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自然の創造物としての人間。生命。

2024.06.28 12:39

FacebookAyuka Mizoguchiさん投稿記事

現代生活は、いわゆる動物としての人間から遠い生活スタイルになっているかもしれません。生命の息吹を心と体で感じるよりも、正論を尊ぶような思考中心主義が良しとされているかと思います。

そこにまたコロナの影響で、口と鼻を塞ぐという生命に一番大切な呼吸を二の次にし、生命の発露や喜びよりも(偽の)安全を選んで縮こまって生きている感じがします。

まずは、人間らしさを取り戻し、お腹の底から深く呼吸をし、表情豊かに大きな声で笑い、自然を愛でる、考えすぎないで、心で感じたことを大切にする。そういった人間回帰でまずは人間らしさを十分に感じたいですね。

そしてその上で、今度は本質へと回帰していく。つまり、人間を超えた真の自分。空の意識である自分。そこが真の安心安全の場、愛のみである自分。究極の癒やし。

私たちは本質(本当の家)から遠く離れすぎたかもしれません。そろそろ戻っていきたいですね。

自然の創造物としての人間。生命を知り、生命としての自分を尊び、生命そのものとして生きる。ここから離れたとき、苦しみや病が生まれる。まずは人間回帰から始めよう♪


https://351.hateblo.jp/entry/2023/07/05/211558 【キリスト教と環境倫理:創造物への責任】より

環境倫理とは、人間の自然環境に対する態度と行動を規定する価値観や原則を研究する学問分野です。この記事では、キリスト教の視点から環境倫理を探求し、創造物への責任をどのように理解し、行動に移すべきかを考察します。

キリスト教の視点から見ると、環境倫理は神の創造物への尊重と保護を中心に据えます。創世記において、神は世界を創造し、その完成を「良い」と宣言しました(創世記1章31節)。そして、神は人間を自分の「似姿」として創り、彼らに「地を統治し、海の魚、空の鳥、地に這うすべての生き物を支配せよ」と命じました(創世記1章26-28節)。ここから、キリスト教の環境倫理は、神から与えられた地球の統治者としての役割を果たすべきという人間の責任を強調します。

しかし、「統治する」という概念は誤解を生む可能性があります。それは人間が自然環境を無制限に利用し、破壊する許可ではありません。キリスト教の観点から見れば、「統治する」とは神の創造物を保護し、保持し、育てるという意味であり、環境への尊重と責任を伴います。これは、創世記2章15節で語られている、「エデンの園を守り、耕す」ために人間が置かれたという教えからも確認することができます。

また、キリスト教の視点から、自然界は神の創造の美しさと豊かさを反映しています。ローマ人への手紙1章20節では、神の永遠の力と神性が創造物から理解されると述べられています。したがって、自然環境を破壊することは、神の創造を軽視する行為となります。

20世紀以降、地球環境の悪化に対する懸念から、「エコ神学」と呼ばれる新たな神学的視点が生まれました。これは、キリスト教の教えから自然環境を保護するための倫理的指針を見つけようとする試みであり、神の創造物への深い敬意と地球とその生態系の維持に対する積極的な責任を強調します。

エコ神学では、聖書のテキストを再解釈し、キリスト教徒が地球環境の保護者であるべきだという新たな理解を提供します。例えば、フランシスコ会のパトロンである聖フランチェスコの教えは、すべての生物が神の家族の一部であるという視点を示しており、これはエコ神学の重要な一部となっています。

総じて、キリスト教は創造物への尊重と責任を教え、私たちが自然環境とどのように関わるべきかについて重要な洞察を提供します。現代社会において、この倫理的理解は気候変動、生物多様性の喪失、資源の過度な消費など、地球規模の環境問題に取り組むための重要な基盤となり得ます。神の創造の管理者として、私たちには地球を守り、次世代に健全な環境を継承する責任があります。これはキリスト教の信仰が求める基本的な責務であり、同時に私たちが直面する環境的課題への対応としても重要です。