ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~ 石州瓦物語(その9)~「石州瓦と北前船 日本海側が『表日本』の時代が再び、きっとやってくる‼」~熱海にて、池田満寿夫画伯に聞く~
先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国地方における大雨災害で亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。
現代、日本海側は『裏日本』とか『鄙(ひな)の国』などと言われていますが、遠い昔、弥生時代(紀元前4~500年から 紀元後300年くらい)は日本海側が『表日本』であり、日本海を通じて様々な交流が行われていました。
石州赤瓦と実りの秋。子供の頃のことです。夏の終わりになると町中にあんなにいっぱい飛んでいた赤とんぼ!名古屋では、いつからかほとんど見なくなった。いったいどこに行けば見れるのかな~
石州瓦の主産地江津ではきっと今も、いっぱい飛んでいるのでしょうね…赤とんぼ
「赤瓦の住宅・街なみ絵画コンクール」受賞作品
社団法人 島根県建築士会 江津支部 主催
「江津市景観計画」の表紙には、子供たちが描いた赤瓦の家と町並みの絵が・・・
「豊かな自然と歴史に育まれた江津市らしい誇りと愛着のあふれる景観まちづくり 」として次のように記されております。
1.本市における景観の捉え方
江津市(以下「本市」という。)には、中国地方最大の河川で「中国太郎」とも呼ばれてい る江の川の流れ、中国山地から続く山々、白砂青松の海岸線と大島や大崎鼻などの豊かな自然景観があります。これらの景観は、古来より万葉集に歌われ、人々に愛されてきました。本市には、江の川の舟運 (しゅううん) と北前船(きたまえぶね) の海運の拠点「江津湊」として栄えた歴史があり、神社仏閣をはじめ、史跡、名勝など歴史や文化を感じさせる景観があります。豊かな自然の中に抱かれた石 州赤瓦の家並み、神楽や田植え囃子、ホーランエー(宝来栄ホーランエー:山辺神宮の江津祇園大祭礼)などの祭り、江津のシンボルとなっている高い煙突やシビックセンターゾーンなどの生活と営みの景観があり、いつまでも私たちの心に残る美しい「景観」が、市内の様々な所にあります。
「景観」は、実際に目に見える色や形だけでなく、地域の歴史や文化から生まれる雰囲気など、私たちの五感を通して感じることができる全てを指します。そして、長い年月をかけて育まれてきた美しい景観は、地域のかけがえのない財産となっています。
江津市景観計画(以下「景観計画」、又は「(本)計画」という。)では、本市の景観を地域の風土の基盤をなす「自然の景観」、風土に対応して築かれてきた「歴史と文化の景観」及び人々の暮らしとともに育まれてきた「生活と営みの景観」の3つの視点から捉え、「ふるさと江津の景観」の全体像を捉えます。
2.景観計画とは
[景観計画策定の背景と目的]
近年の美しい街なみなどの個性的な景観に対する国民の関心の高まりに伴い、平成 17 年に我が国ではじめて景観に関する総合的な法律である景観法が施行されました。
この法律により、地方公共団体が景観行政団体となり、地域の特性に応じた「景観計画」や 「景観条例」を定めることで、歴史的な景観の保全や、建築物・屋外広告物の規制など、きめ細やかな施策への取組が可能となりました。
景観法の5つの理念(要約)
○良好な景観は、現在及び将来における国民共有の資産として、整備保全を図る。
○良好な景観は、地域の自然、歴史、文化などと人々の生活、経済活動などとの調和により形成されるもので、適正な制限のもとに整備保全を図る。
○景観形成は、画一的な整備を行うものではなく、地域の個性を伸ばすよう多様な形成を図る。
○景観形成には、観光や地域の活性化への配慮が必要で、住民、事業者、行政が一体的に取り組む。
○景観形成は、保全のみならず、新たな創出を含む。
