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一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

vol.64「江戸歌舞伎」について

2024.07.24 21:11


以前「歌舞伎について」は一度書きましたが、あれは主に元禄文化の頃のお話。それからだいぶ時も流れて化政文化に入っておりますゆえ、改めて独自に進化を遂げた「江戸歌舞伎」について、まとめ直してみるといたしやしょう。


参考文献は、我らがホーリーこと、堀口茉純先生の著書『歌舞伎はスゴイ』オンリーでございます。自分用のメモブログとは言え、書き写し甚だしくて怒られてしまいかねないので、たまたまこのブログに辿り着いてしまった方は、ぜひ ↓ ご購入をお願いします。むしろ買わない人はこのブログ読んじゃダメですだって私用のまとめノートなんだからっ!(じゃったら公開すんなよな)


『歌舞伎はスゴイ-江戸の名優たちと“芝居国-の歴史-』PHP新書-堀口茉純




⚫︎ 歌舞伎は常に不謹慎と背中合わせ


歌舞伎の誕生から元禄文化での花開きぐあいは前に書きましたので割愛しますが、初期の「女歌舞伎」や、美少年による「若衆歌舞伎」や、遊女屋の女性らによる「遊女歌舞伎」などは、みなどれも売春買春がつきものだったために、風紀を乱すとして規制されまくって来たワケで。チッそんじゃ仕方ねーなってことで「野郎歌舞伎」による「荒事」とかが開発されたりと、ちゃんとパフォーマンスで観客を魅了する方向になったのでしたね。


ところがどっこい、今度はその歌舞伎役者の身体を裕福な女性が金で買うようになり、二階客席である上桟敷や、芝居茶屋なんかでコトに及ぶ男女逆転の性接待が横行するように。そんな頃に、かの有名な「絵島生島事件」が起きる。実際、絵島は罠にハメられただけのように思えるが、この事件のせいで再び歌舞伎に強烈な規制がかけられ、続く8th吉宗の享保の改革でも、歌舞伎は不健全娯楽&贅沢の象徴とされてしまい、みるみる衰退してゆく歌舞伎文化。あれよあれよと人形浄瑠璃に人気の座を奪われ「歌舞伎は無きがごとし」とまで言われる有様に。


まあ、ある意味その不謹慎さも含めて人々を魅了してきたんでしょうから、いつかはこうなる運命だったのかと。裏オプションを売りにしたコンカフェみたいなもんですかねそりゃ取り締まられますってーの




⚫︎ 起死回生なるか? 異業種コラボ


そんな崖っぷちの享保期に奮闘したのが二代目・市川團十郎。助六、鳴神、ういろう売り、などを当たり役とし、市川家の荒事芸を洗練&様式化していった。さらに、近松門左衛門が人形浄瑠璃のために書き下ろした大ヒット作を、そのまんま歌舞伎で演じてみせる異業種コラボ興行も盛んになる。これは人形浄瑠璃の方が歌舞伎より上だと認めるようなもので、なかなかにプライドを脱ぎ捨てた戦略である


けどまあ、既に作品にファンが付いてるのだから「あの名作を遂に歌舞伎化!」「あの役を⚪︎⚪︎が演じる!」と謳えば、大コケすることは無いわけで。ヒットした漫画を映画化する昨今の映画業界と同じやり方ですわな。ともあれ、そんな苦しい時代の様々な試行錯誤が功を奏して、なんとか暗黒期を抜け出し、花道や、セリ出し、廻り舞台、そして早着替えなど、今に残る江戸歌舞伎のエンターテイメント性を着実に進化させてったんですと。




⚫︎ そして江戸歌舞伎の黄金時代へ


人形浄瑠璃ブームが下火になる宝暦〜安永時代になると、待ってましたとばかりに歌舞伎の逆襲が始まります。音楽と歌舞伎の融合が進み「所作事(しょさごと)」という舞踊スタイルが人気ジャンルとして確立。このため「あの人が見たい!」というファンをたくさん持つ大スターの活躍が、歌舞伎界を再び盛り上げてゆく


また、江戸時代初期は「時代物」と呼ばれる超人的な武者の活躍劇が好まれていたのに対し、江戸時代中期以降は「世話物」なる巷の義理人情を扱った現代劇が人気となっており、役者の演技も大げさすぎないリアルな演技力「地芸」が求められた。浮世絵の世界でも、西洋絵画の影響も手伝って写実的表現が盛んになり、それまで描かれなかった花魁の日常生活や、歌舞伎役者の似顔絵などが流行。今で言えば芸能人のブロマイドよりSNSのスッピン写真に注目が集まるようなもの。つまり、大衆の関心がフィクションからリアルへと移っていったのである


