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円融便り

2024.06.22 13:01

Facebook相田 公弘さん投稿記事

「円融便り」とは相田みつをが未だ世に出ず無名だったころ、世話人として1976年から1990年まで師匠である曹洞宗高福寺・武井哲應和尚の講話や自分の作品などを載せて発行したものです。

「円融便り」 昭和54.12.20発行 第29号【のにとぐちのない生活・本心を生きる】   

「のに」相田みつを

あんなに世話を してやったのに ろくなあいさつもない あんなに親切に してあげたのに あんなに一生けんめい つくしたのに のに・・・・・ のに・・・・・ のに・・・・・

〈のに〉が出たときには愚痴 こっちに〈のに〉がつくと むこうは「恩に着せやがって--」と 思う

庭の水仙が咲き始めました 水仙は人に見せようと思って 咲くわけじゃないんだなあ

ただ咲くだけ ただひたすら・・・・・ 人が見ようが見まいがそんなことおかまいなし

ただ いのちいっぱいに 自分の花を咲かすだけ 自分の花を-- 花は ただ咲くんです

それをとやかく言うのは人間 ただ ただ ただ-- それで全部 それでおしまい

それッきり 人間のように 〈のに〉なんて愚痴は 一ッも 言わない だから 純粋で

美しいんです。

「受けてくれなければ」

 「お布施というのは一体どのくらい包めばいいんですか?」

或る時、お茶のみ話のついでにわたしは遠慮のないことを武井老師に聞きました。すると老師はニコニコしながら「そりゃあな相田君、多いほうがいい」とずばり答えられました。そして続けて次のような話をしてくれました。以下はそのあらまし。

 「先ず、布施という意味だがね、ま、ひとくちにいうとね、相手になくて自分に有るものを分け与えて、お互いに、よかったよかった、と喜び合うことだ。与えた方も貰った方も共に感謝し合うことだ。それが布施だ。そこで大事なことはね、布施が行われるための条件だな、それは次の三ッだ。

 一、与える人・・・これを施者という

 二、与える物・・・これを施物という

 三、受けてくれる人・・・これを受者という

 いいかな、よく考えてごらん。この三ッのうち一ッでも欠けたら布施にはならないんだな。我々の常識ではね、与える者さえいれば何時でも布施ができると思うだろう、そうじゃないんだな、いくら与えようとしてもね、受けてくれる人がいなければ与えることはできないな、

「折角だが私は要らない」

と断られたらどうだろう?布施にはならないな。このお茶だってそうだ、相田君が飲んでくれなければこのお茶むだになっちゃうな。相田君が飲まなければこのお茶どうなる?冷たくなって捨てるだけだな。例え一杯のお茶でも相手が受けてくれなければ布施はできない、そうだな。第一、折角出したお茶、飲んでくれなければ、出したこッちが気持ちがわるいな、「ああおいしかった」と飲んでくれれば、相手の喜んだ顔見て、こッちもいい気持ちになるな。お互いがいい気持ちになること、それが布施だ。するとね、ここで大事なことはね、布施では受けてくれる人も与える人と同じに大切だと言うこと。つまりね、与える方が上で、貰う方が下だ、なんて差別はない、て、ことだ。そこのところが一番大事。そこをしっかり押さえること。

 それからその反対、いくら欲しいと言ってもね、与えてくれる者がいなければこれも布施にはならないな。それからもう一ッの場合。与える人も受ける人も両方そろっていても、与える物がなければ、これも布施にはならんな、「無い袖はふれない」なんて言ってね、要するにね、布施には以上の三ッの条件がそろっていなければダメだということ。そこが根底。

「むりもダメ・ケチもだめ むりもケチも執着」

 そこで初めの話に戻るけれどお布施の額の話だな、多いほうがいいと言ったけれどね、決してむりをしてはいけない。なぜか?むりは長つづきしないから。だからとといってケチでもダメ。要するにね、無理をしない範囲内で精いっぱい出す、これが原則。例えばね、一万円出そうと思うな、その時、そんなに出しちゃもったいないな、と心の中で思ったら九千円に減らしてみるんだな。それでもまだもったいない、七千円にする。こうして次々に減らしていって五千円になった。もう少しも惜しいという気持ちがなくなる。その時、さらりと出せばいい。

