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遷子を読む

2024.06.21 08:10

https://haiku-space-ani.blogspot.com/2009/03/blog-post_9367.html 【■遷子を読む

はじめに】より

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井

相馬遷子――明治41年10月15日長野県佐久市野沢生れ、昭和51年1月19日没。本名富雄。東大医学部在学中に水原秋櫻子に指導を受けて「馬酔木」に投句、戦後、故郷佐久市にて医院開業、佐久の自然と医師としての身辺を多く詠んだ。昭和44年に俳人協会賞を受賞、句集に『草枕』『山国』『雪嶺』『山河』がある。

筑紫:この会は、現代俳句史の中で、没後論じられる機会が少なくなっている相馬遷子を再評価し、その作品を研究しようということで発足しました。相馬遷子の一句一句の作品鑑賞を中心に、いろいろな視点から相互批評を進めたいと思います。

研究会は、いろいろなおりに相馬遷子への関心を表明した、中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井をメンバーとしてとりあえずスタートすることとします。本研究会にご関心のある方は筑紫と相談していただければ幸いです。

本来は一堂に会して語り合うことが望ましいのですが、メンバーが遠隔地に居住し、多忙であるのと、記録を文字の形で残す必要があるためにメール等でやりとりし、記録は適宜ブログの「―俳句空間―豈weekly」に連載することとしたいと思います。

第1回はメンバーの簡単な略歴紹介と、相馬遷子との関係などを語っていただこうと思います。また、巻末には、各人がこれから取り上げてゆく各人の遷子十句選を掲げておきました、ご参考にしてください。それでは、中西さんから自己紹介をお願いします。

中西:馬酔木系の「鷹」に長くおりましたので、相馬遷子は「馬酔木」の次代を嘱望されていたのに、早く亡くなってしまった人ということを聞いておりました。しかし、今まで作品に会うこともなく来てしまいました。筑紫磐井さんの講演を聴きに行って、相馬遷子の俳句と俳句への姿勢など伺い興味を持ちました。高い精神性と風土を描いている作品に出会い、「馬酔木」の相馬遷子という枠を離れて、見て行きたいと思いました。そこで相馬遷子の地元の俳人、鷹新人会で一緒だった窪田英治さんに資料の提供を受けて読み始めようとした、ちょうどその時、この研究会のお話が舞い込んできました。メンバーのなかで一番相馬遷子を知らない者で、ついていけるのか心配ですが、長い間、どんな人だろうと思っていた相馬遷子という人にじっくり向かい合う機会をいただけて嬉しく思います。

筑紫:中西さんは、昨年創刊されたばかりの新雑誌「都市」の主宰でもあります。お忙しい中の参加をありがとうございます。「岳」にもおられ、長野県松本市に一時期住まれたということで、遷子の住んだ(佐久の)環境にもご理解が深いのではないかと思います。

原:私の俳句の出発は加藤楸邨の「寒雷」からで、現在は矢島渚男主宰「梟」に所属しています。ご承知のように楸邨の出自は「馬酔木」ですが、当時すでに独自の作風によって一家をなしていましたので、「馬酔木」につながる作家たちをあまり意識せずに過ごしてしまいました。

遷子との出会いは、一気にのめり込むというようなことではなく、作品を断片的に眼にしているうち次第に気になってきたというものです。相馬遷子が亡くなったのは私が俳句を始めて数年経った頃のことでした。人からの口伝えで「冬麗の微塵となりて去らんとす」の句を覚えています。

最近になって、少しまとめて読んでみようという気になったのは、風土との関わりが表現上にどのように現れているかに興味を持ったことが大きいのですが、まず第一に、遷子の清潔な作風に惹かれています。

筑紫:原さんは、皆さんご存知のとおり第51回角川俳句賞(平成17年)を受賞されています。先生の矢島渚男氏は、ご自身が大学のころから交流され、相馬遷子の句集にも協力、最期を看取った遷子の最大の理解者ですから縁が深いことはいうまでもありません。

深谷:「天爲」の深谷義紀です。俳句を始めて二十年ほど経ちますが、専ら「天爲」の中だけで活動してきましたので、今回のお誘いは大変嬉しく、思い切って参加させていただきました。

