‣幕間 《Listen》
ことん、とコップがカウンターに置かれた音は静かな喫茶店の中に消えていく。
ここはシュリンガー公国のはずれに存在するとある宿屋の地下喫茶。焙煎された香ばしい豆の香りが漂い、私は今ランチに夢中だ。こんがりとした表面、噛めばざくっと気持ちのいい音がなるクロックムッシュを片手にミルクと砂糖のたっぷり入った珈琲を啜る。淹れたての珈琲はミルクを淹れようが砂糖を入れようが、パンものとよく合う。そんな口の中に広がる味わいを何とないような表情で食べ終えお代わりの珈琲を啜ってゆったりしていると、カウンターの向こうにいる女性はは私の食べている姿に満足したのかにこにことした笑顔でこちらを見ていた。
彼女の名前はオウカ。公国に咲き誇る桜のような色合いのロングヘアー、長いまつ毛に妖艶な赤い瞳。長身でスタイルもよく、モデルに出ていてもおかしくないような容姿をしている彼女はこの喫茶店のオーナーだ。今はハイネックセーターとジーパンという出で立ちでこれが彼女の喫茶店での仕事姿なのだろう。
「ね、薙ちゃん。良かったら、これ。来てもらえないかしら?」
彼女から長方形で少し黄色味を帯びた一枚の紙切れを受け取ると、その紙の中央に書かれた大きな文字からそれがなんなのかはすぐにわかった。
「これは…ライブのチケットか?」
「そう、毎年この時期になると公国にある会場でライブやってるの。それで、貴方よく喫茶店来てくれてるから、招待しようと前々から思ってたんだけど…、…?どうかした?」
まじまじと見ているのが気になったのだろう。何でもない、とチケットを手元に置くと一口珈琲を飲み、またチケットを手にする。
「いやなんだ…あまりこういうものに行かなくてな。それに…いつか行きたいと心待ちにしていたから、驚いたのと嬉しかったんだ。」
その言葉を聞いた彼女はぱっと表情を明るくし両手を手前で合わせた。
「そう!よかった。貴方も来てくれるんだったら俄然頑張らないとね。でもごめんなさい、それ一人分なのよ。残りのチケットも売り切れちゃって、ほんとだったらシキちゃんとヴァイスさんの分も取りたかったんだけど…」
シキ、というのは私のことを姐さんと呼び慕ってくれているでかい連れのことだ。ヴァイスは私の旦那。三人で来る事もあるが今日ここにいるのは私一人だった。
「そうか…まぁ今回は留守を頼むさ、内緒でな。」
シキは私のように一人でもよくここを訪れているらしい。帰ってきたときは、ピアノを習った、あれそれが美味かったなどと嬉しそうに話す。今回は残念だがお留守番しててもらおう、話したら話したで余計にがっかりさせてしまう。
コップに残った珈琲をくいっと飲み干すと食器をオウカへと渡す。
「それじゃ馳走になった。またライブで。」
「えぇ。ご来店ありがとうございました、またね。」
*****
後日、私は小洒落た服に身を包み公国の裏通りへ来ていた。服選びに時間を取られたので速足で通りを抜けていく。裏通りは表の大通りの賑わいとは真逆で、不思議なほどしんと静まり返っていた。チケットの端に記された住所と小さな地図を頼りに道を進んでいくと、入り組んだ道に時折進む方向を間違えそうになりながらも城壁に接した一軒の家にたどり着いた。一般的な家よりも一回りか二回り大きい。周りはここまでに通ってきた道と変わらず静かで、果たしてここで合っているのかと思いながらドアノブに手をかける。だがそんな不安を吹き飛ばすように取り巻く雰囲気が一変した。
見渡せばそこかしこに人、魔物、人、魔物。これだけ大勢いながらどうして外に声が漏れてこないのかと思うほどひしめき合っている。中は外見通り広く、奥にはステージが、その手前には手のひらサイズのランプとグラスの置かれた細長いテーブルが交互に縦に並べられており、すでに何名かは着席していた。その光景に呆然としながら立ち尽くしていると、一人のウェイター姿の青年が声をかけてきた。
「薙さん、いらっしゃいませ。」
「ん……タビトじゃないか。ふふ…その恰好、バーテンダーでもやっているのか?」
