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神仏習合

2024.06.22 02:32

Facebook麻生 隆尋さん 投稿記事  ⛩️⛩️⛩️⛩️⛩️⛩️⛩️⛩️【夏至】

昨日は大雨でしたが、今は、天気が回復し 晴れ間☀️が出てきました🤗💕

神棚にて、夏至の大祓いし、その後自分自身最近体調があまり良くなかった

ので、温泉♨でリフレッシュしてきました🤗💕年後半笑顔で日々暮らせますように🥰💕

⛩️⛩️⛩️⛩️⛩️⛩️⛩️⛩️

☀️大祓詞☀️

高天原に神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以て 

八百萬神等を神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひて 我が皇御孫命は 豊葦原瑞穂國を 安國と平らけく知ろし食せと 

事依さし奉りき 此く依さし奉りし國中に 

荒振る神等をば 神問はしに問はし賜ひ 神掃ひに掃ひ賜ひて 語問ひし 磐根 樹根立 

草の片葉をも語止めて 天の磐座放ち 天の八重雲を 伊頭の千別きに千別きて 天降し依さし奉りき 

此く依さし奉りし四方の國中と 大倭日高見國を安國と定め奉りて 下つ磐根に宮柱太敷き立て 

高天原に千木高知りて 皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて 天の御蔭 日の御蔭と隠り坐して 安國と平けく

知ろし食さむ國中に成り出でむ天の益人等が 

過ち犯しけむ種種の罪事は 天つ罪 國つ罪 

許許太久の罪出でむ 此く出でば 天つ宮事以ちて 

天つ金木を本打ち切り 末打ち断ちて 千座の置座に置き足らはして 天つ菅麻を 本刈り断ち 末刈り切りて 八針に取り辟きて 天つ祝詞の太祝詞を宣れ

此く宣らば 天つ神は天の磐門を押し披きて 天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて 聞こし食さむ 

國つ神は高山の末 短山の末に上り坐して 高山の伊褒理 短山の伊褒理を掻き別けて聞こし食さむ 

此く聞こし食してば 罪と言ふ罪は在らじと 科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧 

夕の御霧を 朝風 夕風の吹き払ふ事の如く 大津辺に居る大船を 舳解き放ち 艫解き放ちて 

大海原に押し放つ事の如く 彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以ちて 打ち掃ふ事の如く 遺る罪は在らじと 

祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末 短山の末より 

佐久那太理に落ち多岐つ 速川の瀬に坐す瀬織津比賣

と言ふ神 大海原に持ち出でなむ 此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會に坐す

速開都比賣と言ふ神 持ち加加呑みてむ 

此く加加呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と言ふ神 

根國 底國に気吹き放ちてむ 

此く気吹き放ちてば 根國 底國に坐す速佐須良比賣と言ふ神 持ち佐須良ひ失ひてむ 

此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと 

祓へ給ひ清め給ふ事を 

天つ神 國つ神 八百萬神等共に 聞こし食せと白す

☀️大日如来 真言☀️

「オン・アビラ・ウンケン・バザラ・ダト・バン」


https://hikakubunmei.org/2009/09/10/%E9%8E%8C%E7%94%B0%E6%9D%B1%E4%BA%8C%E3%80%8E%E7%A5%9E%E3%81%A8%E4%BB%8F%E3%81%AE%E5%87%BA%E9%80%A2%E3%81%86%E5%9B%BD%E3%80%8F/ 【鎌田東二『神と仏の出逢う国』】より

[ 内容 ]

山川草木、花鳥風月、森羅万象に祈りを捧げる日本人の神仏観。日本文化の底流を成す神仏習合の歴史を見直し、社会不安に満ちている現代で平和に向かい何ができるか、新たな日本的霊性を見出し、その可能性を考える。発行元:角川学芸出版

[さらに詳しく]

神は在るモノ、仏は成る者。

山川草木、花鳥風月、森羅万象に祈りを捧げる日本人の神仏観。日本の自然と風土の上に花開いた神仏習合の文化を俯瞰し、平和な世界を求めて宗教の可能性を考える。

神道はユーラシア大陸の東の果てで自然発生的に生まれ、形成されてきた日本人のしきたりだ。6世紀に仏教が日本に伝来すると、神と仏は寄り添い、民間信仰などを取り込み、日本独自の神仏観をかたちづくってきた。日本文化の底流を成す神仏習合の歴史を見直し、社会不安に満ちている現代で、平和に向かって何ができるのか。新しい日本的霊性を見出し、その可能性を問う。