 その反対にね、一万円出そうと思って用意していた。するとそこへBさんがやってきた。「Bさん、あんたいくら出す」と聞く。Bさんは「わたしは五千円」という。「そうか、それなら私も五千円だ」折角包んだ一万円を五千円と入れ替える。こういうのをケチという。むりもダメだがケチもだめ。

 なぜか?むりもケチも執着だから出したお金がきれいでない。他人に比べてむりもしない、ケチもしない、さらりと出して、出したら忘れる、そうすればそこには人間の欲という執着がない。執着のない金、それを浄財という。浄財とはきよらか(浄)な財のこと。つまり、よごれていない財物のことだ。ここで汚れる、て、ことは、どういうことかというと、人間の欲に汚れることだ。人間の執着で汚れることだ。人間の執着で汚れたものを仏教では不浄という。だから布施は不浄であってはいけない。常に浄財でなければダメ。

むりすると「のに」がつき「ぐち」が出る

 断っておくがね、布施はカネのことばかりじゃない。それは布施の中の一部の話だ。毎日の人間関係の中にだって布施はいっぱいある。例えばね、仕事でも人の世話でもいい、幅広く考えればみんな布施だ。ま、何か一生けんめいの人の世話をしたとするな、それも大事な布施だ。ところが相手がその割に感謝をしない。ろくなお礼も言ってくれない場合があるな、そんな時、人間はどう思う?

「あんなに世話をしてやったのに・・・」

「あんなにつくしてやったのに・・・」

と思う。そしてその後はぐち(愚痴)が出る。こうなると、世話になった方にも言い分けがある。

「少しぐらい世話をしたからといって恩に着せるんならしてくれないほうがいい」

なんてことになる。人間関係がまずくなるのは大体に於いて、この「のに」と「ぐち」の出る時だ。「のに」と「ぐち」が出るともう面白くない。

 「のち」と「ぐち」が出ないようにするためにはどうしたらいいか?前に言った一万円から五千円のように仕事(世話)の量を減らすことだ。「のに」や「ぐち」のでない範囲内に仕事でも人の世話でも、その量を減らしてみることだ。その代わり、「のに」や「ぐち」の出ない範囲内は精いっぱいに生き生きとやることだ。仕事でも世話でも喜びを持ってやることだ。やることそのものに自分自身の喜びがあるんだから、その上、人からお礼を言われなくても感謝されなくてもいいはずだ。そんなことを当てにしてやるのは本当の布施じゃない。当てにするから外れて「のに」がつく。なんでもやる以上は「ぐち」を言わない、「ぐち」を言うならやらぬこと。それがさわやかな生き方。世話をさせてくれる相手がいなければ世話はできない、という根本を押さえることが大事。

「ケチでは自分のいのちが ちぢんでしまう」

 「のに」がつかない程度に仕事の量を減らすといってね、減らしすぎてケチでもダメなんだな。出し惜しみばかりしていると、いのちがちぢんじゃうな、テレビのの相撲なんか見ていると解説者がよく言う

「いまの勝負は自分の力を充分に出しきっていない。負けてもいいから自分の力を出し切って欲しい。自分の力を出しきった相撲は勝ち負けに関係なく見ていて気持ちがいい」

なんてね、ケチだと自分の力を出しきれないわけだ。自分の力を出しきれなければいのちがちぢんでしまう。いのちがちぢんでは生き生きとしない。のびのびはつらつというわけにはゆかない。

 だから気持ちのいい生き方というのは、人間関係の中で正しい布施が行われている時だな。正しい布施というのは「むり」もしない「ケチ」もしない、ごくあたりまえに、ごく自然に、少しも意識されずに布施が行われることだ。

