フレデリック•ショパン、コンスタンツァアを巡りティトゥスとの友情が壊れるとき、…ティトゥスも罪人だったのか…、ティトゥスに罵声を浴びせるフレデリック…
ソンターグ騒動から1カ月以上が経った、
7月夏の間に何があったのか、
書簡はなく推測するしかない…。
フレデリックとティトゥス…。ティトゥスを信頼しきってきたフレデリックは、自分の心の内をティトゥスには、なんでも打ち明けてきた。
ティトゥスはポーランドの田舎ポトゥジンの土地を所有する貴族でポーランドの芸術家のパトロンだった。
フレデリックの父ニコラスがティトゥスにフレデリックの面倒を見てもらうように頼んであったのだ。
貧乏だったショパン家の恩人でもあるティトゥスだが、ティトゥスも人間なのだ、
度重なるフレデリックの恋の相談までは、
内心穏やかではなくなってきていた。
いったい二人の間に何があったのか…
真実はもはや誰も知る余地もないのだが、
コンスタンツァアは皆んなが憧れる歌姫、
ティトゥスもまさか好きであったとしても不思議ではない。
フレデリックは、自分の心は「コンスタンツァアへ仕えているのだ」とまで、ティトゥスに明かし、ティトゥス宛ての書簡の最後にはコンスタンツァアへの想いを短くメッセージ暗に残して、“親友だからわかってくれるだろう“と自分の恋が実るようにティトゥスに
キューピット役になってほしいとしつこく思っていた。どうにかして欲しい執念深過ぎるフレデリックの性格は、パトロンでもあるティトゥスにも、だんだんと嫌気がさしてきたのかもしれない。
パトロンでありながら、友人として、フレデリックから書簡を受け取るティトゥスだが、
フレデリックは、表向きは、あちらこちらの伯爵夫人に関心がありながら、実は
コンスタンツァアの話ばかりをティトゥスにしてきた。“コンスタンツァアの気持ちを君から聞いてくれないかな“と、フレデリックは
自分の思いが遂げるまで、ティトゥスに
あれこれお願いするのだ。
もしかしたら、ティトゥスもコンスタンツァアが好きだったかもしれないのだ。
恋も早い者勝ち?だったのか、それを知ってたフレデリックは、先に宣言した者勝ちと
“コンスタンツァアは自分が一番好きな女“
とティトゥスに告げれば、最悪、ティトゥスにコンスタンツァアを取られる心配がないからなのだ。
言われたティトゥスは自分もコンスタンツァアが好きだとはもう言えなくなってしまったのだ。
女の奪い合いで決闘がまだあった時代なのだ。友人から、先に “あの女が好きなんだ“
と打ち明けられたら、自分も前から好きだったと言い出したら、決闘しかないからなのだ。。。それだけは避けたいティトゥス…。
そんな気持ちを知ってか知らずか、しつこい性格のフレデリックはあれこれティトゥスに注文が多かった。
ティトゥスの田舎ポトゥジンにワルシャワを出て直接会いにフレデリックだった。
そこでティトゥスに告げられた言葉は、
なんだったのか、
フレデリックはティトゥスにあれだけ
今まで親友と書いていたのが
一変したのだ。
「恐るべし偽善者よ!」
ティトゥスのフレデリックに対する援助は
心など無く貴族の世間体を保つ自分の宣伝のひとつでしかないとティトゥスを非難、
ティトゥスの自分への親切は偽善でしかない、嘘つきだと吠えるフレデリック。。。
フレデリックは、推測7月10日頃からポトゥジンのティトゥスの邸宅に滞在し、
7月23日に
ワルシャワに
ラスタ•ヴィキ•エドワード男爵
の自家用馬車で男爵と一緒に帰った。
ワルシャワでパエールのオペラ『アニョーゼ
』の初演が7月25日に観るためだった。
ラスタ•ヴィキ•エドワード男爵は
土地信用金庫とポーランド銀行に勤めていた。
フレデリックはワルシャワに戻って、
1ヶ月ほど経ってからティトゥス宛ての書簡を書いた。
ポトゥジンでのティトゥスとの話し合いは
決裂したのだ、フレデリックは
ティトゥスの考えに賛成できず、ティトゥスを書簡で非難したのだ。フリッツがフレデリックに言っていることは嘘だとティトゥスはフレデリックに話したが、フレデリックはフリッツは正直に自分に話したのだと、ティトゥスに書簡で抗議した。