本市は、中国山地から連なる山々、名勝千丈渓、江の川流域の「自然の景観」、本町の街なみ、神社仏閣、史跡などの「歴史と文化の景観」、商業地の賑わい、工業地、落ち着いた住宅地、石州赤瓦の街なみなどの「生活と営みの景観」、本市固有の「ふるさと江津の景観」を有しています。
本市は、こうした景観を景観法による制度を有効に活用しつつ、市民・事業者・行政の協働により守り・育て・創造していくことを目的に、平成 23 年6月に景観法に定める「景観行政団体」となり、「江津市景観計画」を策定することとしました。
■景観計画策定の目的
ふるさと江津の景観まちづくりを推進していくための指針を定めるものです。
■景観条例制定の目的
ふるさと江津の景観まちづくりを推進していくための最低限のルールを定めるものです。
本市の「景観」を守り育て、次世代に引き継いでいくことは、市全体のイメージを向上させることになり、「まちづくり」の重要な要素の一つであると考えます。
本計画では、「市民、事業者、行政の協働による良好な景観づくり」を「まちづくり」として取り組んでいくことを意図して、「景観まちづくり」という言葉を使用します。
以上。「江津市景観計画」より、序章の一部のみを抜粋してご紹介いたしました。
江津の赤瓦の町並み 東地区「浅利」
江津の赤瓦の町並み 西地区「波子」
江津の赤瓦景観保全地区「黒松」
北前船が運んだ北海道江差町の姥神大神宮拝殿の石州瓦
北海道江差町の姥神大神宮拝殿の屋根は石州赤瓦で葺いてあります。
姥神大神宮(うばがみだいじんぐう)
創立年代は不詳ですが、言い伝えでは約570年前の文安4年(1447年)に折居姥の草創とされています。津花町より現在地に移転したのが正保元年(1644年)。文化14年(1817年)には正一位姥神大神社宮号を勅許された北海道最古の神社です。
北前船航路で北上する石見の「はんど」と石州瓦
さて話を登り窯時代に戻します。凍てに強く丈夫で割れない水瓶(はんど)と石州瓦は、江戸時代の後期から明治にかけて、北前船によって日本海沿岸の地方に運ばれていきます。
はんどと石州瓦の集積地は江津の波子浦。北風をさえぎる大崎鼻の元小さな船着場を持つこの地は、江戸後期から明治・大正・昭和の戦前まで、石見焼きと石州瓦を全国に販売した問屋や大仲買人を輩出しました。最盛期には波子の仲買人の持ち舟は100隻を超えたといわれます。
江戸時代、この地は石見焼きや石州瓦だけでなくたたら事業、いわゆる和鉄の生産も盛んで、その輸送にも北前船や地元船が一役かっていました。
現在、その波子浦は、赤瓦の漁村集落の景観を見事に残しながら、今なお人々の暮らしの舞台となっています。
北前船
寛文12年(1672年)河村瑞賢によって開拓された日本海沿岸を結ぶ新輸送システム北前船は、春先大坂を立って瀬戸内海、下関から日本海を北上、江津の波子や石見銀山天領地の温泉津、出雲大社鷺浦、境港、福井の敦賀、三国、石川県の輪島、新潟の直江津、柏崎、両津、山形の酒田、秋田、能代、青森などに寄港して夏ごろに北海道の松前、江差、函館などの港に入ります。
帰路は、夏のうちに北海道を離れ、冬前までに大坂に帰る行程でした。
北前船の主荷物は、行きは米、古着、木綿、稲俵、帰りは鰊、昆布でしたが、途中の寄港地で地方の産物を仕入れたり、荷物を販売したりしながら、最終目的地を目指すもので、各寄港地では、回船問屋が成長し、おおいに繁盛したといいます。石見地方では、現在の大田市温泉津温泉が往時の面影を残す街並みとして伝統的建築群の指定をうけています。
温泉津町温泉津
島根県のほぼ中央にある温泉津町温泉津地区は、中世から続く温泉のある港町で、石見銀山の外港として発展してきました。急峻な谷筋を切り拓いた町並みは近世の町割りをよく残し、江戸末期から昭和初期にかけて建てられた平入の町家を中心に温泉旅館、寺社建築など多様な伝統的建造物群が、岩盤を削った古道など周囲の環境と一体となった歴史的風致を形成しています。
北前船で運ばれた石見地方の産物は、石見焼き、石州瓦、和鉄など。出雲地方の銅、黒松、隠岐の干し鮑など。