普段旅人然とした身軽な恰好をしている黒髪をオールバックに整えた彼、タビトのきっちりとした服装をからかうように言ってみる。案外その服装も似合っていると思うが彼はネクタイをいじりながら、着ているだけで肩がこるなんて言う。慣れていないだけだろう、と苦笑しながら奥へ進むとカウンターには彼のパートナーである少女、ローザがポニーテールにした臙脂の髪を揺らしながらせわしなく動いているのが見えた。
「アルバイトしてるんだ。今日は沢山お客さんが来るからオウカさんにヘルプで雇われました。たまにはこういうのもやらないとね。」
「なるほどな。」
納得しているとローザはこちらに気づいたようでカウンターから手を振ってくる。
「薙さんだ~。あっちにマスターさん達もいるよー。」
彼女の指さした方に目をやると覚えのある顔がいくつかあった。どれ、とまだ立ち話をしている集団の隙間を抜けながらステージに一番近い席まで歩いていく。するとこちらに気づいたようで、黒髪の小柄で眼鏡をかけた男性がこちらを向き、眼鏡の奥の金色の瞳がこちらを捉える。
「ん、夕薙ちゃんじゃないか。今日はひとりかい?」
「あぁ。…そっちは…一家全員そろってるな。」
彼の名前はフィート・ウェルデン、錬金術師だ。彼と同じ列に座っているのは真っ赤な髪の騎士と黒い髪の魔女、アレッサ・エクエス・ウェルデンとアレッサ・サーヘラ・ウェルデン。どうして彼女等が同じ名前を持つのか、それを一言で表すと、彼女等は同一人物なのだ。だから髪の色に違いはあれど顔も何もかも瓜二つ。難しい話、魂が云々だとか私にはよくわからない。だけれど確かなのは二人とも彼を愛する妻であるということだ。それは私でも分かる。
そして彼らが座るテーブルの向かいの席にはアレッサ達と同じ髪色をした娘達がいた。
「薙!こんばんはだ!」
「ふふ、こんばんはだな。変わりないか?」
「ああ!薙も元気そうで何よりだ。」
こちらを見るやいなや、ぱぁっと嬉しそうに笑みを浮かべ挨拶をしてきたのはクルシュ・ウェルデン。エクエスと同じ赤い髪を持っている。背丈は私より大きい。……解せない、がしかしとても真面目でいい子だ。もう一人はこちらをクルシュの背に隠れ不思議そうに覗いている。
「薙はどこに座るんだ?」
「……前列の…そこだな。ちょうどクルシュの隣だ。」
「お姉ちゃんその人だぁれ?」
サーヘラと同じ黒髪を持った少女はおっとりとした口調で姉であるクルシュに尋ねる。
「私の友達の夕薙だ。薙、こっちは私の妹のメルヴェーユだ。」
「そぉなんだ…!こんばんはぁ夕薙ちゃん、小っちゃくてかわいいねぇ。よろしくね~。」
「ちっちゃ…!い、いや……んんっ、よろしくメルヴェーユ。」
「んー?うん!」
きっとひきつっているであろう笑顔を不思議そうに見る彼女と握手をする。そして私はクルシュに誘われ前列一番前に座った。特等席というのだろう、ステージがよく見える場所だった。周りを見渡すと別の席から会釈をするダンテとスノゥというフィート達の使用人の姿も見えた。こちらも軽く会釈をする。一家全員で見に来るのもいいものだな、なんて思いながら私は後ろにいるクルシュと彼女の家族の話をすることにした。
******
話がひと段落してグラスに入った水を飲みながら座っているとテーブルをはさんだ向かい側の席から錬金術師達の話し声が聞こえてくる。どうやら魔物と話しているらしい。ちらりと横目で見るとその魔物は縦縞のスーツにシルクハットといういかにも紳士な雰囲気のオークだ。
「やぁ、偉大なる錬金術師殿。君も来ていたんだな。」
「どうも、いつぞやは世話になったね、貴方のおかげで色々と事も手早く済ませることができた、ありがとう。」
「はっは、私は特使としての役割を果たしただけさ。だが、その言葉は素直に受け取っておこう。」
どうやら面識があるようで話が盛り上がっている。フィートという人物は多くの冒険者が毛嫌いする魔物と深い交流を持っている。信頼も厚いようだ。だが彼らのような組み合わせはここでは珍しいものではないようで、見渡せば多くの人間と魔物が席を同じにしている。
「どうだねここは。君には見慣れた風景かもしれないが。」
「ふふ、いい場所だ。こんなところがまさか公国にあったなんて知らなかったよ。」
紳士オークは蓄えた髭を撫でながらステージを見る。そこにはまだ誰もいないがきっと裏で準備しているのだろう。
