鯨地名(島根県) 海部系神話の故郷
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2021/10/post-01269f.html 【鯨地名(島根県) 海部系神話の故郷】より
鯨島 島根県松江市美保関町福浦
美保関は出雲神話では事代主神の故郷です。まず岬の先端には恵比須神社があります。美保関の湾には美保神社があり、御祭神はもちろん事代主神です。出雲国譲り神話では、事代主神はこの岬で釣りをしていたことになっています。
鳥取県の境港の向かいの福浦にも美保神社があります。御祭神は美保津姫と事代主神です。出雲国風土記島根郡に載る美保社に比定されています。同社では漁師が春と秋に「なます祭」を行うとあります。春は大根なますに鰯、秋は大根なますにイリコと鰹を炒って混ぜて食します。そして秋にはその後竜神祭が行われます。美保神社より一町ほどの海上に鯨島という島があり、「雲陽誌」によると大昔のこの海上へ鯨が集まって美保社に年頭の礼をしたそうです。その時に一頭の鯨が凝り固まって島となったので鯨島と名付けたとあります。鯨が固まって島となるという伝説は北海道や東北でも見られます。
鯨ヶ浦 くじらがうら
島根県美保関町諸喰
美保神社の北、外海側の雲津には多数の入り江があり、東から細尾、竹ヶ浦、鯨ヶ浦と呼ばれているそうです(平凡社地名辞典)。どの入り江が鯨ヶ浦かは未確認です。出雲国風土記に久毛等浦(くもつうら)があり、雲津浦に比定されています。風土記には十艘の船が停泊可能と記されています。隠岐に渡るための風待ち湊で、隠岐に流された源義親が脱出してこの地に上陸して暴れて平正盛に討たれたので、それにまつわる伝説が数多く残っています。また後鳥羽上皇と後醍醐廃帝が隠岐に流される際にも風待ちのために滞在したとされています。
久白 くじら
島根県安来市久白町
久白川流域の地名です。「雲陽誌」に鯨村と記録があります。塩津神社一帯には数多くの古墳があります。字大平の谷あいには久白廃寺跡があり単弁蓮華文鐙瓦が出土していて、奈良時代から平安時代かけてこの地に寺があったと推定されます。中仙寺墳墓群では弥生時代の四隅突出型墳墓が見つかっており、直刀や多数の鉄鏃が見つかっています。残念ながら未調査のまま破壊された墳墓も多いそうです。宮山墳墓群には出雲第二位の規模を誇る前方後円墳があったものの、学校建設のために完全に破壊されました。埴輪と葺石があり、五世紀代の古墳と推定されるそうです。この辺りは弥生時代の四隅突出型古墳と古墳時代の前方後円墳が混在する珍しい墳墓群です。
久代 くしろ
島根県浜田市久代町
この地域にはかつて石見国国府がありました。櫛色天蘿箇彦命神社(くしろあめのこけつひこじんじゃ)があり、延喜式に載る那賀郡の同名の社に比定されています。始めは久代の稲葉に鎮座し、底筒男命・中筒男命・上筒男命を祀っていました。明治44年には庵の上(あんのうえ)にあった大年神社を合祀しています。大年神社は恐らく大歳神を祀った神社であり、葛城山の麓には葛木御歳神社があり、静岡市の浅間神社にも大歳神が祀られていることから、この久代も鯨地名と推測されます。
益田市の久城と同じく櫛代氏が開拓した土地と考えられます。
久城 くしろ
島根県益田市久城町
益田川右岸の河口低地と遠田台地の西部一帯です。櫛代賀姫神社(くししろがひめじんじゃ)が地名の由来とされています。石見国西部の開拓者櫛代族が初めて定住した土地とされ、数多くの群集古墳があります。
櫛代賀姫神社は明星山にあり、御祭神は櫛代賀姫命です。延喜式神名帳美濃郡五座の一つです。櫛代賀姫命は櫛代族の祖神で、櫛代族が和泉国から石見に移住した時に、祖神の分霊を杜山に奉祭したとされます。天平九年(737)に益田歴短が官命によって社殿を建立し、大同元年(806)に藤原緒継が緒継浜へ社殿を移転したとされています。万寿三年(1026)の大津波で社殿が壊滅して、現在地に移転しました。
海部系神話の故郷
久城には櫛代賀姫命と久代の櫛色天蘿箇彦命にまつわる神話があります。女島と男島で二人は逢引きをするのだけれど、櫛色天蘿箇彦命がほっかむりをして通うので、いつしか二人はすれ違ってしまい、それが月の満ち欠けだという物です。櫛代賀姫神社が明星山にあることから、櫛代族は天文の知識を持った海部族だったと考えられます。櫛代賀姫命が太陽で、櫛色天蘿箇彦命が月、太陽と月が空の上で追いかけっこをして、月の影が移動していくことを、櫛色天蘿箇彦命の頬被りと表現したと考えられます。詩的でありながら自然をよく観察した神話です。
和泉国にも葛城山はあるので、櫛代族は和泉の葛城出身かもしれません。和泉の葛城山には八大竜王が祀られています。葛城修験では、山を二十八宿に見立てて礼拝します。やはり星座が関わっています。益田市には柿本があり、これは柿本人麻呂の終焉の地、あるいは故郷ではないかとされています。天津神神話と天体の対応関係: おかくじら (cocolog-nifty.com)にて解明したように、記紀神話は古代の星座の物語です。櫛代族、あるいは柿本氏が記紀神話の編纂に関わっているのかもしれません。櫛代造と柿本氏はともに和邇族とされているのです。
国譲り神話の原型: おかくじら (cocolog-nifty.com)で見たように、国譲り神話の原型は、鯨である事代主神を主人公とする物語であったと考えられます。出雲平野を開拓した出雲族は恐らく朝鮮半島からの移住者ですから、もともと石見と出雲には海部の櫛代族がいて、そこに農業や冶金に優れた出雲族が移住してきたのでしょう。両者は海と平野で住む地域を別々にしているので、移住は平和的に進んだことでしょう。
出雲族は櫛代族の神話を取り入れて素戔嗚尊の八岐大蛇神話や国造り、国譲りの神話を作ったと考えられます。その際に海の生き物や星座の部分は十分には理解されないで物語から脱落したと考えられます。こうして出雲ナイズされた神話が、飛鳥時代になって藤原京の朝廷に採用されて古事記と日本書紀が作られたと思われます。朝廷は天皇家のルーツが海部であることには気が付いていたようですが、葛城では伝承が失われていたため、葛城から移住した櫛代族の末裔である柿本人麻呂を編集者に入れて、海部の神話を復元しようとしたのではないかと私は推測しています。
柿本人麻呂がどこまで神話に隠された星座の知識を持っていたのかはよくわかりません。同時期に役小角が葛城修験を創始しており、葛城修験には星の信仰の要素があります。しかし役小角は朝廷から弾圧されたという伝承があります。柿本人麻呂も失脚して石見に流されたという説が江戸時代からあり、哲学者の梅原猛も「水底の歌」で力説していました。神話と天文の関わりが秘伝であるからその知識を持つ役小角と柿本人麻呂が弾圧されたのか、あるいは大和朝廷が海部の天文知識を非科学的と恥じたのか、それは今となってはわかりません。