ZIPANG-9 TOKIO 2020 「安らぎの 心の文明」へ 「発酵文明」の提唱 1 −3 【寄稿文】 一舟・光秀
令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、能登半島地震で被害を受けた皆さに、
心よりお見舞い申し上げます。(編集局)
発酵は「心の文明」実現への第一歩である
前回に続き富山の美しき発酵デザインに学ぶ
視覚の発光が重なり発酵する・・そして平和と幸せ感を 高岡市雅楽の館で
先ず 時には少年少女の心に戻り、唱歌をくちずさみ、現代の混濁から心を洗い、世界の平和と幸せを進めたい、富山の伝統の和漢薬のようにゆっくりと。
トヤマ ファクトリーアートミュージアム 実体と空間と光が発酵する機能美
人類は他の生命に対し何ひとつ役立たない生き物である
人は全て自己の都合しか念頭になく、全ての生命と自然にとって無益な存在であることを自覚しよう。薬品で菌類を排除し、核兵器など大量殺戮開発者などを表彰する無知な自然の摂理の分断・破壊者であることを。
さらに同種の人に対してさえ有史以来無差別に殺戮を続けて来た。そして今も・・・、未だ彼らを英雄と讃える無知な人類である。
また食物連鎖の掟から、人だけを除外し、平然としている。SDGs もしかり。
この百年前までは排泄物も、肉体も土葬で自然界に還元していた。稲作も二千年来多くの生き物達の優しく豊かな揺籠であったが、敗戦後戦勝国の化学肥料と強力な農薬で麗しき田園は「沈黙の春」と化し生命の地獄になった。人の口に入る残留農薬米以外に心の価値も失った。
発酵文明とは、人の心に広がるイメージの世界
目に見えない微生物などと連携する発酵は、正しい食文化と人の心の転換に必要
文学も音楽も美術も、そして科学や凡ゆる分野の天才の脳裏にとめどもなく浮かび湧いてくるもの、夢や発想をイメージをもよおす脳内の酵素が発酵する結果であり、人類が文明を創ってきた次への答えであると考える。
認知症進行中の日本国への特効薬はないが「心の文明」=「発酵文明」への取り組みにあると考える。
現代文明は物事をひとつづつ言語や数で表すが、それが物事の脈絡をバラバラに、宇宙の自然の一体感を分断し、境界を作り、平和・調和・コスモスを破壊してきた。
それが人の世の対立をも生み、競い争い最後に愚かな戦争で多くの人の命と創り上げてきた文化を破壊する元になった。その修復、償い、ミティゲーションをまた始め、反省し美談も発酵を繰り返す。次回に取り組みたいと思う。
風景は人間界の民度を表す、物質文明から心の文明への元
富山平野を通るとなんだか当たり前の景色なのだが気分が良い。
この日本の何処にでもある田園と白黒グレーの民家と鎮守の森とお寺と遠くの青い山の景色がある限り、日本の未来も、また良い観光客も来てくれるだろう。
筆者の場合、人工物が天と地の間のスカイラインが、あらゆるものが融和している良い風景だと、屋外も室内も食べ物も何にでも、幸せに想う。
景観は、天空海大地、山川草木、自然と衣食住も、人工物が互いに響き合って、発酵し、人の心が幸せになる、心の文明の源である。
重ねて真の日本文化は田舎にあり
名高い伝統の彫りもの、鋳物の奥深い感性があらゆるものに、製品にも工場のモダンデザインにも室内にもアート全体に奥深い感性が各所に行き届く富山。
また見渡す限り広大な砺波平野の屋敷林を見ると、それぞれ一つが、一家族が生きる最も理想的な地上の小さな国のように、独立した豊かな心を感じる。
見渡す限りの広大な砺波平野の屋敷林の一つ なんとも平和で美しい姿
植物環境と屋根のグリーンとグレーとがうまく同調した田園景観 高岡市
植物と屋根と白黒グレーが一体に響き合ったモダンデザイン景観の事例
建築物や都市景観の美は、国や地域の伝統の屋根の形の調和に尽きる
伝統の屋根も塔屋もブロック塀の処理も美しく 鳶も誇らしげに見える 伏木
丘の上にある地域の植物とも調和した美しい富山福岡歴史民族資料館
地域の歴史の、遥か西方文化由来のシンボル、ダビデの星を控えめに、堂々と表現した建物、黒・グレー・クリーム色のデザイン・色彩は、あるべき公共建築の美しい姿だ。
日本の混濁した景観を招いた元は、明治と先の敗戦での安易な欧米化にある。
戦勝国から「日本の旧いもの全ては汚いものだ」とされた敗戦後八十年から脱皮しよう 。
日本列島の文化こそ東西世界文化の集積の宝庫である。
伝統の美を大切にしてはじめて風景は発酵し始める。国も国民も仕方ないと諦める民度の低さから、どうでも良いと思っている電柱も看板も風景も伝統の美学で一つに取り込み調和できる。
建物の個性も景観全体の調和を図り深みのある人間的な街並みになる 高岡
このデザイン力を凄いと思う人に、日本の心の未来都市を造る資格あり