いずれにしても北前船の一航海(往復)で1000両が儲かった(行きは300両、帰りは700両)と言われており、まさに宝船だったようです。
山を仰ぐ港と山に抱かれる港
北前船が寄港する港にはどんな特徴があったのでしょうか。立地から見ると大きく二つに分けられます。
一つは、山を借景として大きな川の河口に位置する「山を仰ぐ」港です。日本海から仰ぐ名山は、古くから航海の目印となり、その近くに港を築いています。これらの港は江戸時代には、上方への年貢米の積出港となり、領内の穀倉地帯を流れる大河の河口に米倉、番所などが整備されました。
江差屏風函館旧相馬邸
江差町北前船
名山を仰ぎ大河に抱かれる港が、日本海を経由して北日本と上方を結ぶ西廻り航路の基盤となり、各地へとつながりました。そこでは、夕日に輝く雄大な自然と港が一体化する名画のような景色や、山から見下ろす美しい港のパノラマに出会うことができます。
もう一つは、山と海の間のわずかな平坦地に位置する「山に抱かれる」港です。一度の航海で巨万の富が得られる北前船が頻繁に行き交うようになると、風待ち港も含め多くの寄港地が整備されました。砂丘の多い日本海沿岸では、山と海に挟まれたわずかな平坦地を利用し、コンパクトな港や集落を築いています。古い建物や荷揚場、船止めの杭など、北前船によりもたらされた、文化遺産が集約された町並を歩いて回ることができます。
「板子一枚下は地獄」に生きた男たちが運んだもの・残したもの
新潟 大船絵馬(新潟総鎮守 白山神社所蔵)
熟練の操船技術を持つ船乗りにとっても、嵐にあえば「板子一枚下は地獄」の恐怖にさらされます。商品を無事に運べば多額の利益を得られる北前船も沈んでしまえば一巻の終わり、全財産を失う船主もいました。危険と隣り合わせの航海は、安全を神仏の庇護に求め、寄港地の中心や小高い丘には神社や寺院があり、港と並行に寺院が建ち並ぶ町もあります。そこでは、航海の無事を祈願した船絵馬や船模型、中にはちょんまげを奉納した「髷額」が奉納されています。
また、境内には遠く離れた国名や問屋名が刻まれた玉垣、石灯籠、手水鉢などが寄進されています。船を安定させる底荷・バラストとして運ばれた石の中には、神社や参道の石段に利用され、雨に濡れると神秘的な輝きを見せる笏谷石があります。社寺には船主や問屋らが寄進した、良質な木材を使用し優美な彫刻を持つ社殿や堂宇も見られ、船乗りが神輿を寄進したことを起源とした祭り、京都から伝わったとされる祭りも行われています。
京都祇園祭神幸祭「八坂神社」南門。男たちが担ぐ黄金神輿の出発式。
北前船の寄港地・船主集落にある格調の高い神社仏閣の多くは、北前船の船主、船乗りらの篤い信仰に支えられていたことが分かります。
北前船が帆を上げて現代に残した文物交流
近江商人の雛飾り 東近江市「五個荘町」
近江商人の雛飾り「日野町」
近江商人の雛飾り「近江八幡市」
北前船は生活必需品に加え、雛人形などの高級品、そして様々な文化を運んでいます。天候に左右される北前船の航海は、「風待ち」という文化により、出港までの間、料亭や茶屋などでの一時の出会いと別れと共に、そこで唄われる民謡など各地の芸能が船乗りたちによって伝わっていきました。代表的なのが、「おけさ」や「あいや節」などと呼ばれる哀調を帯びた節回しを持つ民謡です。この民謡は熊本で生まれた「ハイヤ節」が船乗りの間で歌い継がれ、北前船により日本海沿岸の港町に広まり、各地に根付いた芸能として親しまれています。
松前祇園ばやし
江差追分
-前 唄-
国をはなれて 蝦夷地が島へヤンサノェー
いくよねざめの 波まくら
朝なタなに聞こゆるものはネ~
友呼ぶかもめと 波の音
-本 唄-
かもめの なく音に ふと目をさまし あれが蝦夷地の 山かいな
-後 唄-
沖でかもめの なく声聞けばネ~
船乗り稼業は やめられぬ ~
江差追分は、一度聞いて惚れ、二度聞いて酔い、三度聞いて涙する~
と言われています。
