮りであり、羨望をそそる「雲の峯」に迫られるという力関係を形成することになるのであれば、「男壮りのすぎ」ることも決して悪くはない。そうした理路がひそんでいることが、この句の自愛の雰囲気につながるのである。
では逆に「男壮りのすぎし気配」が自分ではなく、「雲の峯」にかかる形容であるとしたらどうか。
この場合も「男壮り」は決して「すぎ」きったわけではない。むしろ、わずかな衰えに着目されることで、まだまださかんであるという面のほうが強調されることになる。何といっても季語「雲の峯」なのだ。
壮年たるべき「雲の峯」に兆したわずかな衰えは、圧倒されるような一方的な関係から、親しく手をさしのべられるような関係へと力の配分を変えてしまう。この場合も、衰えた「気配」が語り手と雲の峯を、より親密な関係へと引き込んでしまうのだ。
そう取ると隠微な関係性ばかりを探った句と見えてしまいかねないが、衰えているのが語り手と取るにしても「雲の峯」と取るにしても、全ては夏のまばゆいばかりの空気のなかでのことある。
高階に青年と見る涼夜景 能村登四郎『冬の音楽』
「高階」は念のための辞書を引くと、姓の高階氏と、あとは地名くらいしか出てこないのだが、俳句では単なる高層階の意味で使われることが多いようだ。
その意味であれば句意は明瞭で、高層階から涼しい夜に青年と夜景を見ているという、それだけのこととなる。
それだけのこととはいうものの、やはり何か違和感のようなものは残る。登場人物としては、語り手と「青年」の二人だけしかいないらしい。女性と見ているならばともかく、若い男性と二人きりで夜景を眺めるという事態がそうあるものなのか。
いや、そういう事態は、べつにあってもいい。
しかしそれが「友人」でも「部下」でもなく、そうした社会的関係から引きはがされたただの「青年」として現れたとき、わずかながら登四郎句特有の色気がさしこんでくるのである。「青年」とはまず何よりも外見上、実年齢上の若さを示す語であり、そこからは、語り手といかなる関係を持っているとも知ることのできない、若々しい身体のみが立ち現れるのだ。二人きりで夜景を見るというドラマじみた状況が、相手を「青年」にしてしまったというべきか。
その関係の不明瞭さはそれとして放置したまま、二人は地上を離れた高みに涼しく夜景を愛でている。
人の身のままでありながら、半ば天界に入っているような風情でもある。
ことによったらこの青年と語り手の間には何の関係もなく、たまたまマンションのベランダに夜景を見に出てみたら、別室からも知らない若い男が出てきていて、青年のほうは全く気付いてすらいないのを、妄想的に句のなかに巻き込んでしまったといった程度のことなのかもしれないのだが。
曙色となり若者の初湯出づ 能村登四郎『冬の音楽』
これまでに取り上げた登四郎句のなかに〈夕焼けや濡れ緊りたる海士の褌〉とか、〈シヤワー浴ぶ若き火照りの身をもがき〉とか、〈月ありて若さを洗ふ冬の僧〉というものがあり、裸詣りの一連もあった。
海であれ、シャワーであれ、行水であれ、男の体が濡れたら詠まずにはいられなくなるようである。
さてここでは「初湯」である。
今まで水は何度も出てきたが、意外なことに、温かい風呂というのは初めてなのではないか。
「褌」とか「裸」とかいったフェティッシュで断片的な肉体の捉え方ではなく、「若者」というキャラクター付けで、一人の人間まるごとのまま描かれるケースも、水と絡めた句においては、あまり見られなかったのではないか。
温まって初湯からその身を出した「若者」は、「赤く」でも「ピンク」でもなく、「曙色」となる。
これは温まって赤らんだ皮膚の形容ではなく、大浴場における朝湯で、浴槽から出るなり、若者の身が、射し入る朝日に包まれ、染め上げられたということなのかもしれない。「曙色」がただの比喩的な言い方であった場合、「初湯」と少々近すぎ、どちらもある時間の枠の初めをあらわす言葉であることから、「若者」の若々しさとまでハレーションを起こしてしまって、一句全体の像がややぼやけ気味になる。
そう取ったとしても、この句が若々しく、めでたいイメージが並べられることから成っているという事情にはさほど変わりがない。湯のなかにたゆたって、その屈折率ゆえにぼやけていた「若者」が、不意に立ちあがり、足を踏みしめた、はっきりした肉体として、その全てを視点人物の前にさらした、液体から固体に相変化したかのような瞬間は、初日そのもののように輝かしい。