詩と俳句を貫くもの
近藤Facebook近藤裕子さん投稿記事 ☘️たまきはる☘️
「あかあかと一本の道とほりけり たまきはる 我が命なり」 ー斎藤茂吉ー
「夕日に照らされて、あかあかと一本の道がまっすぐに伸びている。この道は、私の歩むべき道であり、私のいのちそのものなのだ。」この歌は第2歌集『あらたま』の代表歌です。
秋の一日、あかあかと日に照らされた一本の道が野(代々木の原)にまっすぐに通っている。 それこそが私の〈生きていく道であり宿命〉であるのだ。(引用)
修行の道に終わりはありません。その道を愚直に歩み続けることが人生なのです。
「たまきはる」は魂が極まるという意味であり、生命力の充溢を意味します。
一生を懸けて〈貫くもの〉に出逢う事は嬉しいものです。
それを支えてくださる人にめぐり逢う事は〈天の恵み〉です。
秋の訪れに 改めてこの歌を思います。
https://yukihanahaiku.jugem.jp/?eid=89 【詩としての俳句を貫く ~ 「富澤赤黄男全句集」他を読む】より
詩としての俳句を貫く ~ 「富澤赤黄男全句集」他を読む
鈴木牛後
富澤赤黄男に関する本を何冊か読んだ。読んだのは、「富澤赤黄男全句集」(2005年)、川名大「戦争と俳句」(2020年)、同「昭和俳句の検証 俳壇史から俳句表現史へ」(2015年)など。富澤赤黄男に興味を持ったのは、彼が戦争中に書いた俳句の表現の緊密さに魅力を感じたからだ。
戦争という極限状態で、人はどのようにその精神の自立を保持するのかという問いは、現在の日本では容易に想像できないものだが、世界を見渡せばそのような場所はまだまだ多い。また、コロナ禍やロシアによるウクライナ侵攻などを題材とするいわゆる「機会詩」に関しても、どのように向き合っていくべきなのか、すぐに答えの出るものではないが、考え続けていかなければならない問題だろう。
富澤赤黄男は明治35年(1902年)愛媛県宇和島郡生まれ。昭和10年、日野草城が主宰する「旗艦」に参加。12年応召、日中戦争に従軍する。15年マラリアに罹患し除隊。昭和16年再び入隊し、北千島・占守島へ。十九年動員解除。戦後は「太陽系」「火山系」などに作品を発表し、昭和37年(1962年)、六十歳で肺癌のため死去した。
赤黄男の句でもっとも有名なのは
蝶墜ちて大音響の結氷期
であろう。この鮮烈な一行が何を語っているのかはいろいろな読みがあるようだが、「蝶墜ちて」という破滅的な映像が中七以下の漢語の硬い調べと衝突して、言語の火花を散らしているのは確かだろう。そして十七音全体が暗喩として、読み手それぞれの心を強く揺さぶる。
戦場で作られた句も、直截に戦闘のシーンを描写したものは少なく、一度自分の中に映像を取り込んだあとに、暗喩などの形で再構成して俳句にしている。戦争という生死をかけたギリギリの状況でこのような句作が行われたことには驚かざるを得ない。
秋風のまんなかにある蒼い弾痕
塹壕の腹がまつかにうねる雨
めつむれば虚空を黒き馬をどる
弾痕の蒼、「塹壕の腹」の赤、馬の黒。それぞれの色が、ただならぬ気配を生み出している。
困憊の日輪をころがしてゐる傾斜
一木の凄絶の木に月あがるや
この二句は句集に収められた形であるが、元は
困憊の日輪をころがしてゐる戦場
一木の絶望の木に月あがるや
であった。この改作の理由について赤黄男は何も書き残してはいないが、昭和16年という句集「天の狼」が刊行された時期を考えれば、皇国精神にもとるという批判と弾圧を回避するためだったと考えられている。
このように書くと赤黄男は心中では戦争に反対していたと受け取られるだろう。しかし、じっさいには根っからの「皇軍兵士」であった。このことを、川名大「戦争と俳句」を読んで知ったとき、私もかなり意外に感じた。
新興俳句は昭和十五年から十六年にかけて治安維持法違反で大規模な弾圧を受け、ほぼ壊滅状態になった。それは戦争そのものや戦争一色に染まっていく社会を、アイロニカルな視点で詠んだ句や、労働者の生活をリアルに詠んだ句(社会主義思想として敵視された)などが当局に敵視されたからだ。当時の句では、
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉
兵隊が征くまつ黒い汽車に乗り 西東三鬼
征く人の母は埋れぬ日の丸に 井上白文地
鉄工葬をはり真赤な鉄うてり 細谷碧葉(源二)
などが知られている。源二の句は労働詠だが、他の三句には世相に対する冷ややかな目が感じられる。私は、新興俳句の作家たちはみなこのような作品世界を指向していたと思っていたのである。
