卑湿の汚泥
https://gakuen.koka.ac.jp/archives/5617 【譬(たと)えば、高原の陸地には蓮華(れんげ)を生ぜず。 卑湿(ひしつ)の汚泥(おでい)にすなわち此の華を生ずるが如し。(『維摩経』「仏道品」)】より
この言葉は、あらゆるものが平等であって差別のないという「空」思想に基づいて、在家者を重視し「利他」の立場で仏道修行する大乗菩薩道を説いた『維摩経』にあります。インドでは蓮華は最も美しく、浄土を荘厳する清々しい花、仏の道を歩む菩薩を象徴する花とみなされ尊ばれてきました。その蓮華は誰もが理想とし、望むような高原の陸地には生ぜず、だれもが避けたくなるようなじめじめした汚泥の中にこそ生ずるのだと言っているのです。「高原の陸地」とは、私は煩悩や苦悩を自らの力でという「自利」に生きる人々をさし、「卑湿の汚泥」は、それとは逆に、煩悩や苦しみが尽きず矛盾に満ち満ちた中で生活する凡夫の我々をさしています。
親鸞聖人もその著『教行信証』に引用して「これは、凡夫煩悩の泥の中にありて、菩薩のために開道せられて(菩薩によって往生の道が開き示され)よく仏の正覚(悟り)の花を生ずるにたとふ。」言葉とされています。また、親鸞聖人は阿弥陀仏の極楽浄土のことを「蓮華蔵世界」(『正信偈』)とも表され、この世界に至れば、真実に目覚めることができ、煩悩泥の中にあって苦しむこともなくなり、「真如法性を証する(真実そのものに目覚めること。即ち、仏になる)」(同偈)と説いておられます。
光華「其の光、花の如し」本学の校名です。校名の如く光り輝く華のように生きる人間になってほしいとの願いから名付られました。校訓の「真実心」は御仏の心のことを言い、「慈悲の心」と言い換えることが出来ます。「思いやりの心」「寄り添う心」「他者への配慮」「共に支え合う心」と言うこともできるのではないでしょうか゛蓮華の花に象徴される人のような生き方です。
昭和二六年、千葉県の検見川の縄文遺跡から出土したハスの実は、翌年、植物学者で「ハス(蓮)」の権威であった大賀一郎博士によって発芽育成に成功し、「大賀ハス」(「古代ハス」「縄文ハス」とも)と名付けられて全世界に広がりました。大賀博士がその後提唱された「ハスは平和の象徴なり」の言葉を、今まさにかみしめなければならないのではないでしょうか。因みに、本大学の池にも育成されています。(宗)
https://ameblo.jp/shiawasemegurishodoshima/entry-12302524508.html 【 ジジの 一言 : 卑湿汚泥に 咲く花 】より
みなさん こんにちは 【 小豆島大観音 ジジの 一言 】です。お忙しい 仕事の 手を止めて 少し 覗いて見てくださいませ。本を 開くと よく こんな文字が 目の中に飛び込んできます。
《 お釈迦さんが 観法しながら 蓮池のまわりを お歩きになっていたときふと 足を止められ 池の奥底を じっと ご覧になられました 》
きっと 池には 蓮の花が 見事なばかりに 咲き乱れていたのでしょうね。
ところが 池の底を 覗き込まれたのですがそこからは この娑婆において わたしたちが つまらない事で 喜び、嘆き、泥々ろした中での 一喜一憂している姿が 見えていたのです。
ハスの 花といえば 【 維摩経 】に このように あります。
【 高原陸地に 蓮花 生ぜず 卑湿汚泥に この花を 生ずる 】
高原や 陸地、ワサビが取れるような清流では 蓮は 育たず 咲かず ぷ~んと 悪臭漂う 泥沼 泥田の中にしか あの美しい花は 咲かないのです。
そう言えば こんな事がありました。
舞鶴の信者さん宅にいくと 密厳国土 極楽浄土の如く ハスの花がここにも 彼処にも 咲き乱れて 私たちの 目を 魅了しました。