これこそ日本文化だ!黒い瓦屋根と和洋折衷の美を守ろう。
市民を迎えるに相応しい優しいエントランスの工夫 高岡
踏切のある場所は命を守るため、注意喚起危険色が目立つ無彩色景観が良い 高岡 二塚
立山連峰と、富山の深海と、美しき寺社、数々の伝統と産業とモダンデザイン、それら全てが集まって、大袈裟でなく富山王国だねーとつい言ってしまう。地元の人は黙って聞き流すのだが、ここには優れた発酵文化の事例が多くある。
繰り返しになるが、市民に愛される未来を総合的見地で、やはり住民と行政とデザイン関係者のコラボが生んだ環水公園には、美しき富山の民の良き心が伝わってくる。
風景の美とは個ではなく見渡す全体でのことである。
見事な美しい都市の環水公園の一隅に、世界一美しいと称されるスターバックスもある
我が国では困難な完璧なトータルデザインは、県民全体の体質となっているようだ
次回に続く・・・
【寄稿文】 一舟・光秀(林 英光)
環境ディレクター
愛知県立芸術大学名誉教授
東京藝術大学卒業
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
発行元責任者 鎹八咫烏(ZIPANG TOKIO 2020 編集局)
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
現代、日本海側は『裏日本』とか『鄙(ひな)の国』などと言われていますが、遠い昔、弥生時代(紀元前4~500年から 紀元後300年くらい)は日本海側が『表日本』であり、日本海を通じて様々な交流が行われていました。
大伴家持の足跡を『越の国』に辿る(1)
馬並(な)めて いざうち行かな 渋谿(しぶたに)の
清き磯廻(いそわ)に 寄する波見に
大伴家持がしばしば訪れ、万葉集に「渋谿(しぶたに)」と詠まれた雨晴海岸(あまはらしかいがん)は、岩礁多く白砂青松の景勝の地で日本の渚百選の一つにも選ばれており、天候に恵まれれば富山湾越しに3000メートル級の立山連峰(たてやまれんぽう)を望むことができます。
「義経岩(よしつねいわ)」は、源義経が奥州へ落ち延びる途中、にわか雨の晴れるのを待ったという岩で、地名「雨晴(あまはらし)」の由来となっています。
また、この景色は、松尾芭蕉が『おくのほそ道』に詠んだ由緒地であり、女岩と義経岩は「おくのほそ道の風景地」ー有磯海ーとして国・名勝に指定されています。
さらに、この海岸から氷見市にいたる長浜は、家持が何度も歌に詠んだ松太枝浜(松田江浜)です。
住所 富山県高岡市太田雨晴 アクセス ■JR氷見線 雨晴駅から徒歩5分
高岡市万葉歴史館
高岡市万葉歴史館の特徴
万葉の故地、高岡
『万葉集』の代表的歌人であり編者ともされる大伴家持は、746年から約5年間、越中の国守として、国庁が置かれた高岡の地に在任しました。
「越中万葉」の世界
家持やその部下の官人たちは、越中を舞台に300首以上もの歌を今に伝えています。これらの詩情あふれる歌の数々は「越中万葉」として、私たちに多くのことを語りかけてくれます。
万葉情報の全国発信基地
高岡市万葉歴史館は『万葉集』を中心テ-マに据えた初めての研究施設として平成2年10月に開館しました。
高岡市万葉歴史館では『万葉集』や「越中万葉の世界」を楽しみながら学ぶことのできる常設展示や企画展示を行っています。また、『万葉集』とその時代を探求するため関係資料の収集・整理し閲覧できるようになっています。そして、その研究成果を全国に発信しています。
高岡市万葉歴史館 大伴家持 銅像
万葉集とは
万葉集は、奈良時代末(770〜782年)ごろに大伴家持が最終的にまとめたと推定されている全20巻からなる現存最古の歌集です。収められている歌は、一般には『国家大観』の数え方に従って4516首と数えています。
雄略天皇(巻1・1)や聖徳太子(巻3・415)が詠んだと伝承されている歌などもありますが、実際には舒明天皇の歌(巻1・2)にはじまり、奈良時代の天平宝字3年(759年)の大伴家持の歌(巻20・4516)までの約130年間を中心とする、天皇・皇后から」名もなき人々の歌までもがおさめられた一大歌集です。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020「~ 大伴家持の足跡を『越の国』に辿る ~『高岡市万葉会館』万葉集の内容に踏み込んだ日本初の施設(1)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6001135
大伴家持の足跡を『越の国』に辿る(2)
立山の 雪し来(く)らしも 延槻(はいつき)の
河の渡り瀬 鐙(あぶみ)浸(つ)かすも
早月川と剱岳「鐙(あぶみ)浸(つ)かすも」なので、此れ位の水量でしょうか?
