拈華微笑
Facebook近藤裕子さん投稿記事 7月1日 ☘️以心伝心☘️
「拈華微笑(ねんげみしょう)」
仏教説話で、意味は 釈迦が説法の際、黙って華を拈ったところ、迦葉だけがその意味を理解して微笑したという故事による。とあります。
「拈」は指先でひねること。「拈華」は花をつまんでねじること。
言葉には限界があります。無言の微笑みの中にこそ伝えられる、 言葉以上のメッセージがあります。
私達は、〈言葉や理屈〉で物事を伝えようとして 却って真意を伝えそこねることがあります。
🎶もしも信じてくれたなら 見えないものが見えて来る🎶。(これは昔の おばけのQちゃん という漫画アニメの終わりに流れる歌です。)
大切なのは 本当に相手に寄り添う真心です。
✤これはあくまでも私の見解であり、元来の仏教の伝える意味とは違うかもしれません。ご了承ください♡♡♡。
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2009/04.htm 【拈華微笑《ねんげみしょう》】 より (無門関)
「世尊、昔、霊山会上に在って、花を拈じて衆に示す。是の時、衆皆な黙然たり。
惟(ただ)迦葉尊者のみ、破顔微笑(はがんみしょう)す。世尊云く、「吾に正法眼蔵
(しょうぼうげんぞう) 涅槃妙心(ねはんみょうしん) 実相無相(じっそうむそう)
微妙法門(みみょうのほうもん)あり。不立文字(ふりゅうもんじ)教外別伝(きょうげ
べつでん)摩訶迦葉(まかかしょう)に付嘱(ふしょく)す」と。
ある日のこと世尊は霊鷲山での説法において大衆にむかって静かに金波羅華〈こんぱらげ〉という花を高くかざして示された。このとき大衆はその意味が分からず、ただ黙ったまま何の言葉も出せなかった。このとき一番弟子の迦葉尊者だけが破顔し微笑したのである。この微笑に世尊は迦葉こそわが真意を解したると、これを受けがい「吾に、正しき智慧の眼(法眼)をおさめる蔵があり、涅槃〈悟り〉に導く真実絶対なる法門がある。
この法門は言葉によらず、文字によっても教えられない微妙の法門である。この我が真実の法の一切を摩訶迦葉に伝授する」と釈尊の悟りのすべてが伝授されたのだという
故事によって生まれた拈華微笑である。
ところでこの拈華微笑の話は中国で創作されたものだといわれているが、真理を伝えるということのおいては何時、どこで作られれた話であるかとか、史実は如何にという問題ではなく、この話頭に釈尊の心、禅の心が息づいていることこそ肝心なのである。このように、本当に大切なことは文字や言葉で説明することも、教えることも出来ないことなのだ。
仏法の伝播とはそういうもので、釈尊より歴代の仏祖に大法は相続される嗣法され伝灯の相承が行われてきたことである。これを嫡々相承(てきてきそうじょう)というが、特に禅門ではこの不立文字 教外別伝を大事にし、家風とする。よって文字や言葉によらず心から心に伝わる以心伝心、阿吽の呼吸にも似て禅の法門の奥義も師から弟子へ師資相承され、的々確実鮮明に継承されるさまを強調して的々相承(てきてきそうじょう)といったりもする。
世尊が拈華すれば、迦葉の微笑(みみょう)ということから仏法の継承がなされたことであるが、俗世間に染まるわれわれとて似たような言葉によらない阿吽の呼吸や以心伝心がある。親しいもの同士、心通い合うもの同士、或は親子においても恋人同士においても深い心の通いあう間柄においては
言葉以上に一つのしぐさやサインでツーカーの心の伝え合いだってある。
それはまさに拈華微笑の関係だといえば道人たちに叱られるだろうか。
金波羅華がどんな花なのかは分からない。蓮の花だという説もあるが私的にはインドで普通に咲いていた椿の花に似た火炎樹の花がふさわしい気がする。だが、ここで言う拈華の花その
ものに深い意味はなく拈華に対する微笑にこそ深い意味があるのである。
百万本のバラを贈らなくても、たった一本のバラの花をかざして彼女のハートを掴む安上がりの求愛の話も聞いたが、一本のバラは単にきっかけであって、既に二人の間には言葉によらなくても、文字によらなくても通じ合う阿吽の呼吸、以心伝心が合ってのことだろう。
我が禅門の同窓生に微笑(みみょう)とは言わないが微笑(びしょう)という姓の友がいる。学寮で同室になり初めて姓を聞いたときなんて変な名なんだという印象であったが、彼の先祖が深い仏教者でこの「拈華微笑」の微笑を姓にされたのかもしれないと思うと、ただそれだけで今もなお微笑君を尊敬しているし、これからも禅門の布教師として益々の活躍を期待している。
Facebook新田 修功さん投稿記事
不立文字……⁉️✍️🗣
私は、空海さんとご縁があったようで、真言密教が好きなのですが、禅の教えも大好きです。
竜馬さんの師匠の勝海舟や、同時代の剣豪、山岡鉄舟さんも禅を極めておられました。
禅の言葉で「不立文字」(ふりゅうもんじ)というのがあります。
悟りの境地は文字では伝えられない、語れない、という事です。
りんごを食べた事がない人に、りんごの味は説明できてもその人が食べてみなければ、本当の事は伝わらないのです。
中国の老子は、「知る者は言わず」と言っています。
本当の事を知っている人は、それを言葉で伝える事が出来ない事を百も承知なのですね。
