「生き死にはひとまず棚上げ」言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から(三十五)
庭が理想の形に向かって充実してゆくにつれ、ここが捨て去るべき土地ではなくなりつつあります。
と言いますのも、五十代の頃までは頭の片隅に引っ越しが絶えずこびり付いていたからです。好きで選んだ住処ではなく、妥協の産物としての住居であったがために、いつかもっと好みに合ったところへ移り住もうという、ある種の口癖のごとき念願から離れられませんでした。
そうはいってもやはり寄る年波の圧迫感には逆らい切れるものではなく、観念したと言いましょうか、夢を追う力が弱まったと言いましょうか、要するに「まあ、こんなところがお似合いってもんじゃない」と呟くことで諦めたのでしょう。
実際問題、よしんばそのための資金をしこたま貯めこんでいたとしても――あと千年生きられたとしてもあり得ないことでしょうが――転居に必要な体力が不充分ではどうしようもありません。
そこで、こんな弁解がましい独白がくり返されるのです。
「仕方がない、ここでくたばってゆくとするか」
「今回の人生はこれでよしとするか」
「思い通りに運ぶことなど滅多にないぞ」
「あれこれ思い残して終わってゆくのが人の一生ってもんじゃないの」
モズが高音を張っています。
コオロギの鳴き声が弱々しくなってきています。
秋の終わりを感じないではいられません。
それでも私は生きて来年の庭を見るつもりでいます。というか、生きているから生きつづけるのであって、それ以上でもそれ以下でもないのでしょう。要するに、ひたすら動物的な生き方に徹底しようとしているのでしょう。そのほうが気楽に過ごせそうな予感がするからです。
タイハクオウムのバロン君はまだ子どもです。平均寿命からすると、少なくともあと三十年は生きることになっています。
ならば、私はなんとしても生き延びなければなりません。妻とバロン君を看取ってからでないと死ぬに死ねません。
そんなことを大真面目に口走る夫に、妻は小ばかにした笑みで応えるのです。
「はてさて、どうなることやら」と鳴いたのはフクロウでしょうか。
「一場の春夢としての生涯などまともに相手にするなよ」と囁いて寒風が通り過ぎます。