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福井中央キリスト教会 【日本同盟基督教団】

「神のみ座から立ち上がり」

2024.07.01 01:17
使徒の働き 7章54-60節
54. 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしていた。
55. しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、

56. 「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。

57. 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。

58. そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。

59. こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」

60. そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。

礼拝メッセージ

使徒信条シリーズ⑪

2024年6月30日

使徒の働き 7章54-60節

「神のみ座から立ち上がり」


 私が中学・高校生だった頃、テレビで「進め電波少年」というバラエティ番組をよく見ていました。芸能人がびっくりするような、ときに無茶と思われる企画に体当たりで挑戦していく番組でした。ハチャメチャな企画の一つに、世界の著名人をアポ(予約)無しで訪問し、その人の椅子に座らせてもらうというものがありました。お笑い芸人が総理大臣や大統領、大会社の社長のもとに行き、総理の椅子や社長の椅子に得意げに座る。そんな様子が放送されていました。

 今、振り返ってみますと、たとえ総理大臣の椅子、社長の椅子に座ることができたとしても、それは張りぼての姿です。若いお笑い芸人が、どんなに威張って見せても、ふんぞりかえって座って見せても、貫禄も権威も感じないでしょう。その椅子に本来、座るべき人が座ってこその貫禄・権威なのだと思います。今日のメッセージのキーワードは椅子、み座です。

 今朝は使徒信条の「そして全能の父である神の右に座しておられます。」という告白に注目します。十字架の死と復活を経て、天に帰られたイエス様は元々おられたところ、父なる神様の右の座に着かれます。右の座、そこは王様が利き手である右手をすぐにさし伸ばせる場所でした。一番大切な存在、一番信頼できる存在がいる場所でした。権威者の右に座る者は、その権威者と同じように重んじられる代理人でした 。

余談ですが、日本では逆に、古くから左上位の考えがあり、身分にも同様の考え方をします。朝廷での官職の順位は 左大臣、次いで右大臣となります。左大臣は今で言う内閣総理大臣に当たります。右大臣はそれを補佐する重要な人物です。(人形の東玉 ホームページより)

 

父なる神様の右に着座されたイエス様。このことはイエス様がまことの王であり、主の主であられること。そして何よりも、イエス様がご自身のいのちをささげてくださったことにより、私たちの罪の赦しと救いが完成していることを表しています。

ヘブル人への手紙 10章
11. さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができませんが、12. キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、13. あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。14. なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。15. 聖霊もまた、私たちに証ししておられます。というのも、「これらの日の後に、わたしが彼らと結ぶ契約は16. こうである。─主のことば─わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにこれを書き記す」と言った後で、17. 「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」 と言われるからです。18. 罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。

 旧約聖書の時代、神様と人との間に立つ祭司は、自分と人々の罪の身代わりとして、幕屋や神殿で、聖なるいけにえを神様の前にささげました。それは毎日、立って行う仕事でした。しかし、どんなにいけにえをささげても、人の内から罪は消えませんでした。

 それに対してイエス様は神の子羊として、ご自身が身代わりとなって十字架で尊いいのちをささげてくださいました。そして天の神の右に着座されたのです。旧約の祭司たちのように、罪が赦されるため毎日あくせく立って動く必要はありません。あの十字架の上で、一度限りの完全な身代わりの死ににより、私たちの罪の赦しは完成したのです。イエス様の身代わりゆえに、「もうあなたの罪は思い起こさない」と神様は言ってくださるのです。

 地上での救いの御業を成し遂げられたキリストが今、天でどっしりと座っていてくださる。勝利者としてみ座に着いておられる。だから私たちは、キリストによって救いが完成していること、揺るがされないことを信じていけば良いのです。

先ほど交読したヨハネの黙示録4章には、天上のみ座におられるイエス様の輝きと、イエス様への賛美が記されています。私たちも地上からイエス様に向けて、こんな感謝・賛美をおささげしていきましょう。

王の王、主の主であられるイエス様は今、天の王座におられますが、このお方は、地上の私たちの日々の生活に無関心な王様では決してありません。私たちが日々、社会で葛藤していること、一生懸命、学び働き、生きていること。もがき苦しんで悩んでいること。喜んでいること。悲しんでいること、痛みに耐えていること。誘惑と戦っていること。そういうことに無関心で、王座にふんぞり返っている王ではないのです。

イエス様はそれとは正反対の王様です。そのことが表されているのが、使徒の働き7章のステパノ殉教の場面です。

ステパノは、キリスト教会最初の執事(今で言う教会役員)でした。選ばれたリーダーでした。そしてキリスト教会最初の殉教者でした。当時のユダヤ教指導者の過ちをするどく追及したため、彼らにねたまれ憎まれ、不当な裁判にかけられます。そして、怒り狂った群集の手にかけられ、石で打ち殺されてしまうのです。

