「アメリカーナ」(ヨシオ カサヤカ)
今年は、ある意味で記念すべき年だった。31歳になったからでも、初めて車のハンドルを握ったからでもない。初めて、英語の小説を読み通したからである。
C・アデイーチェの「アメリカーナ」を買ったのは今年の2月だった。家や、通勤途中のバスの中や、一時帰国で実家に戻る飛行機の中で読んだ。6月に読み終わるまでには、バックパックの中で日々もみくちゃにされたせいで、ページの端は曲がり、コーヒーの染みもできてしまった。
英語の本を手に取り、読んだことは過去に数回あった。留学先の授業の課題作だったアフリカ系アメリカ人作家の小説、インド南部を旅行中、記念に買った現地の作家の小説、ミャンマーに赴任した当初、舞い上がってバンコクの紀伊国屋で買ったミャンマー研究本、などである。だがどれも、そのきっかけは、課題としてどうしても読まざるをえなかったり、物珍しさで手を出しただけだったり、「洋書を読んでいる自分」への憧れだけだったりで、最後の1ページまで本当に楽しんで読み切る原動力にはなりえなかった。実際、これらの本について、それぞれの内容はなんとなく覚えているものの、どの場面のどの表現で、自分がドキドキし、ワクワクしたかという記憶が一切ないのだ。
そんな自分が、初めて本を読了したので我ながら結構びっくりした。どういうびっくりの仕方かというと、10年前に生まれて初めて外国に行ったときと同じようなびっくりである。
私が初めて外国に行ったのは、大学の主催していた、豪州の大学での1ヶ月の語学研修である。飛行機が当地に着陸する間際、隣の座席にいた他の参加者と交わした言葉を今でも覚えている。たまたま隣席になった彼は、一つ上の学年の、関東出身の学生だった。私達は性別も、学部も、出身地も違ったが、2人ともこれが初めての海外だった。機内の窓から着陸地が見えてきたころ、どちらともなしに「海外って、本当にあったんですね……」「そうですね」と私たちは言葉を発した。傍で聞いたら、なんとも間の抜けた会話だと思うだろう。それでも私たちは、少なくとも私は、本当にそう思ったのだ。「海外って本当にあったんだ」と、知らない街に自分の乗った飛行機が着陸するのを見て初めて確信したのだ。
「アメリカーナ」を読み終わったときの感覚は、何故かそれに似ていた。自分が今までいた場所以外の、別の世界があったんだ、と一人で静かにびっくりした。
私は、物心ついてから、楽しいときも悲しいときも図書館か本屋に行っていた。お先真っ暗なとき、例えば人生で初めて彼氏というものができたと思ったら1ヶ月で振られたり、親が緩和病棟に入ったときも、私は図書館に行き、本を物色していた。書棚に並ぶ大量の本には何らかの力がある。大量の背表紙を見ると、どんなに自分の人生が終わっているかのように思えても、少なくとも、本を読むという使命がまだ残っているような気になるのだ。生きる気力が湧く、という自発的なものではなく、もっと有無を言わせぬ強制的な力である。この力をなんと表現したらいいのかわからないが、とにかく今までの30年間の人生で、自分にとってそうした強制力を持った本とは、すなわち日本語で書かれた本だった。
今年、「アメリカーナ」を読み終わったとき、それ以外の選択肢も存在しているんだ、ということに気づいた。日本語で書かれた本でなくても、同じように、早く次の展開を知りたいという気持ちと、読み終わりたくないという気持ちが拮抗し、そのためだけに明日が楽しみになるような感覚を味わうことができるんだと気がづいた。それは、10年前の春、メルボルンに到着したときの自分の驚き、世界が2つに増えたような衝撃によく似ていた。