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マリヴロンと虹

2024.07.04 07:28

https://ihatov.cc/blog/archives/2016/07/post_854.htm 【マリヴロンと虹】より

 「めくらぶだうと虹」と、「マリヴロンと少女」という二つの童話は、登場するキャラクターは異なっていますが、ストーリーは全く同じと言ってもよい内容です。それもそのはずで、後者は、前者の草稿に赤インクで大幅に手入れをするという形で、誕生したのです。 ちなみに下写真が、その「赤インク」が入った1頁目です。

「めくらぶだうと虹」「マリヴロンと少女」草稿

『新校本宮澤賢治全集』第8巻口絵より

 手入れ前の「めくらぶだうと虹」は、地上のめくらぶどうが、天上の虹を讃え敬い、虹に対するかぎりない憧れを述べ、自分を教え導いて下さいと懇願するのに対して、虹の方は、自分もめくらぶどうも価値においては同じである、すべては無常であるとともに「まことのひかり」の中では不滅なのだと説き、すがるめくらぶどうを残して消え去る、というお話です。

 「美のはかなさと永遠性」というようなテーマを、大乗仏教的世界観のもとに、賢治らしい繊細な自然描写によって綴ったもの、とでも言えるでしょうか。

 手入れ後の「マリヴロンと少女」においては、前者における「虹」が有名声楽家の「マリヴロン」に、「めくらぶだう」が「彼女を崇拝する少女」に、それぞれ置き換えられます。配役は変わるものの、物語の構造は同一で、それぞれが述べる台詞も、大まかには共通しているのです。

 「めくらぶだうと虹」が書かれたのは1921年秋頃と推定されており(『宮沢賢治大辞典p.215)、これが「マリヴロンと少女」へと書き換えられたのは、だいたい賢治が羅須地人協会を始めた頃、すなわち1926年あたりと考えられているようです。

 その根拠として、たとえば佐藤泰正氏は、「宮沢賢治――その改稿の問いかけるもの」(『国文学 解釈と鑑賞』平成13年8月号)において、作品中でマリヴロンが述べる「正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです」「鳥はうしろにみなそのあとをもつものです」という言葉と、「農民芸術概論綱要」の思想との共通性を挙げておられますし、また天沢退二郎氏は、『《宮沢賢治》論』所収の「〈読み書き〉の夢魔を求めて」の中で、次のように書いておられます。

 「めくらぶだうと虹」から「マリヴロンと少女」への転位は、こうして、<死との関係>から<限界芸術論>への道すじとして読めること、しかもなお、その道すじは、ひばり=詩人に調子はずれの歌をうたわせることをやめないということが、私たちの足をなおここにとどめさせるのだ。『春と修羅』第一集の詩人を、農民劇や「修学旅行復命書」の限界芸術者へと向かわせるにいたる原点にやはりとし子の死があったことを、「めくらぶだうと虹」→「マリヴロンと少女」は暗示する。

 ここはとても難しい箇所で、全体としては私の理解能力を越えているのですが、最後の部分を読むと、「めくらぶだうと虹」→「マリヴロンと少女」という書き換えには、「とし子の死」が何らかの意味で関係している、ということを天沢氏は考えておられるようです。したがってその書き換えの時期は、やはり妹トシの死よりも後、ということになります。

 そして私としても、(天沢氏の論旨全体は理解できないながらも)上の結論部分に関してはなぜか同感で、すなわち「マリヴロンと少女」には、どこか「トシの死の後の賢治の思想」に通ずるものがあるような気がするのです。

 あまり、きちんと筋道立てて述べられるような根拠はなくて、「何となくそう感じる」という程度の事柄なのですが、それは下記のようなことです。

 前述のように、「めくらぶだうと虹」と「マリヴロンと少女」とは、その基本的な中身はほとんど同じと言ってよいと思うのですが、それでも微妙に違っているところがいくつかあります。

 たとえば、物語の最後の場面で、めくらぶどう/少女の必死の懇願に対して、虹/マリヴロンが答える言葉です。

 まず、「めくらぶだうと虹」。

「私を教へて下さい。私を連れて行って下さい。私はどんなことでもいたします。」

「いゝえ私はどこへも行きません。いつでもあなたのことを考へてゐます。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。いつまでもほろびるといふことはありません。けれども、あなたは、もう私を見ないでせう。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。私はあなたにお別れしなければなりません。」