処刑される直前、ステパノが見ることができたのは天国の情景でした。天国におられるお方、「神の栄光と神の右に立っておられるイエス」様を見上げ、見つめることができたのです。

恐ろしい死を前に、ステパノの目に入ってきたのは、神の右のみ座に座っておられるイエス様ではなく、み座から立ち上がり、ステパノを見つめてくださっている主イエス様でした。立ち上がり、身を乗り出して、天を開いて、ステパノを天へと引き上げようとしてくださっているイエス様だったのです。

私たちの信じているイエス様は、このような王様です。天高く遠くから、私たちを見下ろし、私たちの歩みに無関心なお方ではありません。天のみ座に座り込んでなどおられず、立ち上がってくださり、私たちを見続けてくださっているお方なのです。

私たちの歩みはふらふらしやすく、頼りない信仰生活です。いつもイエス様をみ座から立ち上がらせてしまうような、イエス様の心配の種となってしまうような私たちです。本当に申し訳なく思います。それでも、こんな私のためにさっと立ち上がってくださり、身を乗り出して私を守り、支え、導いてくださるイエス様なのです。ただただ感謝するしかありません。

私のために、あなたのためにイエス様は天のみ座から、今日も立ち上がってくださいます。イエス様は、今もあなたのことをとりなしていてくださり、あなたのために祈り続けてくださっています。本当にすごいことです。もったいなく、申し訳ないことです。

私たちは、王の王、主の主イエス様にただただ感謝し、ひざまずくしかできません。ステパノが天のイエス様を見て、ひざまずいたように。

使徒の働き 7章 59,60節 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。

石打の刑:想像するだけで痛々しく、恐ろしい処刑方法です。ステパノはそのさなか、開かれた天上におられる主イエス様を見ることが出来ました。主イエス様が、そのお姿をステパノに見せてくださったのでしょう。次から次へと、怒りと殺意に満ちた恐ろしい石が、自分に向かって投げつけられる中、ステパノは祈ります。「主イエスよ、私の霊をお受けください」両手をひろげ、天で待っていてくださるイエス様に、「私の霊・私のたましいをおゆだねします。どうか天で私のたましいを受け取ってください」と、信頼して祈り求めました。

そしてステパノの最期の叫び・祈りは衝撃的です。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。

自分をおとしめ、痛めつけ、殺そうとする人に向かって、いったい誰がこんな祈り・願いをささげられるでしょうか!? しかも大声で叫んでいます。敵としか思えないような相手です。ねたまれ、のろわれ、ひどいことをいっぱいする相手に向かってです。怒りの言葉や呪いの言葉、うらみつらみを吐いて当然のように思われます。けれども、主イエス様を見つめていたステパノは、あの十字架上でのイエス様の祈りにならったのです。

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)

ステパノはイエス様のように祈りました。あの人たち=自分を殺そうと石をぶつけるあの人にも、主イエス様の愛が・赦しが・恵みが・救いが必要だ。それが届いてほしい。あの人にも主イエスの救いが届くのだ。イエス様はあの人のためにも十字架で身代わりに死んでくださった。イエス様を見つめ、イエス様の御声を聞いていたステパノは、イエス様の愛で満たされていました。

ステパノの殉教、この出来事で素晴らしいのはステパノの勇敢さや信仰深さというよりも、ステパノをこのような愛の人に造り変え、生かし、用いてくださった主イエス様の素晴らしさでしょう!

天の王座に座ってなどいられなくなり、立ち上がって、身を乗り出してくださっているイエス様です。あなたのためにも、私のためにも、イエス様はそうしてくださいます。

天に上げられ、神の右の座に着座されたイエス様は、すべてのすべてであられるお方です。このお方以上に素晴らしいお方など存在しないお方です。天地万物すべてのものが、また私たちもこのお方の前にひざをかがめ、ひざまずいて、「イエス・キリストは主です」と告白し賛美します。

この王の王でいてくださるお方が、私たちのために王座から立ち上がり、身を乗り出し、私たちを気にかけ、愛し導いてくださっているのです。王なるイエス様が、「わたしはいつも永遠にあなたと共にいるよ、あなたを守り支えていくよ、どんな時も愛しているよ」と語りかけてくださっています。

王なる主を信頼し、喜び、このお方にならい、従っていくしもべとならせて頂きましょう。何があっても、このお方と共に歩み続けて生きたいと思います。

祈ります。