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ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~全国の姥神像行脚(その1)~「山形県作谷沢の姥神像とは・・・【寄稿文】廣谷知行」

2018.12.18 14:55

先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国地方における大雨災害で亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。


本号から新シリーズが始まります。
全国の姥神像を訪ね歩いておられる姥神信仰研究家の廣谷知行氏に各地の姥神像についてご寄稿いただきます。第一話は山形県より「作谷沢の姥神像」です。


山形県作谷沢の姥神像

山奥にひっそりと

山奥にひっそりと作谷沢の姥神像

作谷沢の姥神像


山形県山辺町作谷沢地区には、集落から離れた山のなかにひっそりと祀られた姥神像があります。どのような経緯で祀られたのか伝えるものも無く、知る方もいないのですが、三宝荒神を祀ったとされる場所にあります。


ここから奥に、斜面を下る道があり、やや開けた場所に「永代念仏塔」と刻まれた石碑と、根元が空洞になっている木があります。この木の空洞内に、以前は剣があったと言われます。


武田泰造氏の『続山辺夜話』に、近くの古老からの話が載っているのでまとめてみると、「石碑と木の場所からさらに鉄の梯子で下ることができ、下に流れる宮の沢は禊をする場所だった。また、空洞内には焚き火の跡があり、そこに籠った信者もいた」とのこと。 


湯殿山信仰の跡か?

「永代念仏塔」と刻まれた石碑には胎蔵界大日如来をあらわす種字のアーンクが刻まれています。このほか、「導師 本導寺祐覚」の文字も見えます。本道寺は月山・湯殿山信仰で栄えた寺のひとつであり、胎蔵界大日如来は湯殿山の本地仏であることから、出羽三山信仰が深く関係していたのではと考えられます。ここから先に説明しました木の空洞の焚き火の跡は、湯殿山講において、参拝に行く者が籠る行屋として使用した痕跡とも想像できます。

湯殿山本宮大鳥居

また、姥神像の手前には、修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)の像もあることから、修験道とのつながりがあったと思われ、そのことも修験道としての湯殿山信仰とのつながりを感じさせられます。

苔むした芭蕉句碑「語られぬ 湯殿に濡らす 袂かな」と刻まれています。

ちょっと離れた場所になりますが、松尾芭蕉の句「語られぬ 湯殿に濡らす 袂かな」が刻まれた句碑が近くにあります。こちらの碑にも大きくアーンクの種字が刻まれています。なぜ山奥に句碑があるのか謎でしたが、古い道をみると姥神像のところまでつながった道の途中にあることから、湯殿山を祀った場所へ行く途中に句碑が作られたと考えることができます。


山岳信仰の結界として

像には、「安政五年」、「四月八日建之」とあり、「願人」として何名かの名前が刻まれています。安政5年は1858年であり、江戸後期となります。その頃は、江戸などで姥神信仰が流行った時期でもあり、また湯殿山や富士講に習い、山岳信仰による講が全国に拡大していった時期でもあります。


湯殿山では、女人禁制の結界の境界に姥神像を祀っていました。この作谷沢でも、湯殿山信仰を勧請した場所に、結界の意味で建立されていたのではないかと思われます。


続く・・・


寄稿文
廣谷知行(ひろたに ともゆき)
姥神信仰研究家



協力(敬称略)

出羽三山神社 〒997-0292 山形県鶴岡市羽黒町手向字手向7 TEL:0235-62-2355


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