この
そして、ティトゥスへの抗議の書簡は
自分で出さないで誰かに出してもらうことになっていたのか、夏の間、ジェラゾラビラに
行っている両親と同じく、フレデリックも
ジェラゾラビラに帰っていた。
8月17日ワルシャワに戻ると、ティトゥスへの書簡は
フレデリックの机のティーカップの脇にそのまままだあったのだ。友人カロルがフレデリックの部屋に入ったときには
フレデリックからティトゥス宛ての書簡は
ティーカップの上に置いてあったと、カロルはフレデリックに報告した。
フレデリックが人に最終的な判断を委ねる性格はこの頃からだった。ティトゥスを非難する悪口満載の書簡はポトゥジンから帰ってばかりに感情が向くままこれでもかと、怒りを込めて書いた、が、しかし、
翌朝、読み返すと、なんと酷い悪口だらけなのだ、しかし、フレデリックはこのまま書簡を出す時間もないし、このまま出す自信もない。
早くジェラゾラビラへ帰り、両親に会って気持ちを落ち着かせたいフレデリック…。友人はこの書簡を客観的に読んでどう思うであろ、、、カルロにそれとなく、
机の上にある書簡を出しておくように
頼んで出かけたフレデリック。書簡は封印してなかったのかわからない、、。
カロルはフレデリックの性格を察して出さなかった。出してティトゥスとフレデリックの仲が壊れたらフレデリックへのティトゥスからの支援が絶たれ自分もとばっちりをくらうからだ。だから、書簡はティーカップの横にはありませんでしたよ、上にはありましたから指示通り、脇には既になかったから、
上のは触ってませんよ。しかし、フレデリックは帰ったら脇にあったのだ。
要するに、フレデリックは出したいが出していいか迷っていて、どっちつかずなのだ。
「災い転じて福となし」時間が経つと、やはり、出さなくてよかったよかった、こういう性格なのだ。
そして、最初に書いたか書簡は破棄し、「今日は冷静に書こうではないか!」と書き直したフレデリック。
前振りが長いフレデリックなのだ。
ティトゥスの邸宅に泊まっていたフレデリックの部屋からは白樺の樹木が植っていた。
そして、ティトゥスの貴族家に伝わる石弓で猟の真似事をやらされたフレデリックは正直ウンザリしていた。そのことも時間が経てば
忘れることができない楽しい思い出だと語った。
どうにかして、ティトゥスの考えが変わらないだろうかと嫌な思いも良かった事に変えてを書いた。
「あなたの広大な畑や農場も私の故郷のようなものです」と、ティトゥスのご機嫌をとるフレデリック。
「友人に宛てた別の長い手紙の中で、彼はウォーソーでの些細な出来事を語っている。彼の最大の関心は、ペールの『アンジェラ』でコンスタンティア・グラドコフスカがデビューしたことだった。]
「. . . ワルシャワでの最大の関心はパエールの歌劇『アニョーゼ』だった。私は公演を観にに行きました。
コンスタンツァアは、コンサートホールよりも舞台の方が似合う。
彼女の悲劇における演技については言うまでもなく一流である。これ以上に歌手はいない。」
コンスタンツァアは、パエールの『アニョーゼ』で、アニョーゼ役でデビューを飾った。フレデリックはコンスタンツァアの歌を最高に褒めたのだが、
「あなたも、彼女のフレージングに聴き惚れ魅了されるだろう」
ティトゥス、あなたもコンスタンツァアの素晴らしさに本当は惚れているのであろう!と、フレデリックはティトゥスの心に投げかけた。
更にコンスタンツァアの歌がどれほど魅力的かを語るフレデリック、
「ニュアンスも素晴らしいです。
登場した当初は声が震えていたが、その後は自信に満ちて歌っていた。このオペラは部分的にカットされていました。そのためか、退屈な長時間という欠点に気づかずに済みました。」
コンスタンツァアは舞台映えしたのだ、誰もがコンスタンツァアを好きになってもおかしくはないとフレデリックはティトゥスも本当は…。