大伴氏の跡取り
大伴家持(おおとものやかもち)は大伴旅人(おおとものたびと)の長男で、生まれ年は養老(ようろう)2年(718)といわれています。
母は旅人の正妻ではなかったのですが、大伴氏の家督(かとく=相続すべき家の跡目)を継ぐべき人物に育てるため、幼時より旅人の正妻・大伴郎女(おおとものいらつめ)のもとで育てられました。けれどもその郎女とは11歳の時に、また父の旅人とは14歳の時に死別しました。
家持は大伴氏の跡取りとして、貴族の子弟に必要な学問・教養を早くから、しっかりと学んでいました。さらに彼を取り巻く人々の中にもすぐれた人物が多くいたので、後に『万葉集』編纂の重要な役割を果たす力量・識見・教養を体得することができたようです。またその歌をたどっていくと、のびのびとした青春時代をすごしていたようです。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020「~ 大伴家持の足跡を『越の国』に辿る ~『立山の 雪し来(く)らしも 延槻(はいつき)の 河の渡り瀬 鐙(あぶみ)浸(つ)かすも』(2)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6016720
大伴家持の足跡を『越の国』に辿る(3)
放生津八幡宮は御神輿及び13本の曳山にてお出迎えし、両陛下の天覧を賜りました。
平成27年10月24日・25日、富山県射水市にて「第35回 全国豊かな海づくり大会」が開催され、天皇皇后両陛下が御来臨されました。
心をつなぐ虹の架け橋「神楽橋」 大伴家持の子孫「大伴二三彌」制作
万葉の時代、布勢水海と呼ばれたこの地には、大伴家持がたびたび遊覧に訪れ、美しい情景を歌に残しています。
ステンドグラスが夕陽に映えて美しい神楽橋は、神楽通りの改修により新しく内川に架けられた橋です。装飾は、地元出身のステンドグラスなどの工芸作家
大伴二三彌氏が作製したもので、72枚の故郷の思い出をテーマにしたステンドグラスがはめ込まれ、曳山の飾り車輪・ケイトウ・魚・かもめ・チューリップなどがデザインされています。大伴二三彌氏は富山県の生まれ、医師と宮司をしていた晃氏の書画好きの影響を受けて育ち、安井曽太郎、鶴田五郎画伯に油彩を習いマチスに影響を受け、ステンドグラスの道へ・・・
万葉の昔、越中国守・大伴家持が
あゆの風 いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の
釣りする小舟 漕ぎ隠る見ゆ
と万葉集に歌ったように、奈呉の浦に面しています。また、
湊風(みなとかぜ) 寒く吹くらし 奈呉の江に
妻呼び交わし 田鶴(たづ)さわに鳴く
と歌ったように越の潟(こしのかた)に隣接していました。奈良時代から海人の集落があり、漁業が行われていたことが万葉集から窺えます。
宇佐八幡神の入境(東大寺八幡縁起絵巻)
天平18年(746)に越中に赴任した家持の重要な任務のひとつは、東大寺の寺領を占定し、開墾を進めることであった。正倉院に東大寺墾田地地図(とうだいじこんでんちちず)が保管されている。24枚のうち、17枚までが越中国のものである。現存する墾田地地図の中で越中国のものが最も多い。
万葉集によると、家持は、東大寺領の占定と開墾のようすを視察にやってきた東大寺僧・平栄を丁重に迎え、歌を送り宴を催している。また、越中の国師の従僧・清見をもてなす宴を催している。家持ら国府の役人達は、東大寺の墾田地の占定や開墾に奔走していたと考えられる。後に、内蔵忌寸縄麻呂(くらのいみきなわまろ)は、造東大寺司判官に任命されている。この人事は、越中国での東大寺領の占定作業に携わった実績が反映しているものと考えられます。
秦忌寸八千島(はたのいみきやちしま)は、秦氏の出身であり、秦氏は、内蔵氏と同様、その先祖が應神天皇の御代に渡来してきた人々の子孫であります。当時の小目(しようさかん)は、秦忌寸石竹(はたのいみきいわたけ)であり同じ秦氏の出身です。秦氏は、精銅の技術をもった人々であり九州の北部に多く定住しました。宇佐八幡宮の神職のひとつであった辛島氏は、秦氏の一支族であるという。 この由緒は、本殿に収められていたものであり、当宮の由緒とともに家持卿の功績を後世に伝えるために石碑に刻んだと記されています。
放生津八幡宮 大伴 家持 祖霊社