 停車場の方で、鋭い笛がピーと鳴りました。

 もずはみな、一ぺんに飛び立って、気違ひになったばらばらの楽譜のやうに、やかましく鳴きながら、東の方へ飛んで行きました。

 めくらぶだうは高く叫びました。

「虹さん。私をつれて行って下さい。どこへも行かないで下さい。」

(後略)

 次は「マリヴロンと少女」における、上記に相当する場面。

「私を教へて下さい。私を連れて行ってつかって下さい。私はどんなことでもいたします。」

「いゝえ私はどこへも行きません。いつでもあなたが考へるそこに居ります。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすゝむ人人は、いつでもいっしょにゐるのです。けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。では。ごきげんよう。」

 停車場の方で、鋭い笛がピーと鳴り、もずはみな、一ぺんに飛び立って、気違ひになったばらばらの楽譜のやうに、やかましく鳴きながら、東の方へ飛んで行く。

「先生。私をつれて行って下さい。どうか私を教へてください。」

(後略)

 ここで私が注目したいのは、虹/マリヴロンの最後の言葉です。大まかには同じなのですが、いくつかの相違点があるので、下記において、それを一文ずつ比較してみます。異なっている部分を、赤字にしておきますので、上と下を見比べてみて下さい。

虹の言葉

いゝえ私はどこへも行きません。

いつでもあなたのことを考へてゐます。

すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。

いつまでもほろびるといふことはありません。

けれども、あなたは、もう私を見ないでせう。

お日様があまり遠くなりました。

もずが飛び立ちます。

私はあなたにお別れしなければなりません。

マリヴロンの言葉

いゝえ私はどこへも行きません。

いつでもあなたが考へるそこに居ります。

すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんでいっしょにすゝむ人人は、いつでもいっしょにゐるのです。

(削除)

けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません。

お日様があまり遠くなりました。

もずが飛び立ちます。

では。ごきげんよう。

 文の番号で言えば、1.、6.、7. は、全く同じです。2.、3.、5.、8.がそれぞれ異なっており、4.は、「マリヴロンと少女」では削除されています。

 それでは、2.、3.、5.、8.の違いを、一つ一つ見てみましょう。

 まず、2.では、「めくらぶだう」における「考へてゐます」が、「マリヴロン」では「考へるそこに居ります」となっていて、マリヴロンがそこに「存在している」ことが際立っています。

 また、3.においても、前者の「いつでもいっしょに行くのです」が、後者では「いつでもいっしょにゐるのです」になっていて、ここでも「行く」が「ゐる」に変えられることにより、マリヴロンの「存在」が強調されているように感じられます。

 「めくらぶだう」における「考へてゐます」というのは、そこに一緒にいなくてもできることですし、「まことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行く」というのも、たとえその身が離れていても(「まことのひかり」を共有しておれば)可能であることに、注目しておきたいと思います。

 4.の文が前者にあったのに後者では削除されたのは、どういう意味があるのでしょうか。前者において、「ほろびるということはありません」と言われているのは、「虹」のことではないですよね。「すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行く」という、一つの「法」とでも言うべき真実が、「滅びない」のでしょう。「マリヴロンと少女」においてこれが消されているのは、あえてこのことは説く必要なないと作者が考えたのでしょうか。

 5.は、両者で主語の異なった文になっています。前者において「あなたは、もう私を見ないでしょう」とあるのは、対象は本来は滅びることはないのに、それを見るこちら側の問題によって、滅びたように思ってしまうのだということでしょうか。

 後者で、「けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません」とマリヴロンが言うのは、その直前に「そこに居ります」「いつでもいっしょにゐるのです」と言っていたことと一見矛盾するようですが、この矛盾こそが、作品の眼目でもあるのでしょう。

 8.は、前者では「別れ」という言葉が使われていて、本当に「別れてしまう」という感じが強いのですが、後者では「では、ごきげんよう」と、とても気軽な挨拶で、まるで、またいつでも会えるというような雰囲気です。

