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名句を味わう 原石鼎

2024.07.03 06:23

https://masakokusa.exblog.jp/29659714/ 【原石鼎俳句鑑賞・平成30年3月  草深昌子】より

 いちさきにつもる枝見よ春の雪    原石鼎  昭和6年

春の雪は溶けやすいというイメージがあるが、思わぬ大雪となることもあって、一概には言い切れないのが自然現象のありようである。だが掲句は、やはり淡雪であろう。

はかなげにも、見る間に積もりはじめた雪の美しさに作者自身がもう目を瞠っているようである。「いちさきにつもる枝見よ」という、やや急き込こんだような言い方そのものでもって、読者もまた引き込まれるように束の間の美しい光景を見せてもらえるのである。

紅梅であろうか、椿であろうか、いずれにしても純白の雪に垣間見えるのはほんのり赤い花の枝のように思われる。

この句を含め石鼎の3句が、現代俳句協会から発行された『昭和俳句作品年表』(戦前・戦中篇)の昭和6年の部に掲載されている。

  いちさきにつもる枝見よ春の雪   原石鼎     雛買うて杣雪山へ帰りけり      

  鯉はねて画室ぬらせし雪夜かな      〃

この他、昭和6年には、「昭和の名句」として名高い作品が屹立している。

この年は、かねてから高野素十と写生論の違いのあった水原秋櫻子が、「『自然の真』と『文芸上の真』」を発表して、高濱虚子の「ホトトギス」を離脱した年として記憶に残るものである。 

  わらんべの溺るるばかり初湯かな     飯田蛇笏

  金剛の露ひとつぶや石の上        川端茅舎

 生涯にまはり燈籠の句一つ        高野素十

  紅梅の紅の通へる幹ならん        高濱虚子

  みちのくの伊達の郡の春田かな      富安風生

 降る雪や明治は遠くなりにけり      中村草田男

  今朝咲きしくちなしの又白きこと     星野立子

  そら豆はまことに青き味したり      細見綾子

  水仙や古鏡の如く花をかかぐ       松本たかし

  夜の畦を偃ふ梅ありて行きがたし     水原秋櫻子

  吸入の妻が口開け阿呆らしや       山口青邨

  かたまって薄き光の菫かな        渡辺水巴

現代俳句の基礎ともいうべき昭和2年からの十年間の時代は、石鼎の40歳代、まさに壮年期にあたるものである。

「春の雪」、「雛」の句にも絵画的センスがよく出ているが、〈鯉はねて画室ぬらせし雪夜かな〉には、俳画展を度々開くなど、絵を書くことに熱中していた石鼎を浮き彫りにしている


https://japanknowledge.com/articles/meyasucho/04.html 【俳人目安帖】より

俳人・中村裕氏による連載エッセイ。毎回、著名な俳人がその作品中で多用した単語、特に好んだ言葉や場面などを取り上げ、俳句の鑑賞を通じて作者の心中や性向を探ります。

石鼎、追いつめらる~原石鼎はらせきてい~

俳人も文学者には違いないわけだから、その一生がどのように幸福だったか、あるいはどのように不幸だったかを論じても、あまり意味はないような気がする。いうまでもなく作品がすべてだからである。でも二、三歩退いて、結社経営やタレント活動こそがすべてと考えている現在の俳句プロパーから見れば、ホトトギスといった大結社を育て上げたセレブな高浜虚子のような存在が、最も幸福な一生を送った俳人なのかもしれない。

原石鼎はどうだったのだろうか。虚子に師事し、いちおうは「鹿火屋かびや」という結社を育て、声望も得るが、虚子のように結社と一体化してしまったような感じはしないし、その名に安住していたような感じもない。そこに乖離が感じられる。俳人としての彼の一生は幸福だったかどうかを問うても無意味なような気にさせるのである。ホトトギス育ちの俳人としては例外的に作家性を強く堅持していたのが石鼎だった。彼の表現エネルギーは無駄なくすべて俳句に注ぎ込まれたのではないかと思わせる。大正昭和の先鋭的な俳人たちに石鼎が例外的に好まれたのも、そこに理由があったのではないだろうか。