だからこそ、美しく描きすぎない個性的な写楽の画風が大ヒットしたというわけ。(でも描かれた人はもっと美化してほしくて不評だったとか)




⚫︎ 鶴屋南北が「生世話」を生み出す


せっかく黄金時代を迎えたのに、あの嫌なヤロウ松平定信による寛政の改革のせいで、また水を差されることに。景気が冷え込んだなら制作費も抑えねば、ってことで狂言作家の「鶴屋南北」が、それまで歌舞伎では取り上げられなかった江戸の下民層を主人公に据え、彼らが生活苦から強盗や殺人といった凶悪犯罪に手を染めるという当時の江戸の暗部を浮き彫りにした作風で、大衆の共感を得ながら、衣装やカツラなども一般人と変わらない地味なもので低コスト化に成功。その人物描写のリアルさは、世話物の実写性をより推し進めた生々しいものであり「生世話」と呼ばれる新ジャンルを成立させるに至った。


南北の作品は、現実世界をそのまま描くのではなく、怪談など非現実的なフィルターを通して表現しているのがミソ。不当に殺された被害者が怨霊となって現れ、意趣返しをするシーンなどは、役者の早替わりや大道具の仕掛けなどをフル活用するケレン味で、客を飽きさせない。3代目・尾上菊五郎が、持ち前の美貌で南北最大のヒット作『東海道四谷怪談』初演で怨霊となるヒロインのお岩を演じ、7代目・市川団十郎が冷酷に女を裏切る悪人の役を演じている。

てか「ケレン味」って何?って人はこちら




⚫︎ 今の人形町が元の芝居町


化政文化が終わると天保の改革が始まり、歌舞伎のメイン舞台は浅草に移される。だがそれまでの歌舞伎は、主に今の人形町で行われていた。面白いのは、役者が芝居小屋周辺に住んだこと。娯楽を庶民の日常生活から切り離し、統制しやすくしようという幕府の政策の一環で、町場に家を構えることが許されなかったためだ。


芝居小屋を中心とした一帯には、役者や工業関係者が集住し、関連業種が次々と集まった。これによりエンタメ業界に特化したエリア=芝居町が形成され、他の街にはない独特の雰囲気が人々を魅了していたらしい。運が良ければ道でばったり贔屓の役者に会えるかもしれないのだから、道を歩くだけでテンションが上がること請け合いである。


ちなみに、この辺りで芝居見物の土産物に「人形=歌舞伎役者のフィギュア」を売る店が多かったこと(それと「あやつり座」があったこと)が由来として今も地名に残されている。




⚫︎ 役者見世という名のタレントショップ


歌舞伎役者は、副業として自分の名を冠した「役者見世」を出していた。初めのころは役者の自宅の一角で商売していたので、役者自身が「〇〇屋!」と呼ばれるようになった理由のひとつなんだとか。やがて、自宅とは別に店舗を構えるようになり、本業のイメージを大いに利用した化粧品や、髪油、香具、お菓子などを売り出した。商品の表面や包装紙に役者の家紋を入れ、転倒には役者の等身大フィギュアを置き、芝がない時は本人が店頭に出て、せっせと商売していたそうな。


例えば市川團十郎は、自身の家紋を入れた「團十郎団子」を売っており、芝居の中でさりげなく「おお!これは團十郎団子くらい美味い!」とか商品名をぶっこんだりして観客の笑いを誘っていたらしい。


そんな感じで、江戸歌舞伎全盛のこの時代、浮世絵でも役者絵は大人気を博し、千両役者は常に庶民の憧れの的。同時にファッションリーダーでもあるため、呉服屋は彼等に新作の着物を着てもらうことで同じ色柄の品が飛ぶように売れた。他にも、人気役者が舞台で触れただけの水が化粧水としてバカ売れしたってんだから、すごい熱狂ぶりである。




↑ は11月の顔見世興行の芝居がハネた(終わった)直後の芝居町を描いた浮世絵。日が暮れて、暗くなってもすごい人出で賑わっている様子がよくわかる。これが人形町の在りし日の景色だったのか。。


もう少しこの雰囲気の名残りを今の人形町にも残しておいて欲しかったよなぁ。歌舞伎の歌の字も残ってないじゃんけ。。