 以上のような相違点があるわけですが、手入れ前の「めくらぶだうと虹」における虹の言葉から私が感じるのは、たとえお互いは離れていても、「いっしょに行く」=信念を共有して進むことはできるのだ、というような考えです。「存在」よりも、「法」あるいは「道」の不滅を説くという感があり、その不滅性がおびやかされるとすれば、「あなたはもう私を見ない」というような、こちら側の信念の問題だということでしょうか。

 これに対して、手入れ後の「マリヴロンと少女」におけるマリヴロンの言葉から私が感じるのは、「いつでもあなたが考へるそこに居ります」とか「いつでもいっしょにゐるのです」という言葉に象徴されるように、「ずっと対象ともにある」という感覚です。その対象は、「もう帰らなければなりません」とか「では、ごきげんよう」という風に目の前から去ってしまうようではありますが、それでも本当は、「いつでもいっしょにゐる」のです。

 ということで、結論として私が今回の記事で言いたいのは、「めくらぶだうと虹」の方には、ひょっとして保阪嘉内との「別れ」という体験の影響があったのではないか、「マリヴロンと少女」の方には、トシとの死別と悲嘆の影響があったのではないか、ということなのです。

 前者は、1921年の秋に書かれたと推定されているので、この年7月の嘉内との悲しい別れの、少し後です。

 後者は、1926年の手入れであれば、1922年11月のトシの死よりは、後のことです。

 したがって、時期としては、それぞれが嘉内との別れ、トシとの別れと関係したとしても、矛盾はありません。

 「めくらぶだうと虹」が、保阪嘉内と別れを反映しているという前提で読んでみると、2..の「いつでもあなたのことを考えています」とは、嘉内は賢治と離れていても、賢治のことを考えてくれている、という風にも解釈できます。

 3.の、「まことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行く」が表しているのは、たとえ生身の賢治と嘉内は「物別れ」になって、離ればなれでいたとしても、2人の志は同じであり、同じ道を進んでいるのだ、という風に解釈することもできます。

 「マリヴロンと少女」が、トシとの死別と関係しているとすれば、ここに記されている「いつでもあなたが考へるそこに居ります」とか「いつでもいっしょにゐるのです」という言葉は、以前に「千の風になって」や「そしてみんながカムパネルラだ」という記事に書いたように、賢治がトシの死を乗り越えて、「いつも身近にトシの存在を感じられる」というような心境に至ったのではないか、という私の仮説につながってきます。

 1924年の7月に賢治は、「〔この森を通りぬければ〕」、「〔北上川は熒気をながしィ〕」、「薤露青」などの作品を書きますが、そこにはトシの「声」やトシとの会話があふれています。この頃に、トシの「不在」を真に受容できるようになったことが、逆説的にその「遍在」の認識への扉を開いてくれたのではないかと、私は思っているのですが、「マリヴロンと少女」における、「いつでもあなたが考へるそこに居ります」等の言葉に、相通ずるものを感じるのです。たとえば、「いつでもいっしょにゐる」と言いながら、「もう帰らなければなりません」「では、ごきげんよう」と言うという「矛盾」は、トシが「不在」かつ「遍在」という「逆説」と似ています。

 「めくらぶだうと虹」と、「マリヴロンと少女」を見比べていて、ばくぜんとそのようなことを思いました。


https://blog.goo.ne.jp/suzukikeimori/e/ed767714c18df7750581e23483636b55 【350 賢治の俳句】より

 さて、以前掲げた昭和2年の年譜の中でまだ触れていないもので触れたいのは最後の次のことである。

<1928年(昭和2年)>

11月1日~3日 東北菊花展出品、審査、菊の句の短冊を書き入賞者に与える。

1.賢治の句作

この東北菊花展(菊花品評会)について、原子朗氏が「宮澤賢治の俳句」の中で次のように述べている。つぎに並ぶ、しめて十六句は、まぎれもない賢治自作の、いずれも菊にちなむ句作。

