「幸」から見た民族性の違い
「福祉」については、以前、このブログで述べた。
そこで、今日は、ご存知のことばかりだろうが、幸福を表す和語「さいわい」、「さち」、「しあわせ」と漢語「幸(コウ)」について述べようと思う。
1 さいわい(幸い)
今日では、「さいわい(幸い)」は、幸運という意味で「幸いに」「幸いにして」と用いられることが多いが、「その人にとって望ましく、ありがたいこと。また、そのさま。しあわせ。幸福。」というのが本来の意味だ。
古代人にとって、基本的に保存食で乗り切らねばならない長い冬は辛く苦しかったのだろう。春になって花が咲き合うことに殊更に喜びを感じたようだ。
春になれば、たけのこ、ふきのとう、わらび、ふき、なのはな、たらのめなどの新鮮な山菜や、春わかめ、かきなどの魚介類を豊富に食べることができるからだ。
そこで、「さいはひ(さいわい)」という言葉が生まれた。
「さいはひ(幸い)」は、「さきはふ」の名詞形で、「さく(咲)」「さかゆ(栄)」「さかる(盛)」と語源が同じなのだそうだ。いずれも生命の息吹・躍動が感じられる。
「さき(幸)」も、「さく(幸)」も、同じだ。
この点、英語felicity「非常な幸福、至福、慶事」の語源は、ラテン語felicitas「肥沃、幸福」であり、これはfelicis「多産の、肥えた、幸せな、幸運な」に由来するそうだ。農業・牧畜生活を前提としているとはいえ、和語「さいはひ(幸い)」と同じような発想である点が興味深い。
2 さち(幸)
海の幸、山の幸、「君に幸あれ」のように用いられる「さち(幸)」は、「さいはひ(幸い)」とは異なり、「さつ(猟)」が語源なのだそうだ。
狩に用いる矢を意味する「さつや(猟矢・幸矢)」、狩に用いる弓を意味する「さつゆみ(猟弓・幸弓)」、猟師を意味する「さつお(猟男・猟夫)」などは、いずれも「さつ(猟)」の派生語だ。
『旺文社全訳古語辞典』によれば、
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一説によると、「さち」あるいは「さつ」とは、獲物を得る力を生じる霊力のことだという。霊力の宿った弓矢のことを「さつ弓」「さつ矢」といい、霊力を身につけた者が「山さち彦」「海さち彦」なのである。そこから、「さち」は霊力を得た結果としてもたらされる獲物の意になり、さらにそれを抽象化した幸福などの意味を派生させたと考えられる。
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とある。
「さいはひ(幸い)」が採集生活を前提に生まれた言葉だとしたら、「さち(幸)」は狩猟生活を前提にした言葉だと言える。
いずれも食生活に関する言葉という点で、共通するわけで、古代の人々にとって何よりも食べられることが幸福だったのだろう。
ちなみに、「かり(狩)」は、下記の記事にある同志社女子大の吉海直人特任教授によれば、「~のもとへ」という意味の接尾語「がり」が語源らしい。以前から不思議に思っていたが、納得した。
「がり(許)」は、「かあ(処在)り」の音変化だそうだ。
3 しあわせ(幸せ)
20年ほど前だろうか、「お手ての皺(しわ)と皺を合わせて「幸せ」、南無〜♪」という仏壇屋のテレビコマーシャルがあり、「んじゃ、お手ての節(ふし)と節を合わせて「不幸せ」だね!」と笑ったものだが、いずれも間違い。
「しあはせ(仕合はせ)」の語源は、「し合わす」だそうで、「し」は動詞「する」の連用形で、何か2つの動作などが「合う」ことだから、ことのなりゆき、めぐりあわせ、運を意味する。
そのため、『明鏡国語辞典』(大修館書店)によれば、現代でも「偶然性を重視するときは「仕合わせ」」という表記も好まれるそうだ。
『旺文社全訳古語辞典』によれば、「しあはせわろし」「しあはせよし」というように、本来、「しあはせ」は、不運・幸運の両方に用いたそうだ。
江戸時代以降、「しあはせ」は、もっぱら幸福、幸運の意味で用いられるようになったため、不幸、不運のことを「ふしあわせ(不幸せ)」と呼ぶようになったのだろう。
この点、英語happiness「幸せ」も、happen「起こる」も、perhaps「多分、おそらく」も、中世英語hap「偶然、運命」に由来するそうだ。さらに遡(さかのぼ)れば、古代北欧ゲルマン語である古ノルド語happ「機会」に由来するらしい。
和語「しあはせ(仕合はせ)」と同じ発想なのが面白い。
4 幸
漢語「幸(コウ)」は、
①しあわせ。さいわい。運がいい。「幸福」「幸便」「多幸」
②かわいがる。いつくしみ。「幸臣」
③みゆき。天子や天皇のおでまし。「行幸」「巡幸」
④さち。めぐみ。海や山でとれた食物。「海幸」
という意味で用いられている(『角川新字源』)。
しかし、世界最古の漢字辞典『説文解字』第十篇下には、「从屰(ゲキにしたがう)。从夭(ヨウにしたがう)。」とある。
屰(ゲキ)は、「逆らう」で、夭(ヨウ)は、「若死にする」だから、漢字「幸」は、「若死にすることに逆らう」、すなわち「若死にせずに生きながらえる」という意味になる。
これに対して、『新漢語林』(大修館書店)によれば、「幸」は、手枷(てかせ)の象形なのだという。
すなわち、「甲骨文でもわかるように、手かせの象形。執が、手かせにとらえられた人の象形であるのに対して、手かせだけの象形で、さいわいにも手かせをはめられるのをまぬかれて、しあわせの意味を表す。」とある。
犯罪を犯して危うく捕まりそうになったが、うまく逃げ遂(おお)せたり、また、捕まって処罰されそうになったが、まだ子供だからと死刑を免れたりして、「ラッキー!」とほくそ笑んでいる狡賢(ずるがしこ)いクソガキを連想してしまった。。。。苦笑
漢語「幸(コウ)」の訓読みに当てられている和語「さいはひ」、「さち」、「しあはせ」とは大違いだ。
こんなところにも日本人と支那人の民族性の違いが現れているように思うのは、私だけではあるまい。
ところが、e-Gov法令検索で検索した限りでは、漢語「幸福」は、憲法を含めて11本の法令に用いられているのに対して、和語「さいはひ(幸い)」、「さち(幸)」、「しあはせ(幸せ)」は、一切用いられていない。
漢語にも利点があるから、法令に多用されているのだが、四角四面の堅苦しい漢語ばかりでは息苦しいのも事実だ。
法文の平易化・口語化が進んでいるが、立法者におかれては大和言葉も大切にしてほしいと思う。