赤黄男には二冊の自筆の句日記が残されているが、そのうちの一冊は日中戦争に従軍していたときのものだ。赤黄男はそこに俳句を書きつけ、それを推敲して戦地から軍事郵便で「旗艦」に投句していた。その句日記には
捕虜を斬るキラリキラリと水ひかる
サンサンと陽のこぼれくる捕虜を斬る
という句が残されている(句集には収載されなかった)。俳句的な技巧は見られるが、先に挙げた句のような重層的なイメージはまったくなく、直截的なむき出しの表現に背筋が凍る思いがする。しかし、少数の「覚醒した者」を例外として、多くの皇軍兵士は、特に大戦初期には戦争について疑問を持つことはなかったというのが現実なのであろう。私の祖父は赤黄男と同世代で、同じように中国大陸へ出征しているが、まちがいなくふつうの皇軍兵士だったはずだ。今祖父の顔を思い出してみて、改めて戦争の恐ろしさを感じずにはいられない。
そのように「皇軍兵士」であった赤黄男だが、帝国の戦争を正義とする「聖戦俳句」はごく一部であり、他の多くの句は凡百の前線俳句からは抜きん出ていた。それはやはり戦争に赴く前に俳句と詩性について真剣に考え、悩み、創作に打ちこんでいたからであろう。赤黄男は当時のモダニズム詩を愛読し、俳句は詩でなければならないと強く感じていた。
《俳句は詩である。「詩」(ルビ:ポエジー)の発現として俳句形態(中略)は実にこの凝集的弾力性を愛するが故に他ならない。「詩」(ルビ:ポエジー)は、極度に凝集され、圧結されて、かの狭少な容器に盛らるゝがため、その発現は極度に弾撥する。切迫性はこゝより発し、強靱な結晶として光る。》
これは従軍前に書かれた句日記の一節だが、ここに赤黄男の俳句観をみることができる。俳句は俳句であって詩ではないという見解もあるようだが、私も赤黄男と同様、俳句は詩でなければならないと考える。詩であるからこそ、どのような状況下で書かれたものであっても、光を帯びた言葉として残るのではないだろうか。
爛々と虎の眼に降る落葉
(「雪華」2022年5月号)
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2019/12/post-eced.html 【虚子の俳句「去年今年貫く棒の如きもの」の棒とは何か? (改定版)】より
掲句「去年今年」について稲畑汀子さんは「虚子百句」において次のように述べている(抜粋)。
「昭和25年12月20日、虚子76歳の作である。・・(省略)・・時間の本質を棒というどこにでもある具体的なものを使って端的に喝破した凄味のある句であるが、・・(省略)・・この棒の、ぬっとした不気味なまでの実態感は一体どうしたことであろう。もしかすると虚子にも説明出来ず、ただ「棒」としかいいようがないのかも知れない。敢えて推測すれば、それは虚子自身かも知れないと私は思う。
この句は鎌倉駅の構内にしばらく掲げられていたが、たまたまそれを見た川端康成は背骨を電流が流れたような衝撃を受けたと言っている。感動した川端の随筆によって、この句は一躍有名となった。・・(以下省略)」
汀子さんは上記の如く述べているが、この句の「棒」は虚子の信念・意志を象徴していると思う。「貫く棒の如きなり」と言わず、「貫く棒の如きもの」と言っているから「時のながれ」というよりも虚子の俳句に対する考えや信念の強さの比喩に違いない。
「虚子俳句の痴呆性」を云々する人がいるが、この俳句には「大鐘のごとし。小さく叩けば小さく鳴り。大きく叩けば大きくなる。」という坂本龍馬の言(勝海舟に説明した西郷隆盛の評価)を当てはめたい。
文学に限らず、音楽や絵画など、芸術は個性を表現するものであり、それをよく理解できるか否かは鑑賞する人の性格や人生観、能力などが左右する。まして、俳句は17音(文字)で表現する短詩であり、論理ではなく感性にうったえるものである。従って、俳句はその作者と「場」を共有するか、それが作られた「場」を適切に推定することが出来なければ理解できないことがある。
特にこの「去年今年」の句のように比喩的な俳句はそうである。それを読む人が卑しければ卑しい句であると誤解されることになる。逆に、読む人が優れていればその句を作った人の意図以上に解釈されることも珍しくない。それは俳句の本質的な限界でもあり広がりの可能性でもある。中立的な表現の俳句は鏡のように、読む人の心を映しだす。
虚子はこのような俳句の面白さもこの句に織り込んだのではなかろうか?