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020「~ 大伴家持の足跡を『越の国』に辿る ~大伴家持により創建された『放生津八幡宮』(3)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6026005
高岡市の文化財を活かした歴史体感プログラム
富山県高岡市 勝興寺本坊大広間「上段の間」
高岡市の文化財を活かした歴史体験プログラム 薮内流茶会を実施「おもてなし」
富山県 高岡市
重要文化財勝興寺には江戸時代に摂家(公家)からの輿入れがあり、使者が訪れていたことが寺伝や資料から考えられます。その対面所の豪華な空間を拝観者が体感できるよう、「上段の間」に公家の衣装・人形や調度品を再現、常時公開しています。また、「上段の間」にて都から摂家の使者をもてなしたと想定した薮内流茶会を実施し、往時の豪華な空間を体感していただきました。(令和2年10月11日(日)~実施)
実施概要
事業名 高岡市の文化財を活かした歴史体感プログラム事業
補助事業者名 高岡市歴史文化推進協議会/富山県
開催場所 重要文化財勝興寺
開催期間 令和2年10月11日(日)~令和3年3月31日(水)、 茶会10月11日(日)
Living History(生きた歴史体感プログラム)
促進事業のことを意味しております。
それらは史跡や重要文化財を探訪する方々が、合わせて往時のくらしや祭事などを体験し、日本の文化を理解・体感できるように、 歴史的背景に基づいた復元行事を企画したり、展示・体験事業などへの取組みです。
日本及び訪日外国人等の観光客が、各地の文化財等の見学に訪れて、日本の歴史や文化の理解を深めることは、日本文化の魅力度向上及びインバウンドの促進に極めて重要なことですね。
しかしながら、此れまでは必ずしも観光客にとって分かりやすい形で公開されているとは言えず、本来、それらの価値と魅力が十分に発揮されていませんでした。
そのため、国指定・選定文化財において、史料や研究資料等に基づき、往時を再現した復元行事・歴史体験事業の実施、及び当時の調度品や衣装の整備・展示等を通じて歴史的な出来事や当時の生活を再現するコンテンツを開発することにより、生きた歴史の体感・体験を通じて文化財の理解を促進するとともに、文化財に新たな付加価値を付与します。
文化財に新たな付加価値を付与し、より魅力的なものとする「Living History(生きた歴史体感プログラム)促進事業」の取組を通じ、文化財の活用による地域活性化の好循環を図ります。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-5 TOKIO 2020 【文化庁】~Living History~(生きた歴史体感プログラム)とは
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/23526108
幻の海!魚津の三大奇観『蜃気楼~ホタルイカ~埋没林』
プラス “日本一美しい”湧き上がる宝の水「東山円筒分水槽」
富山県魚津市 日本一美しい「東山円筒分水槽」
東山地区の天神野用水・青柳用水・東山用水の3つの用水に公平に水を分配するための円筒分水漕で、近年その美しさから観光スポット、パワースポットとして注目され訪れる人も多い。円筒から溢れる水の落差がこれだけあるものは珍しく、急流河川ならではの構造だと言われています。インターネットなどで“日本一美しい”円筒分水と評されています。
この円筒分水槽の大きさは直径9m12cmで、大きな分水槽の中心から各水路へ分配される水の分配量は円筒の円周の長さ(中心の角度)で決められている。円筒分水の利点として、上流からの水量の変化に影響されることなく、多いなら多いだけ、少ないなら少ないなりに公平に分配されます。
東山円筒分水漕は、対岸の貝田新分水槽から片貝川をサイフォン(163.2m)で横断し水路のトンネル(135m)を接続して水を引っ張ってきています。この円筒分水漕は建設当時、富山県では初めての工法として施工され50年を経過した現在でも、何ら支障なく安定した用水の供給に貢献しています。
円筒分水は全国にいろんな形のものが存在しますが富山県内には4つ、内2つが魚津に(貝田新円筒分水・東山円筒分水)有ります。
富山県魚津市 三大奇観(蜃気楼、ホタルイカ、埋没林)
魚津の三大奇観とは「蜃気楼、ほたるいか、埋没林」です。どれも自然の営みが見せてくれる人の意思の届かない尊いもの。まさに不思議な街、魚津!
