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粋なカエサル

江戸の名所「神田」①江戸っ子と神田

2018.12.20 03:19

   「酒を呑みねえ、江戸っ子だってねえ」「おう、神田の生まれよ」「そうだってねえ」

 広沢虎造の浪花節「石松三十石舟」(『清水次郎長伝』)の有名な下りだ。讃岐の金毘羅樣へ刀と奉納金を納めた遠州森の石松が、帰り道に大阪から京都に向かう三十石船に乗る。船の中で、江戸の神田生まれという江戸っ子が、「街道一の親分は清水次郎長」と言い出したことに嬉しくなった森の石松は、その江戸っ子に、「もっとこっちへ寄んねえ」と声をかける。その後のやりとりが「江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」のやりとりだ。

 江戸の端唄にこんなのもある。

       「芝で生まれて神田で育ち 今じゃ火消の纏(まとい)持ち」

 火消しの纏持ちと言えば勇み肌の男伊達の象徴。その気っぷの良い男伊達を育てたのが神田の町という意味だ。

 では、神田とはどの地域をさしたのか?『神田の生まれよ』って言えるのは、神田明神の氏子だけ。しかし、その範囲は神田・日本橋・秋葉原・大手町にまで広がる。日本橋と神田では、同じ江戸っ子でも個性は異なる。それは町の性格の違いに由来する。

 江戸城の城下町建設にあたって、商人町の日本橋に続いて置かれたのが職人町の神田。その町づくりは同業者をまとめる形で行われた。例えば、こうだ。

    「竪大工町」「横大工町」=大工職  「蝋燭町」=ろうそく製造業

    「白壁町」=左官職   「新銀町」=銀細工職  「鍛冶町」=鍛冶師、鋳物師

    「紺屋町」=藍染職

 こうして、仲間意識の強い地域社会が生まれ、職人気質の理想像が「江戸っ子」となったのだ。 現在も町名が残る「紺屋町」界隈は、慶長年間(1596年~1615年)に徳川家康から軍功として関東一円の藍の買い付けを許されていた紺屋頭土屋五郎右衛門が支配していた町。そのため、町には五郎右衛門の配下の染物職人が大勢住んでおり、いつしか「紺屋町」と呼ばれるようになった。やがて江戸を代表する藍染めの浴衣と手ぬぐいの大半は、紺屋町一帯の染物屋で染められるようになり、紺屋町は流行の発信地にまでなっていく(「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」と言われていたほど)。そしてここ以外で染められた藍染めは揶揄され、そこから生まれたのが「場違い」という言葉。

 また、ここが舞台の落語もある。落語「紺屋高尾」。神田紺屋町の染物屋吉兵衛の職人の久蔵が、吉原の花魁道中で見た三浦屋の高尾に一目惚れして恋患いになってしまう話だ。

        「紺屋町近くにありて藍染の川の流れも水浅黄なり」

 これは、町内に古くから流れていた藍染川を詠んだ狂歌。藍染川は幅一間(約1.82メートル)ほどの小川で、染物の布を洗い流していたことから、そう呼ばれるようになった。洗った布(反物)は、物干し台(虎落=もがり)で干す。その様子は、江戸名所の一つとしてこの町のシンボルだったが、広重は『名所江戸百景』「神田紺屋町」で見事に表現した。

( 広重「京都名所之内 淀川」) 三十石舟の様子がわかる

(北斎「雪月花 淀川 月」) これに描かれているのも三十石舟

(『職人尽絵詞』 紺屋)

(広重「名所江戸百景 神田紺屋町」)

(『江戸名所図会』 藍染川)

(『江戸切絵図』 日本橋北神田浜町絵図)日本橋川と神田川の間が神田エリア