「第2幕のカルロ•ソリーヴァがコンスタンツァアの為に書き足したアリアはとても効果的だった。
予想はしていたが、これほど効果があるとは思わなかった。前回、コンスタンツァアは第2幕でハープを持って歌うロマンスをとても魅力的に歌った。エルスネルは舞台袖でピアノ伴奏をしました。
私はとても満足したのです。 最後にアニョーゼ役のコンスタンツァアは舞台に呼び戻され、熱狂的な拍手で迎えられました。
それから、今日から1週間
フィオリッラ(ロッシーニの歌劇『イタリアのトルコ人』の主人公)が登場するが、『トゥルコ』ではウォルクの方が人気があります。
このオペラ『アニョーゼ』には、この音楽に対してどんな恨みを抱いているのか、自分でもわからないような反対派がたくさんいるのです。
イタリア人(ソリーヴァ)がグラドコフスカにもっとふさわしいものを選べばよかったのではという可能性は否定できない、
『ラ・ヴェスターレ』(ヴェスタの巫女
ガスパーレ・スポンティーニのこと)だったなら、コンスタンツァアにとってもっと幸運な選択になったのではと私は思います。」
コンスタンツァアが主役でデビューした
オペラ『アニョーゼ』はコンスタンツァアの師であるソリーヴァの選曲だったのだ、
そしてソリーヴァがコンスタンツァアのために書き加えたアリアが付いていたのだ。
この選曲はコンスタンツァアは従うしかなかった。
フレデリックはコンスタンツァアは素晴らしかったのだが、選曲がよくなかったと指摘した。
このコンスタンツァアに似合わない選曲のためか、コンスタンツァアの評価は
真っ二つに分かれてしまい、1カ月もの間、評論家の間で論争になったのだった。
評論家でもあるモフナツキは、コンスタンツァアを批判した。「ゴドフスカは音楽で、熟達した技巧を持っているが、歌うということがどういうことかまるでわかっていない。
期待に応えるような歌ではなかった。
かつては良い声だったゴドフスカは今では
声量で人より秀でようとし声をすり減らしてしまった。この芸術家を侮辱するつもりはない、彼女はあらゆる意味で称賛にあたいする。(割愛)これは誤った外国の歌唱指導によるものが原因である。」
これは、フレデリックの感想とは全く違っていたが、フレデリックが指摘したソリーヴァの選曲やソリーヴァの指導に問題があったとも読み取れるのだ。
また、フェルディナンド•へーシック氏は
「コンスタンツァアは音楽的で非常に美貌に恵まれ、知的で、感受性が強く芸術的な気質
で、穏やかで人当たりが柔らかい魅力に溢れている」と好意的にコンスタンツァアを評した。モフナツキの評論はティトゥスが裏から手を回した可能性がある、ティトゥスはフレデリックだけのパトロンではないからなのだ、ポーランドの芸術家を支援していたからなのだ。ポトゥジンでフレデリックは
ティトゥスと何を話し合ったのか、
ポーランド銀行の男爵も来ていた、
この頃にはコンスタンツァアとフレデリックは実は一緒に住むようになっていた、
二人は芸術家としての将来を夢見ていた。
ティトゥスはそれをフレデリックから明かされ、複雑な嫉妬心が芽生えてしまった、
“コンスタンツァアは国から出しはしない、
フレデリックはポーランドから早く出て行ってくれ、“
こういうことなのか…。
フレデリックの最愛のひとは、誰もが好きになってもおかしくはない美貌と才能があった、ティトゥスは貴族だから、
プルシャック家のアレキサンドラ嬢との結婚話があったが、ティトゥスはそれを断ったため、その隙を見て、オヌプリ•ムレチェクが
アレキサンドラに結婚を申し込んだのだ。
フレデリックはなぜこんなまたとない話をティトゥスは断ったのか…。ティトゥスの真意を疑うしかなかった…。
書簡の終わりには、フレデリックはその他の活躍している歌手の
情報をティトゥスに報告した。
「彼はタルマ、ケンブル、デヴリエント、ズルコフスキの何かを持っている。ソリバによれば、ズダノヴィッチは最高な出来栄え。
サラモノヴィッチ夫人は惨めで、ナウロッカはいつも影響を受けていて、ジリンスキーは舞台の上でのんびりしている。昨日の『トゥルコ2世』のリハーサル。