大岡信は「百人百句」において、「俳句という最少の詩型で、これだけ大きなものを表現できるのはすごいと思わざるを得なかった。」と次のように述べている(抜粋)。
「昭和20年代後半から30年代にかけては『前衛俳句』の黄金時代で、若手の俳人はそちらに行ってしまい、虚子は一人さびしく取り残されている感があった。・・(省略)・・私は現代詩を書いていたので、・・(省略)・・どちらかというとはじめに前衛派的な人々の句に親しんだので、それから逆に句を読み進め、高浜虚子を初めてというくらいに読んでみた。すぐに感じたのは、虚子の俳人としての人物の大きさだった。私は常々現代詩を作り、・・(省略)・・斎藤茂吉が好きだったので茂吉の歌もよく読んでいた。しかし、『去年今年』の句を読んだときに、俳句という最小の詩型で、これだけ大きなものを表現できるのはすごいと思わざるを得なかった。・・(以下省略)」
この句についてインターネットで検索していると、宗内敦氏の「アイデンティティ-第二芸術」というタイトルの傑作な記事があった。
「去年今年(こぞことし)とは、行く年来る年、時の流れの中で感慨込めて新年を言い表す言葉である。しかして虚子のこの一句、『貫く棒の如きもの』、即ち、時の流れを超えて『我ここにあり』と泰然自若の不動の自我を描いて、まさに巨星・高浜虚子の面目躍如たる『快作にして怪作」(大岡信『折々のうた』)の自画像である。それが何としたこと、バブル絶頂の頃だったか、ある新聞の本句についての新春特集ページに、『この句を知ったとき、顔が火照り、胸がときめき、しばらくは止まらなかった』という中年婦人の感想文(投書)が載せられた。一体何を連想したのか。破廉恥にも、よくぞ出したり、よくぞ載せたりと、バブル時代の人心・文化の腐敗に妙な感動をもったことを思い出す。・・(以下省略)」
この句を作ったとき虚子は夏目漱石の「草枕」の冒頭にある有名な文「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」も意識していたかもしれない。
この句の「棒」のイメージは、「草枕」の「情に掉させば流される」という文句や方丈記の名文句、美空ひばりのヒット曲「川の流れのように」の歌詞など、時世・人生を表現するのに用いられる「川のながれ」とは全く異なり、力強くて斬新なものである。
虚子は「深は新なり」とか「古壺新酒」と言っている。「花鳥諷詠」と「客観写生」を唱道していたが、「前衛俳句」の黄金時代にあって、「去年今年」の句を作ることによって「これも『花鳥諷詠』だ」と、その幅の広さと虚子の信念と自信をアッピールすることを意識していたのではなかろうか。
「俳談」や「俳話」なども読み、虚子の考えや作句の「場」を知るにつれて虚子の俳句をよく理解できるようになる。インターネットのブログを検索していると、様々な俳句の解釈があり面白い。この「場」をわきまえず、俳句のみならず作者の人格まで悪しざまに云々するブログを見かけることもある。それを鵜呑みにしている人もいるようで困ったものである。
(注)
この記事は2015年1月18日に書いたものをスマホで見ると大部分が削除されており、誤解を招くので、スマホでもよく見ることが出来るように改定・再掲載するものです。