俳句における表現エネルギーといっても、それががどんなものか。おそらく見たことのある人などいるはずがないし、存在したとしても、人によってそれは形を変えていることだろう。またその人の一生においても、その時々で姿を変えているかもしれない。しかしその現れを間接的には知ることができる。いうまでもなく、作品が残されているからだ。ともあれ石鼎の代表作を見ていきたい。

頂上や殊に野菊の吹かれ居り       花影かえい婆娑ばさと踏むべくありぬ岨そばの月

山の色釣り上げし鮎に動くかな      蔓踏んで一山の露動きけり

秋風や模様のちがう皿二つ        淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守

高々と蝶こゆる谷の深さかな       この朧海やまへだつおもひかな

花烏賊はないかの腹ぬくためや女の手    雪に来て美事な鳥のだまり居る

青天や白き五瓣の梨の花

人によって多少の異動はあるだろうが、これらが代表作であることに異存をとなえる人はいないと思う。このように挙げてきて、気づくのは俳句作家としてのスタートダッシュの素晴らしさである。「雪に来て」と「青天や」がそれぞれ昭和9年と11年の作。ほかはみな明治末年から大正2,3年にかけて、つまり彼の二十代につくられている。大作家にほぼ共通してみられる傾向だが、作家としてのスタートラインで、すでに余人を寄せつけぬ高みに達しているのである。

石鼎という俳人をその伝記的側面に比重を置いてみようとする人は、彼がその十代、二十代に医学に志すも、医科大学の入学に繰り返し失敗し、やることなすことうまくゆかず、その前途を悲観したことが、より強く俳句に向かわせたとつじつまをあわせようとしがちである。たとえば「秋風や」をつくった前年の大正2年の項を第一句集『花影』に付された自筆の年譜で読むと、次のようにある。「余り屢々なる失敗を重ねたる余の言を父も兄も妄りに信ぜざるのみか、俳句を廃し、剃髪して先祖に詫びるに非ざれば資金のこと許し能はず、と。父の言や宜なり。余、終に医を断念して先祖の位牌の前にひざまずく」。事態は深刻である。しかしこの文章から受ける印象は、どことなく芝居がかっているような感じ。確かに深刻な事態に立ち至っていることは、本人自身も感じているのだろうが、ほんとうの気持はとっくに俳句の方へ行ってしまっていて、いやいや背中を押されて出された舞台の上で、医学を断念して、俳句へ向かう自分を演じているような感じなのだ。

石鼎は確かに追いつめられていた。しかし何によって追いつめられていたかというと、それは実生活上の急迫した事情によってというよりも、俳句に向かう表現エネルギーに、もはや本人の肉体が堪えきれなくなるほど追いつめられていたと考えたい。そのエネルギーがぎりぎりまで高められ、ついに大噴火を起こしたのが、大正の2,3年頃の石鼎だったのではないだろうか。


原 石鼎の句

 秋風や模様のちがふ皿二つ

                           原 石鼎

俳壇では、つとに名句として知られている。どこが名句なのか。まずは、次の長い前書が作句時(大正三年・1914)の作者の置かれた生活環境を物語る。「父母のあたゝかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は伯州米子に去つて仮の宿りをなす」。文芸を志すとは、父母を裏切ること。そんな時代風潮のなかで、決然と文芸に身を投じた作者への喝采が一つの根拠だろう。ちなみに、石鼎は医家の生まれだ。第二の根拠は、二枚の皿だけで貧苦を表現した簡潔性である。模様の違う皿が意味するのは、同じ模様の小皿や大皿をセットで買えない貧窮生活だ。しかも、この二枚しか皿を持たないこともうかがえる。そして第三は、皿の冷たさと秋風のそれとの照応の見事さである。詠まれているのは、あくまでも現実的具体的な皿であり秋風であるのだが、この照応性において、秋風のなかの二枚の皿は、宙にでも浮かんでいるような抽象性を獲得している。すなわち、ここで長たらしい前書は消えてしまい、秋風と皿が冷たく響き合う世界だけが、読者を呑み込み魅了するのである。この句には飽きたことがない。名句と言うに間違いはない。『定本石鼎句集』(1968)所収。(清水哲男)

 淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守

                           原 石鼎

大正二年(1913)、深吉野での作品。俳句を読む楽しさは、句に仕掛けられた謎を解くことにある。推理小説では著者が謎を解いてみせるが、俳句では探偵の役が読者にゆだねられている。……とは、復本一郎氏の至言だ。ただ謎にもいろいろあって、句が生まれたときと同時代に生きていればなんでもない言葉が、時を経てわからなくなる謎がもっとも困る。俳句観賞というとき、こうした死語に費やされる説明の何と多いことか。句の「鹿火屋(かびや)」も代表的な例で、少年期に農村で暮らした私にも、これが季語だと言われてもピンと来ない。「鹿火屋」とは、田畑を鹿や猪に荒らされないために、夜間獣が嫌う臭いものを燻らせた小屋のことを言った。句のように、ときどき銅鑼(ドラ)を打ち鳴らしもしたらしい。森閑とした闇のなかで番人は夜通し起きているわけだから、その淋しさに耐えかねて、ガンガガーンと内心では遠慮しつつもしばしば打ちたくなっただろう。それを里で聞いている作者には、誰とも知らない彼の淋しさが心に凍み入るのである。石鼎が仕掛けた謎は、もとより「鹿火屋」にはなく、このときの「鹿火屋守」の心情や如何にということであった。『花影』(1937)所収。(清水哲男)

 日輪を送りて月の牡丹かな

                           渡辺水巴

花の王者と呼ばれる豊麗な牡丹の花は、蕪村の有名な「牡丹散りて打かさなりぬ二三片」をはじめ、多くの俳人が好んで題材にしてきた。巧拙を問わなければ、俳句ではもう何万句(いや、何十万句かもしれない)も詠まれているだろう。いまやどんな牡丹の句を作っても、類句がどこかにあるというほどのものである。すなわち、作者にとって、なかなかオリジナリティを発揮できないのが、牡丹の句だ。この花を詠んで他句に抜きん出るのは至難の業だろう。原石鼎のように「牡丹の句百句作れば死ぬもよし」とまで言った人がいる。とても、百句など作れそうもないからだ。だから、誰もが抜きんでるための苦心の工夫をほどこしてきた。で、水巴の句は見事に抜きん出ている一例ではあるが、しかも名句と言うにもやぶさかではないけれど、なんだかあまりにも技巧的で、逆に落ち着かない感じもする。「月の牡丹」とはたしかに意表を突いており、日本画を見るような趣きもあり、テクニック的には抜群の巧みさだ。しかし、悲しいかな、巧いだけが俳句じゃない。「日」と「月」と大きく張って、しかし、この句のスケールのなんという小ささだろうか。言葉をあやつることの難しさ。もって小詩人の自戒ともしたいところだが、しかし、やはり図抜けた名句ではありますぞ。『水巴句集』所収。(清水哲男)

 黒栄に水汲み入るゝ戸口かな

                           原 石鼎

黒栄(くろはえ)は、普通「黒南風」と表記する。梅雨の雨雲が垂れ込めて、暗く陰鬱な空模様のときに吹く湿った南風を言う。対して「白南風(しらはえ)」は、梅雨明け後の空の明るいときの南風だ。「白南風や化粧にもれし耳の蔭(日野草城)」。単独に「南風」とも用い、いずれも季節風を指している。さて、水道の普及していなかった時代の朝一番の仕事といえば、水汲みだ。庭の井戸や近所の清水などから大きなバケツいっぱいに汲んできて、飲料水や台所仕事などの水を確保する。子供のころ、そんな環境に暮らしていたので、私にはよくわかる句だ。どんなに天気が悪かろうとも、水汲みだけは欠かせない。生きていくためには、まず水が必要であることを、あのときに身にしみて知らされた。だから、汲んできた水は貴重で、一滴たりともこぼすまいと用心する。作者が「戸口」をクローズアップしているのは、そのためである。強風に抗して汲んできた水を、狭い戸口にぶつけないようにと、慎重に運び入れている場面だ。こうして無事に運び込んだ水は、大きな甕などに移して溜めておく。この甕に移し終えたときの充足感は、経験者にしかわからないだろうが、荒天下の水汲みほど充足感が深いのはもちろんである。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)

