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一般社団法人 江戸町人文化芸術研究所

vol.66「葛飾北斎」について

2024.08.04 20:00


いや実はとっくに『HOKUSAI』観たんですよ。観たんですけどね。まあ、このブログ自分用ですし、誰に読ますものでもないので言っちゃいますけど、、死ぬっっほど退屈な映画でした。アマプラレンタル代400円程度の損でしたが気分的には4000円くらい返してほしくなりましたね。だってこの作品のせいで北斎への興味が薄れて、実際この記事書くのがダルいですもん。観なきゃ良かったとはこのことでっせ(怒)


まあでも、北斎自身が悪いわけではないので辛口映画評論はこれくらいにしときますが、それにしても北斎について語るのは骨が折れます。wikiでも〇〇期、〇〇期って妙に長ったらしいですしね。だもんで、そんな北斎の長ったらしい人生(←超失礼)を追うのは諦め、一番メジャーな『富嶽三十六景』に焦点を当てさせていただきます。だってもう北斎ちょこちょこ触れてきましたし。




⚫︎ 1831年 『富嶽三十六景』完成


とりあえず経緯としては、歌麿写楽に先を越されて悔しかった時代を乗り越え、滝沢馬琴と一緒に暮らして『南総里見八犬伝』の挿絵で有名になり、還暦を迎え弟子も200人規模となってようやく金に困る生活から抜け出した頃。娘のお栄が出戻るわ、脳卒中で倒れるわ(後に回復)後妻が亡くなわ、と踏んだり蹴ったり。妻の死の悲しみを振り払うかのように作画に没頭して完成したのが、この『富嶽三十六景』ってぇ、いきさつで。


当時、富士山を拝んで心願を叶える「富士講」と呼ばれる民間信仰が盛んだったことから、この「富士講ブーム」に目を付けた版元「西村永寿堂」が北斎に富士山の風景画制作を依頼。版元の目論見通り、富嶽三十六景は大ヒットとなり、それまで「美人画」や「役者絵」が主流だった浮世絵に、新たに「風景画」の分野を確立するに至ったってワケ。


では、ちょいと有名どころだけ、その絵の特徴やらポイントやらを軽くまとめてみましょうかの。


< 唯一無二、迫力満点な白波の表現 >

『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』


現在の横浜本牧沖の海上風景を描いたと言われており、葛飾北斎の代名詞と言っても良いほど有名な作品である。

この作品の魅力は、なんと言っても荒々しい波の描写と、遠近法を用いたダイナミックな構図。手前には、人々を乗せた舟を飲み込もうとするかの如く高く立ち上がった大きな波、奥には小さいながら存在感を見せる富士山。静と動を用いることで豊かな自然を表現しており、海外でも「グレート・ウエーブ」と称され、親しまれている。


また、本作にはもうひとつ注目したい部分が存在。それが、大波にのまれそうになる押送船(おしおくりぶね)にしがみ付く人びとの姿である。押送船とは、江戸時代に鮮魚を運搬するために使われていた船のことで、本作品では合計で3隻の押送船が描かれており、海に投げ出されないようにしがみ付く人びとは、俯いていたり、口を閉じていたり、その表情は様々。


北斎は、大波に翻弄される人びとの姿を描くことで「人は、自然の前では無力である」ということだけではなく「自然は恐ろしいものではあるが、マイナスなイメージだけではなく、面白い点もある」ということを伝えている、と考えられているのだとか。


波の表現に強いこだわりを持ち、生涯に亘り探求した葛飾北斎。大波が崩れるほんの一瞬を表現した同作品は、葛飾北斎の浮世絵作品の中でも突出した一作として、高く評価されているんですって。


< 葛飾北斎ならではのビビッドな色使い >

『富嶽三十六景 凱風快晴』


通称「赤富士」とも呼ばれ、画面いっぱいに大きく描かれた富士山が印象的な1枚。

「凱風」とは南風のことで、夏から秋にかけての晴れた早朝に、富士山が赤く染まったように光輝くことがあると言う。北斎がその景色を見たかは定かではないが、秋を感じさせる雲が浮かぶ青空に、赤のグラデーションで描かれた富士山がそびえる様が見事。細部に注目してみると、裾野の樹海までも細やかに表現されている。シンプルながら飽きさせない、巨匠ならではの傑作と言える作品である。


