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チェロ

2024.07.14 13:25

Facebook野田 清行さん投稿記事

パブロ・カザルスの国連での言葉…どうしてこんなにも胸に迫ってくるのでしょう。日本の国会でも歌ってほしい。

「 わたしは、もう40年近く 人前で演奏してきませんでした

  でも今日は、演奏しなければなりません

  今日これから演奏するのは、短い曲です

    その曲は…

  「鳥たちの歌」と呼ばれています

      空飛ぶ鳥たちは  こううたうのです

       ピース・ピース・ピース

   鳥たちは こう歌うのです

     ピース・ピース・ピース

         ピース・ピース・ピース

       ピース・ピース・ピース

【1971年・パプロ・カザルス 国連スピーチ】

https://www.youtube.com/watch?v=7YWCHxW8I1w

https://www.iwanami.co.jp/book/b256249.html 【チェロと宮沢賢治】より

「セロ弾きのゴーシュ」は,賢治が病床で最後まで手を入れ続けた作品.賢治死亡の翌1934年に発表された.賢治童話の代表作の一つであり.熱烈な音楽好きで知られた賢治の特色が特に発揮された作品でもある.賢治が愛好した楽器チェロ,音楽と賢治の関わりを入念な取材と考証によって明らかにすることで,賢治文学の魅力に迫る.(解説=福島義雄)

■内容紹介

 宮沢賢治(1896―1933)のチェロは,宮沢賢治記念館に今も現存しています.

 f字孔の中の胴の底には「1926.K.M.」の賢治による署名があります.賢治は農民楽団で自作の詩に曲を付けてチェロを演奏することも夢見ていました.細い孔からどうやって胴の底に署名したのか,演奏の仕方を誰から教わったのか,実際に演奏をしたのか,そして晩年の名作「セロ弾きのゴーシュ」にどのような反映・影響がみられるのか,著者は,文献,記録を引用・考証しながら,新聞記者が真相に迫るために取材をするように,実地の調査,インタビューを繰り返し行うことで,実証性を持った楽しい賢治文学への案内としています.

 1926年12月,新交響楽団(NHK交響楽団の前身)の楽士・大津三郎は,自宅で岩手から上京した青年の指導を行います.青年の希望は「三日でチェロを演奏できるように」との無理難題でした.賢治の熱心さに圧倒され,困惑しながら,弾き方の指導がされました.大津にはすでに文学者との交流があったのです.草野新平,高村光太郎らは,賢治の詩集『春と修羅』をいち早く高く評価していました.尾﨑喜八が仲介者となったのです.著者は,尾﨑未亡人,娘を訪ねて当時の詩人,音楽家のネットワークを探ります.

 賢治は練習に熱心で午前1,2時までチェロの音が周囲に聞こえたといいます.しかし,実際の演奏は,教え子の証言通り,「ドレミファもあぶない,…べーべー,ブーブーって馬の屁みたいな音」で終わったそうです.著者は,胴の底への署名,当時のチェロの普及,購入法を確認するため,名古屋の鈴木バイオリンまで訪ねます.当時のチェロは,本体,弦,ケースで総額二百数十円の高価なものでした(賢治の給料の数か月分にあたります)

 当時,花巻にはチェロが二器ありました.賢治の友人の音楽教諭・藤原嘉藤治も持っていたのです.ただ,藤原のチェロは,右脇に穴が開いた傷んだ安価の中古品でした.自分の余命僅かであることを知っていた賢治は,親友藤原とチェロの交換を申し込みます.この穴あきチェロが,名作「セロ弾きのゴーシュ」で子鼠が出入りするチェロのヒントとなったのです.

 生誕百年の1996年,花巻市は米国の名チェロ奏者ヨーヨー・マを招待します.ヨーヨー・マは英訳で賢治を読んでいました.ヨーヨー・マは賢治のチェロで,「セロ弾きのゴーシュ」に出てくる「トロイメライ」を弾きました.

 第2部では, 1926年の労農党結成時に稗和(ひえわ)支部でのオルグ活動,社会主義への接近.熱烈な法華経信仰.「農民芸術概論綱要」での労働と芸術の一体化した世界観など,賢治思想の多面性に言及されていきます.賢治にとって音楽とは,法華経,芸術,科学,労働が響き合う宇宙の一大シンフォニーでした.宇宙から発信される音楽に,賢治は全身全霊で感応したことが,本書で存分に語られます.賢治ファン,文学と音楽の関わりに関心のある読者には,必見の一冊が現代文庫となりました.