「それもこれもすべてオウカのおかげだ。公国の裏通りにあるこの場所には人避けの魔法を、チケットには人の姿に化けれない魔物の為に人間に見せる幻術のおまじない、至れり尽くせりだ。」
オウカが何故そんな力を持っているのか。聞けば教えてくれるとは思うが、私から聞くこともないことないので詳しくは知らない。だが先日私が行った喫茶店や宿も実は巧妙に隠されている。私達のように魔物と人間の共存に対して敵意、悪意のない人間はそれを認識でき、持っている者は触れることさえできない。そしてその触れることができないという感覚すら認識させない、現実と幻術の境界があいまいになるほど完成された幻術、そして後々まで覚えておくという行為すらできないほど対象の気配を薄めてしまう魔法を彼女はこうしている今も維持し続けているのだ。そう考えると実はオウカという人物はとんでもない存在なんじゃないだろうかと改めて感じるが…きっとこの感覚もすぐ忘れてしまうんだろう。彼女の底は知れないが、それと同時にその力を感じさせないほどとても穏やかな人物だった。
紳士オークと錬金術師は話を続く。彼らの内に秘めた思いというものは同じなようで、望んでいるものは人間と魔物の共存だ。だからこうして会うとあの国の事情がどうだ、民の意識はこうだ、世界の流れの話になる。
「ここに来るものは皆人間に危害を加えようなんて思いもしてないから街中で騒ぎを起こしたりはしない。ただ彼女の歌という一つの楽しみの為に集まっているのさ。」
「うん、まさしく僕が目指している景色だ。これからの未来を歩んでいく娘達にもいい経験になると思う。こういう場所が日常の風景として受け入れられればいいんだけど…そう上手くはいかないか。」
「そうだな。だが私はいつしかこれが当たり前になることを願っているよ。」
そんな二人の会話を耳にし、隣でいまかいまかと開演を待ちわびている彼の娘に少しばかり聞いてみたい衝動に駆られた。
「…なぁ、クルシュ。」
「ん、なんだ?飲み物か?私が取ってくるぞ。」
姉としての気質か、それとも彼女の性格なのだろうか、気が利く子だなと思う。
「いや、大丈夫だ。そうじゃなくて…クルシュは魔物もいるこの場所をどう思っているのか気になってな。」
前に彼女の父フィートから話を聞いたことがあった娘の魔物嫌い。今こうして魔物もいる中で彼女はどんなふうに思っているのだろうか、それが聞きたくなった。クルシュは上げかけた腰を下ろし、自分の前にあった水を一口飲むと落ち着いた口調で話し出した。
「……私は以前全ての魔物は無為に争うただただ野蛮で、憎き存在だと思っていた。だが、お父様とお母様、メル達と様々な景色を見てきて私の考えも変わった。」
そう切り出すと彼女は少し顔を伏せて目を閉じた。私もつられて同じように目を閉じる。耳に入ってきたのはどこそこの酒がおいしい、どこそこの景色は綺麗だ、最近の家族や一族の世間話、そんな会話が聞こえてくる。
「こうして耳を澄ませば…人も魔物も関係なしになんてことのない会話が聞こえてくる。違うのは文化、つまり生きる上での考え方と姿形だけなんだ。喜び感動し、嘆き悲しみ…その感じ方は一緒なんだろう。最近私はそう思う。そしてまた…許せないものというのも、一緒なんだろうな。」
「…そうか。」
「なぜそんな質問をしたんだ?」
「ん?ふふ、いや…ただクルシュを知りたかっただけさ。」
クルシュはよく分からないまま、だけれど嬉しそうに、そうか!と笑みを浮かべた。そうしていると話相手だった姉がいなくなったからか彼女の背中からひょいとのしかかるようにメルヴェーユが顔を出した。
「お姉ちゃんばっかり話してる~、私もお話ししたい~。」
「ふふ、あぁメルヴェーユのことも教えてくれ。」
「うん!えっとねぇ、ーーー」
******
二人と色々なことを話している内に天井で灯っていたランプの明かりが小さくなった。開演の時間だ。私が席に着きなおすとクルシュとメルヴェーユも続いて座り姿勢をぴんと正した。初めてのライブだからか、その表情は緊張しているようにも見えたがそれと同時にワクワクとした気持ちが見て取れた。
