おお友よ、このような旋律ではない! もっと心地よいものを歌おうではないか
今年の12月も、無事に「第9」を聴きにいくことができた。
ベートーヴェン作曲、交響曲第9番だ。
場所はことのほか愛するサントリーホール、ここで12月に第九を聴くことが私のささやかな儀式となりつつある。サントリーホールが好きなのは、歴史に名高い指揮者であるカラヤンが、その設計にも関わったことで知られる名ホールであり、音色の豊かな響き方がやわらかい。
けれど私が愛着を寄せるのは、サントリーホール、目の前のカラヤン広場、アークヒルズ、それらすべてに東京で生きてきた瞬間瞬間のコラージュが施されているように感じるからだろう。
日本では何故か、年末が近くなるとあちらこちらで「第九」を演奏するものだから、一種の季節的風物詩化しているのだけれど、これだけ1年の集大成であるべきときに多くの人の胸を打つ理由はその楽の音のテーマ、モチーフにもとづいているのではないか。
第4楽章の独唱および合唱パートで採用されている詩は、シラーの「歓喜に寄す」であり、テーマそのものは「歓喜の歌」である。これをオーケストラと合唱で聴くことは、おそらくただ耳で聴いているのではなく、まさに「その場を生きている」と感じられるのだ。
銀色の髪を振り乱し、1列目の席からは飛び散る指揮者、マッシモ・ザネッティの汗がきらめいて見える。全身でこの瞬間、「ベートーヴェンを生きている」指揮者、そして楽団。聴衆は魂をわしづかみにされるような衝撃に全身を貫かれ、雷のようなそれはまさに歓喜の至福へと私たちをいざなってゆく。
失敗も成功も、大なり小なりあっただろう。
人を傷つけたこともあるかもしれないし、自分が傷を負ったこともあるだろう。
もっと誠意を持てただろうか?まだやれただろうか。
充分にやっただろうか。日々を懸命に生きただろうか。
壮大な演奏に精神が溶け込んでいき、私のなかで1年の来し方が猛スピードで問われていく。
演奏がクライマックスに近づくときには、そうした悔恨を含めてすべて洗われ、「歓喜の歌」が清濁併せ呑む人間の生を讃えていく。
この上ない歓び。
この、生きるという人の一生。
来年も、サントリーホールで。
おお友よ、このような旋律ではない! もっと心地よいものを歌おうではないか
もっと喜びに満ち溢れるものを (以上3行はベートーヴェン作詞)
歓喜よ、神々の麗しき霊感よ 天上楽園の乙女よ
我々は火のように酔いしれて 崇高なる者(歓喜)よ、
汝の聖所に入る 汝が魔力は再び結び合わせる (以下2行は1803年改稿)
時流が強く切り離したものを すべての人々は兄弟となる (1785年初稿: 時流の刀が切り離したものを 物乞いらは君主らの兄弟となる)
汝の柔らかな翼が留まる所で
ひとりの友の友となるという 大きな成功を勝ち取った者
心優しき妻を得た者は 自身の歓喜の声を合わせよ そうだ、
地珠上にただ一人だけでも 心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ
そしてそれがどうしてもできなかった者は この輪から泣く泣く立ち去るがよい
すべての存在は 自然の乳房から歓喜を飲み
すべての善人もすべての悪人も 自然がつけた薔薇の路をたどる
自然は口づけと葡萄の木と 死の試練を受けた友を与えてくれた
快楽は虫けらのような者にも与えられ
智天使ケルビムは神の前に立つ
天の壮麗な配置の中を 星々が駆け巡るように楽しげに 兄弟よ、
自らの道を進め 英雄が勝利を目指すように喜ばしく 抱き合おう、
諸人(もろびと)よ! この口づけを全世界に!
兄弟よ、この星空の上に 聖なる父が住みたもうはず ひざまずくか、
諸人よ? 創造主を感じるか、
世界中の者どもよ 星空の上に神を求めよ 星の彼方に必ず神は住みたもう
(出典:wikipedia)