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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

フレデリック・ショパン、運命に怯えながら耐える孤独なフレデリック…。フレデリックの決意とは…

2024.07.05 08:53

🎶ホドキェヴィチ宮殿の前のホドキェヴィチ伯爵とフレデリックとティトゥス🎶

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ティトゥスに書簡を送ってから4日足らずで

続きを書いて出すフレデリックだった。

心穏やかな日はフレデリックにはないのだ。

エルスネルの思惑と政府委員会の歳入財務担当官のフランス人プーケの下心により、フレデリックは国外へ行き死ぬまで祖国のために尽くす芸術家の2番手として決定されたからだ。選出に関わっていたフランス人プーケ氏はフレデリックの容姿が好きだった…フレデリックの行き先はプーケ氏の望みでフランスに決まったようなものだった。だからプーケは上手くいったとニヤニヤしていた。

フレデリックは逃れられない人生の選択と

覚悟に怯えていた。そして世間では真面目で通っているドイツ人のエルスネル教授は狸のような人柄でフレデリックは天才天才と言いながら、自分の席を維持するためにフレデリックを早くポーランドから追い出したかった…エルスネルから、お国のために働くようにしかし、国には戻って来るなと、説得されたフレデリックは頭がおかしくなりそうだった。パトロンのティトゥスもポトゥジン村に引き篭もりワルシャワに出ては来ないのだが、裏から手を回したに違いないと、フレデリックは自分を取り巻く人々に苛立ちを

感じていた。フレデリックがポーランドを発たなくてはならない日は刻一刻と迫って来るのだ、

「偽善者よ、あなたに言っておきますが、私はいつもよりさらに狂った状態にあります。私はまだここにいますが、出発の日にちを決める気力はありません。

私がここを離れるときは、故郷を永遠に忘れることになると確信しています。 

私は死ぬために家を出るだけだと感じています。

住んでいた場所から遠く離れて死ぬのはどんなにひどいことでしょう。

家族の代わりに、冷酷な医師や使用人が死の床のそばで見られたら、私にとってどれほど恐ろしいことでしょう。

私のこの気持ちを信じてください、

時々あなたを探しに行こうと思ったこともあります 。私はホドキェヴィチへ行き安心したいのです。だから、私は外出し、通りを歩き回ってさまよって、再び家に帰ります...何のために、ただ時間を潰すためだけに。」

 フレデリックは自分のこの先の人生がまるで目に映るかのような恐怖に駆られていた。

心落ち着かせるために、ティトゥスが住んでいたホドキェヴィチ宮殿へ行き、ティトゥスが居た部屋の窓を見つめてしまうのだ。

そして周辺をウロウロしてしまうフレデリックであった。本当にただ時間が過ぎるのを待っていたのだろうか。

実は、モリオール嬢とそこで会う約束をしていたのではなかろうか。

ホドキェヴィチ宮殿にはアレクサンダー・チョドキェヴィチ伯爵が住んでいた。

彼は四年前、ロシアのサンクトペテルブルクにコンスタンチン大公の政策に反対した政治犯として投獄されていたのだ。しかし、容疑は晴れ釈放されワルシャワに戻っていたが監視下だった。ホドキェヴィチ宮殿にフレデリックが訪ねて行き、チョドキェヴィチ伯爵に会ったかは謎であるが、宮殿内の一室に住んでいたことがあったティトゥスはポトォジン村に篭っていていホドキェヴィチ宮殿にはいないのだ。

ホドキェヴィチ宮殿でなぜモリオール嬢とフレデリックは会ったのか、モリオール嬢はコンスタンチン大公の息子の家庭教師を務めていたモリオール伯爵の娘なのだ。フレデリックはコンスタンチン大公の夜会でモリオーリ嬢と親しくなり、ロンド・アラ・マズール作品5を1828年に献呈した事があった。

ホドキェヴィチ宮殿にはホドキェヴィチ伯爵の化学実験室があった。彼は芸術家のパトロンでもあった。

ホドキェヴィチ伯爵の実験室では国営新聞を

印刷していた。モリオール嬢とはフレデリックばこの先、パリで再開することを約束した。モリオール嬢の説得で、フレデリックは自分は国を出る覚悟を決めた。

そして、その時は、もう目の前に迫ってきていた、

「私はまだ協奏曲のリハーサルを行っていません。でも何が起こっても、聖ミカエルの前の日までには、私は大切なものをすべて捨てようではないか。

そして私はウィーンに行き永遠の後悔を宣告されていることに気づくのです。

私が書いているこの意味のなさは何ですか!あなたは人間の強みをよく知っているはずですから、

なぜ今日は物事が明日起こるように常に思えるのかを私に説明してください。

私の頭に浮かぶ唯一の答えは、そんな馬鹿なことはしないでください、です。」

ピアノ協奏曲をお別れに演奏する決心がついたフレデリック、

フレデリックの最初の行き先はウィーンと決められていた。

しかし、ウィーンがどんなところか既に1年前の旅行でわかっていたフレデリックは

先が見えてしまい、後悔に苦しむ自分がまるで明日のことのように今日見えてしまうのだ。

そんな自分から逃れたくても逃れられないジレンマに苦しみ、不安が頂点に達すると、ティトゥスに馬鹿なことばかり書いてしまうと自分で語っていたフレデリックなのだ。

「あなたがもっと良い答えを知っているなら、私に教えてください。 」ティトゥスに答えがないことを知っていながら、ティトゥスに問いかけるフレデリック…

「・・・今日は書簡で気が抜けません。モリオール嬢が私を待っているからです。

他の良識ある人々が私に対して親切であると確信できる場合に、私は人々に親切にするのが好きです。私はモリオール嬢に会いたいと思っているし、そうすることで自分の憂鬱の原因を彼女に押し付けているところが私は

