鯨とともに生きる
Facebook東京伝統木版画工芸協同組合投稿記事
千絵の海「五島鯨突」
葛飾北斎
https://edohanga.jp/oceans_of_wisdom/whaling_off_goto/
五島は肥前国(長崎県)西端の列島で、今も漁業が盛んな海域である。捕鯨は紀州熊野灘(和歌山県)や土佐湾(高知県)と並んで盛んで、数十艘の舟で鯨を囲み銛を撃ち込んで捕らえるという漁法であった。
https://ymg-kujira.jp/history/ 【長門のくじら物語】より
古式捕鯨(※)の地として知られる長門。まちに繁栄をもたらしてくれたくじらへの感謝の気持ちはしっかりと受け継がれ、「通くじら祭り」や鯨墓、鯨唄など、今もまちのあちこちでくじら文化にふれることができます。
伝統的な古式捕鯨のまち
長門における捕鯨の歴史は、全国的にも早い時期とされる寛文12年(1672年)から始まりました。はじめに瀬戸崎(現:仙崎)浦の「鯨突き組」が長州藩に取り立てられ、翌年には「通鯨組」が、それ以降に長州藩直属の鯨組ができて「殿様組」とも呼ばれていました。くじらは温かい南の海で出産・子育てをするため、毎年秋から冬にかけて日本海を南下します。そのため、長門のあたりを通過する時がくじらの漁期となっていました。長門で捕鯨が行われていた地域は、川尻や通、黄波戸など北浦沿岸で、川尻地域だけで、捕鯨を始めた元禄11年(1698年)から、終末の明治43年(1910年)までの約200年間に、2,800頭以上捕獲したことが「鯨鱗之霊」という碑に記されています。明治年代の後期になると銃殺捕鯨(手持ちの火器・銃でボンブランス(炸裂弾)を撃ち込んで捕獲する)が始まり、対馬海峡などの沖合いで漁が展開されるようになりました。これによってくじらの頭数は激減し、沿岸へ寄ってくるくじらも少なくなったため、長門での古式捕鯨の歴史は明治43年(1910年)に幕を閉じたのです。
おなかに残ったくじらの胎児を供養
捕獲したくじらの中には、おなかに胎児(赤ちゃん)がいるくじらもいました。その姿を見た漁民は胎児の供養をするようになり、延宝7年(1679年)には、向岸寺の讃誉上人によってくじらを弔う清月庵(観音堂)が建てられました。元禄5年(1692年)には、鯨墓を建てて胎児を埋葬し、捕獲したくじら一頭一頭に戒名をつけ、鯨鯢過去帖に記しています。元禄5年(1692年)から書き続けられている向岸寺所蔵の鯨鯢過去帖には、命日や戒名のほかに、捕獲年月や鯨種、捕獲場所、体長、捕獲鯨組が記され、「命の大切さ」を今の世に伝えています。
近代捕鯨がスタート
長門は、「長州・北浦捕鯨」をもって、4大古式伝統捕鯨地の一つとして知られていましたが、明治時代末になると、外国の進んだ捕鯨技術に影響され、近代化への対応を迫られました。この時期に登場したのが、「日本の近代捕鯨の父」と称される、岡十郎と山田桃作です。阿武町奈古出身の岡十郎は、明治32年(1899年)にノルウェーに渡り、捕鯨砲を使った近代捕鯨術を学び、長門市三隅出身の山田桃作と長門に本社を置く日本遠洋漁業株式会社を設立しました。
今なお受け継がれる伝統文化
長門での古式伝統捕鯨が姿を消して100年以上がたちますが、くじらへの感謝と弔いの心から、今でも毎年、鯨回向の法要が行われています。平成4年(1992年)には、鯨墓建立300年を記念した「通くじら祭り」が開催され、以後は年中行事になりました。この祭りで歌われる、労働歌であり、祝い歌でもある「鯨唄」は、太鼓のほかに鳴り物や手拍子を打つことはありません。合掌のかたちのもみ手で、哀れみ、祈るかのように歌われます。くじらへの哀れみと畏敬の念は、地元の小・中学校の子どもたちに受け継がれるだけでなく、保存会によって守られています。
捕鯨史を探検しよう!in長門
古式捕鯨のまち・長門には、くじらに関するスポットがたくさんあるよ!
