二十五冊目【どっちつかず の ものづくり】
【どっちつかず の ものづくり】
著者 安藤 雅信
出版 河出書房新社
陶作家でありギャルリ百草を営まれる安藤さんの著書です。今年は生活工芸に関わりのある方の著作が多く出版された年でした。木工家・三谷龍二さんの「すぐそばの工芸」塗師・赤木明登さんの「二十一世紀民藝」三冊共とても学びのある良書でした。本書のなかにミナ・ペルホネンの皆川明さんと安藤さんの対談が収録されているのですが、そのなかで「民藝」の思想というものは「ものづくり」が中心で「生活工芸」は、「ものが人の生活のなかにどのように関わっているのか」ということを思考する「概念」である。ということが述べられていました。「民藝」は、柳宗悦好みの「様式」であり、そこを中心に美が語られていることに対して「生活工芸」は、同じ時代を生きた同世代がそれぞれの生活のなかで感じた「問題意識」を共有する形で自然発生的に「時代」が求めたかたちで現れたということだと思います。俯瞰してみるに、おそらく当初の「民藝」も、昭和初期という「時代」に違和感を持ち、変革や、救いを異なるところに求めていった点は「生活工芸」の」成り立ちとおおいな相違はないと思います。しかし、明治以降の西洋化と戦中戦後のおおきな価値観の変動に揺さぶられる形で「強くあること」を求められた「民藝」や同時代の運動や思想に対して、バブル期に発生した「生活工芸」とでは、求めらるものがおおきく異なっていたのだろうと感じました。
ぼくはもとより「民藝」と「生活工芸」を比較する対象ではないと思っています。それは「生活工芸」という一連の思想は「個々人の意識の話」であり「社会運動」とはもっとも遠いところにあるものだからです。集団として紹介されることで「白樺の同人」と同一のように論じられることはありますが、当時の彼らの多くが生まれもってもブルジョアで、戦前の階級社会のなかで生きていくことを前提としたうえで、学生時代に親や社会に反発するかたちで「理想の生き方」を模索して社会運動に身を投じたのに対して、「生活工芸」の作家や、それに連なる我々世代は「バブル」という好景気を経験し、資本主義・貨幣社会を妄信している世代に対して「その考えは、もう無理だけど、こういう生き方でも十分幸せになれますよ。すくなくともぼくはそう思います。」と言い切った世代です。その世代が「贅」ではなく「貧」に引かれていったという点では、民藝運動の初期の時代と似てはいますが、「旧来の経済活動の枠組みのなかで組織化」していった「民藝」と、インターネット以後の、少数派に向けてのものであっても、ある程度の影響力を持ち、しかも大切な人を守っていけるだけの規模の商いが実現できるようになった現代とでは、話の前提がおおきく異なります。前提条件となる「時代」という価値観が、100年のあいだに大きく変化したことを勘定にいれないことには、民藝と生活工芸の話は進まないように思います。
繰り返しになりますが、ぼくは「民藝」と「生活工芸」は同一性のある流れであるとは思いますが、それを取り巻く社会構造があまりに異なるので、対比をしたいとは考えていません。旧来の価値観が通用しなくなった時代においての、若者世代のカウンターカルチャーである。という点は同じとだと思いますが、その性質が異なります。「熱をもって説得し、団体を組んで声をおおきくしなければ、多く大衆に広がらない、残せない」という時代背景をもって広がった「民藝」に比べると、「生活工芸」はどこまでもクールで群れません。なにもクールを気取っているわけではなくて、熱を持って説得しなくても「あれ?現代ってなんかおかしいな」と気がつく人が、情報が自由に得られる現代では過去よりもはるかに多く、しかもモデルとなる大人(成功者)も存在せず、社会や地域の隣人、家族から趣味趣向を弾圧もされない、何より一応は多様性も認められてきているので、おおっぴらに「好きなこと」を楽しいといえる世代である我々には、「理解を求めて熱を持って語る必要性」がないのだと思います。その意味で現代社会は豊かに成熟しているのだと思います。日本で暮らすマイノリティが人口の1%としても100万人います。