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相馬遷子を通して戦後俳句史を読む

2024.06.21 08:05

https://shiika.sakura.ne.jp/sengohaiku/souma/2012-01-20-5348.html 【戦後俳句史を読む (19 – 1)- 相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(1) –】より

はじめに

「戦後俳句史を読む」は、「戦後俳句を読む」を補完しながら新しい戦後俳句史の構築を目指したいと思ったものであるが、あまりにも壮大なテーマであるために参加者一同まだ全貌をとらえ切れていない。特に一人が10年かけて取り組むべきものを、毎回読みきりにしようとするのは無理難題かもしれない。ただ言ってみれば、「詩客」のリレー時評(週更新)の<俳句時評>を、対象を一気に戦後65年にまで広げたものと考えてみれば多少執筆は楽かもしれない。<俳句時評>がぴちぴちの若手が若い感性で書いているのに対し、これは甲羅に苔の生えた豈の同人たちが仙人のような英知を結集して、しかし若手より過激な歴史を書くことになるであろう。

とはいえ、切り替えのために、「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会(仲寒蝉編)の元になった5人の回答があるので、まずはそれから紹介しておこう。ちょっとした、相馬遷子を材料にした歴史発見とみてよいかもしれない。

参考:『相馬遷子 佐久の星』

筑紫磐井①

1.遷子の俳句の特色についてどう考えるか?(題材、文体など)

筑紫:風景俳句(戦後の馬酔木高原派も含め)、生活詠、行軍俳句、開業医俳句、そして療養俳句と分けてみたときに最も関心を持ったのは開業医俳句であった。独自の俳句だからであるし、遷子が住んだ長野県は独自の地域医療が見られた意味でも題材自身が独自であった。それ以外の俳句はいくらでも同様の俳句を作ることのできた人があり、遷子とそれらの人は程度の差でしかなかったように思う。

その意味で、遷子の開業医俳句を引き継いだ者はいなかったし、独自の地域医療の問題が解消した時代からは遷子自身の開業医俳句も消えてゆく。期限限定、地域限定の俳句であった。しかしこうした限定された(行ってみれば極限の)俳句であったからこそ、独自の俳句が生まれ、それは普遍的価値を持った文学へと昇華しているのだろうと思う。

我々の『相馬遷子 佐久の星』がこれほど注目を受け、すでに売り切れ、さらにたくさんの問い合わせが集まったためすでに邑書林が9月中に新訂版の発刊を宣言したのは予想外の驚きである(実際刊行できるかどうかは知らないが新聞で予告したので書いておく)。これから、新しい俳句を見通す上で、歴史に埋もれてしまった俳句の流れを知っておくことは重要である。

2.遷子と他の戦後俳人の共通点についてどう考えるか?

筑紫:戦後俳句の理解のためには、沢木欣一、能村登四郎、金子兜太らが行った社会性俳句とは別の、より広い社会的な志向を持った俳句というコンセプトを定めてみる必要があると思っていた。およそ文学に志を持つもので、社会に関心のない作家などいないからであるが、「社会性俳句」という概念は社会性俳句以外のそうした俳句を切り捨てる意図を持っているように思う。無視されたそれらの俳句は、しいていえば、「社会的意識俳句」と呼んでもいいだろう。戦後俳句を読み解く中で、「社会性俳句」ではない、歴史に埋もれた「社会的意識俳句」を再発見する必要があると思う。

区分的にいえばもちろん「社会的意識俳句」の中に特定のイデオロギーや態度をもった「社会性俳句」がある。しかし、そうした「社会性俳句」の外側に、それとは別の膨大な「社会的意識俳句」が存在したのだということを忘れてはいけないのだ。

だから社会性俳句が廃れたとしても、社会的意識俳句は社会との関係においてなおその後も生き残っていた。社会的意識俳句は、俳句と社会のあり方の両方に根ざした本質的な俳句だからだ。

「俳句」編集長大野林火が行った特集「俳句と社会性の吟味」(昭和28年11月)は「社会性俳句」の中で語られるべきだが、その後の特集「揺れる日本――戦後俳句二千句集」(昭和29年11月)で戦後の政治社会風俗を項目分けして各誌に掲載された例句二千を集大成した企画は「社会的意識俳句」の中で捉えられるべきだ。例えば、「揺れる日本」に紹介された、