 夕月に七月の蝶のぼりけり

                           原 石鼎

美しい。文句なし。暮れ方のむらさきいろの空に白い月がかかって、さながらシルエットのように黒い蝶がのぼっていった。まだ十分に暑さの残る「七月」のたそがれどきに、すずやかな風をもたらすような一句である。「月」と「蝶」との大胆な取りあわせ。墨絵というよりも錦絵か。しかし、そんじょそこらの「花鳥風月図」よりも、もっと絵なのであり、もっと凄みさえあって美しい。掲句に接して、思ったこと。私などのように、あくせくと何かに突っかかっているばかりでは駄目だということ。作者の十分の一なりとも、美的なふところの深さを持たなければ、せっかく生きている値打ちも薄れてしまう。このままでは、美しいものも見損なってしまう。いや、もうずいぶんと見損なってきたにちがいない……。「増殖する俳句歳時記」開設四周年にあたって、もう一つ何かに目を開かれたような気分のする今日このときである。今後とも、どうかよろしくおつきあいのほどを。ちなみに、句を味わっている読者の雰囲気をこわすようで恐縮だが、本日は昼の月で月齢も28.6。残念ながら、晴れていても見えない。平井照敏編『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)

 花影婆裟と踏むべくありぬ岨の月

                           原 石鼎

吉野山での句。「花は吉野か」と、吉野の山桜は有名だ。肌寒いほどの夜だろう。月は朧ではなく、煌々と冴え返っている。その月光が、岨(そば)道に「花影(かえい)」を落としている。「婆裟(ばさ)と踏むべく」で、作者の頭上に群がり咲いている花の豪華な量感が知れる。踏めば、影でも「婆裟」と音がしそうだ……。ざっくりと詠んでいるようでいて、実に緻密な構造を持っている句だ。五七五だけで、よくもこんなことが言えるものだと感心させられてしまう。秘密の一端は「岨の月」という極度の省略表現にある。試みに掲句を外国語に翻訳してみようとすると、この部分はとても厄介だ。どうしても、説明が長くなる。長くなると、句の情感が色褪せる。かつて篠原梵が「切れ字は俳句界の隠語だ」というようなことを言ったことがあるけれど、この省略表現もまた、俳句に慣れない人には隠語みたいに感じられるかもしれない。とにかく、俳句特有の省略法である。以下は、また脱線。「花影」は普通樹に咲いている花の影を言うが、散っている花の影を指した珍しい詩がある。大村主計の書いた童謡「花かげ」に「十五夜お月さま ひとりぼち/桜吹雪の 花かげに/花嫁すがたの おねえさま/くるまにゆられて ゆきました}とある。こちらの月は朧だろう。それにしても「桜吹雪」の花影とは。センチメンタルな道具立てに凝りすぎたようで、情景がピントを結んでくれない。私の感受性が変なのかもしれないが、夜の歌という気もしない。したがって同じ月夜の桜でも、この場合は俳句の圧勝である。『花影』所収。(清水哲男)

 夕闇の既に牡丹の中にあり

                           深見けん二

昔から、牡丹(ぼたん)には名句が多い。元来が外国(中国)の花だから、観賞用に珍重されたということもあるのだろう。大正期あたりに、おそらくは同様の理由から、詩歌で大いに薔薇がもてはやされたこともある。それだけに、現代人が牡丹や薔薇を詠むのは難しい。原石鼎に「牡丹の句百句作れば死ぬもよし」とあるくらいだ。さて、掲句は現代の句。夕刻に近いが、まだ十分に明るい庭だ。そこに咲く牡丹を見つめているうちに、ふと花の「中」に夕闇の気配を感じたというのである。繊細にして大胆な言い当てだ。やがて、この豊麗な花の「中」の闇が周囲ににじみ出て、今日も静かに暮れていくだろう。牡丹の持つぽってりとした質感と晩春の気だるいような夕刻の気分とが、見事に呼応している。上手いなあ。変なことを言うようだが、こういう句を読むと、花を見るのにも才能が必要だと感じさせられる。つくづく、私には才能がないなと悲観してしまう。ちょっとした思いつきだけでは、このようには書けないだろう。やはり、このように見えているから、このように詠めるのだ。さすがに虚子直門よと、感心のしっぱなしとはなった。ちなみに「牡丹」は夏の季語だが、晩春から咲きはじめる。もう咲いている。『花鳥来』(1991)所収。(清水哲男)