「本心を生きる」

 「むり」でもない「ケチ」でもないということは、言葉を代えていえば、常に自己が自己の本心を生きる、ということだ。世間体や他人の思惑などに一切左右されず、自分が自分の本音を生きる、ということだ。自己が自己のいのちを本心で生きる、本音で生きる、本腰で生き--その時、最も自己のいのちが充実する。いま、ここ、を充実したいのちを生きる--それが仏法。

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https://blog.goo.ne.jp/kororin_2005/e/62539a2e1e47e3e21ce094d50b890242 【「円融便り」】より

「円融便り」

 ※円融とは、まるくとけ合うという意味で仏教の言葉です。「いのちのレンガ」

-0先生の講話から-     

或る日の<洗心講座>で0先生がこんな話をされました。

「人間の一生は毎日々々、一枚づつのレンガを積み上げてゆくようなものだ。いのちという自分のレンガを-レンガを、どこへ置くか、は 自分の好きです。

 自分のレンガですから どこへ置いても自分の勝手です。 しかし、一度置いてしまったレンガは もう絶対に動かせない 永久にうごかすことができない 置いたらそのまま-。

 きちんと置けばきちんと置いたまま だらしなく置けば だらしなく置いたまま

 いいかげんに置けば いいかげんに置いたまま もう絶対に動かすことができません

 置き代えることはできないのです。

そして、 いままで積み上げてきたレンガを 私達は具体的に手でさわって 見ることはできません。

 しかしです-- 見えないからといって レンガを積み上げてきた、という事実は 消えたわけではありません。

 人間に見えないだけです。そしてまた昨日まで積み上げてきた レンガの上に 今日のレンガを置くのです 昨日まで置いてきたレンガにつづけて 今日のレンガを置くのです

 どんなにまずく積んでしまったレンガでも 昨日(そこ)につづけて積む以外に 今日のレンガの積み場はないのです まずいからといって 昨日に離して全く別なところに 積むわけにはゆかないのです。」 と。

 こわい話でした。

ところでわたしはどんなレンガを 積み上げてきたのか--

欲望というレンガ 虚栄というレンガ 愛憎というレンガ うそ偽りというレンガ

喜怒哀楽というレンガ 怠け心というレンガ それから、自己顕示慾という始末に負えないレンガ--見えたらとても恥かしくて到底まともに見ることはできないでしょう。

さて、あなたのレンガは・・・・?「負けにまわる」

-土の中の水道管のような人-

「バカがいなけりゃ利口は立たねぇー」これは山本周五郎の小説「サブ」の中のサブのせりふです。バカのおかげで利口がひかるんです。入学試験だってそうです。落ちてくれる人のおかげで受かるんです。負けてくれる人がいるから勝てるんです。

みんなが勝っちゃッてはダメなんだなどこかでだれかが負けにまわらなければ・・・・

負けてたまるか!損してたまるか!バカにされてなるものか!!誰も彼もが勝つことばかり考えて 負けにまわる者が一人もいないそれでは世の中おさまりがつきません。

いつでもどこでもだれにでも こころやさしく親切で世話好き 一番骨が折れる

蔭の仕事ばかり引き受けて おかねとひまを使うばかり

しかも「これは自分がやった」なんてことは決して言わない話をすればいつも聞き役必らず相手の顔を立てて自分はいつも負けにまわる

負けにまわるが自分のやるべきことはちゃんと具体的にやってゆく人

そしてみんなに愛され信頼されている人そういう人がいるんですわたしの身近に。

一番大事なところだけをしっかり守って陽の当たる場所には顔を出さない

土の中の水道管のような人です。その人の名はTさん!!長い長いおつき合いの中でTさんはわたしに「負ける尊さ」を教えてくれた人です。

だからわたしはTさんのことを「負けの菩薩・T観音」と呼んでいます。                 

           相田みつを

                  昭和55.6.1発行第31号

「円融便り」は相田みつをが世にあまり知られてない時、代表世話人として師匠である曹洞宗高福寺・武井哲應和尚の講話や自分の作品などを載せて発行したものです。

相田みつを美術館の第一ホールの中ほどに筆や硯、年譜などと一緒に展示されてます。