相馬遷子との出会いは二年ほど前になります。「天爲」の発刊200号記念特別号で「検証・戦後俳句」と題して、これまであまり注目されてこなかった俳人12人を採り上げることになり、小生に相馬遷子の担当が回ってきました(ちなみに、その際には筑紫さんから貴重な資料のご提供を受け、大いに助けられました)。

そこで初めて相馬遷子という俳人に正面から向き合うことになったわけですので、そういう意味では全くの偶然、強いて言えば有馬朗人主宰と対馬康子編集長の思し召しによるものなのですが、この出会いは小生の句作スタンスを抜本的に変えてしまうことになります。それまで気の向くままに句を作り続けてきたのですが、やや大袈裟に言えば、それ以降、自分自身の心の持ち様あるいは生き方を写すような句を書きたいと思うようになっていきました。それは、意識的にそうしたというわけではないのですが、そういう句でないと自分自身で満足できないようになってしまったわけです。

筑紫(補足):深谷さんの「相馬遷子論」は近年まれに見る優れた遷子論と言えます。インターネットでごらんになれますので是非お読みください。

→http://haikunet.info/soumasennsironn.html

窪田:窪田英治です。現在宮坂静生先生の俳誌「岳」で勉強させて頂いています。少し前から、中西夕紀さんと相馬遷子の句を読んでみようかという話をしていました。僕は、遷子の地元にいながらあまりよく知りませんでしたので、勉強になるなと気楽に考えてのことです。それに「高原派」という言葉に何となく憧れてもいましたので。

そんな時、夕紀さんからこの会にお誘いを受けました。メンバーのお名前を聞いて、正直尻込みをしました。幸い、句集『雪嶺』に深く関わった矢島渚男さんの直ぐ近くに住んでいますし、他に地元の遷子と直接交渉のあった方々にもお会いできる機会も作りやすいので、少しは皆さんのお役に立てるのではないかと、お仲間にいれて頂くことにしました。足手纏いになるかも知れませんがよろしくお願いします。

筑紫:窪田さんはたったひとりの地元の方です。最後に自己紹介を。私が「馬酔木」で俳句を始めた頃、遷子は元気に活動していましたが、当時それ程深い関心を持っていたわけではありません。その後、「沖」に移り、福永耕二から色々な話を聞くに及び、次第に関心が深くなってきました。耕二の一代の名品と言うべき評論「俳句は姿勢」は、もちろん耕二自身の俳句の思想を語っていますが、そこに登場する俳人は相馬遷子であり、「俳句は姿勢」を具現化する作家は相馬遷子であったのです。

昨年6月、現代俳句協会の「現代俳句講座」を担当したとき福永耕二について語らせていただいたのですが、調べるにおよび、水原秋桜子と相馬遷子が耕二にいかに決定的な影響を持っていたかということを痛切に感じました。

もっともそれに先だって、(深谷さんが触れられているように)「天為」200号記念のシンポジウム(平成19年5月)に小澤實氏と一緒に出させていただき、忘れ難い俳人と言うことで私は遷子と耕二をあげていますから、私の遷子贔屓はだいぶ以前からのことになるのですが・・・。

私は、今までどちらかというと、龍太とか虚子の研究をすることが多かったのですが、こうした「芸」とか「俳句性」に強い関心を持ちつつ、俳句でひたむきに人生や自然と向き合う作家たちも決して嫌いではありませんでした。実は正直言って、俳句とはダブルスタンダードであり、2つの基準の間を行ったり来たりすることで初めて力を得ているのではないかという気がしてならないのです。もちろんそうした作家として、加藤楸邨や社会性俳句を取り上げてもよかったのですが、定説のできあがった作家や運動よりは、数少ない仲間で、忘れられかけた作家をじっくりと研究してみたいという気が起こってきて、この会の呼びかけをした次第です。地道に長く続けたいと思いますのでよろしくお願いします。

読者もごらんいただいてお分かりのように、それぞれ独自の観点から遷子への関心を持つメンバーです。私は「関心を持つ」ことほど重要なことはないと思います。関心いない事柄は存在しないも同じことだからです。この会をご期待にこたえられるものとしたいと思います。