■「セロ弾きのゴーシュ」とは

 ゴーシュは「金星音楽団」でチェロの係.楽団は演奏会のため練習を続けていたが,ゴーシュはあまりにも下手なために,楽長から「困るなあ.ぼくはきみにドレミファを教へてまでゐるひまはないんだがなあ」と叱責される.悄然と帰宅して独習するゴーシュのもとに,毎夜,猫,かっこう,狸,野鼠の親子が訪れ,ゴーシュの演奏に注文を付ける.昼間の憂さ晴らしに動物たちに当たり散らすが,結局彼らの助言を受けて明け方まで練習を十日間続ける.音楽会は大成功,観客からのアンコールに応えて,楽長はゴーシュを指名する.ゴーシュは,動物たちを思い出しながら,夢中で独奏する.ゴーシュは,粗野で,小心,弱者を虐める若者として描かれるが,結末では動物たちから受けた慈悲を通して,自分もまた宇宙の中で生かされている存在であることに気づく.末尾でゴーシュは「ああかつこう.あのときはすまなかつたなあ.おれは怒つたんじやなかつたんだ」と,懺悔と感謝の言葉を口にするまで成長する.


http://gen-oh.session.jp/2018/07/27/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BB%E3%81%A8%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AD%E3%81%AE%E8%A9%B1/ 【宮沢賢治とチェロの話】より

 「忘れないうちに」シリーズ第2弾。といっても、元は2~3年前にラジオ深夜便で聞いた話に、記憶があいまいなところを調べ直して書いてます。

 あ、宮沢賢治、自分は普通に好きなので。

 賢治童話の代表作のひとつである「セロ弾きのゴーシュ」ですが、賢治自身もチェロ(セロ)を弾いていたことは広く知られています。

 このチェロですが、若き賢治が父親と仏教観で対立して、家出同然に岩手・花巻から上京した時に持っていったそうですが(すごい大荷物だな)、実はその時は全然弾けなかったそうですね。

 東京で印刷所に勤めながら下宿先で山のように作品を書いていたのですが、最愛の妹・トシ重病の報を受け、いよいよ帰郷するという時になって、初めてチェロを習ったのですね。そんなドタバタした時だったので、なんと習った期間はたったの3日!(おい) しかも2時間×3回といいますから、ほぼ調弦やら楽器の持ち方やら、基礎中の基礎しか教えられていなかった。

 この習った相手というのが、新交響楽団(後のN響)のチェロ奏者の方。実は同じ楽団の方にオルガンを習っていて、その流れで頼んだらしい。しかしどえらい方々に習っていたのだな、たぶん資産家である宮沢家の繋がりがあったのでしょうか。

(今回、いきなり上京して賢治はどうやって宿を見つけたのだろう、と思い調べたら、結局宮沢家の旧知の方に下宿を世話してもらったと。某宗教団体にいきなり住み込みで働かせろ、などと言って断れてますからね。心配した親からお金が送られてきたり、やはり賢治はドラ息子?w)

 このチェロ奏者の方も、3日でチェロ教えろと言われかなり面食らったそうですが、この岩手の青年にどこか見所があると思ったのでしょうか。最大限の厚意で対応し、自分も時間がないためなんと朝6時から2時間、3日連続で賢治を自宅で教えたそうです。

(こうしてみると、賢治は東京時代を暗い時代として記していたけど、周囲の人たちはかなり暖かく見守っていたのだなあ、と。印刷所の作業がつらいのは当たり前だし)

 こうして賢治は岩手に帰り教師となるのですが、このチェロはもともと、友人だった藤原氏という方と一緒に買ったのですね。この方も音楽教師になりましたが、賢治のチェロは新品で最高級品でしたが(名古屋の鈴木バイオリン製)、氏のものは中古でなんと穴が開いていました。

 教師時代は、給料で当時まだ珍しかったSPレコードを買いまくり、お陰で花巻のレコード店に本社から感謝状が来たとか、英国ポリドール社から直接賢治のもとへも感謝状が来てたとか(笑)、いろいろな話があるようです。

 そんな訳で、当時の教え子などの証言によると、賢治のチェロはお世辞にも上手いとはいえない、ゴーゴー鳴っているだけの、まあ雰囲気演奏であったと。

(理想は、たとえば羅須地人協会などで、かっこよく演奏を披露したかったらしい)