 妻留守の完熟トマト真二つに

                           山中正己

男子厨房に入るの図。夏の旅行か何かで、妻が家を空けている。トマトは、妻が買って置いておいたものだろう。日数を経て「完熟」してしまっている。柔らかくなっているので、もはやスライスできないのだ。ええいっママよと、乱暴に「真二つに」切って食べることにしたと言うのである。こういうことを句にする人は何歳くらいだろうかと、略歴を見たら、私より一歳年上の同世代人であった。さもありなん……。思わず、ニヤリとしてしまった。日ごろ台所のことを何もしていないので、妻が留守をすると、食事のたびに面倒くさくて仕方がないのだ。句にそくして言えば、ちょっと近所まで新しいトマトを仕入れに行けばよいものを、それからして面倒なのである。冷蔵庫などに食べられるものが残っている間は、不味かろうが何だろうが、それですませてしまう。無精もここに極まれり、というわけだ。もっとも、なかには詩人の天沢退二郎さんのように、毎朝娘さんの弁当を作ってきたという料理好きの人も、同世代には散見されるので、この無精を世代のせいだけにしてはいけないのかもしれないが。そう言えば、原石鼎に「向日葵や腹減れば炊くひとり者」があった。世代やシチュエーションは違っていても、石鼎も作者も、食事とはとりあえず空腹を満たすことと心得ている。この夏にも、完熟トマトを真二つにする男たちは、まだまだ多いだろう。『キリンの眼』(2002)所収。(清水哲男)

 頂上や殊に野菊の吹かれ居り

                           原 石鼎

そんなに高い山の「頂上」ではない。詠まれたのは、現在は深吉野ハイキングコースの途中にある鳥見之霊時(とみのれいじ)趾あたりだったというから、丘の頂きといったところだろう。鳥見は神武天皇の遺跡とされている。秋風になびく草々のなかで、「殊(こと)に」野菊の揺れるさまが美しく目に写ったという情景。ひんやりとして心地よい風までもが、読者の肌にも感じられる。句は大正元年(1912年)の作で、当時は非常に斬新な句として称揚されたという。何故か。理由は「頂上や」の初五にあった。山本健吉の名解説がある。「初五の や留は、『春雨や』『秋風や』のような季語を置いても、『閑さや』『ありがたや』のような主観語を持ってきても、一句の中心をなすものとして感動の重さをになっている。それに対して『頂上や』はいかにも軽く、無造作に言い出した感じで、半ば切れながらも下の句につながっていく。その軽さが『居り』という軽い結びに呼応しているのだ。『殊に』というのも、いかにも素人くさい。物にこだわらない言い廻しである。そしてそれらを綜合して、この一句の持つ自由さ、しなやかさは、風にそよぐ野菊の風情にいかにも釣り合っている」。言い換えれば、石鼎はこのときに、名器しか乗せない立派な造りの朱塗りの盆である「や」に、ひょいとそこらへんの茶碗を乗せたのだった。だから、当時の俳人はあっと驚いたのである。いまどきの俳句では珍しくもない手法であるが、それはやはり石鼎のような開拓者がいたからこそだと思うと、この句がいまなお俳句史の朱塗りの盆に乗せられている意味が理解できる。『花影』(1937)所収。(清水哲男)

 美しき鳥来といへど障子内

                           原 石鼎

季語は「障子(しょうじ)」で冬。どうして、障子が冬なのだろうか。第一義的には、防寒のために発明された建具ということからのようだ。さて、俳句に多少とも詳しい人ならば、石鼎のこの句を採り上げるのだったら、なぜ、あの句を採り上げないのかと、不審に思われるかもしれない。あの句とは、この句のことだ。「雪に来て美事な鳥のだまり居る」。おそらくは、どんな歳時記にでも載っているであろう、よく知られた句である。「美事(みごと)な」という形容が、それこそ美事。嫌いな句ではないけれど、しかし、この句はどこか胡散臭い感じがする。石鼎の句集を持っていないので、掲句とこの句とが同じ時期に詠まれたものかどうかは知らない。知らないだけに、掲句を知ってしまうと、美事句の胡散臭さが、ますます募ってくる。はっきり言えば、石鼎は実は「美事な鳥」を見ていないのではないか。頭の中でこね上げた句ではないのか。そんな疑心が、掲句によって引きだされてくるのだ。句を頭でこね上げたっていっこうに構わないとは思うけれど、いかにも「写生句」ですよと匂わせているところが、その企みが、鼻につく。事実は、正真正銘の写生句なのかもしれないし、だとしたら私は失礼千万なことを言っていることになるのだが、そうだとしても、掲句を詠んだ以上は、美事句の価値は減殺されざるを得ないだろう。どちらかを、作者は捨てるべきだったと思う。私としては、掲句の無精な人間臭さのほうが好きだ。「美しき鳥」が来てますよと家人に言われても、寒さをこらえてまで障子を開けることをしなかった石鼎に、一票を投じておきたい。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)