①鯨鱗之霊の碑
川尻漁港の最も奥にある「鯨鱗之霊」と刻まれた碑。1961年に建てられ、毎年春に大法要が執り行われる。
②津黄浦・立石浦
津黄浦と立石浦は共同の鯨組で捕鯨を開始。津黄浦には稲荷社が、立石浦には観音菩薩が祀られている。
③黄波戸浦
1690年から捕鯨が行われた黄波戸浦。1716年から約50年間は、萩の御用商人・熊谷五右衛門が鯨組を運営。
④日本遠洋漁業株式会社発祥の地
1899年に岡十郎と山田桃作によって設立された最初の会社、日本遠洋漁業株式会社の本社があった場所。
⑤くじら資料館
1993年開設の北浦捕鯨の歴史が学べる資料館。「長門の捕鯨用具」(国重要民俗文化財指定)140点など所蔵。
⑥鯨墓
1692年に清月庵の境内に建てられた、くじらの胎児を弔う墓。全国でも珍しく、昭和10年(1935年)に国の史跡に指定。
⑦鯨の位牌と鯨鯢過去帖
1692年に作成。鯨鯢過去帖は、捕獲したくじらの命日や戒名などを記した貴重なもの。
⑧鯨回向・鯨法会
1784年に通浦の行事としてくじらの供養を行って以来、今も続く。保存会によって鯨唄も奉唱される
⑨鯨鯢魚鱗群霊地蔵尊
1863年、通鯨組の網頭・早川源治右エ門が、くじらや魚類の御霊を弔うために、向岸寺境内に建てたもの。
⑩正福庵
向岸寺の境外仏堂(薬師堂)。漁師たちは、くじら漁を始める前にこの寺にこもり、井戸水で身を清めた。
⑪通くじら祭り
1992年、鯨墓建立300年を記念して開催し、古式捕鯨を再現。以来、毎年7月20日頃に開催されている。
⑫早川家住宅
鯨組では網頭として活躍した早川家の住宅。18世紀後半に建てられた土蔵造りで、重要文化財に指定。
⑬鯨山西福寺
江戸時代には三隅地区でも捕鯨をしていたが、長州藩の命令で中止に。山号に「鯨」がつく寺は残った。
下関のくじら物語
くじら製品の加工・販売・流通基地として栄えた下関は、「くじらの街・下関」と称されるほど、くじらと縁が深いまちです。シロナガスクジラの骨格標本をはじめ、市内にはたくさんのくじらスポットがあります。
下関は江戸時代からくじらの流通基地
出土された鯨骨の化石や、弥生時代に鯨骨で作られたアワビオコシ(下関市立考古博物館所蔵)から、下関とくじらは太古から関わりがあったことがわかっています。また、本格的な関わりが見られるようになったのは、海上交易が盛んになった江戸時代からです。下関は問屋を中心とする商業が盛んだったことから、くじらを捕獲するのではなく、捕鯨をする鯨組に資金の提供や資材の補給をしたほか、流通と消費地としての役割を果たしていました。長門で捕鯨が盛んだった頃には、下関の商人が資金を提供したり、鯨油や、肥料になる鯨骨や皮を北国への積荷として北前船で扱っていました。幕末に高杉晋作による奇兵隊を支援していた白石正一郎も薩摩(鹿児島)に鯨骨を販売していました。
明治にはくじらの加工・販売基地に
明治時代末、長門に日本遠洋漁業株式会社が創設され、下関に出張所が置かれました。また、大阪まで進出した西宗商店はくじらに関する商品の販売を一手に担い、秋田商会も中国大陸への交易でくじらを扱うなど、下関はくじら製品の加工・販売基地として機能していました。
昭和のはじめに南氷洋捕鯨へ
昭和9年(1934年)に国司浩助が日本捕鯨株式会社を創立すると、日本は南氷洋に進出しました。昭和11年(1936年)に中部幾次郎が下関で大洋捕鯨を創立すると、南氷洋捕鯨は盛んになり、以来、下関は南氷洋捕鯨の基地、大洋漁業株式会社発足の地として全国に知られることになりました。
昭和半ばは「くじらの街・下関」に