あります。」

コンスタンツァアには自分の弱さを見せられないフレデリックだが、モリオール嬢には

自分の弱さを吐露していたのか…

モリオール嬢はフレデリックに親切な良識のある人だった。そういう親切な心を受けた時は、フレデリックは心が穏やかになり、他の良識のある人には優しくなれた。

「私は表面的には落ち着いているように見せかけて人々を納得させているのです」

天才で色白で金髪で細面の何拍子も揃っていたフレデリックは夫人や同性愛者の人気の的だったが、それだけに嫉妬の荒らしが吹き荒れてしまうのだ。フレデリックはそれを自覚していただけに常に平静を装っていなくてはならなく疲れていた…。

「父は私の本当の気持ちを知ったら悲しむであろうが、何も知らない父は笑っています…」

フレデリックの本当の気持ちとは、これから起こることを隠し、仲間とは約束を交わしていたと言うこだ。

「聖ミカエルの前の日までには、私は大切なものをすべて捨てようではないか。」

この言葉にフレデリックの決意の全てが凝縮されていた。

大切なもの、、、それは父であり、母であり、姉であり、妹であり、コンスタンツィアであり……書けないフデリックだった。

アレクサンダー・チョドキェヴィチ伯爵

1822 年に作者不明のグラフィック

 グリフ・ツ・ミエチの紋章のアレクサンダー・フランチェスコ・ホドキェヴィチ(1776年6月4日 または1777年9月20日チェルノブイリ−1838年1月24日にムウィヌフ) 1820年にポーランド会議王国の伯爵

ポーランドの作家、劇作家、化学者、

石版画家、文化の後援者、収集家、ワルシャワ公国軍大佐、ポーランド王国の将軍および上院議員、 1820年と1825年のサンドミエシュ地区からセイムスまでの議員、フリーメイソンのメンバー、

 ホドキェヴィチの父親はサモギティアのスタロスタ、コシチェシュの紋章のヤン・ミコワイ・クサヴェリー・ホドキェヴィチ(1738年 - 1781年)と首長、母親はクシフダの紋章のルドヴィカ・マリア・ベイド=ジェヴスカ(1744年 - 1816年)の息子として生まれた。兄弟は、ヴァツワフとユゼフ、そしてルボミルスカと結婚したロザリア(1768年 - 1794年)とマチェイ・ラジヴィウ( 1749年- 1800年)と結婚したエルジビエタ(1804年没)の姉妹がいた。彼は宮殿で家庭教師に教育を受けた。1790年からワルシャワのマルシン・ニクタが経営する寄宿舎で教育を受けた。彼はコシチュシュコ蜂起に参加した。コシチュシュコによって国家警備隊少佐に任命された。反乱の崩壊後、彼は軍隊を離れ、ヴォルィーニに定住。科学と文学の仕事に従事するが、彼の財産は差し押さえられた。1809 年のセイムに参加し、ユゼフ ゴドレフスキの党に所属した。ポーランド・オーストリア戦争中、彼はヴォルィーニで秘密の愛国活動を組織した。ナポレオンがヴィリニュスを占領した後、彼は臨時政府の軍事委員会の委員となり大佐に任命された。次に彼はコサコフスキー将軍の副官を勤めた。1812年12月にワルシャワに送られた。包囲されたモドリン要塞で11か月間。デエンデルスが降伏した後、署名せず、ロシア軍に捕らえられた。

1815年1月20日近衛師団参謀長の大佐の階級を授与された。1818年12月2日准将を解任。1819年4月9日に上院議員兼城主に任命された。1819年10月4日の上院での演説でコンスタンティヌス皇太子の政策に激しく反対した後、1819年10月17日の最高法令により上院議員としての尊厳を剥奪された。

1820年と1825年にサンドミエシュ県から国会議員に選出。1826年2月8日、コンスタンティ大公の命令によりムウィヌフで逮捕されサンクトペテルブルクに投獄された。重大な容疑がなかった彼は釈放され、警察の監督下でさらに1年間ジトーミルに滞在した。

11月蜂起崩壊後、彼は死ぬまでムウィヌフに留まった。彼は故郷のムウィヌフとチェルノブイリ)に学校を設立し、ポーランド語とロシア語、算術、道徳科学、教理問答を教えた。1830 年ムウィヌフに正教会を設立。

ワルシャワ科学友の会(1804 年)リトアニア教育委員会 (1807 年)科学協会に所属していた。1818 サンクトペテルブルクの科学アカデミーの会員。ヴィリニュ大学(1819 年)、パリの農業学会 とガルバニ学会、イエナとサンクトペテルブルクの鉱物学会、ヴィリニュスとサンクトペテルブルクの薬学会の名誉会員。

彼は、アントニ・アンジェイフスキ、ヤコブ・シムキェヴィチ、ヴィクトル・ヘルトマン、ミコワイ・ミャノフスキ、ユゼフ・オレシュキェヴィチなど科学者や芸術家のパトロンだった。ホドキェヴィチは 1838 年 1 月 24 日にムウィヌフで亡くなり、ムウィヌフの教会に埋葬された。