インフレの街の夜となり花氷 岩城炎 21・10

ラヂヲまた汚職をいふか遠雲雀 萩本ム弓 29・5

絞首刑冬の鎖はおのが手に 小西甚一 24・3

深む冬接収家屋の白き名札 草間時彦 28・6

桐咲いて混血の子のいつ移りし 大野林火 28・5

血を売る腕梅雨の名曲切々と 原子順 24・9

堕胎する妻に金魚は逆立てり 野見山朱鳥 24

嘆くをやめかの裸レヴューなど見るとせむ 安住敦 24・7

汝が胸の谷間の汗や巴里祭 楠本憲吉 28・9

小説は義経ばやり原爆忌 佐野青陽人 27・12

などの句は、何らかの意味で社会的意識を持った俳句ではあっても、社会性俳句ではなかったはずだ。もちろんこうした俳句は文学性を含めて厳密に検証されるべきだが、こうした背景を持つ俳句を我々が忘れてしまってよい訳ではないことは確かだ。社会性俳句がもし否定されたとしても、上に挙げたような俳句やそのモチベーションを社会性俳句と一緒に葬ってしまうことは危険である。

こうした「社会的意識俳句」の中で代表的な作家として相馬遷子をあげたいと思うのであるが、もちろんそのほかにも多数の社会的意識を持った俳句作家はいたはずである。かれらは社会性俳句作家ではないかもしれない。しかし、社会的意識を持って俳句を作っていた。こうしたもの言わざる多数の俳句作家は、「別の遷子たち」と呼んでもおかしくないように思う。

3.戦後の政治と遷子について述べよ。

筑紫:東大卒のインテリ程度の政治感覚は持っていたが、それを行動に結びつける意思はなかった。佐久に蟄居して、一方で生活の困窮と、自分の患者たちが置かれている環境の劣悪さから、東京の開業医たちとは違った鋭い感覚が次第に育っていったことは間違いない。しかしだからといって、取り立てて優れた思想になっているわけでもないし、困窮劣悪に対する解決策を提示できているわけではない。

のちの、6の質問にも関連するのだが、こうした政治的不満から自然へ対比する程度が高まっていったのではないか。開業医としての社会的意識とリリシズム、それこそが遷子にとって価値のあることだったのではないかと思う。


https://shiika.sakura.ne.jp/sengohaiku/souma/2012-02-17-6052.html 【戦後俳句史を読む (20 – 2)- 相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(3) –】より

投稿日:2012年02月17日 カテゴリー:戦後俳句を読む – 相馬遷子(筑紫磐井,仲寒蝉,原雅子,中西夕紀,深谷義紀) Tweet

中西夕紀 ①

1.遷子の俳句の特色についてどう考えるか?(題材、文体など)

中西:俳句の姿に人柄が反映されて、人生をそのまま描こうとしている俳句は古武士のような風合いがあると思う。そのことは創作、虚構という俳句における遊びをしていないことを示す。

俳句は気持ちを直接には表現しないのが一般的だが、遷子の場合、風景句以外は、気持ちを詠ったものが多く見受けられる。特に『雪嶺』では、社会を詠った句の中に、「憎む」「怒る」というあまり俳句では見かけない直情的な言葉が使われている。思ったことを散文のまま句形にして、きちっと納めてしまう技があるように思う。文体としてあまり練れていないように感じられるのはこのためかと思われる。

揺籃時代は、秋桜子を真似た馬酔木の人らしい優美な作品であるが、戦争中から社会に目が向いくる。それが顕著になるのは『雪嶺』の時代で、医師俳句を展開し、独自の視座を持って描いている。遷子が遷子らしい文体になった時期である。『山河』になると、療養俳句という波郷を始め多くの先行する俳句作品があったが、自身の書かざるを得ないという欲求のもと、死へ向かう自身を題材として描いているものと思う。死は一度限りであれば、誰にとっても人生最後のドラマになるわけで、創作のなかった遷子の、創作意識をこの時期に見るように思う。

2.遷子と他の戦後俳人の共通点についてどう考えるか?