太平洋戦争中、捕鯨は中断されていましたが、戦後は食糧不足の解消と動物性タンパク質の確保を急いだため、昭和21年(1946年)に再開されました。第一船は下関の唐戸港から小笠原へ向けて出港し、翌年からは南氷洋捕鯨が再開されました。プロ野球の球団「大洋ホエールズ」(現在の横浜DeNAベイスターズの前身)や女性吹奏楽団「ペンギンシスターズ」などが誕生したほか、下関最大の祭り「みなと祭り」では大きなくじらの山車が市中を練り歩き、くじら料理専門のレストランも営業されるなど、下関はくじらによって戦後復興をとげたといえるほど繁栄し、「くじらの街・下関」という名称さえありました。 これは、昭和30年代から40年代にかけて、下関に水揚げされたくじら肉が、最高で2万トンにも達していたこと、そして、捕鯨船の造船など水産関連産業が栄えていたことによるものでした。しかし、南氷洋では、世界の国々がくじらを競って捕獲したため、生息数は激減し、昭和62年(1987年)に、ついに商業捕鯨一時休止という事態を迎えたのです。
商業捕鯨の再開を目指して
国際捕鯨委員会(IWC)における商業捕鯨モラトリアムの決定により、昭和62年(1987年)に日本は南極海で調査捕鯨を開始しました。その後、下関は南極海の調査捕鯨の基地として、役割を果たしてきました。平成13年(2001年)には、市立しものせき水族館「海響館」を開館し、国内で唯一のシロナガスクジラの骨格標本を展示したことで全国から注目を集めました。平成14年(2002年)には、下関で第54回IWC総会が開催され、下関とくじらの関わりを世界に発信することができました。令和元年(2019年)6月、日本がIWCを脱退したことにより、7月1日に31年ぶりに商業捕鯨が再開され、下関は商業捕鯨の基地となりました。
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story032/ 【鯨とともに生きる】より
ストーリー STORY
鯨は、日本人にとって信仰の対象となる特別な存在であった。人々は、大海原を悠然と泳ぐ巨体を畏れたものの、時折浜辺に打ち上げられた鯨を食料や道具の素材などに利用していたが、
やがて生活を安定させるため、捕鯨に乗り出した。
熊野灘沿岸地域では、江戸時代に入り、熊野水軍の流れを汲む人々が捕鯨の技術や流通方法を確立し、これ以降、この地域は鯨に感謝しつつ捕鯨とともに生きてきた。
当時の捕鯨の面影を残す旧跡が町中や周辺に点在し、鯨にまつわる祭りや伝統芸能、食文化が今も受け継がれている。
https://www.youtube.com/watch?v=Nz4KYOB8pfI
鯨は、古来より、日本人にとって富をもたらす神“えびす”であった。浜辺に打ち寄せられた鯨の肉を食し、皮や骨、ひげで生活用品を作るなど、全てを余すことなく利用してきた人々は、この“海からの贈り物”に感謝し崇めながらも、やがて自ら捕獲する道を歩み始める。
熊野灘沿岸地域では、江戸時代初期に組織的な古式捕鯨(網で鯨の動きを止め、銛を打つ漁法)が始まり、地域を支える一大産業に発展した。現在も捕鯨は続けられ、食・祭り・伝統芸能などが伝承され「鯨とともに生きる」捕鯨文化が息づいている。
古式捕鯨の歴史
熊野灘沿岸は、背後に急峻な熊野の山々を擁し、橋杭岩(はしくいいわ)などの岩礁が目立つリアス式海岸が続いている。その海岸近くを、黒潮が最大4ノットの速さで南方から北へ向けて流れ、多くの海の幸をもたらしている。
この地域は、鯨が陸の近くを頻繁に回遊すること、またその鯨をいち早く発見することのできる高台、捕った鯨を引き揚げることのできる浜という、古式捕鯨にとって最も重要な地理的要件を備えていた。
そして、人々は古くより生きる糧を海に求めたため、造船や操船に秀で、泳ぎに長けており、海に関する知識が豊富であった。これは、この地域の人々が、古くに熊野水軍として名を馳せ、源平の戦いでは海上戦の勝敗を左右する活躍をしたことなどからもわかる。