《目 次》

第1章 神と仏の原理的違いと習合化のメカニズム——神神習合から神仏習合への流れ

 1 法螺貝から始まる 2 「神」と「仏」の出逢い 3 春日大社「おん祭」

 4 「神=カミ」と「仏=ホトケ」の原理的違い 5 「神道」と「仏法」

 6 『古事記』と『日本書紀』と『風土記』

第2章 古代律令神道・律令仏教から中世神道・中世仏教へ

 1 記紀神話の成立とその要点 2 「神道」とは何か 3 外来宗教としての仏教

 4 7世紀の宗教革命 5 最澄と空海 6 霊的国防都市としての平安京

 7 古代世界の崩壊と中世世界の始まり

第3章 中世における神と仏

 1 伊勢神道の成立と特徴 2 吉田神道の確立と特徴

 3 神国思想と豊臣秀吉および徳川家康の切支丹禁止政策と鎖国

第4章 国学(古学)と幕末維新期の神道と仏教

 1 古代神話——調停的・分治的一者の確立 2 中世神話——根源的・個的一者の確立

 3 近世神話——仮構的・内向的一者の確立 4 近代神話——対抗的・外向的一者の確立

 5 柳田國男と折口信夫の民俗学と「新国学」

第5章 神仏分離(判然)から神仏共働へ——新神仏習合の時代へ

 1 5つの神話とその現代的意味 2 戦争と平和

 3 戦後神話、柳田國男と折口信夫の新国学再論と霊性の立場

 4 今日問われる日本的霊性

あとがき

(角川書店HPより)


Facebook古代史の真実… 小野 龍海 さん投稿記事

【重要】吉備の国とは「きび龍王」の国

 日本の神社には仏教の仏様が祀られている事が多くあります、コレを神仏習合のセイだと思われている方も多いと思います。

 しかし、それを根底から覆す情報をお届けします。

 神道に初期仏教が含まれていると仮説をたて、かつ「龍宮伝説」とはシャカラ龍王の別名「龍宮」に因むと思い、調べていると、やたら「龍王山」がある事に気付きました。

 その頃には龍王達が日本に来ているだろうと、ほぼ確信していたのですが、どこに土着したのか分かりません、そこで目立つ「龍王山」を調べると顕著な傾向が出ました。

 その中で岡山県の龍王山やその周辺を調べると、龍王→竜王→権現・明神・〇〇天・〇〇羅など仏教の仏様たちの名前が出てきます。

 荒神様といえば「荒ぶる神」、素盞鳴尊だと知る人も多いと思いますが、実は「三宝荒神」が縮まっただけで、龍王系の人々が仏教の守護者として祀られていたのが、ほぼ全部、素盞鳴尊に置き換わっているだけの様です。

 大王はシャカラ龍王といい、シャカ族の王であり、阿羅漢であり、月王家の大王であり、日本名は「きび」龍王だったと推測しています。

※長くなるので、ハショリますね。

 龍王山の配置をプロットすると、一目瞭然、吉備の国が浮かびあがります、そうなんです、主に八大龍王が支配していた「龍王の国」が吉備の国なんです。

 彼らは仏様として、宗教で伝承された為、人の歴史から消えてしまった様です。

 戦前の東大の先生もシャカ族は日本人と同じ人種だと本に書かれていて、その時代によく分かったなぁ〜って感心していたのですが、何の事はない、日本に来ていました。

 ツッコミどころは満載なので、皆さんも議論して遊んでみて下さい😊

 (図) ピンク○=八大龍王(龍海認定) 青○=龍王山 水色○=竜王山 龍海


Facebook東京自由大学辻信行さん投稿記事「 島々の精神史」

第10回 神仏習合の茶の味  ウェブマガジン「なぎさ」

スイスとアイルランドを足して2で割ったような絶景を前に、筆者は感激して頭がおかしくなりました。その足で焼火神社へ登り、神仏習合の茶を味わいます。

本文はこちら⇒ https://nagisamagazine.wixsite.com/.../%E5%B3%B6%E3%80%85...

【島々の精神史 第10回 神仏習合の茶の味 辻 信行】より

 「酔ってんの?」 「ラリってんの?」 「自己啓発セミナーでも受けてんの?」

 普段はネクラで無口、何事にも無感動で淡々としている筆者が、いきなり旅先から「絶景絶景! 死ぬほど絶景!! 日本じゃないよ、この絶景!!」などとメッセージを添えて友人たちにバンバン写真を送りつけた結果、帰ってきた言葉である。

 「類は友を呼ぶ」とはよく言ったもので、ひねこけたマセガキがそのまま大きくなった筆者の周りには、やはりへそがひん曲がって斜に構え、何事も批判的に疑ってかかり、自縄自縛に陥って、いつもうんうん唸っているような人間たちが寄り集まっている。よって、うっかり旅先で開放的な気分になり、素直な感動をストレートにラインする、などといった愚行を犯すと、ろくなことにはならない。