  魚燈して霜夜の菊をめぐりけり  灯に立ちて夏葉の菊のすさまじさ

  斑猫は二席の菊に眠りけり  緑礬をさらにまゐらす旅の菊

  たそがれてなまめく菊のけはひかな  魚燈してあしたの菊を陳べけり

  夜となりて他国の菊もかほりけり   狼星をうかゞふ菊の夜更けかな

  その菊を探りに旅へ罷るなり      たうたうとかげらふ涵す菊の丈

  秋田より菊の隠密はいり候       花はみな四方に贈りて菊日和

  菊株の湯気を漂ふ羽虫かな     水霜をたもちて菊の重さかな

  狼星をうかゞふ菊のあるじかな    大管の一日ゆたかに旋りけり

 詩稿用紙に書かれた終二句をのぞいて、すべて「装景手記」と命名された賢治のノートから、推敲の跡をたどって、その最終形態を『校本全集』は採録している。いずれも菊を詠んでいるのは、これらが花巻で例年、催された菊花品評会に賢治が関係しており、その因縁による。昭和五、六年ごろのことである。「秋香会」という菊作りの会に賢治は肩入れしていた。品評会後、賢治に届けられた菊の切花の一本一本に俳句をつけて、親戚にくばった(それが「花はみな四方に贈りて菊日和」の句意であろう)という逸話、それを聞きつけた世話役が、つぎの品評会の副賞に賢治に自作自筆の俳句の短冊を依頼にくる話が、佐藤隆房著の『宮沢賢治』に見える。…(略)…特に秀抜の句はない。総じて個性に乏しい。

     <『「鑑賞日本現代文学」⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)より>

2.賢治の句碑

 そして、このときの句を刻した句碑が胡四王山には2基もある。その一つが南斜花壇の下の方にある次の《2 句碑》(平成20年5月23日撮影)である。

 ちなみに上の句の中から選ばれた次の5句が刻まれている。

  斑猫は二席の菊に眠りけり  狼星をうかゞふ菊の夜更かな

  秋田より菊の隠密はいり候  花はみな四方に贈りて菊日和

  水霜をたもちて菊の重さかな   風 耿

 なお、『風 耿』は〝ふうこう〟と読み、賢治の俳号である。

 また胡四王山には賢治の句碑がもう一基あり、それはイーハトーブ館の南西側にある本ブログの先頭ような〝宮澤賢治句稿〟石碑である。

 そこには次のような《3 賢治の俳句》(平成20年5月23日撮影)

が十一句刻まれている。これらの句は主に前掲の十六句の中の句であるが、次の三句はその中には見当たらない。

  菊を案じ星に見とるる霜夜かな  霜降らで屋形の菊も明けにけり

  客去りて湯気立つ菊の根もとかな

3.賢治の俳句の力量

 ところで『校本全集』に収められている賢治の俳句は全部で31句あるとのことであるとのことでが、原子朗氏によれば 一言でいって、賢治の俳句は、<余技>の域を出ていないといえるだろう。とのことである。

 う~ん、私も多少俳句をたしなんでいるので、賢治には申し訳ないがたしかに原氏の言う通りかな。たとえば、季重ねの句もいくつかある(もしかすると賢治が亡くなってから季語になったものもあるのかも知れないけど)し、説明的な句、報告的な句も多いので。したがって、少なくともこれらの句を作っていた時点での賢治の俳句の力量はそれほどのもではなかったであろう。

 ついいままでは、運動以外は賢治は何をやっても超一流かなと思っていたが、案外そうでなかった分野もあったのかも知れない。 俳句同様、セロとかオルガン演奏などもそれほど上手かったわけではないのかも知れない。

 したがって、あらゆる分野で賢治が秀でていたと思い込むことは却って真実の賢治を欺くことになる、もう少し賢治を冷静に見てゆかねばならぬということを、今回賢治の俳句を味わうことによって知った次第である。

4.少し寂しい

 なお『校本全集』の年譜を見てみても、昭和2年11月~年末の間にはこの他に目立った事柄はなさそうである。

 詩についても、12月21日に盛岡中学校の「校友雑誌」に「冬二篇」として<銀河鉄道の一月>と<奏鳴四一九>を発表はしていても、詩の創作の方は見当たらないのではなかろうか。まあ、俳句もジャンルは詩といえばいえるが、そこには賢治らしさがあまり見出せるものでもなっかったようだし、少し寂しい気がする。実際には賢治はこの時期だからあちこちの肥料相談所で精力的に肥料相談等にのってやっていたのだろうとは思うが。