柳宗悦の頃の総人口が5000万人に満たず、しかも割合としては「大人(旧体制の社会信者)」が多数であり、現代のような少子高齢化「子供の意見が多数派になる時代」とは、影響の質も量も異なっていたのはあきらかです。我々の生き方という個々人の「意思」が少数派100万人の半分の50万人の共感を得て、彼らが自発的に暮らしを変えたら、昭和初期の人口における少数派の50万人と同じになります。数字はどうでもいいのですが、ぼくらは「少数派を無視できない社会」に生きています。その要因は様々ですが、その時代において「意思を統一し一つの目的の実現に向けて一丸となって生きる」そういった旧来の会社のような組織はあまり必要がありません。「違っても生きられてしまう時代」ですので、会社が守ってくれなくれも不自由ないのです。これからの時代において必要になるのは、村落共同体でいうところの「結い」のような「互助組織」です。「いいか悪いかよくわからんけど、お前がやりたいなら支えるぞ」というのは、金儲けを支援するという意味ではなく、自分とは異なる他者の生き方を認める。という多様性の社会性です。(クラウドファンディングで実現しつつありますね。)そして、ぼくら世代が社会に求めているものは「投資してくれて口を挟んでくる共同経営者」ではなく「生活が困窮したときに食べさせてくれる」そういったちいさな「理解者」の存在ではないでしょうか。そして、そのような意識が「生活工芸」と呼ばれるものを「好む世代」のなかにあるので、民藝のように民藝館という「様式」を周囲に理解してもらう為の美術館は不要であり、「生活工芸」というカテゴリーすらどこか違和感があるのではないでしょうか。繰り返しになりますが、民藝が群れていたのは集団を守る為です。生活工芸が群れないのは「群れなくても生きられる」そんな社会が確かに実現できている証明だと、ぼくは考えています。それは大きな社会運動ではなく、個々の暮らしに対する「ものごととの向き合い方」を通した静かな変革ではないでしょうか。すくなくともぼくは「生活工芸的な目線」で選ばれるものから漂う「無名性」や「たよりなさ」のなかに強い現代性を感じます。そして、贅ではなく貧のうちに生きたいと願うとき、大きな社会運動や大規模資本のマーケットへの参入ということへ対する興味が出てこないのも当然だと思っています。だって、そんなことに注力しなくても、ここで暮らしているだけで世界中の人がインターネットを通じて情報を知って、尋ねてきてくれるんですから。なにより、ぼくは弱くて汚い人間なので、お金儲けなんてわかりやすい世界に染まったら簡単に家族も地域も裏切りますよ。だから、そっちにいかないんです。だから多くのことに対して群れても染まりませんし、否定も肯定も混濁した意見を持っています。デザインは高度に理論化されて、もはやデザインそのものが陳腐化しています。「違うから優れている」時代は終わり「混濁とした感情を持ちながら、続けていること」が価値になってきています。まさに「どっちつかず」でいること(他者から見て、ではなく本人の感性のなかで)が求められています。それは「一丸となってバラバラに生きろ」ということなんだと、受け売りですが、ぼくは本当にそう思います。
話がそれました…すみません。本年出版された三者三様の「生活工芸」に関わる本(三谷さんの本がどうしても本棚に見つからず感想が遅れてます…)を拝読させていただきましたが、ぼくは安藤さんの見方にもっとも親近感を感じました。私的な感覚なのですが、赤木さんは「物語」を大切にされ、三谷さんは「自然(じねん)」を大切にされ、安藤さんは「出逢い」を大切にされている。そんな印象を受けました。本書の巻末には・坂田和實・村上隆・大友良英・皆川明という早々たる皆様との対談が収録されていますが、その対談のタイトルは「周辺から中心への対話」赤木さんが自らの内にあるものと土地との間に物語を見出して関わるように、三谷さんが窓から見える町を暮らしの延長線として感じて関わるように、安藤さんは他者との対話から導かれるように自分の輪郭を作られる方だな。そう感じました。もちろん文字から感じた印象で想像です。失礼があったらもうしわけありません。赤木さんの本に頷き、三谷さんの本で喜び、安藤さんの本で考えました。なんだかとても有意義な対話をさせていただいた気持ちになりました。是非三冊あわせてご拝読くださいませ。