あっ、言い忘れましたが私は現在「豈」の同人です。

追記

「―俳句空間―豈weekly」第29号(3月1日発行)で、富田拓也氏が、「俳句九十九折(26) 俳人ファイル ⅩⅧ 相馬遷子」を執筆しています。管理人の高山れおなによれば、これぞ「豈weeklyシンクロニティの法則」だそうです。この「遷子を読む」でも参考にさせていただきましょう。現在の時代性に対して、相馬遷子が何らかの問題提起をしているのかもしれません。

http://haiku-space-ani.blogspot.com/2009/03/blog-post.html

相馬遷子十句選(第1回) ○印は重複選

中西夕紀選

元日や部屋に浮く塵うつくしき    『山国』

街中の溝川ながら雪解水

ほとゝぎす緑のほかの色を見ず

昼寝覚祭の音となりゆくも

墾道の深き轍や秋の蝶

往診の夜となり戻る野火の中

戻り来しわが家も黴のにほふなり

山国や年逝く星の充満す

農夫病む雲雀の籠に鳴かしめて

春の町他郷のごとしわが病めば

原雅子選

梅雨めくや人に真青き旅路あり  『草枕』

昼の虫しづかに雲の動きをり

あをあをと星が炎えたり鬼やらひ 『山国』

畦塗りにどこかの町の昼花火

山の虫なべて出て舞ふ秋日和   『雪嶺』

ストーヴや革命を怖れ保守を憎み

萬象に影をゆるさず日の盛

晩霜におびえて星の瞬けり    『山河』

雛の眼のいづこを見つつ流さるる

冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな

深谷義紀選

栓取れば水筒に鳴る秋の風      『草枕』

忽ちに雜言飛ぶや冷奴        『草枕』

山河また一年經たり田を植うる    『雪嶺』

梅雨晴るる家畜のにほひ土に染み   『雪嶺』

農婦病むまはり夏蠶が桑はむも    『山國』

銀婚を忘ぜし夫婦葡萄食ふ      『雪嶺』

寒うらら税を納めて何殘りし     『山國』

春の服買ふや餘命を意識して     『雪嶺』

わが山河まだ見尽くさず花辛夷○   『山河』

かく多き人の情に泣く師走      『山河』

窪田英治選

渓とざす霧にたゞよひ朴咲けり  『草枕』

雉鳴いて新樹一齊に雫せり   

熊野川筏をとゞめ春深し     

晝寝覺萬尺の嶺にわがゐたる(白馬岳にて 五句)

四十雀花咲く松に鳴き交す

語りゐし望に照らされ兵ねむる

くろぐろと雪片ひと日空埋む

うらぶれし冬にも心遺すなり   『山國』

山國の霞つめたし朝さくら

しづけさに山蟻われを噛みにけり

筑紫磐井選

汗の往診幾千なさば業果てむ   『雪嶺』

ころころと老婆生きたり光る風

筒鳥に涙あふれて失語症

ちかぢかと命を燃やす寒の星

隙間風殺さぬのみの老婆あり

ただひとつ待つことありて暑に堪ふる

病者とわれ悩みを異にして暑し

薫風に人死す忘れらるるため   『山河』

わが山河まだ見尽さず花辛夷○

冬麗の微塵となりて去らんとす  

          (以上<はじめに>終わり)

(参考)

冨田拓也15句選(「俳句九十九折」26より)

昨日獲て秋日に干せり熊の皮

梅雨めくや人に真青き旅路あり○

栓取れば水筒に鳴る秋の風○

山中に河原が白しほととぎす

明星の銀ひとつぶや寒夕焼

燃ゆる日や青天翔ける雪煙

深夜にて雪上を匍ふさそり星

ひとつづつ霜夜の星のみがかれて

音立てて日輪燃ゆる茂吉の忌

人類明日滅ぶか知らず虫を詠む

甲斐信濃つらなる天の花野にて

雛の眼のいづこを見つつ流さるる○

死は深き睡りと思ふ夜木枯

冬麗の微塵となりて去らんとす○

わが山河いまひたすらに枯れゆくか


https://haiku-space-ani.blogspot.com/2009/03/blog-post_28.html 【遷子を読む〔1〕】より

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井

冬麗の微塵となりて去らんとす  『山河』

筑紫:それでは、まず私の選んだ句から始めさせていただきたいと思います。

この句は、遷子の最晩年、昭和50年冬の句です。遷子の亡くなったのは昭和51年1月19日ですが、この句はその1ヶ月半前の11月26日に詠まれたものであることが句帳によって分かっています。遷子はあまり推敲をしない人なのですが、この句は、