魚津を訪れたのは、確か昭和55年~56年にかけてだったような気がいたします。魚津の第3代目の水族館の建設中で前の路を通った折、急に雪が降り始め水族館の建設現場を眺めると、職人さんたちが寒そうに肩を丸め現場作業を急いでいる姿が目に入りました。
積もりそうな雪ではなかったけれど、目の中に入ってくる程に、強く降る雪だったのを覚えています。一緒にいた相棒は富山の人で「つかえんちゃ!積もる雪でないがね(大丈夫!積もる雪ではない)」とこんな感じだったと思います。
相棒は慣れたものでした。息子さんが東京の大学に行っておられ、小生と一日中一緒におられたせいか息子さんを思い出したのか(息子さんとは10歳以上違うが?)その夜は、東別院のある総曲輪(そうがわ)の寿司栄で御馳走になりました。それ以来富山滞在中は毎年ホタルイカのシーズンには、新鮮で安くて旨い寿司栄の握り鮨をよく食べたものです。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「幻の海!魚津の三大奇観『蜃気楼~ホタルイカ~埋没林』」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2307268
後鳥羽院に由緒がある伝承と文化
隠岐神社(隠岐の島 海士町)
昭和14年(1939)、後鳥羽天皇の700年祭の年に、御神徳をひろめるために創建された。
神社は隠岐造りといわれる建築様式で、銅板葺きの本殿、祝詞舎、拝殿、神饌所、祭器庫、宝物館、神門回廊、社務所などからなり、 5万6,000平方メートルの境内には隠岐一とたたえられる桜並木が続いている。
4月14日と10月14日が例祭日で、後鳥羽天皇の御製「われこそはこゐじま守よ隠岐のあらきなみかぜ心してふけ」に楽と振りを付けた、 隠岐神社にだけ伝わる承久楽(じょうきゅうがく)が奉納される。
後鳥羽院は今日でいう、文化、芸術、芸能、スポーツに親しまれ、その伝統の継承と発展に尽くされた。なかでも和歌については、藤原定家らに命じ勅撰『新古今和歌集』を編纂させたことが知られる。そして海士に遷られてからも『遠島御百首』をはじめ、800首近い歌を残されている。
例えば・・・
『和歌』『刀剣』『菊の紋』『牛突き』 『琵琶』『笠懸』 『蹴鞠』『相撲』等
「和歌」
後鳥羽院は、建久9年(1198)、第一皇子にあたる土御門天皇に譲位した後、院を構えて様々な事業を進められる。とりわけ詩歌に情熱を注がれ、近臣たちとの詠作を通じた活動の中で藤原定家や藤原家隆らの才能が認められていった。そして、建仁元年(1201)和歌所を設置し、勅撰『新古今和歌集』の編纂にあたらせた。
この『新古今和歌集』は元久2年(1205)に完成披露の催しがなされたが、その後も後鳥羽院は手を加えておられる。それは海士に遷られてからも続き、『隠岐本新古今和歌集』として伝わっている。その他に、隠岐の代表作として知られる『遠島御百首』をはじめ、800首近い歌が残されている。ご在島中、院のお心を支えたのは歌の道であったのかもしれない。
なお、隠岐の伝承によれば、院の代表歌である
「我こそは新島守よおきの海のあらき波風心してふけ」
は、院の御船が海士にご到着の直前に海が大しけとなったところ、この歌を院が船上で詠まれると嵐がおさまったとしている。今では隠岐の人々にとって特別な歌となっている。
以下は、ご在島中の和歌に関する代表的なご活動である。
『遠島御百首』
隠岐に遷られてから早期にまとめられた百首和歌。「春夏秋冬」に「雑」を加えた5部に分かれており、海士の四季折々の情景に、時には美しさを、時には都への想いを覚えながら詠まれたと解される。
命あれば茅が軒端の月もみつ知らぬは人の行くすえの空
おなじ世にまたすみのえの月や見む今日こそよそに隠岐の島守
『(隠岐本)新古今和歌集』
元久2年(鎌倉初期)に後鳥羽院の指揮のもと、完成を迎えた『新古今和歌集』であったが、院はその補訂を隠岐に遷られた後も続けられた。遠島の地では作品を増やす事はままならない。よって院は自らの手により完成された『隠岐本新古今和歌集』では、作業の過程で院御自身の歌が多く削除されたという。