こつ、こつ、こつと、ステージ脇からヒールの音が聞こえてくる。薄暗い中を人影が進んでいき、ステージに登壇すると桜色の髪がライトを当てた夜桜のように輝いた。すらりとした背中が顕わになった体の線が出る黒いドレスの裾は、歩くたびその髪と共に波を打つ。
オウカはピアノの椅子をすっと引くと静かに座り、視線をピアノへと落とすと彼女は眼を閉じた。
そして彼女が座った後はぞろぞろと他の奏者が配置についていく。ドラムにはシノビーヌが、ベースは紳士オークとは別のオークが手にした。どちらもオウカと同じように黒いスーツを纏っている。
全員が配置につき、一瞬の静寂の後。響いたのはドラムの軽快な音。それに続くピアノとベース。思わず指が動いてしまいそうになる程軽やかなオープニングの中、後ろでかちっ、と小さな音が鳴る。きっとクルシュが音に驚いたのだろう。
会場に響き渡るリズミカルな旋律。音の波が体に伝わり、温まっていく会場、これから始まるライブに胸が高まってくる。
そしてまた音が止むと、次はオウカのピアノソロが滑らかに、繊細にメロディーを紡いでいく。オープニングとはうって変わった優しく包み込むような曲。そこに続いてドラムとベースも加わりリズムをとっていく。徐々にテンポが上がっていくその中をピアノのメロディーが駆け抜けていく。
その旋律を奏でるオウカといえば喫茶店でゆったりと珈琲をいれている彼女の姿はそこになく、次々と旋律を優雅に奏でるピアニストとしての彼女の姿がそこにあった。
歌なし楽器のみの演奏が何曲か終わると、オウカがステージの中央に立つ。そして小さな石を握るとそれに拡声の効果でもあるのだろうか、彼女の声が会場全体に響いた。
「こんばんは、オウカです。皆来てくれてありがとう。」
彼女が挨拶をすると拍手が起こり、オウカはその拍手を受けながら一人一人を見るように会場を見渡していく。
「短い時間だろうけど、楽しんでいってね。それじゃ次の曲、聴いてくださいーーー」
それからはずっと彼女が主役だ、豊かで甘い声はどんな曲調の曲でも会場を優しく包み込んでいく。シノビーヌのエネルギッシュなドラム、オークのつま弾く繊細かつ大胆なベース、ウッサーの軽快なサックス、オウカの代わりに入った人間のメロディアスなピアノ、そしてそんな中でもはっきりと聴こえる彼女の声。それらを聴き、楽しみながらディナーやドリンクをいただく。贅沢なひと時だ。
私はすっかり聴き入ってしまっていたが、一度だけ歌っているオウカと目が合った。その時に彼女の見せたはにかむような微笑みにどきりとしてしまったのは、内緒だ。
ステージに立つ彼女はとても美しく、そしてライブが終わった後の拍手は一段と大きなものだった。
******
「ご注文は?」
演奏の後向ったカウンターでタビトが注文を聞く。
「珈琲はあるか?」
「あるよ、少々お待ちください。」
瓶から取り出した豆をミルで挽き、それをドリッパーにいれお湯を注いでいくとふっくらとした泡がドリッパーの中で膨らんでいく。
「うまいもんだな。」
「まぁね、オウカさんのとこで練習もしてたから。」
それをぼぅっと見ていると、隣に人の気配があるのに気が付く。
「隣、いいかしら?」
「あぁ、どうぞ。」
オウカは私の隣に足を組みながら座った。スリットから見える素足はすらりと伸び、桜色の髪からは花のような香りがする。ほっと息をつく彼女は妙に色っぽいが、嫌に目につくこともなく自然体だ。桜を眺めるように見とれてしまう、というのが正しい表現なのだろう。なに?と聞かれたがなんでもないと答える。
先ほど演奏を終えた彼女は観客と一通り話をするようでさっきはウェルデン家と話していた。美人が三人も集まっていたものだからどこかの錬金術師殿の鼻の下が伸びていた、がそれは彼の威厳のため見なかったことにしよう。妻達の目線もそれに気づいていたようだし。
クルシュとメルヴェーユにいたってはすごかったの単語を連呼していた。よっぽど感動したのだろう。かわいらしいものだ。それから私がクルシュ達と別れを終えるとウェルデン一家は私より一足先にここを出た。
オウカは私と同じ珈琲を頼むと、それを一口。これも彼女なりのコミュニケーションの一環なのだろうか。私でない誰かと話をしている時もその相手と同じものを少量だが嗜んでいたのを目にした。