中西:遷子が入会した昭和10年代の「馬酔木」は、俳壇で革新的な役割を果たしてきた時期ではなかろうか、そう考えると、遷子は「馬酔木」の同人達の影響を受けているだけで、十分に革新的だったのではないか。

時局を詠う、生活を詠う、美しい風景を詠う、すべて馬酔木の中にあったものではないかと思われる。遷子は「馬酔木」を通して、戦後俳句と間接的に繋がっていた、だから消極的な社会性俳句も理解できるように思う。

当時の結社の同人は、今のような超結社の句会など考えられないほど、結社に縛られていたのではないだろうか。選者の選が絶対的であったし、結社ごとの色分けができていた時代だったことも考慮しなければならないと思う。

3.戦後の政治と遷子について述べよ。

中西:遷子が政治の句を詠んでいるのは少ない。おそらく新聞やテレビ、ラジオで知り得たニュースから、当時の内閣を批判したものが目に付くぐらいである。

そしてそれらは『雪嶺』に集中している。戦後という期間は昭和何年頃までを言うのだろうか。昭和31年7月の経済白書の第一部総論の結語に、「もはや戦後ではない」という経済企画庁調査課長の後藤誉之助の文章が載っていることを、半藤一利の『昭和史』は揚げている。しかし、一般国民にとって、戦後はもっと長かったのではないだろうか。

「人の言ふ反革命や冬深無む」は昭和31年のフルシチョフによるのスターリン批判だろうか。「誰がための権力政治黒南風す」「夏痩の身に怒り溜め怒り溜め」は、ブログで原さんが、当時の政治的な事件や安保反対デモの樺美智子さんのことを書かれていたが、岸内閣の安保改定の焦りと独断が、国民の不安を煽ったようなところがあり、安保反対デモは昭和35年5月19日の安保改定批准の強行採決以後ますます激しくなったのを、マスコミは連日のように報じていた時の句だろう。今回の震災でも言えることだが、ショッキングな場面を連日テレビ画面で見せられると、人はストレスが心の深層にまで浸透してしまうようだ。当時、国会ニュースの岸内閣の真夜中の採決や、デモ隊と警察の衝突などの映像がどのくらい国民にストレスを与えたか。遷子も「怒り」というストレートな反応を示している。が、あくまでも一般的な受け止め方だと思う。

また遷子自身が何らかの形で加わった政治運動の句も一句あった。多分医師会の陳情だろう。「会議陳情酒席いくたび二月過ぐ」がある。

4.戦後の生活と遷子について述べよ。

中西:戦後を終戦後5,6年の期間として答えたいと思う。

戦中に肋膜炎を発病し、本土へ送還された遷子は、函館の病院の内科医長の職に就く。当時の内科医長はどのくらいの生活ができたものか。当時斉藤玄は病院の医長室へ遷子を訪ねている。遷子には病院に職務室があてがわれていたようだ。戦場から疲れて帰って来たといっても、妻子を養わなければならず、病気と仕事の折り合いをつけての勤めだろう。しかしその後、この病院勤めを切り上げ、故郷佐久での開業に踏み切ったことは、健康上の理由で、東大医学部を除籍したことを表すのではないだろうか。病院勤めは東大医学部からの派遣として行っていたものではないかと思われる。それだから、佐久で開業した遷子の句に、「百日紅学問日々に遠ざかる」「蝌蚪みるや医師たり得ざる医師として」「故郷に住みて無名や梅雨の月」などの句があり、大学研究室を断念したことの悔いが燻っているような印象が長く続いていたのではないか。戦争がなければ、肋膜炎にはならず、或いは大学に残れたかもしれないのである。

ともあれ、弟愛次郎を誘って、内科と外科の医院を開業する。「四十にして町医老いけり七五三」「裏返しせし外套も着馴れけり」という句が、開業してからの数年にある。医師が古い外套を裏返しにして着ているというのは、当時のかなりの困窮を物語るものである。開業はしたけれど、患者も貧困にあえぎ、治療費も稼げなかった時期なのではないだろうか。

5.家族・家庭と遷子について述べよ。

中西:遷子の俳句から、良き家庭人だったことが窺える。『山国』に「百舌鳴くや妻子に秘する一事なし」という句があり、明治生まれの潔癖さが遷子にはあり、この句が遷子の全句の中にあって、家族への愛情表現の最たるものだと思う。句の調子としても、気骨ある遷子の高い精神を描いた他の作品と同列に並べられることができるものである。