江戸時代、この能力を活かし、新たな産業として着手したのが捕鯨である。最大の生物である鯨を捕獲するには、船団を組み、深さ約45mから60mにも及ぶ網で鯨を取り囲み、銛で仕留めるという、他に類を見ない大がかりな漁法が必要であった。命の危険を伴うこの漁は、勇敢さと統一ある行動が求められた。この意味で捕鯨は、水軍で培われた知識と技術が、そのまま有効に活用できる漁であり、その壮大さは「紀州熊野浦捕鯨図屏風」などに生き生きと描かれている。
漁においては、500名を超える人々が役割を分担し、地域を挙げて捕鯨に従事していた。その役割は、鯨を見張り到来を知らせるほか不足資材や漁の状況等の情報の伝達をする者(山見(やまみ))、鯨に網を掛ける者(網舟(あみぶね))、銛を打つ者(羽差(はざし))、仕留めた鯨を運搬する者(持双舟(もっそうぶね))、操業中各舟で不足した資材・食料を運搬する者(納屋舟(なやぶね))、また資材の管理や修繕を行う者(大納屋(おおなや))など多岐に渡っていた。
解体・加工は、「鯨始末(しまつ)係」が担った。鯨始末係は、鯨を引き揚げるために轆轤を回す“頭仲間(かばちなかま)”、解体をする“魚切(うおきり)”、骨や皮などを釜煎りし鯨油を採取する“採油係”などに細分化され、総勢80余名で構成された。彼らは、肉の大半を塩漬けにして樽詰で出荷し、ヒゲや筋は道具の素材とし、採油後の骨や血液の粉、胃の中の食物等は肥料とするなど、持てる知識と技術を発揮し、巨体の全てを活用した。
鯨は、“一頭で七郷が潤う”と言われ、当時セミクジラ1頭で約120両にもなり、年間95頭捕れた天和元年(1681年)には、6,000両を超す莫大な利益をもたらした。このことは、遠く離れた大阪にも伝わり、井原西鶴の著書「日本永代蔵」には、鯨を取って得られる金銀が、使っても減らないほど蓄えられ、檜造りの長屋に200人を超す漁師が住み、船が80隻もあり、鯨の骨で造られた三丈ほどの「鯨鳥居」があるなど、この地域の繁栄ぶりが記述されている。
捕鯨が発展を遂げた背景には、捕鯨という一次産業にとどまらず、解体や加工、鯨舟を造る船大工、銛や剣を作る鍛冶屋、浮き樽を作る桶屋、販売・経営を司る支配所など、二次・三次にも及ぶ広い業種が関わり、地域全体が利益を享受できるシステムを構築していたことが挙げられる。
捕鯨が育んだ文化
この地域には、多くの鯨にまつわる祭りや伝統芸能が今も受け継がれている。飛鳥神社の「お弓祭り」や塩竈(しおがま)神社の「せみ祭り」では、的に取り付けられた「せみ」(セミクジラを模した木や藁で作られたもの)という縁起物を用い、豊漁や航海の安全を祈願している。「河内祭(こうちまつり)」のハイライトは、豪華に飾り立てた鯨舟の渡御であり、かつて捕鯨がこの地域の生活を担う誇るべき産業であったことを物語っている。
また、鯨踊は、かつて大漁を祝う鯨唄の調べとともに、勢子舟(せこぶね)に渡した板の上に座したまま、あるいは浜で舞っていたものだが、この踊りにおける一糸乱れぬ動きは、鯨との死闘を見るようである。新宮市や太地町では、多くの小学生が、学習の一環としてこの踊りを習い、次の担い手となって継承しており、今では神事の際や祭りで披露し、郷土芸能として浸透している。
平素の生活においても、今も続く捕鯨により得られた肉は、郷土の味として定着している。
熊野灘沿岸の各地には、古式捕鯨時代の山見台跡や狼煙(のろし)跡、総指揮を行う支度部屋(したくべや)跡などが残り、当時の勇壮な漁の様子を想像できる。
また、太地漁港周辺に残る集落全体を取り囲む石垣の一部や、集落の入り口にあたる場所にあった“和田の岩門(せきもん)”などは、かつて地域が一つの共同体として捕鯨に取り組んでいた面影を今に残しており、江戸時代以降、この地域の産業と文化の根幹であった古式捕鯨の名残を今も伝えている。