和食を代表する「昆布だし」食文化も生まれました。北海道から京都や大阪に運ばれた物に昆布があります。この地で昆布は「昆布だし」に磨かれ、日本のだし文化として現代の和食の基本になっています。他には凍結に強い石州瓦が運ばれたことにより、北国の防災力が向上し、綿の肥料となる鯡や古着が行き交うことにより、衣服の質が格段に良くなりました。北前船は日本人の衣・食・住の生活環境向上に大きな役割を果たしたのです。
石州瓦 加賀市加賀橋立
重要伝統的建造物群保存地区
加賀橋立は、江戸後期から明治中期にかけて活躍した北前船の船主や船頭が多く居住した集落です。保存地区には往時の様子を伝える船主屋敷が起伏に富む地形に展開しています。敷石や石垣には淡緑青色の笏谷石(しゃくだにいし)が使われ、集落に柔らかな質感を与えています。
輪島市黒島町
重要伝統的建造物群保存地区
黒島町は、能登半島北西部の門前地域に位置しています。西は日本海に面し、砂浜から山裾に上る緩斜面に、街道に沿って南北に長く形成されています。集落の成立は16世紀前半と伝え、江戸時代に入ると北前船の船主が現れ、日本海航路による海運業の発展を背景に集落は成長を遂げました。
保存地区は、北前船の船主や船員の居住地として発展した能登天領の集落であり、全盛期の頃の集落全域及びこれと関連する墓地等を含む。最も栄えた明治初期の地割を良好に残し、伝統的な主屋が敷地内の庭園や土蔵、社寺建築、石造物、樹木と共に歴史的風致を良く伝えています。
歴史の魅力を持つ町は数多くありますが、北前船の寄港地・船主集落は、立地や町のつくり、祭り・芸能や神社仏閣の雰囲気など、他の「歴史の息づく町」とはかなり違う趣を感じることができます。そこは、日海の荒波を越え、人・物・文化を運んだ多くの男たちの夢が紡いだ歴史情緒に出会える異空間なのです。
秋田「土崎港曳山まつり」毎年7月末頃に開催されます。
続く・・・
協力(順不同・敬称略)
石州瓦工業組合 〒695-0016 島根県江津市嘉久志町イ405 TEL 0855-52-5605
一般社団法人 大田市観光協会(大田市役所仁摩支所内)
〒699-2301 島根県大田市仁摩町仁万 562-3 電話: 0854-88-9950
公益社団法人島根県観光連盟
島根県松江市殿町1番地(県庁観光振興課内)
TEL:0852-21-3969
社団法人 島根県建築士会 江津支部
〒695-0001 島根県江津市渡津町1998-6 大野康宏建築設計 内TEL:0855-52-4787
旧相馬邸(国 重要文化財)
家宰 東出伸司 〒040-0054 函館市元町33-2 電話/0138-26-1560
江差町役場 〒043-8560 北海道檜山郡江差町字中歌町193-1TEL:0139-52-6716
江差観光コンベンション協会
〒043-0034 北海道檜山郡江差町中歌町193-1 TEL(0139)52-4815
一般社団法人 近江八幡観光物産協会
〒523-0864 滋賀県近江八幡市為心町元9番地(白雲館内)TEL:0748-32-7003
日野観光協会〒529-1604 滋賀県蒲生郡日野町村井1284番地(日野まちかど感応館内)
TEL:0748-52-6577
新潟総鎮守 白山神社
〒951-8132 新潟県新潟市中央区一番堀通町1-1 TEL:025-228-2963
八坂神社 〒605-0073 京都府京都市東山区祇園町北側625 電話: 075-561-6155
江津市役所 〒695-8501 島根県江津市江津町1525電話: 0855-52-2501
文化庁 〒100-8959東京都千代田区霞が関3丁目2番2号電話番号(代表)03(5253)4111
「子供は絵の天才」・・・池田満寿夫
メモ「世界の屋根」は1回お休みとして、本号では昭和62年に熱海の満陽工房と、ご自宅のアトリエで芸術家「池田満寿夫」画伯に子供の絵についてお話をお聞きした時のことを思い出しながらご紹介いたします。
池田満寿夫画伯
子供というのは絵の天才です。これは僕の持論というか、いつも言っていることなんですが、自由に思いのままに描いた時の子供の絵は、どんな形式にも捉われることのない素晴らしい芸術です。クレヨンでもなんでも書くものがあれば、子供はごく自然に絵を描くものです。