「ライブどうだった?楽しんでもらえたかしら?」
「あぁ…何と表現したらいいのか……とても素敵だったよ。誘ってくれてありがとう。」
「うっふふっ、そう。よかった。」
出された珈琲を啜りながらふとした疑問を投げかけた。
「ここでライブを始めたのはいつからなんだ?」
オウカもまた珈琲を一口飲むとカップを置き、指を唇に添えた。
「んー……もうずっと前ね。人から招かれて国々に演奏しに行くことはその前からもやってたんだけど、魔物も含めた大勢のお客さんが来るライブは今私がやってる喫茶店だけでやってたの。でもずっとそうやってたらいつの間にか喫茶店に全員入りきらなくなっちゃって。」
嬉しいことなんだけどね、と彼女は苦笑いをする。
「なんとかしたいなぁって思ってた時にお客様の中で公国に住んでた一人のご老人が言ってくれたの。それじゃあ自分の家は広いし使うといいって。私なら確かに公国でやろうと思えばできなくはないけど、でも贔屓にしてくださってるお客様に迷惑もかけられないし、断ったの。でもね、そう言われた日の後に呼び出されて来てみたら…ここができちゃってたのよね。しかも、全財産つぎ込んだって言ってたわ。」
「ずいぶん強引というか…思い切りのいい人だな…」
「ふふっ、そうよね。で、もうそこまでされちゃったら断るわけにはいかないじゃない?じゃあやってやろうじゃないのって始めたのがここのライブなのよ。」
オウカは懐かしそうに会場を見渡す。木造の家の天井、壁、床、そしてカウンターにも使われている木は上等なものだ。それに加え手入れもしっかりとされており建てられた頃からこの場所の景色は壁に張られたポスターの枚数と酒瓶の数だけで、そう変わってはいないのだろう。聞けばほぼボランティアで手入れがされているらしい。ここの酒類も寄付なんだそうだ。合法なルートで手に入れたもの、もしくは野生の植物から作り出した自作のもの、それらを持ってきて皆で飲む。それがここの自然にできた流れらしい。ライブの収入は楽器の手入れに使っているようだ。
「そのご老人は今日はいるのか?」
「いいえ、あの人は今はもう桜の中で眠ってる。」
オウカは珈琲の水面を少し眺めるとまた一口。
「そうか…会えないのが残念だな。」
「えぇ…居たならあなたにも会わせたかったわ。…それでね、あの人が息を引き取る前にいた最後のライブで聞いたの。どうしてここまでしてくれたのって。そしたら彼こう言ったわ。」
カップをほんの少し傾け両手で包み、その時のことを思い出すように呟いた。まるで恋をした少女のような顔で。
「……貴方に一目惚れしたんだよって。」
オウカは眼を細め心の底から嬉しそうな表情をした。
「…とっても素敵な人だったわ。私はもっと多くの人に、この素敵な場所で私の歌を聴いてほしいって思ってる。もちろん人も魔物も関係なくね。」
彼女は朗らかな笑みを浮かべる。あぁ、この笑顔にそのご老人はやられたのだな、と妙に納得してしまった。彼女の笑顔は見ているこっちまで嬉しくなる、それはきっと彼女のその気持ちが言葉通りで裏表がないからだろう。
「ふふ…私もその人に感謝しなければな、今日ここで貴方の素敵な歌が聴けたのもその人のおかげなんだから。」
「そうね。また来てくれるかしら?」
「あぁ、もちろんだ。何回でも通おう、私は吸血鬼だからな。何千回でも行くぞ?」
「あら、うっふふふっ!それはとっても嬉しいわ。…ん……それじゃ私行くわね、今度は喫茶店で。」
そう言ってオウカは席を立つと去り際にそれとなく私に軽くキスを投げる素振りをした。まったく、どきりとさせるのが上手い人だ。
彼女はまた誰かと話をしている。喫茶店で彼女は、話をするのが好きだとよく口にする。彼女の歌や曲を聴きに来た人、喫茶店に彼女が淹れた珈琲を飲みに来た人、彼女はピアニストでも喫茶店のオーナーでもあるオウカという自分を通して出会った多くの人の声に耳を傾け、なんとない話をする。それが彼女の楽しみでもあると同時に、与えるだけでなくこちらの気持ちも受け止めてくれるという、彼女の魅力でもあるのだろう。
さて…私も帰ろうか。今度はシキと婿殿も連れてこなくてはな、素敵な人の歌声を聴かせなければ。