「生き物の宿命ってこと?」言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から(三十六)
木枯らし一号とおぼしき、アルプス颪とも言える冷酷な風が、高齢者たる私に虚勢を張らせます。「何くそ、これしき」という思いが強まって、「今度の冬も生き抜いてみせるぞ」という、年寄りの冷や水もいいところの覚悟を勝手に固めます。というか、弱音を吐いたところで誰も助けてはくれません。
まあ、これは例年通りで、今ではもう慢性化された、その分だけ新鮮味に欠ける自分への叱咤激励なのですが、生き抜くための底力を沸き立たせる原動力となっているのだとすれば、まずはよしとすべきでしょう。
もし温暖な土地で暮らしていたならば、ひょっとすると私はとうにこの世を去っていたかもしれません。そんな気がします。こうした自然的に過酷な生活環境を無事にくぐり抜けて行くには、都会とはまた異なった決意が否も応もなく必要になるのです。
つまり、人生は闘いなのだという心外な心積もりにのべつ迫られて生きなければなりません。甚だ面倒くさい生の在り方ではあるのですが、やむを得ないでしょう。
だからといって 逞しさを求められる日々が肉体や精神を鍛え上げてくれるとばかりは言い切れません。その効果が逆の方向で働くことも多々あります。端的に言いますと、肉体をぼろぼろにさせ、精神をいじけさせてしまう、そんな暗い一面も否定できないのです。
自然の美しい土地というのは、得てして気候が冷酷なものです。そしてそれが執拗であり、程度があんまりな場合は、肉と霊は虐げられて、その両面の命を気づかないうちに蝕まれてゆきます。それをどうにか防いでプラス面に変えるには、そこで暮らすための意義を自分なりに把握するしか手がありません。
私の場合は、何よりもまず文筆活動の軸を軟なものにしないことでしょう。要するに、「生まれてきてごめんね」式の、ナルシシズムべったりの女々しい文学へ引きずられたらその時点でおしまいなることをはっきりと自覚すべきなのです。それには、日々の闘いの同志たる庭の植物たちに心をひたと寄せ、無言の励まし合いによって所期の目的から目を逸らさないことが肝要ではないでしょうか。そんな思いを小脇に抱えてこれまで生きてきたつもりです。幸いにも、八十歳を迎えた今なお、その姿勢は揺らいでいないようです。
そしてふたつ年下の妻も、本来は南国の生き物であるタイハクオウムのバロン君も、庭の草木の影響下に在ってどうにか頑張っています。
「なかなかやるもんだね」と寒風が褒めてくれました。
「生き物の宿命だからね」と空っ風がうそぶきました。
「果たしていつまで……」と初雪が小声で呟きました。