富嶽三十六景は、浮世絵に風景画という新たなジャンルを確立した。北斎に憧れた「歌川広重」は、すぐさま後を追うように『東海道五十三次』を発表。


北斎は晩年、脳卒中や飢饉、大火事など、様々な不幸に見舞われるが、肉筆画の傑作を数多く手掛け、1849年(嘉永2年)90歳で没した。



⚫︎ 葛飾北斎の最期の言葉


晩年になっても、朝から晩まで絵を描き続けたと言われる葛飾北斎。一般的に、人は年を取れば衰えてしまうと考えがちであるが、北斎はそうは考えず、「年を取れば取るほど、技に磨きがかかる」と信じていたらしい。


北斎の人柄や生き様については、絵手本や書状、川柳などから読み取ることが可能であり、例えば、幼い頃から絵を描き、亡くなるときまで絵の修行を続けてきた北斎は、75歳頃に完成させた富嶽百景の跋文(ばつぶん:あとがき)で、以下のように述べている。


「私は6歳から物の形状を描き写す癖があり、50歳頃から多くの作品を発表してきたけれど、70歳以前に描いた絵は、じつに取るに足らないものばかりだ。73歳にして、ようやく鳥や獣、虫、魚の骨格や、草木の構造を少しは悟ることができた。だから、80歳になればより腕に磨きをかけ、90歳では奥義を究め、100歳になれば神妙の域に達することができよう。そして100数歳ともなれば、一点一画が生命を得たようになるだろう。長寿をつかさどる君子よ、どうか私の言葉が嘘でないことを見届けてくれ」


北斎は、周囲からの評判や評価を気にかけることなく、「真の画家」となるため、長生きすることに強いこだわりを持っていた。しかし、葛飾北斎の願いは残念ながら叶うことなく、90歳でその生涯を閉じる。


北斎が最期に述べたとされる言葉が「天、我をして5年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」(天が私の命をあと5年保ってくれたら、私は真の画家になれただろうに)。


北斎は、自身を「未熟な画家」と認識したまま亡くなったが、その作品は国内外で高い評価を得てきた。葛飾北斎の代表作は現在でも、日本のパスポートの査証ページや、2024年(令和6年)に発行が開始される「新1000円札」など、身近な場所で使用されている。



⚫︎ 海外で巻き起こしたジャポニズムと国内の影響


葛飾北斎の作品は、大胆な構図や鮮やかな色彩、型に捉われない自由な表現が魅力。日本のみならずヨーロッパの印象派を始め、画壇に大きな影響を与え、世界の美術史にその名を刻んでいる。

熱心な浮世絵の収集家としても知られる「ゴッホ」や「モネ」などの有名画家を始め、様々な画家が日本美術に影響を受けて作り出した新たな流行は「ジャポニズム」(日本趣味)と呼ばれ、19世紀の西洋美術を彩った。


例えば、印象派の「エドガー・ドガ」や「メアリー・カサット」は、北斎漫画の人物描写に類似した作品を制作。作品の主題に動物や植物を描く画法にも、北斎の影響が見られる。また、モネや「カミーユ・ピサロ」は、富嶽三十六景の斬新な構図に倣い、パリの浮世絵師とも呼ばれた版画家「アンリ・リヴィエール」は、エッフェル塔をモチーフに『エッフェル塔三十六景』を発表している。


海を越えた北斎の影響はもちろん、国内でも多くの浮世絵師が北斎に憧れました。200人を超える門徒の中には、江戸時代の浮世絵師番付で「歌川豊国(うたがわとよくに)」「歌川国貞(うたがわくにさだ)」に次いで3位に付いた「蹄斎北馬(ていさいほくば)」や、「諸国名所シリーズ」が話題となった「魚屋北渓(ととやほっけい)」などが有名。


さらに、北斎に「美人画ではかなわない」と言わしめた実の娘(お栄)の「葛飾応為(かつしかおうい)」は、北斎との合作など老齢の北斎を支えながら作品を描き続け、のちに「日本のレンブラント」と称されるほど、色彩に優れた佳作を生んでいる。




国境を越えて多くの人々を魅了し、愛されてきた葛飾北斎の作品達。大胆な構図、鮮やかな色彩、繊細な表現、森羅万象を対象とした作品群は、北斎が没してから200年を超えた現在でも、斬新な輝きを放ち続けている。


と、北斎について自力でまとめるのがダルかったので、ここまで全部「刀剣ワールド」さんからの転載であります。刀剣ワールドさん、いつも誠にお世話になっております。刀剣ワールドさんが詳しい記事をおこしてくれているおかげで、私のような不勉強者でも日本の歴史や伝統に触れやすくなり、たいへん勉強になっておりますです。今年の9月には初めて名古屋に行く機会が出来ましたので、是非とも御博物館にも訪れたいと思っております。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。


PS.近くにオススメのひつまぶしのお店があったら教えてくださいませ。



⚫︎ 刀剣ワールドさまさま

https://www.touken-world.jp