『雪嶺』には、息子を描いているものに、親の本音が出ている句が見られて、遷子も世の父親と変わらない姿を見せている。「かすむ野に子の落第をはや忘る」「突如たる子の反逆や冬旱」「三月尽遊学ずれの子が戻る」など長男次男の姿が見られ、実寸大の親子関係が見て取れる。その中で「帰省子に北窓よりの風青し」があり、「青し」に注目した。何故かと言うと『草枕』の若い頃の作品に「梅雨めくや人に真青き旅路あり」を思い出したからだ。「真青き」には将来への不安とともに、まっさらな手付かずの美しい未来を思わせるものがある。子に向けて書いた「風青し」にも青年の前途を祝福するものが含まれている。人の観念の本は青年時代から変わらないものだろう。遷子の「青」に寄せる清澄な思いは生涯変わらなかったのではないか。

その他に、次子東大合格の前書の「冴え返る星夜駆け出す師の下へ」など二句、「秋の苑子を嫁がせし父歩む」娘の結婚七句というふうに愛情いっぱいの手放しで喜ぶ良き父の姿もあり、これらの句は句集に華を添えている。

しかし、医師遷子を主人公に成り立っている『雪嶺』作品群の中では、かなり地味な存在のように思う。家族詠としては、『山河』の死に到る父を描いた作品が地味ながら目を引く。家族を描いているものでは死の前後の父を描いたものが良かったと思う。


https://shiika.sakura.ne.jp/sengohaiku/souma/2012-03-09-6658.html 【戦後俳句史を読む (21 – 2)- 相馬遷子を通して戦後俳句史を読む(4) –】より

投稿日:2012年03月09日 カテゴリー:戦後俳句を読む – 相馬遷子(筑紫磐井,仲寒蝉,原雅子,中西夕紀,深谷義紀) Tweet

【深谷義紀】②

6.自然と遷子について述べよ。

深谷:戦後俳句史を読む (21 – 1)で述べたことの繰返しになるが、馬酔木「高原派」の純粋自然賛歌とは作風は大いに異なる。もちろん自分が暮らす佐久の山々や風土に対する、国誉め的な作品もあるのは、重い作風の作品が多い中にあって、ふと心が和ませられる。

7.職業・仕事と遷子について述べよ。

深谷:遷子が地域医療の最前線に立って患者やその家族と接してきたことを抜きに、遷子俳句は語れないだろう。医師としての目を通じて詠まれた作品は、何よりも生と死のせめぎあいの切迫感を読む者に伝えてくれる。

他方、僻地医療に身を投じた自身の立場については、様々な思いがあった筈であり、作品でも垣間見ることができる。東京の大学などに籍を置き、最先端医療の研究に従事したかったという思いは後年まで抱え続けていたと思う。

8.病気・死と遷子について述べよ。

深谷:患者の病気や死を対象とした作品は、医師俳句として結実したと言える(上記7.参照)。

一方、自身の病気については、晩年の闘病俳句となった。かつて福永耕二が記したとおり、馬酔木会員たちは胸が詰まるような思いで毎号の投句を読んだというが、今もその迫真感は色褪せていない。そして、その最後に詠まれた「冬麗の微塵となりて去らんとす」は文字通りの絶唱であり、まさに古武士の最期を見るような感すらする。あまりにも見事な人生の幕の引き方であり、最後までその美学(生き様)を貫徹したと言えよう。

9.遷子が当時の俳壇から受けた影響、逆に遷子が及ぼした影響について。

深谷:どちらかと言えば、自己に対する俳壇での評価など気にも止めず、俳壇とは距離を置いていたと思う。晩年の角川源義とのやり取りは、その証左だろう。

逆に、俳壇への影響もあまり大きなものとは言えず、今日まで余り鑑みられることがなかったのではないか。天爲200号記念特別号で筆者が遷子を採り上げることになったときも、「これまであまり顧みられることがなかったが、忘れがたい(あるいは忘れるべきではない)作家12人」の一人としてであった。

10.あなた自身は遷子から何を学んだか?

深谷:遷子研究を始めるにあたって、「自分の俳句の作り方が変わった」と述べたことがある。今となっては些か気負った発言だったと思うが、言葉遊びではなく、自分の想いを作品にしたいという気持ちが強くなったのは事実である。それが、どんな作品となるかは、これからの重い課題である。