冬麗に何も残さず去らんとす

を原案とし、表記の句に改められています。

この句は、句集『山河』の末尾から21句目の作品ですが、多くの読者には、遷子の絶句として受け取られています。例えば、福永耕二は「相馬遷子覚書」という長編評論(昭和51年6月「俳句とエッセイ」)を執筆していますが、その最後を締め括るのはこの句でありました。句集末尾の句は

わが生死食思にかかる十二月

ですから、『山河』は昭和50年中の作品で終了していることになります。ですから絶句といってもそう間違っていることにはならないと思います。最後の作品に価値があるのではなく、遷子その人を彷彿たらしめる句であるかどうかということだからです。そして、まさに遷子その人を彷彿たらしめているのがこの句であるのです。

遷子は無神論者であると思われます(「無宗教者死なばいづこへさくらどき」『山河』)。従って、死んだあとには、死後の世界も来世もありません。こんな虚無の中へ帰って行くのですが、にもかかわらず、「冬麗の微塵」という美しい終末を確信しています。ここらあたりは、「馬酔木」的な俳句の美への信仰というより、武士の風格のようなものを感じてしまいます。死後が何もないのなら、せめて自分の意志で粛然と死んでゆくというのは、とてもできないことながら羨望を感じてしまいます。すでに前回述べましたが、福永耕二の「俳句は姿勢」をそのまま引き受けたような句であると思います。

中西:この二句前に「病急激に悪化、近き死を覚悟す」とまえがきのある

死の床に死病を学ぶ師走かな

という句があります。医師ですから次はどうなるか自分の病状が分かっていたのではないかと思います。原句の「冬麗に何も残さず去らんとす」こちらはその時思った素直な気持ちではないでしょうか。戦争体験世代の明治大正生まれの世代は、死に格別なものを持っているように思うのです。家の父なども、昨年11月に亡くなったのですが、やはり医師でしたので、自分の死を知っていたようです。入院する前に手紙、記録類をすべて処分してありました。身奇麗に死にたいという願望を実践したのでした。この句も形あるものは残さないということかと思います。しかし、俳人の部分は句集として残りますね。この矛盾。しかし、この時はすべて消したかったのではないでしょうか。この「何も残さず」を「微塵となりて」に直したのは、やはり本物の俳人なのだと思います。直したことによって、詩が深くなって、ここに美が生まれました。この精神の高さが、相馬遷子の句として完成をみせていると思います。死に直面して、詩人の業が顕在化したと見ていいかと思うのですが如何でしょう。医師ですから今までに多くの死と対峙してきたはずです。ですから、自分に死が訪れたときどうするか、癌と知った時から少しずつ思い描いていたのではないでしょうか。この句は願望です。願望だからこその美しさなのでしょう。

原:生涯を締め括る句が真っ先に来ましたね。磐井さんに「遷子は無神論者」と言われてはっとしました。我々の大方がそうだと思いますが冠婚葬祭の時以外、神仏には無関心というのが普通ですし、ましてや遷子は医師ですから科学的認識の人でしょうしね。死に際して縋るものは無いわけです。だからこそ「微塵」となる、「微塵」でしかない、との覚悟が痛切にひびきます。と同時に、この一句だけ取り出して見ると、峻烈とさえ言いたいほどの意志を感じて近づきがたい思いにもさせられるのですが、たとえば、胃癌を発症した昭和49年の作、

わが山河まだ見尽くさず花辛夷

磐井・義紀両氏の共選でしたが、仮りに、この句と対にして眺めると遷子の郷土愛といいますか、郷土の自然への信頼とダブって伝わってきて、この「微塵」が自然に還る究極の相として、祈りのようにみえてきます。とはいえ、句集では掲出句に続いて、さらに切迫した状況が詠まれてゆくのですけれど。

中七部分の原案が「何も残さず」だったというのは今回初めて知りました。生まな心情の吐露を捨てる。最悪の体調のさなか凄い推敲をするものだと溜息が出ました。この表現の推移について、ご意見があれば伺ってみたいのですが。原句においては、この世に後ろ髪を引かれる思いが全面に出ているのに対し、成案は自分の死のあり方自体を詠んでいる。死という孤独を見据えた先に「微塵」が現れてきたと感じます。