 しかし、そうせざるを得ないほどの喚起力を、隠岐は持っている。書斎派のイメージで塗り固められたレヴィ=ストロースが狂喜乱舞し、「暗い」だの「寂しい」だの腐しておきながら、宮本常一には「ぜひ行くように」と推薦した柳田国男の屈折した心情までもが慮られる始末である。

 筆者がもっとも感激しておかしくなったのは島前の知夫里島である。赤ハゲ山の頭頂部に向かって車を走らせると、あたり一面が徐々に禿げてゆき、優雅な高原地帯で牛が放牧されているエリアに到達する。強風の影響で木が大きく育たず、土も赤いことから「赤ハゲ山」と呼ばれているのだ。頭髪についての自虐ネタを大教室で披露し、すべり続けてもなお、めげずに芸を続けている哲学者・中村昇先生の辛苦が頭をよぎり、思わず涙が出そうになったが、それはさて置き、赤ハゲ山のてっぺんで360度を見晴らしてみる。

 まるでスイスとアイルランドを足して2で割ったような眺望である。牛の点在する長閑な丘陵とその先の穏やかな内海、さらに入り込んだ島前カルデラの地形を望むことができる。

 この内海は古来、嵐で波が高い時に、周辺を航行している船が避難するために使われてきたという。知夫里島、西ノ島、中ノ島の3島が、天然の防波堤となって、船舶を守ってきたのである。

 赤ハゲ山に限らず、隠岐で飼育されている牛たちは、ここでそのまま成長して最期を迎えるのではなく、日本各地へ送られて、その土地のブランド牛として育てられる。せっかくこんな絶景で育っているのに、もったいない気がする。「隠岐牛」が地味というなら、「カルデラ牛」「絶景牛」「スイスとアイルランドを足して2で割った牛」などといったブランド名で売り出してみてはどうだろうか。

 赤ハゲ山の近くにある赤壁は、国の天然記念物に指定されており、この島の創成期の噴火活動の痕跡を示している。マグマには鉄分が多く含まれるため、空気に触れて酸化鉄になると、赤い錆び色に変色し、それが溶岩として降り積もる。そして長い歳月で激しい波風に削られ、断面がむき出しになると、「赤壁」の完成である。

 ユネスコ世界ジオパークにも指定されている隠岐のダイナミックな地形は、総じて日本列島よりも、韓国・済州島に近い。あるいはユーラシア大陸の離島、と言った方が適切かもしれない。小さな連絡船に乗って西ノ島へ移動し、国賀海岸の摩天崖へ出たとき、改めてそう思った。そして、緑なす台地、その先の断崖絶壁は、まさにアイルランドのアラン島を想起させる。夏場でも平均最高気温が20度を超えないアラン島に比べ、隠岐は対馬暖流の影響で年間を通して温暖である。芸術人類学者・鶴岡真弓先生はしばしばアラン島に言及されるのでずっと行ってみたいと思っていたが、思いがけず日本のアラン島には、いまこうして到達することができたわけである。

 摩天崖の上では、馬が放し飼いになっていて、遊歩道が馬糞で溢れている。天にも昇るアラン島の絶景を眺めながら、馬糞を踏まないように細心の注意を払い続けるのは、さながら「天国と地獄」であるが、馬糞の多くは乾いているので、踏んづけても悪臭に悩まされることはない。

 西ノ島の近現代史において、松浦斌(まつうらさかる/1851~1890)の存在は重要である。焼火(たくひ)神社の宮司であり、「隠岐航路開拓の先駆者」である。明治時代初頭まで、隠岐と本土の間の往来は帆船しかなく、片道1週間程度かかり、波が高ければ航行は困難であった。1883年に定期船が就航するも、採算性の問題からすぐに廃止されてしまった。

 そこで隠岐国四郡町村連合会(以降、連合会)の議員でもあった斌は、公費による蒸気船の購入を提案した。しかし隠岐島議員は資金面から、廻船業者は商売面から、漁師たちは漁業への悪影響から反対する。それでも斌はあきらめなかった。購入額の半分を自ら負担すると表明し、隠岐四郡郡長と島根県令の支持を得て、イギリス製の蒸気船「隠岐丸」(131.52トン)を購入。1885年に定期船として就航し、ラフカディオ・ハーンもこの「隠岐丸」で渡島した。