 さて、ここからが数奇な話になります。

 晩年、賢治がいよいよ病となって自宅で静養していると、藤原氏が訪ねてきました。実は近々、盛岡で演奏会があるのだが、そこでチェロを演奏することになったと。それを聞いた賢治は、「おれのを持ってけ」と、穴開きチェロとの交換を申し出た。死期が近いことを知っていたのかもしれません。氏は感謝しつつそれを受け入れ、賢治のチェロを弾いて演奏会は成功したそうです。

 賢治はその後亡くなってしまい、形見となったチェロが藤原氏に残された。氏は戦前に編まれた賢治全集の編纂にも、わざわざ東京に行って参加しているそうです。ただ戦後は、花巻も空襲にあっていますので、住むところを無くしてしまい、荒れ地の開墾に尽力し、音楽からは離れていた。そんな厳しい生活の中でも、賢治のチェロを大切に守り通していました。

(ちなみに、宮沢家にあった穴開きチェロはというと、残念ながらこれまた空襲で焼失しています)

 そしてとうとう自分も高齢になり、いつ何があるかわからないからと、このチェロの返還を宮沢家に打診、むろん宮沢家はこれを快諾します。

 このチェロ、今どこにあると思いますか?

 花巻の宮沢賢治記念館にいくと、ガラスケースの中に大切に飾られていて、誰でも見られるようになっています。賢治ファンなら「うおお、これがあの」ってなる迫力。なんせ賢治が実際に弾いていた楽器ですからね。fホール(お髭型の穴のことね)の中にはイニシャル「K.M」の書き込みもみえます。そして隣には寄り添うように、妹トシのバイオリンが……。

 なんすかこれ? これまた映画化決定じゃないですか! (T_T)

 自分もかなり昔に一度見てきましたが、あのインパクト大の展示の裏に、こんな物語があったとは、とあらためて感激ですわ。(当時は、トシのバイオリンはまだなかったような気がした) 「本物」の持つ迫力はやはりすごいもんがあり、まあファンにとっては国宝級の逸品ですわ(むろん文学史的にも貴重)。

 もし賢治がチェロの交換を申し出なかったら、いま僕らはあのチェロを見られなかったのかと。

 文学者をエピソードで語るのは間違いだけど(やはり作品が一番なので)、賢治の場合は周囲の人たちの行動が本当に優しく暖かく、これほど大切にされた文学者は他にいないのでは、と思えてくる(そしてますます生前ブレイクしなかったことが謎になる)。

 ね? ……というのが、ラジオ深夜便の話でしたが。

 今回調べてもうひとつ驚いたこと。

「セロ弾きのゴーシュ」、この童話は東京時代でも教師時代でも羅須地人協会時代でもない、晩年の病床のうちに書かれたものだったのですね(自分は東京時代かと思ってた)。

 さて、あの童話をよく思い出して下さい。街はずれの小屋に住むゴーシュの持っているチェロに、なにか特徴はありませんでしたか?

 ……そう、穴が開いているのです(!)。野ネズミの子供が中に入って「治療」を受けるので、あれは実はfホールではありません。普通に「穴」です。(自分は実は、fホールのことかな、と思っていた。高畑勲のアニメではどういう描写だったかな、うーん)

 ということは、これ、藤原氏の穴開きチェロを見て着想されたのではないか? そんな説があり、どうも正解らしい。(物語の後半、「ゴーシュがその孔のあいたセロをもって」とはっきり書いてある)

 驚きいったことに、あの名作誕生の裏には、これまたこんな偶然のドラマがあったのですよ。もし賢治がチェロを交換してなかったら、あるいはゴーシュの話はもっと別のものになった、あるいは存在しなかったもしれない。

 いやあ、もう。泣かせます。困ったよこれw

 そして、賢治逝去のあと、この童話は発表されるのですよ。

 残念ながら、この穴あきチェロは、前述のように空襲で焼けています、宮沢家も被害にあったので。賢治の弟の宮沢清六さんが、もう火が付いて煙が回っている蔵の中に命がけで飛び込んで、なんとか救い出したのが生原稿・未発表原稿が一杯入った賢治のトランク。さすがにチェロまでは無理だったようです。

(最近、この賢治記念館のチェロを、世界的な演奏家ヨーヨー・マを招へいして、花巻のコンサートで弾いてもらった、って情報を見つけた。もう現実が完全に物語を超えている…)