大人の目からすれば単なる落書きにしか見えないかもしれないが、そこには子供の世界があるのです。自由な発想で思いのまま描く。イキイキしたその絵には、なんの概念も固定観念も存在しません。だから素晴らしい。
ところがここに大人の考えが入ると、困ったことになってしまう。絵の審査をしていて時々「オヤッ」と首をかしげる絵に遇うことがあって、何故かというのは、その絵が大変に巧い(うまい)。小学校2年生なのにこんなに上手でいいのかなって程うまいのです。
Q.親や先生の手が入っているということでしょうか。
う~ん。というよりも、子供自身が描いてるいるのですが、あまりに上手な絵を描こうとしすぎているんじゃないかな。テクニックというか技巧的に大人の模倣をしてしまう。子供だって上手に描いて大人に褒められたいですからね。
クラスで上手だと言われている友達の真似をする。先生や親が望むような絵を描こうとする。だからな自分で下手だと思っている子は、左手で隠しながら描いたりしてる。だけど実は上手い絵、イコール良い絵ではないんです。
非常に困るのは同じような絵が続けて何枚も出てくることです。これは画塾から送られてくる絵に多いのですが、こいいう傾向は大変に恐い。恐いというより危険な感じさえしますね。こういう場合、先生が熱心すぎることが原因であったりします。画塾や中学以上の先生は専門家ですから、自分の絵のスタイルを持っている。子供たちは先生のように描けることが良いことだと信じているので、先生は知らず知らずのうちに、純粋な子供たちに自分のスタイルを押し付ける結果になるわけです。
絵がひとつの傾向に捕らわれてはいけない、百人いれば百の絵があるのが自然なんです。
Q.教えられ方を謝ると、自由な発想のイキイキした絵でなくなってしまうのですね。
ええ。幼児、せいぜい小学生低学年までですね。いい絵が描けるのは。もう5~6年生でもほとんどダメだし、中学になったら絶望的という感じさえしますね。
日本の教育システムの根底を変えないと、いい芸術家は育たないでしょう。今の子供たちは覚えなければいけないことが多すぎる。ものを覚えるためには時間が必要ですから、自分の好きなことをする時間を削らざるを得ない。言い替えるならば熱中できること、生き甲斐を奪われてしまっているのです。
僕は中学からの専門教育って必要だと思いますよ。大人になったら使わない数字の公式を覚え込ませるより、好きなことを一生懸命させたほうが意義があると思うな。僕なんか絵が好きで、中学の頃には絵描きになりたいと思っていたから、絵ばっかり描いていました。学校の放課は勿論、日曜日は絵を描くための日。その代わり覚える作業は苦手で、数字なんてまるでダメ。成績も悪かったよ(笑)・・・
池田満寿夫画伯の話は夕方まで続き、帰りには熱海駅前でごひいきの生まれ故郷信州更科蕎麦を二人で食べ再会を約束して別れるのですが…、昭和64年に名古屋で開催された世界デザイン博覧会を応援するための小生のボランティア企画で(世界デザイン博覧会本部と名古屋市と旧建設省と旧通産省と公益社団法人 インテリア産業協会の後援)小学生以下を対象とした「世界デザイン博覧会絵画コンクール」のただ一人だけの審査委員兼審査委員長を3年間(年1回募集、1回あたり全国から約1万2000枚応募)、池田満寿夫画伯もボランティアどころか大出血で入賞者には、池田満寿夫画伯ご自身のブロンズ作品をトロフィーとしていただきました。3年間には様々な出来事がありましたが、いつか機会があれば続きを書きたいと思います。
最後に池田満寿夫画伯のご冥福をお祈りするとともに大変感激したことを付け加えますと、とにかく審査員はお一人だけですので、3年間の応募作品トータル3万6000枚、満陽工房で立ち合いの小生の夜食までご用意いただき、片隅で居眠りをしている小生には目もくれず、徹夜でお一人で全て目を通され審査をされました。
今もその時の姿には…、思い出すと頭が下がります・・・
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使