一緒に 行った方が おねだりをして その1つを分根してもらい育てたのですが極楽浄土のようには 美しくは咲きません。そこで 本家本元である 舞鶴に連絡を取って 伺ってみると「 蓮は イワナが 跳びはね ワサビが 採れるような 清流では育たず臭いの 発するような 泥炭を 好むのです 」との事でした。
《 泥中の 蓮花 》《 泥 多ければ 仏 大なり 》とも 申し 祀りごとには 必ず 蓮の絵が 描かれるように古来より 仏の教えは 泥中にさく ハスの花に例えて 説かれました。
先ずは 最初の語りかけが「 わたしたちは 泥を 嫌ってないか ? 」と いうことです。
限りなく 美しい花は 追い続けるが 汚泥から 目をそむけ悪臭から 逃れるために 鼻を 抑えます。
金持ち 億万長者は 大好きだが 貧乏は 大嫌い。エリート 有名人 著名人は 大好きだが 無名は 嫌い。先生 社長の椅子は 大好きだが ヒラ社員は 嫌い。健康は いいが 病気は 嫌い。
得することは 大好きだが 損することは 嫌い。成功は いいが 失敗は 嫌い。
恋愛は 大好きだが 失恋は 嫌い。わたしたちは 泥という言葉に 象徴される我が心から 逃げようと しているのでは ないだろうか ?鼻を つまみ 目を背けたいような 私たちの人生の 1つ1つから逃げ出そうとする その心を 誡めているのです。
こんな 語りかけも あります。「 汚泥がなければ 蓮の花は 咲かないが と いって 泥と 花は 同じではないよ 」泥が なければ 花は 開花しません。しかし こんなに 美しい花でも 泥中の色をつけヘドロの 臭いを 拡散させていたら 誰も 寄りつきません。
臭いを とって 色を洗い流してこそ 人に 愛されるのです。
釈迦の説かれた 因縁を 考えたとき人生の 苦しみを 【 泥 】に 喩えることが できます。
この 苦しみという 【 因 】から 一体 どんな【 果 】を与えて もらうのでしょう。
【 私たちが 苦しみから 救われる 】 のでは なくて【 苦しみが 私たちを 救う 】のです。
苦しみ 悲しみであり 蓮を 育て 美しい花を咲かせる 土、これが【 因 】となり 苦しみを経験することで 切磋琢磨し良き 恩師、良き友、良き教えという 【 縁 】に 出逢うことで泥は 肥料として 福と転じ、美しい花という 【 果 】を咲かせます。
「 借銭で 首が 回らなくなっている 」「 病院で 余命を 宣告された 」「 受験に 失敗した 」
わたしたちの 日々の 苦しみは 仏さまの 慈悲の 贈り物であると蓮は 教えてくれています。
わたしたちも 【苦】を そして【泥】を 肥料と転じ 歯を 食いしばっても 不撓不屈の精神で それらに 打ち勝ち 密厳国土に 大輪を 咲かせたいものです。合掌
寄り添ふて世にふたもとの未敷蓮華 高資
Beyond the stream of time
lotus buds are snuggling up to each other Taka
指先に天つ日影や舞妃蓮 高資
香を纏ひ天津御空へ舞妃蓮 高資
寄り添ふて世にふたもとの未敷蓮華 高資
Beyond the stream of time
lotus buds are snuggling up to each other Taka
ここに咲くこれからを咲く蓮華かな 高資
遍照もまづ足もとの蓮の花 高資
葉隠れにほころぶ蓮の光かな 高資
傾く日にためる力や蓮の花 高資
三界の昼を燈せる蓮かな 高資
子を待ちて微笑む蓮の蕾かな 高資
日と月と統べたる蓮の蕾かな 高資
泥土より三世を統べる蓮かな 五島高資
泥土(うひじ)より生れて蓮の実飛びにけり 五島高資
— 場所: 石田城跡