深谷:いきなり最終楽章ですね(笑)。この句は、遷子の作品のなかで最も著名な作品と言えるでしょう。しかしそれ以上に、筑紫さんの発言にあるように遷子という俳人を象徴する作品だと思いますし、敢えて言えばこの一句を残すためにその俳句人生があったのではないかという気さえします。それほど印象鮮烈な句です。そして遷子がこうした境地に到ったのは死の間際ではなく、実はかなり以前から遷子は「自分の死」あるいは「死に様」というものを意識していたのではないかと思います。小生の十句選にも入れました

春の服買ふや餘命を意識して  『雪嶺』

は、遷子が五十歳の時の作品です。ちょうど今の自分とほぼ同じ年齢ですが、余りにも早過ぎる気がします。実際に逝去する18年も前です。若い頃に重い病を患った体験が影響しているのかもしれません。そして、もうひとつ

元日や部屋に浮く塵うつくしき  『草枕』

という句が戦時中函館での病院勤務時代にあります。冬日を浴びて、静かに室内に浮かぶ塵。独断を懼れずに言えば、この映像が40年後、死に臨む遷子の脳裏に蘇ってきたのではないかとも考えます。いずれにせよ、「死んだら富も名誉も一切関係ない。かつて自分が看取った貧しい患者達と同じように、静かにこの世を去っていくのだ」という遷子の覚悟を感ぜずにはいられません。

窪田:今回の「冬麗」の句に触発されて、医者である遷子が、老いや病気をどう詠んでいるのか知りたくなって、句集『草枕』から『山河』までの四冊から「病・老・死」に関係のありそうな句を抜いてみました。患者を詠んだ句は、『雪嶺』が最も多く他の句集では僅かです。遷子自身の病の句は、『雪嶺』までは次第に増えますがそれほど多くはありません。『山河』では急増し昭和49年・50年の作品はほとんど全てが病との戦いの句です。当然と言えば当然ですね。でも、こうして句を並べて見ると、遷子の病・老・死に対する態度というようなものがうっすらではありますが、見えてくる気がしました。大雑把に言えば、生々しい生への執着が薄れ(諦めかもしれません)山河あるいは宇宙へ帰っていくという一種のアニミズム的な思いへ移行していったように思えるのです。

桐の花人死す前もその後も  昭和45年

高空の無より生れて春の雲  昭和49年

の句があるように、遷子の中には自然、宇宙への畏敬のようなものが元々あったと思います。それが山河、自然の美を詠もうという遷子の作句態度に反映したのではないか。同時に

あきらめし命なほ惜し冬茜  昭和50年

などの句を読むと、人間相馬遷子の生々しさを思わずにはいられません。

一方、磐井さんの言われる「虚無の中へ帰って行く」ということもわかります。死を覚悟した遷子の詠んだ「冬麗の微塵となりて去らんとす」は、磐井さんの言われた「武士の風格」を確かに感じます。しかし、今回「病・老・死」の句を抜き出し並べて読んだことによって、遷子の人間らしい弱さと強さに思いが残り、すっきり「武士の風格」と言えなくなってしまったのです。そんなわけで、俳句をどう読むか、どう読んだらいいのかちょっと悩みました。

(参考)富田拓也(「俳句九十九折」26より)

B この句が遷子の句の中では最も有名なものであるのかもしれません。

A 自らの最期をこのように句に表現したところに、なにかしら作者の精神の剛さのようなものすら感じられますね。

B 冬の麗らかに晴れた日、その澄み渡った青い空の下、自らが細かい塵となってこの世界から去っていくということを、ごく自然なものとして捉えているように思われます。

筑紫:メンバーではありませんが、富田拓也氏の、「俳句九十九折(26) 俳人ファイル ⅩⅧ 相馬遷子」をこれからときおり引用させていただきます。いいタイミングで書いていただきました。

いきなり遷子最後の句を取り上げたので皆さん面食らっているようですが、句集の順番通り取り上げるよりはこの方が各人の関心にあわせて研究できるかと思ったためです。前号の10句選を見ても分かるように、ものの見事に各自の選は異なっていました。遷子自身の作品が皆に知れ渡っているわけでは無いということの他に、今回集った参加者の遷子への関心のあり処がそれぞれ異なっていると言うことを意味しているからかも知れません。