 けさ秋の一帆生みぬ中の海

                           原 石鼎

けさ秋は「今朝秋」。「今朝の秋」と同じく立秋の日をさす。所収されている句集『花影』では、代表句「秋風や模様の違ふ皿ふたつ」の隣に位置し、大正二年から四年春までの「海岸篇」とされる。海岸篇には「米子の海近きあたりをさすらへる時代の作」とあるので、鳥取県米子から眺める景色であろう。高浜虚子は『進むべき俳句の道』のなかで、石鼎を「君の風情は常に昂奮している」と評しているが、掲句では帆が「生まれる」と感じたことに石鼎の発見の昂奮があるかと思われる。それにしても思わず「一帆生みぬ海の中」と平凡に読み違えそうになる。しかし、中の海とは宍道湖が日本海へと流れ出る間をつなぐためについた吐息のような海域の名称である。目の前に広がる海が大海原ではなく、穏やかな中の海であることで荒々しい背景を排除し、海面と帆はさながら母と子のような存在で浮かび上がる。白帆を生み落とした母なる海には、厳粛な躍動と清涼が漂っている。まだまだ本格的な暑さのなかで、秋が巡ってくることなど思いもよらない毎日だが、あらためて「立秋」と宣言されれば、秋の気配を見回すのが人の常であろう。こんな時、ふと涼しさが通りすぎるような俳句を思い出すことも、秋を感じる一助となるのではないかと思う。『花影』(1937)所収。(土肥あき子)

 春陰や眠る田螺の一ゆるぎ

                           原 石鼎

春陰について調べていた。影、が光の明るさを連想させるのに対して、陰、はなんとなく暗さを思わせるので、抽象的なイメージを抱いていたらそうではなく、花曇り、とほぼ同義で、春特有の曇りがちな天候のことだという。花曇りが桜の頃に限定されるのに対して、春陰はその限りではないが、陰の字のせいか確かに多少主観的な響きがある。日に日に暖かさを増す頃、曇り空に覆われた田んぼの泥の中に、蓋をぴったり閉じて冬を越した田螺がいる。固い殻越しにも土が温んでくるのを感じるのか、じっと冬眠していた田螺は、まだ半分は眠りの中にありながらかすかに動く、なんてこともあるのではないかなあ、と作者自身、春眠覚めやらぬ心地で考えているのか。あるいは、ほろ苦い田螺和えが好物で、自ら田螺取りに行ったのか。いずれにしても、つかみ所なく広々とした曇天と、小さな巻き貝のちょっぴりユーモラスな様子が、それぞれ季語でありながらお互い助け合い、茫洋とした春の一日を切り取って見せている。『花影』(1937)所収。(今井肖子)

 七草に入りたきさまの野菊かな

                           原 石鼎

昭和10年10月1日、東京日日新聞夕刊で「新秋七草の賦」を連載した。当時の名士7名にそれぞれ1種の秋の草花を挙げてもらい、菊池寛「コスモス」、与謝野晶子「白粉花」、辻永「秋海棠」、斎藤茂吉「曼珠沙華」、長谷川時雨「雁来紅」、高浜虚子「赤のまんま」、牧野富太郎「菊」で新秋の七草が決定した。当時の名士が推挙し、毎週自選の弁が掲載され、のちに女子学生へのアンケートなども行った人気を博した企画であったが、現在ほとんど知られていないのは、やはり七種の草花がてんでばらばらに個性を発してしまうからで、七草が互いに通い合う風情が大きく欠落しているからだろう。唯一の救いは「菊」が入っていることだ。掲句の初出は明治36年11月3日の山陰新聞、石鼎17歳、新聞初入選の作品である(『頂上の石鼎』)。精鋭作家として注目されながら、なにごとも思いの叶わなかった石鼎に「富太郎先生が菊を七草にお入れになりました」と手を取ってお伝えした弟子は果たしていたのだろうか。秋の花をひとつ。あなたなら何を選びますか?『花影』(1937)所収。(土肥あき子)