お釈迦様もそうでした。
何とか伝えようと努力をされていたのですが、肝心な所は本人が自分で食べてみるしかないという事をご存知だったはずです。
ですから、解りやすく喩え話で説法されていたのです。
でも、ブッダの時代には今の都会のように波動が悪い状態ではなかったので、ブッダの精妙な波動がお弟子さんたちに伝わって、準備のできた人はどんどん悟りを開いていたようです。
これを「感化」と言います。
不立文字、とても不親切な言葉のようですが、百万語を費やしても、解らない人には解らない。「星の王子さま」に出て来るキツネくんも言ってます。「ものは心で見る。大切な事は目に見えない」今日も読んでくれてありがとう🙏😊💕
https://note.com/sekinechikata/n/n677d59ef43ad 【漱石の俳句(1)不立文字白梅一木咲きにけり】より
関根千方/俳人・編集者
現存する漱石の俳句は二千五百句あまり。子規の俳句と比べるとその一割もありません。そのうち明治二八年から明治三三年までの約六年間に詠まれた句は千七百以上におよび、全体の七割を占めています。すなわち、漱石が松山中学校の英語教師となった年から、熊本第五高等学校へ転任し、そして英国ロンドンへ留学するため英語教師を辞するまでの間に集中しているのです。
数がこの時期に集中している理由は、漱石にとって俳句の修行時代であったからです。漱石はこの間、合計三五回も句稿を子規に送り、毎回五十前後の句を書きつけて添削指導を受けています(『漱石・子規往復書簡集』岩波文庫)。
そもそも岩波書店から『漱石俳句集』が刊行されるのは、漱石の死後(翌年)であり、自身の手によってまとめたものではありません。つまり、漱石自身が句集として完成させることはなかったわけです。だから、我々が読める漱石の俳句の多く、特にこの六年間の句は「習作」と言っていいのかもしれません。
例えば、明治二八年、漱石が松山中学校の英語教師となった頃の作に、こんな句があります。
不立文字梅咲く頃の禅坊主
不立文字(ふりゅうもんじ)とは、達磨大師による中国禅宗の教義。書かれた言葉はその時々いかようにも解釈できてしまい、真の悟りは言葉ではなく心によるということです。漢学に通じた漱石らしい言葉です。
子規はこの句の上五だけのこし、中七下五をそっくり書き換えました。
不立文字白梅一木咲きにけり
比べれば一目瞭然です。漱石の句は「不立文字」「梅」「禅坊主」という言葉は平坦に並んでいるだけであり、切れが弱い。子規は大胆に禅僧を消去し、「不立文字」と「梅」の取り合わせをはっきりさせました。
下五をしっかり切ったことで、上五の不立文字という教義はむきだしの岩のような存在感を持って屹立し、中七下五の梅は、今ここで咲いたかのように目の前に立ちあらわれる。さらに「白」という色と「一」という数によって具体性を持ち、はっきり目に見えてくる。添削の見本のような例です。
漱石が子規に書き送った句稿からは、このような痕跡をいくつも垣間見ることができます。句の添削の他にも、「陳腐」「捨ツベシ」「言ヒマワシワルシ」「古イ」「平凡」「イヤミ」「非俳句」「巧ナラントシテ拙也」など、きびしい評が書き込まれているのがわかります。
のちに、文豪と呼ばれ、国民的大作家となる漱石が地道な努力をしているわけです。驚きを感じる人も多いのではないでしょうか。
もう少し添削例を見てみます。
原句 冬籠り今年も無事で罷りある(明治二八年)
添削 冬籠り小猫も無事で罷りある
原句は報告で終わっています。子規の添削句は「子猫」に焦点を移すことで、奥行きが生まれています。あえて、自分ごとを奥に引っ込めたことで、距離が生まれたわけです。
原句 作らねど菊咲にけり活にけり(明治二九年)
添削 作らねど菊咲にけり折りにけり
原句の「活にけり」ではただ事ですが、「折りにけり」と言ったことで、菊の命のはかなさに気づかされた感じがします。
このように同じ形であっても言葉一つで句の広さや強さが変わるのが俳句です。おそらく漱石も添削を受けるたび、なぜそう直すのかを考えていったはずです。
漱石は熊本の第五高等学校へ赴任してからも、精力的に俳句創作に挑んでいき、子規の直しは急激に減っていきます。明治三〇年には子規の特選、並選の句がぐっと増えます。
そして、明治三一年には漱石は熊本の俳句結社紫溟吟社の主宰になるのです。このスピードはあきらかに才能を感じます。
その熊本時代の教え子である寺田寅彦のエッセイに「俳句とはレトリックのエッセンスである」という漱石の言葉が残されています。その言葉の裏には、こうした子規の添削指導があったはずです。もちろん、文学そのものの形式化を試みた(「文学論」)フォルマリストでもある漱石ですから、俳句も又少なからず形式主義的なとらえかたをしていたに違いありません。
しかしながら、漱石は俳句のすべてを形式に還元していたわけではありません。後述するように、あくまでも詠むべき時に詠むべき句を詠む、そこが一義的であって、むしろそのために身につけておく技術であったということができます。
漱石の残した句の多くが習作であったと言っても、それは不完全なものということではありません。むしろ「自己完結しない」ということにおいて、漱石の姿勢は一貫していたと言えるのです。