例えば、私の関心はおそらく次のような項目に集約されると思います。

①遷子は一流の俳人ではないのではないか。

②ないとしても、一流の俳人にないものがあるのではないか。

③われわれは、たった一人となったとき、俳句とどう向き合うべきか。

こうしたシリアスな質問に、虚子も龍太も答えてくれません。長年俳句をやってきたお蔭で、俳句の嘘や作者のポーズは何となく見抜けるようになった気がします、おそらくこうしたまじめな質問に答えてくれる作家は(楸邨や草田男でもなく)相馬遷子たった一人しかいないように思えるのです。

例えば、今回取り上げた句―――「何も残さず」を「微塵となりて」にあらためる心境は虚飾のように見えなくもありません。しかし、生涯の最後に残す1句のために俳人は俳句を作り続けるとしたら、この推敲はじゅうぶん分かるのです。というよりは、句の是非を越えて、かかる態度に粛然とせざるを得ないのです。

窪田さんの述べられている「遷子の人間らしい弱さと強さ」についてはまた改めて考えてみたいと思います。

冒頭に述べられた中西さんの御父君の体験談は、医師の持つこのような覚悟を身近に述べられていて貴重です。

                      (以上〔1〕終わり)



https://haiku-space-ani.blogspot.com/2009/04/blog-post_05.html  【遷子を読む〔2〕】より

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井

冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな

                 

              『山河』所収

原:昭和49年春、胃摘出手術ののち肝障害を併発した遷子は50年夏再び肝炎の悪化にみまわれています。

わが病わが診て重し梅雨の薔薇  『山河』

梅雨深し余命は医書にあきらかに  同

と自己の病状を分析しつつもなお

死病とは思ひ思はず夏深む  『山河』

と自問自答の明け暮れだったのでしょう。季節は容赦なく巡り、遷子にとって最後の秋が訪れています。

「冷え冷えと」の句は『山河』中、昭和50年秋季一連の冒頭に置かれています。死期を自覚した人の肉声を聞くようでしみじみつらい一句です。己れ一人の死を考えているうちはまだいい、けれど自分が置き去りにしていく大切な者たちを思ったとき、胸が締めつけられたに違いありません。遷子は家族を大切にしていた方のようですね。

冬麗の微塵となりて去らんとす  『山河』

のような句がある一方で、このように普通の人なら当たり前に抱くであろう感慨も詠まれています。静かな句です。この詩型に思いを預けて、抑制された一行から、声にならない慟哭が聞こえてきます。

中西:「冷え冷え」は「冷やか」という秋の季語の傍題なのですが、これはたぶん外気のこととして使われているというより、心理的に使われているのでしょう。句集の一句前は

汗の髪洗ふ頭蓋も痩せにけり  『山河』

で、一句後は、

熟睡して潔き目覚や草雲雀  『山河』

です。どうも、この句ができたのは、時期的にそんなに冷えるまでいっていなかったような気がします。遷子はこの「冷え冷え」に自分の不在感を強調したかったのではないかと思うのです。一家の柱である自分がいない不安な、重いうち沈んだ空気、この空気を言い表す「冷え冷え」なのです。自分の死に家族たちが直面する不安、そしてそんな家族を思う遷子自身の不安を描くのに、是非とも必要だったのでしょう。「思ふかな」の「かな」という切字も「思い」を強く引き出しています。「ひえびえ」「わがゐぬわがや」の「ひえ」「わが」という音の繰り返しが急き立てるような不安を感じさせます。

この時、遷子は何を思ったのでしょう。死を覚悟した時点で、死後の準備もそれなりにやられたのではないでしょうか。病院の引継ぎもあるでしょう。家族の生活もあるでしょう。しかし、この句はそういう実際の生活の心配というより、家族の気持ちに焦点が合わされているように思われるのです。自分の抜けた穴を見ているような、そんな気持ちだったのではないでしょうか。奥さんは体も弱そうですし。