のリハーサルで、彼がトルコ人を殴るときの冷淡なやり方に私は怒りを覚えました。
ヴォルコフの歌と演技は実に素晴らしく、この役は彼女が演じなければならないもので、彼女は完璧にこなした。おそらく大衆にアピールするのは、彼女が喉ではなく目を使っているからなのです。
彼女は純粋さと確信をもってDの高音に近づいていくところが何回かきれいでした。
グラドコフスカよりも人気が出ることは間違いないでしょう。
五重奏(『イタリアのトルコ人』の第二幕のこと)は見事に成功しました、総監督(劇場長)は顔をほころばせていました。. . .」
コンスタンツァアを褒めたフレデリックは最後に、ティトゥスはコンスタンツァアが
自分のものにならないのかなら、コンスタンツァアに更に意地悪をするかもしれないと
予知し、批判の矛先はコンスタンツァアではなく、ヴォルコフにしてくださいと、フレデリックはティトゥスにそれとなく書いた。
ヴォルコフもコンスタンツァアと同じくソリーヴァの弟子なのだ。コンスタンツァアと何かと比較されるライバルであるのだ。
フレデリックによると、ヴォルコフのほうがコンスタンツァアより実力では下で音程外れで下手だった。
コンスタンツァアのほうが実力が上であるのにコンスタンツァアが侮辱されるのは不公平だから、下手くそなヴォルコフを批判したらどうか、とフレデリックは怒っていた。
ティトゥスよ、悪党よ、お前とは
もう握手できない、地獄の化け物よ、と
様々なティトゥスへ怒りが爆破寸前のフレデリック…。
「さて、私はどうするか?
来月x日に出発する予定だが、ロンドが終わったので、まずは協奏曲を試さなければならない。明日はカチンスキーとビエニャフスキが我が家に来る、
エルネル、エルネマン、ツィウニー、リノフスキの前で、ピアノとチェロのためのポロネーズとトリオのリハーサルをする。
出来るまで演奏します。だから、私が挙げた人たち以外には誰も呼んでいません。
私が挙げた中では、マトゥシンスキだけが、唯一、私に忠実であり続けます。
偽善者、悪党は…。
悪党でないのは......。誰かは想像にお任せする!!」
偽善者、悪党はティトゥス。
悪党でないのは、マトゥシンスキだけ。
フレデリックはティトゥスに罵声を浴びさせ
書簡を終えた。
アンナ•ヴォルコフ
アンナ•ヴォルコフ(1808 年 8 月 26 日グロドノ−1845 年 6 月 24 日 37歳没 ワルシャワ)オペラ歌手
アンナ•ヴォルコフは、スタニウキヴィチと結婚したためヴォルコフ•アンナ•スタニウキヴィチとなった。生まれは1808 年または 1811 年 と曖昧で年齢を偽っていた。
彼女は、
ワルシャワ音楽院で歌をCE. ソリーヴァに、演技をB.クドリッチに師事。1830年8月28日、国立劇場でフィオレッラ役(『イタリアのトルコ人』)でデビューした。
短期間のうちにオペラ座で重要な地位を獲得し、たちまち有名人になる。
1833年3月、彼女は病のため公演を中断し、長期療養生活を送っていた。
その途中、カリシュのコンサートに客演した。1834年12月にワルシャワ劇場に戻り、大成功を収めた。
1834年12月22日には、J.F.ヘンデルのオラトリオ『天地創造』に参加した。1837年7月25日、アンリ(「花嫁」)の役で出演したのが彼女の最後の舞台となった。
彼女は表舞台から身を引き、ロシア人のスタニウキェヴィチ工兵大佐と結婚した。
W.クログルスキーによれば、彼女は顔と体型全体が驚異的に美しく際立っていた。
彼女はおそらく、歌だけでなく演技でも誰からも好かれた最初の歌手であった。
魅力、器用さ、自由、機知、威厳、言いようのない優美さが彼女の中に擬人化されていたと伝説になっている。
彼女は、ツェルリーナ(『フラ・ディアヴォロ』)、エルヴィーラ(『ポルティチの無言歌』)、ロジーナ(『セヴィリアの理髪師』)、ラウラ(『移動するイタリア・オペラ』)などのソプラノ役を歌った。