ロイヤル・バレエ公演『フランケンシュタイン』
その怪物とは
だれのことなのか
590時限目◎その他
堀間ロクなな
英国ロイヤル・バレエが2016年に世界初演した『フランケンシュタイン』のライヴ映像を目にして、わたしはあの怪物が秘める本当の恐ろしさを初めて知ったように思う。リアム・スカーレットの振付、ローウェル・リーバーマンの音楽。メアリー・シェリーの原作は対話劇の手法による一種の観念小説だが、バレエでは当然、セリフは排除してすべてを肉体表現のみで組み立てるわけだから、ストーリーをごく単純化しなければならず、それがある意味で原作以上にこの怪奇譚の深層を暴きだすことにつながったのではないか。
舞台は18世紀、スイスのジュネーヴ。富裕なフランケンシュタイン家では、長男のヴィクター(フェデリコ・ボネッリ)と孤児のエリザベス(ラウラ・モレーラ)が兄妹のように幸せいっぱいに育ったが、次男のウィリアムの難産がもとで母親が死んでしまい運命が暗転する。その悲しみからヴィクターは大学で生命科学を学んだのち、死者をよみがえらせるための研究に打ち込む。かれが設計した実験室では、複雑怪奇な機械からベッドに横たわる肉のかたまりへと管がまといつき、その光景に子宮のメタファーを見て取るのはわたしだけではないはずだ。果たして、新たな生命を宿した怪物(スティーヴン・マックレー)が目覚めて実験室を飛びだすなり、孤独と恐怖の念に見舞われるのも、われわれが母親とのあいだのヘソの緒を断たれて以来経験してきたものに違いない。
苦悩する怪物は創造主のヴィクターに愛を求めたものの、相手がその責任から逃れようとしていることを知ると、とめどない怒りと復讐心に駆られて、幼い弟のウィリアムをさらって絞め殺す成り行きに。ところが、フランケンシュタイン家や近在の人々は召使の娘を殺害の犯人と決めつけ、懸命な無実の主張に耳を貸すことなく、すぐさま縛り首にして木の枝から吊り下げてしまう。そう、ここにおいて世間の善男善女たちもまた、理性や良心を失って、発作的な怒りと復讐心に突き動かされるだけの怪物でしかなかったことが明らかになるのだ。
だから、やがてヴィクターとエリザベルの婚礼の日を迎えて、みなが着飾って華やかなダンスの輪を繰り広げるなかに、あの怪物も紛れ込んでいっしょに踊っていてもだれも気がつかず、そのつぎはぎだらけの外見をあたかも鏡に映ったみずからの姿のように受け入れていく。とめどない逆説につぐ逆説の連鎖……。それこそがマッド・サイエンティストのヴィクターが世に送りだしてしまった恐るべき発明だったのだろう。こうして、怪物はエリザベスを堂々と殺し、すべてに絶望したヴィクターがピストル自殺を遂げたのちに、世界を焼き尽くすばかりに燃え上がった火炎に包まれながら号泣する。驚天動地のラストシーンとしか言いようがない。
「最初はわかってもらいたいと思った。美徳を愛する心、幸福と愛情がおれの身体全体に溢れていることを、わかって欲しいと思った。だが今は、そんな美徳などおれには影のようなもの、幸福と愛情は、苦くつらい絶望に過ぎない。そんなときに、人にわかってもらってどうなるというのだ? この苦しみは、一人で苦しめばそれで十分だ。死ぬときに嫌悪と汚辱が加わるのなら、それでもおれは満足だ。かつては美徳を夢見て、名声や楽しみを心に描き、慰めを得たこともある。自分の姿を忘れて、おれの優れた性質を愛してくれる人に会いたい、そんな馬鹿な希望を抱いたこともある。名誉にひれ伏し、献身的なおこないをしようと考えて生きていたこともある。それが今は、罪に穢れた卑しい獣に落ちてしまったのだ」(小林章夫訳)
このとき怪物の心中を占めていた思いは、メアリー・シェリーが原作小説でかれに与えた上記のセリフのようなものだったのかもしれない。なんと苛烈な言葉だろうか。しかし、そこでは神ならぬ人間の手によって創造された怪物の独白だったものが、バレエという生身の肉体表現によって敷衍されたことで、美徳を夢見ながら卑しい獣に落ちてしまうとは、われわれのひとりひとりが負う宿命のように照らしだされてくるのだ。そのとおり、怪物とは自分自身に他ならない、と――。