深谷:「わがゐぬ」という措辞は、一次的には入院に伴う不在を指すのでしょうが、その先には死による家族との別離も視野に入っているのだと思います。

そうした二重構造がこの句に厚みをもたらし、読む者に遷子の静謐な哀しみを伝えます。

大袈裟な嘆きより、むしろこのような淡々とした表現の方が哀切の深さを訴えかけてくるということの代表例と言ってもいいでしょう。

窪田:原さんの鑑賞「おのれ一人の死を考えているうちはまだいいけれど自分が置き去りにしていく大切な者たちを思ったとき、」云々は、確かにそう思います。「自分のいなくなったあとの吾家を想像するだけで、あたりは一そう冷々としてくる。いずれこの家から自分は去ってゆく」(脚註名句シリーズ『相馬遷子集』 堀口星眠註 昭和59年 俳人協会発行)という場面を想像する時、遷子の中に広がる喪失感を思わずには居られません。それとともに、自分が遺していく者に対する愛惜の念はどれほど強かったか。病気の進行により家を去る時、再び戻ることがないと遷子は

入院す霜のわが家を飽かず見て

と詠みます。死期が近づくにつれ、自分を離れ他の人への思いが深くなっていったのでしょうか。

師恩友情妻子の情冬深む

かく多き人の情に泣く師走

と詠んでいます。昭和50年の一連の作品を読んでいると、遷子の病との戦いの様子がひしひしと胸に迫ってきます。遷子はその人柄通り、真面目に死と向き合っているという思いがしました。

筑紫:前回私が「冬麗の微塵となりて去らんとす」の句を取り上げたせいか、晩年の句が続いてしまうのかもしれません。読者には逆編年で続く点で読みにくいかも知れませんがお許し頂きたいと思います。ただ、遷子の人生は逆にたどってみることによって浮き彫りになるいい点もあるでしょう。

「冬麗」の劇的な句に続くと、「冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな」は散文的であり、抑制された調子は、しばしば見る療養俳句に近いと思います。少し違うのは、普通の闘病者が想像する内容は一種の空想や妄想のようなものかも知れませんが、遷子の場合は医者としての冷厳な眼があるように読めるのです。遷子自身は佐久周辺の患者(彼)とのつきあいの中で、「冷え冷えと彼がゐぬ彼が家」を沢山見てきたわけです。

大寒や老農死して指逞し  『雪嶺』

卒中死田植の手足冷えしまま  同

酷寒に死して吹雪に葬らる  同

凍る夜の死者を見て来し顔洗ふ  同

おそらくこれらの句の実証的な帰結として、自らに照らしたとき、「冷え冷えとわがゐぬわが家」はあり得たわけでしょう。「わが」と言いつつ他者を見る俳句特有の視点が感じられ、「冬麗」の句のような高調した句のしらべとは違ったおもむきとなっているのです。例えば、同時期であれば、

冷厳に病はすすむ虫の夜も  『山河』

病むわれの時冷え冷えと流れ去る  (句集未収録)

などは客観視しようとする点で共通するかも知れません。そしてこのような抑制をこそよしとする見方も十分理解できます。ただ、原さんの解釈のように「置き去りにしていく大切な者たちを思ったとき、胸が締めつけられた」という思いを感じ取るかどうかは微妙なところかもしれません。

【注……筑紫磐井】

前回述べた「遷子は一流の俳人ではない」は誤解を生じやすい言い方であったかも知れません。富田氏が、「俳句九十九折(26)」で引用している、「飯田龍太も、遷子の作品については「山河遼遥 ―『相馬遷子全句集』について」という文章において〈必ずしも生得詩才に恵まれたひととは思われぬ。〉と評しています」と同じことを言っているのですが、「一流の」が言い過ぎであれば、虚子や龍太のような「巧緻な」俳人ではないのではないか、と言いかえてもいいでしょう。現代の俳句は、一流巧緻な表現を求める傾向が強いようですが、それによって見失う世界や真理があります。それを俳句の外の人は「文学」と言っています。「文学」のない俳句もいいかもしれませんが、「文学」にたちかえる必要もあるのです。前回例に挙げた社会性俳句や加藤楸邨を我々は一流巧緻な表現で裁断してしまって、時代の評価は済んだと思っているようですが、大きな間違いでしょう。時代の流れは、現代の俳句を木っ端微塵とし、「文学」を復活させないとも限らないのです。二つの基準を常に謙虚に考えることが俳人には必要です。