 節分の高張立ちぬ大鳥居

                           原 石鼎

節分の日、大鳥居の向こうには高張が連なる参道が見えます。節分は、旧暦の大晦日です。かつては、一年の負債の一切を負い、あるいは清算し、新年に向けてリセットできる日でした。「鬼は外、福は内。」旧い年の穢れをはらい、新春を迎える大声の儀式です。高張は、節句、例祭、季節の祭に境内に立てる木の柱。その上に提灯をつけて高張提灯をともす祭もあります。高張を立たせることで、上(神)とつながる柱を立たせようとしたのでしょうか。神を数える助数詞は「柱」ですから、高きにおわす神と地上とをはし渡しする高張なのかもしれません。諏訪大社の「御柱祭」には、そのような気持がありそうです。掲句を嘱目として読むと、たとえば、作者の故郷、出雲大 社に向かう商店街の坂道をゆっくり歩きながら、大鳥 居が視界に入り、その向こうに高張が立ち並ぶ、遠近法的な配置が見えてきます。手前に大鳥居、向こうに高張。高く、奥行きのある空間のその先には、にぎわいの豆まきの声と音が空にはじけましょう。私は本日、鶴岡八幡宮の節分節会に詣でます。「日本大歳時記・冬」(1981講談社)所載。(小笠原高志)

 月とてる星高々と涼しけれ

                           原 石鼎

昭和16年の作。55歳。この数年、数々の病で入退院をくり返し、この年の五月、松沢病院を退院して、神奈川県二宮の新居に入ります。自身は、病と幻聴に苦しみ、かつての後輩たちは、「京大俳句事件」で検挙され、軍靴が高鳴る中、掲句が生まれています。げんざいと違って、冷房や扇風機のない時代の納涼は、避暑地に行くか、夜を待つしかなかったでしょう。『枕草子』の「夏は夜。月のころはさらなり。略。雨など降るもをかし」には、月と雨の情景を愛でているのと同時に、すずやかな肌の心地に一日の熱を冷ますひとときを読みとります。石鼎が、「涼しけれ」と詠嘆の助動詞で切っているのも、肌の実感です。また、これを「けり」ではなく已然形の「けれ」にすることで、炎熱の余韻を伝えています。月を眺め、高々にある星をみつめる遠きまなざしには、昼間の余熱をクーリングダウンさせながら、幻聴から逃れられている静かな時があります。『原石鼎全句集』(1990)所収。(小笠原高志)


 とぎ水の師走の垣根行きにけり

                           木山捷平

はや、師走である。「とぎ水」はもちろん米をといだあと、白く濁った水のことである。米をとぐのは何も師走にかぎったことではなく、年中のこと。しかし、あわただしい師走には、垣根沿いの溝(どぶ)を流れて行く白いとぎ水さえも、いつもとちがって感じられるのであろう。惜しみなく捨てられるとぎ水にさえ、あわただしくあっけない早さで流れて行く様子が感じられる。「ながれ行く」ではなく「行きにけり」という表現がおもしろい。戦後早く、牛乳が思うように手に入らなかった時代、米のとぎ汁に甘みを加えて、乳幼児にミルク代わりに飲ませている家が近所にあったことを、今思い出した。栄養不足で、母乳が十分ではなかったのだ。とぎ汁には見かけだけでなく、栄養もあったわけだ。寒さとあわただしさのなかで、溝(どぶ)を細々とどこまでも流れて行く、それに見とれているわずかな時間、それも師走である。とぎ水を流すその家も師走のあわただしさのなかにある。「師走」の傍題は「極月」「臘月」「春待月」「弟(おとこ)月」など、納得させられるものがいろいろある。野見山朱鳥の句に「極月の滝の寂光懸けにけり」、原石鼎に「臘月や檻の狐の細面」などの句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)