 蒸気船の購入額は、現在の価格で約9,400万円である。いくら連合会と均等に折半したとは言え、斌の負担は相当なものである。しかも斌の負担はこれで終わりではなかった。定期航路で営業上の損失が生じた場合、これも連合会と均等で負担することとなったのである。斌は所有する焼火山の山林約1万9,000本を欠損時の担保としていたが、けっきょく定期航路は赤字を積み重ねた。これにより、焼火山は伐採が進められて禿山になった。斌はこの労苦がたたって病に倒れ、38歳の若さで他界したのである。

 その後、定期航路の運航は連合会で島営として担われ、1895年には隠岐汽船株式会社が誕生して現在まで引き継がれている。隠岐汽船は斌の眠る焼火山の沖合を通過するときは、「汽笛一声」と称し、斌に敬意を表すために汽笛を捧げてきた。西ノ島の別府港には斌の銅像が立ち、その功績が説明されている。

 その別府港で現在の宮司、松浦道仁さんと待ち合わせる。松浦宮司は宗教哲学者・鎌田東二先生の國學院大學時代の同級生である。とてもユニークで才能豊かな方であり、西ノ島にスタイリッシュな図書館「いかあ屋」まで設立された(「いかあや」は、西ノ島弁で「行こうよ」の意味。この図書館が目当てで島にやってくる学生も多い)。

 焼火山の頂上に建つ焼火神社に向けて、長い階段をのぼりながら、松浦宮司のお話を伺う。「鎌田はね、学生時代から変わってましたよ。断食をやるんだとか言ってね。ホントに何日も飲まず食わずで、フラフラになってね。あいつは馬鹿ですよ」。こちらは断食をしているわけでもないのに、長いのぼり階段が続き、フラフラしてきた。断食など、一生できそうもない。今回の隠岐滞在は、歴史学者で中央大学教授のイ・ヒョンナン先生と、大学院の先輩で韓国の総領事館に勤務してきた新井佑一さんと一緒である。新井さんは底なしの体力の持ち主だが、ヒョンナン先生は階段をのぼると聞いた瞬間からフラフラしている。大丈夫だろうか。

 松浦宮司が気を利かせてゆっくりのぼってくださったおかげで、小一時間でなんとか三人とも頂上の拝殿にたどりつくことができた。ヒョンナン先生が感嘆する。「韓国のお寺にそっくり!」そうなのだ。この建物は神社と言うより寺である。「私の4代前までは、宮司ではなく、住職と呼ばれていたんですよ」と松浦宮司が言う。なんでも、廃仏毀釈の波を受ける明治以前は焼火山雲上寺であり、現在も神仏習合の名残に焼火権現と号されている(焼火神社のある西ノ島を含めた島前の神社は現在でも神仏習合の趣を残す一方、隠岐空港のある島後は廃仏毀釈の弾圧がより強く、寺院は圧倒的に少ない)。

 拝殿の隣の嚴は、「焼火」という名称の起源にもあった火の玉伝説の舞台である。海上から火の玉が三つ浮かび上がり、この巨大な奇岩に入っていくのを目撃されたのが焼火神社の縁起である。歴史的に焼火神社は灯火を灯し、夜間の船舶に対して灯台の役目を果たしてきた。この灯火は、もともと伝説の火の玉であったとされている。いずれにせよ、灯台としての焼火神社の役目もまた、厚い信仰を形作ってきた。

 本殿の少し手前に、趣のある建物がある。住居にもできる実利性を備えていて、2階に上がると、とても見晴らしが良い。松浦宮司が自ら、抹茶を点てて出雲名産の羊羹を振る舞ってくださった。松浦宮司の母上は出雲の人であるという。かつて出雲の農村では、農作業の休憩中、田んぼのあぜ道に腰かけて抹茶を点てて飲んだという。小さなお茶碗で、羊羹を菓子にして、肩肘張らずにぎやかに喋りながら楽しんだものだという。

 実は隠岐に行く少しまえ、宗教学者の島薗進先生と一緒に、あるお茶室に伺う機会があった。伝統文化の風流を学ぶこの上なく貴重な機会であったが、正客の島薗先生が「緊張して、お茶の味がよく分かりません」とこぼすほどの会で、こちらとしては「緊張して、心臓が動いているか分かりません」という状況であった。その分、焼火神社ではいわゆる「茶道」の礼節を気にしなくて良かったので助かった。

 つまり、農作業の休憩で飲む抹茶の延長なのである。いまでこそ、抹茶を使ったドリンクやスイーツが全世界的に流行しているが、「抹茶を気軽に楽しむ」ということの先駆けを、出雲の農婦たちは実践していたのである。松浦宮司が焼火神社で点ててくださった神仏習合の茶の味は、心身の力みをほどくまろやかさと、ラフカディオ・ハーンの求めた神秘の泉へと誘うような不可思議な奥深さをあわせ持っていた。